02.祭壇に落ちた赤い月
「……子さま、神子さま」
聞き慣れない男の人の声に、ふっと意識が浮上する。背中に触れている感触は固く、ひやりと冷たくて肌が粟立った。
「な、に……?」
瞼を押し上げたと同時に、吐き出した息に喉の奥が痛む。
薄暗い。夜にしたっておかしな暗さ。目を凝らせば、自分に向かって橙色の小さな明かりが等間隔に壁に並んでいるのが分かる。
肘をついて横向きに上半身を起こす。ぐらり、と身体ごと傾く様な酷い目眩と吐き気がした。
「……?」
視界が上がった事で、祭壇の様な石台に寝かされているのだと分かった。
気付けば石台自体が淡く輝いている。
未知と言うよりは禍々しく感じたその光にぞっとして、その光に触れそうだった爪先を引っ込めれば、背後に大きな気配を感じた。
「神子様、失礼致します」
了承どころか戸惑いすら言葉にする前に、後ろから伸びてきた手が腰と膝の裏に差し込まれ、石台から下ろされた。
得体の知れない場所から離れられる事にとりあえずほっとして、抱き上げてくれたらしい男を見上げる。
黄色い光を間近で見たせいか、暗い部屋では、随分高い位置にある表情まで見えない。
固くて太い腕は、あたしを抱えてもびくともせず、身に着けているのは厚い制服の様な生地で、固いボタンか何かが頬に当たった。真冬でも動きやすいように半袖を着用している病院のスタッフではない事は確かだ。
一体どうなっているのか、夢だとしても早く覚めて欲しい。何故だかとても、嫌な予感がした。
「神子様、こちらへどうぞ」
さっきとはまた違う別の声、急ごしらえで作られた様にも見える布を被せただけのソファに下ろされて、また違う人が目の前に立った。すぐに膝を落として、視線の高さを合わせてくれる。
……綺麗な人。
その人は長いプラチナブランドを無造作に纏め、長い法衣みたいな白い服を着ていた。
男か女か判断しかねる中性的な顔で、年齢は――二十代後半? 顔の造作が整いすぎていてもっと上にも、あるいは下にも見える。けれど穏やかに微笑むその顔に敵意は見えなくて、少しだけ落ち着こうとすれば、自分の格好に気付いて恥ずかしくなった。
検査衣の丈は膝までで、下着は着けていない。居心地の悪さに剥き出しの膝を摺り合わせると、誰かが差し出した毛布を受け取ったその人があたしの膝に掛けてくれた。
変な、夢。
妙にリアルな感触がある。
手触りの良い毛布を、引き寄せるとふわりと花の匂いがした。
「『ブラン』へようこそ。異世界より参られた神子よ」
穏やかで低い声は、男の人の声だった。
「ブラン……?」
って、なに?
それに異世界より参られた神子、って……
毛布の上に置いた手を握り込まれる。人形みたいな整った顔からイメージ出来ない、骨ばった男の人の手。少しかさついているけれど、ちゃんと温かくて、本物みたい――違う、――ホンモノ?
「異世界って、……」
「ええ、あなたはこの世界を豊かに満たして下さる、アルジフリーフの神子です、……私が異世界より召喚致しました」
付け足すように続けられたその言葉に、一瞬神官さんの若草色の瞳が暗くなった気がした。けれどそんな事よりその発言が衝撃的過ぎてその意味を考えるよりも先に、あたしは男の人の顔を凝視した。
何言ってるの、この人。
今更ながら、周囲を伺えば、あたしが今まで乗っていた祭壇を奥に置いた長方形の部屋に、――五、六人いる。
影の体格の良さから皆男の人らしかった。けど、誰も言葉を発さず、けれど敵意とはまた違う伺う様な視線が向けられているのが分かった。そんな異様な雰囲気の中、さっきまで横たわっていた石台は徐々に光を失い、今は僅かばかりの光を放っていた。
反射的に扉を探そうとして、視線を巡らせると、石が詰まれた壁の大きく開いた窓から空が見えて、ぎょっとした。
月が。
たくさんの星が瞬くその中心。
満ちた丸い赤い月と白い月が寄り添う様に二つ並んで、空に浮かんでいた。
「……ゆ、め、じゃない?」
吹き込んできた冷たい風のせいじゃない、少し落ち着いていた心臓がまた痛い位に動き出して、目の前の綺麗な人を見る。
「ええ、夢ではありません。私があなたを異なる世界から召喚しました」
はっきりとした肯定は、ただ静かにそれ以外の音の無い部屋に響いた。
異世界?
