19、偽りの聖女
酷く鮮やかな夢を見た。
輝く緑の地平線の向こうに、お姉ちゃんがいて、繋いだ手の先には頭二つ分小さい『あたし』がいた。白爪草のかんむりを頭に乗せて、大きく手を振り歩いてはしゃいで笑う。
けれど次の瞬間には、かたん、とからくり玩具みたいに空が回転した。赤くて大きな夕日が現れ大地を同じ色に染めながらきりきりと機械じみた動きで沈んでいく。長く伸びた二つの影が、『私』の爪先を真っ黒に染めた。
「……りません」
「……れ……仕事……から」
すぐ近くから聞こえた声。
夢の赤さを引きずりながら意識が浮上して、目を開ければすぐ近くに神官長がいて、少し驚いた。
「ああ、申し訳ありません。起こしてしまいましたね」
神官長の落ち着いた声が、ゆっくりと鼓膜から頭の中に入って来て、早めた鼓動を落ち着かせてくれる。
どうやらサダリさんの肩を借りたまま本格的に眠ってしまったらしい。
そこにたまたま神官長が来た、という事だろうか。神官長とサダリさん、二人に共通点なんて見つからないが、多分
……会話、をしていた。どんな事を話していたのだろう、と興味が湧いたけど、それを今ここで聞ける雰囲気ではない。
「いえ。サダリさんもすみません。うっかり本当に眠ってしまいました」
寝顔を見られてしまった気まずさを誤魔化したくて俯き、少し重いまぶたを擦る。そしてすっかりもたれてしまっていた、サダリさんの様子を窺った。
どうやら眠り込んでしまってからも律儀に動かずにいてくれたらしい。目を閉じる前と寸分変わらぬ位置。腕が痺れてたりしないかな、と心配しつつも立ち上がろうとすれば、目の前にいた神官長が長い袖の先の白い手が、私の前に差し出された。
躊躇ったものの、すみません、とそれに手を重ねてゆっくり立ち上がる。その手はいつになくひんやりと冷たかった。
「ありがとうございます。もしかして結構時間経ってたりしますか」
少し振り返ってサダリさんにそう尋ねると、すでに彼は音もなく立ち上がって私を見下ろしていた。
「いえ、三十分程です」
そうか。随分身体がすっきりしたから長い時間眠ってしまったと思ったが、そうじゃなかったらしい。
「失礼しました。レーリエ様は温室の手入れですか?」
法衣の皺を伸ばして改めて神官長に向き直ってそう尋ねる。少し考え事をしたい時に花の世話をしていると落ち着く、と言って、何度か一緒に世話をした事もある。
「……ええ、そのようなものですね。イチカは……お昼寝、ですか?」
珍しく控え目ながら少しからかうような表情で聞いてきた神官長に、いえ、と笑って首を振った。
「アマリ様とここでお茶しようと思いまして。でも懐かしい顔を見て安心したせいか寝ちゃいましたね」
サダリさんに笑顔を向けて、もう一度すみません、と頭を下げれば、顎を引き一瞬複雑な顔をして目礼した。視線を逸らしたのかな、とも感じたけれど敢えて何も言わなかった。
「そうですか。では薔薇の鉢を横に移動させましょう。今が見頃ですから」
「ありがとうございます。……あの、神官長様、今少し話せますか?」
「……ええ」
返事の前に確かな空白があった。
しかしその内容が分かったのだろう。少し顔を傾けてサダリさんを見た。
「サダリ。ここは奥まった場所にありますからアマリ様には解りづらいでしょう。もうじき祈りの間から出られるので案内を頼めませんか」
「……分かりました。失礼します」
来たばかりなのに申し訳無いな、と思いながらも、私からもお願いします、と言葉を重ねて頼めばサダリさんは少しの間、私に視線を置いて伏せる様に頷いた。
サダリさんの広い背中が生い茂る緑に消え、扉が閉まったのを確認して、改めて神官長に向き直った。
「近々お城に戻る事になるって、王子から聞きました」
そう切り出せば、神官長は、ええ、と頷いて私とは真逆に長い睫毛をそっと伏せた。銀糸の様な癖の無い髪がさらりと頬に落ちる。
「もう儀式の舞については十分です。昼間の様子から同年代の殿下達と共におられる方が宜しいかと」
ああ、やっぱりあのやりとりが、逃げ道を作ってしまったらしい。
「そうですか。……いきなりで少し驚きました」
