閑話<3>祈りを忘れた敬虔な神官
アルジフリーフ
アルジフリーフ
何故この様な運命を強いるのですか。
神殿の一番奥にあるその部屋はいつも静かで、幼いレーリエにとって心が安らぐ特別な場所だった。
神官長や一部の神官しか入れないその場所は朝の祈りの時間以外誰も足を踏み入れる事は無い。
次期神官長候補として入室を許可されていたレーリエは一人で考え事をしたい時や心を落ち着かせたい時には、必ずここに来てアルジフリーフに祈った。
静かに佇むアルジフリーフの像に問い掛ける。その女性とも男性ともつかぬ面差しによく似ていると言われるのは、密かな自慢だったかもしれない。
レーリエは、一度軽く目を眇めてまぶたを伏せた。
自分が育った村は貧しく、敬虔な両親の元で生まれたレーリエにとって幼い頃から信仰は傍らにあった。
身の内の霊力の高さから神殿に召し上げられた時も、年老いた両親は、これこそ祈りが通じたのだと幸せそうな表情で精一杯の支度をさせて送り出してくれた。
しかし意気揚々と向かったその道中、国境近くで見た光景は悲惨なものだった。
飢えた子供の腕の細さを、据えた匂いの毛布の固さを、きっとこの先も忘れる事は出来ないだろう。
『きっとあなた様ならば、神子を召喚し彼等を救う事が出来るでしょう』
私が彼等から目を背けようとする度に、使者はそう言い、しっかり見ておきなさいと、それを許そうとはしなかった。
――私が不幸な彼等を救う。
希望に満ちたその言葉を使命とし、心に刻んで私は神殿に入った。十五年後に現れる神子を召喚する為に、教典を学び修行を重ね魔力を増やしていく日々は充実したものだった。まだ幼かった故に、両親や故郷を想って泣く事もあったが、身の回りの世話をさてくれている神官達は優しく慰めてくれたし、何よりも飢える事はなかった。先代の神官長も孫の様に接して下さり自分の寝台に招き入れてくれる事さえあった。しかし。
――今代は千年の召喚の年で、霊力さえ高ければ誰でも良かったのだ。
初めてそれを聞いたのは、神殿での生活にも慣れた一年程後の事。
レーリエが来た事に気付かずそう話し、血筋としては卑しい者よ、と笑い合っていたのは王城から来た高官達だった。
主語の無いその一言が自分に向けられたものだと気付いたのは、自分自身も薄々それを感じていたからだろう。その事実に打ちのめされ、逃げ込む様に飛び込んだこの場所には、アルジフリーフの象の前で祈る先代の姿があり、私は泣きながら訴えた。
先代は話を聞き終わると皺が刻まれた大きな手のひらで私の頭を撫でて下さった。
「神子召喚はとても名誉な事。口さがない嫉妬などを気にする事は無い」と慰めてくれた。
自尊心を擽る言葉に、信仰心は失われる事はなかった。他の霊力の高い次の神官長候補の後見する一部の神官には、それこそ邪魔にされたが、揺らぎない信仰の前では些細な嫌がらせは、アルジフリーフが自分に与えた試練だと受け入れる事が出来た。
『召喚』された神子の本来の仕事を、知ったのは先代がみまかれた、その夜の事だった。
清らかな神子がアルジフリーフに世界の繁栄を祈願し、その無聊を慰める為に神々の谷に飛び――生身の身体を脱ぎ捨てるのだ。
これは『生贄』ではないのか。
そう糾弾する自分の良心に気付かないふりをして、私は時を待ち神子を召喚した。
『召喚』すれば、実りは増え大地は潤い、人々は栄える。
私は『召喚』する為に、神殿に呼ばれ日々を過ごして来た。『神官長』なんて大層な肩書きすら、それを行う為の部品の一つに違いない。
それは体の良い言い訳だった。もしかすると自分は、この世界に生活する人間よりも、自分の存在意義を守る事に執着していたのかもしれない。
――なんて罪深く、愚かな自分。敬虔な信仰者の皮を剥げば、そこにあるのはただ自分の自尊心を守る為に必死な矮小な人間だ。
何故異世界の、何の縁も無い人間でなければならなかったのか。
いっそ自分だったのならば、素直に受け入れ、疑問を持たぬまま静かに逝けたはずだ。
召喚した神子は、最初こそ気が触れたのかと思う程に取り乱していたが、予想していたよりも随分早くこの世界に馴染んでくれた。
最初の印象とは違い、明るく穏やかで、そばにいるとこちらまで癒やされる様な不思議な雰囲気を持つ女性だった。
時折見せる年相応な可愛いらしい態度に、胸の深い場所にしまい込んだ筈の罪悪感が込み上げる。
神殿に舞を習いに来た彼女と共に過ごす日々が増えていき、自分を慕うその目に親愛の情を見つける程に、真実を知った時にどう変わるのか、と恐怖心すら抱いた。
彼女と向き合う事が辛い、と感じた時には既に遅かった。
けれど。
『レーリエ様』
女性らしい落ち着いた声が、優しく私の名前を呼ぶ。私の名前を呼ぶのはごく一部の親しい人達のみ。
『私、頑張ります』
気負いなく自然に微笑んだ彼女に、一瞬何の事なのか分からなかった。
『だからレーリエ様は、気にする事なんてないんですよ』
――全てを理解したと同時に、込み上げた感情に名前を付ける事は出来ない。憐れみ、驚愕、罪悪感、それら全てが混じり合い、最後に胸に残ったのは、安堵だった。
なぜ、と、身の内に問い掛けた言葉に応えるのも自分自身。責められ詰らる事を私は望んでいたのだ。ただ自分が楽になりたいがために。
何と罪深い事だろうか。
見透かされた様な羞恥心に、思わず逃げ出したくなって後ろに引いた。
『ただ、平和になったこの世界が続くのを見られないのは悲しいけど』
染み込む様な静かな声に、身を投げ出して許しを乞う。力の抜けた身体が、みっともなくその場に膝をつかせた。
『仕方ないよ、ね?』
頬に生温かいものが拭う。
そっと頬を撫でて目元に柔らかなものが触れる。その感触は酷く柔らかくて、記憶にも無い母親を思い出させた。
アルジフリーフ!
どうしてですか!
この様な方が何故という思いと、この様な方だからこそ選ばれたのだ、という思いがせめぎ合い、苦しみに胸を掴む。
見上げた彼女は美しくただ穏やかに微笑んで運命を受け入れている様に見えた。
自分が彼女をアルジフリーフの元へ送る。――違う、大層な言葉で飾り立てても結局は私が彼女を殺すのだ。ならば。
彼女を送った後、は――
アルジフリーフ、
アルジフリーフ、
もう私は、
あなたに祈りません。