まさか。でもこんなタチの悪い冗談なんてする人間は知り合いにはいない。そもそもいたずらにしては手がかかりすぎだ。ましてや、こんな大事な時に――。
そう思って、ふと腰に手をやった。
とっさに漏れたのは小さな悲鳴。
「神子様、何を……っ」
まさか、まさか。
目の前の神官の制止を振り切り、毛布を掴んで投げ捨てると、右の下の方にある紐を引きちぎる様にしてほどく。下着すら着けていないとか、気にする余裕も無かった。
「……っ」
その場所を凝視して、言葉を失う。
――注射跡はどこにも無い。
右も左も、身体を反らせてみてもどこにも傷一つ無かった。
もし、この馬鹿げた茶番が夢じゃないとしたら、一体『いつ』こんな変な場所に召喚されたのか。
「何をなさって……」
「て、……帰して! 今すぐっ」
そのまま男の人に縋りついて、怒鳴る。
「お願い、異世界でも何でもいいから、二時間、一時間でもいいの! お願い!」
「神子様」
豹変したあたしに男の人は落ち着かせようと、足元の毛布を拾い上げようとした、それを遮る。
「お願い、今帰してくれたら何でも言う事聞くから。お願い、今すぐあたしを帰して」
――骨髄移植の為に、お姉ちゃんがやった前処置は、大量の抗がん剤投与と放射線照射だ。
だから、その後必ず移植しないと、腫瘍と共に造血機能を根絶したお姉ちゃんは、自分で血を作り出す事が出来ずに、確実に死ぬ。
そう聞いたのは、骨髄移植の同意書にサインをした時だ。
だから直前になって怖じ気づいたり、移植を拒否するのは許されないからよく考えてサインして欲しい、と医師から説明されていた。
「お願い……っ」
何度も頼んでも男の人はそれに答えず、今度こそ毛布をあたしの肩に掛けた。優しい手付き、だけど間近で見た男の人の顔に表情らしい表情は見えない。
――駄目だ。
視界の端でまだ淡く発光している石台を確認する。肩の毛布を握り込み、思いきり男の人に投げつけたと同時に駆け出す。
「神子様!」
目隠しにもならなかったのか、今までとは別人の様な鋭い声が背後から掛かる。
それ程距離の無い石台にあともう少しで、手が、指が、触れようとしたその瞬間。
大きな身体がそこに割り込んで来た。
身体は急に止まる事は出来ず、そのまま体当たりする様に男の懐へとぶつかる。
「失礼をお許し下さい」
男はよろける事も無く、そのままあたしを丁重な仕草で――拘束した。
「おねが、……離してっ……離せ、っ!」
「薬をお持ちしろ」
道を塞いだ男とも、毛布を持った男ともまた違う嗄れた声。
程なくして鼻と唇を塞ぐ様に何か押し当てられた。麻酔で感じたものより強い、凶暴な眠気、駄目だめ駄目駄目駄目、
今、目を閉じれば、間に合わなくなる。
限界まで開いた視界が揺れる。目覚めた時よりも、頭の中がぐるぐる掻き回されるみたいで気持ちが悪い。
――お願いお願いおねがいします。
込み上げて来た嗚咽をそのまま吐き出す。苦い、味が口に広がって、激しく咳き込んだ。
「もう一度薬を」
「は、な……」
あたしを抱えている人とは違う、誰か、が前に立ったのを感じたその瞬間に、口にまた布を強く押し付けられた。さっきよりも一層酷い薬の強い匂いに喉が痺れる。
――お姉ちゃん。
自然に仰いだ目に映る石台。輝きを失いつつあるよく磨かれた石に、燃える様な赤い月が映り込んで、目に焼き付いた。