少し困った様に苦笑しそう言うと、すぐに、申し訳ありません、と謝罪の言葉が続いた。
「ついアマリ様に問われて、うっかり話してしまいましたが、あなたに先に話すべき事でしたね」
「……もう神官長様とは、儀式の時までお会い出来ないのでしょうか」
少し沈黙が落ちて、一番気になっていた事を尋ねてみる。神官長は、少し考える様に間を空けた。
「そうですね……時々舞の復習も兼ねて神官を派遣しますし、私も何かありましたら王城に伺います」
それは何も起こらないと、神官長とは会えないと言う事だろうか。
「……」
慈愛深く得体の知れない『神子』とは名ばかりの小娘に、ずっと優しくしてくれた神官長。神に仕える者とはかくや、と身を以て示してくれた。元の世界で何のしがらみもなく会ったのなら、立派な人だと尊敬したかもしれない。
――当日まで会えないならば、この辺りでいいかもしれない。
もう一人の自分が、そう、甘く囁いた気がした。
神を尊び祈る彼は慈愛深く、身分に関わらず不正を暴き弱い者を救ってきた。それらを救う為なら自分を犠牲にしても苦ともしないタイプの人間だろう。
それなのに人柱として犠牲になるのは、この世界に全く関わりのない、自分よりも若い女性。哀れだと思っているからこそ、その態度は言葉を交わし距離を近づける度に綻びが見えてくる。
だから鬱陶しがられない程度に、幼げに天真爛漫に懐いてみせた。犠牲になるのは彼が本来なら守るべき位置にいる存在なのだと知らしめて、罪悪感を煽る様に。
だけどその途中で気付いた。そうではない。
神に仕える彼の、一番大事な人になる為には。
――神に勝るとも劣らない、慈愛深き聖女になれば良い。
どれだけ私が哀れでも、彼は『優しい』からこそ、私を逃がそうとは思わないだろう。命の重さを知っているからこそ、大陸全ての人間を秤にかけて救おうとする程愚かではない。針が私に傾くと同時に秤は壊れてしまう。一と百すらではなく、ゼロと百だ。選びようもない。
「……舞の練習するの、楽しかったです」
「ええ。あなたは筋が良かった」
「子供達とも少しだけだけど、一緒に遊べて嬉しかったし」
そう言うと神官長の眉間に微かに皺が寄った。恐らくはテトの事を思い出しているのだろう。頬の傷も小さな噛み跡もすっかり消えていると言うのにあの騒ぎが本人以外の人間が大事にしているように思う。
「ここのお花のお世話するのも、楽しかったです」
虫に驚いた私に初めて声を上げて笑い、サリーさんが用意してくれたお菓子でお茶をしたり、時々甘えてチェスもした。一緒に過ごした時間は神子と召喚者の枠を超えて親愛を育んだ。
「レーリエ様」
神官長ではなく、名前を呼ぶ。
彼を名前で呼ぶ人はこの神殿にはおらず、私が知る限り王子しかいなかった。
「今までお世話になりました」
ぺこりと頭を下げると、神官長もならうようにゆっくりと頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。神殿が寂しくなりますね」
「お元気で。ああ、時々礼拝に来てもいいですか」
わざとらしく首を傾げてそう訪ねる。
「……ええ、もちろんです」
迷う様な少しの間に、自然と笑みが浮かんだ。ずっと伏せたままの神官長の顔を覗き込む。
「……来ない方が良いですか?」
「そんな事は」
弾ける様に顔を上げ首を振る。酷く顔色が悪い。長い指先が中途半端に浮いていた。
「ねぇレーリエ様。私最初に言いましたよ。この世界の優しい人達の為に頑張りますって」
私の言葉に、ふっと訝しむように眉を寄せた。真意を探る様に向けられた視線に、あどけなく首を傾げて見せる。
「だからレーリエ様は、気にする事なんてないんですよ」
神官長の目が大きく見開かれ、小さく身体が傾いた。自然と下がった足に、まさか逃げるのかな、なんて頭の隅で思ってそれでも良いか、と考える。
「どうして……」
呻く様にそう吐き出して私を凝視する。何かを怖がる様にその表情に色は無く、固く強張っていた。
――信仰の為なら人殺しくらい平気な人間が、そんな傷ついた顔しないでよ。
「レーリエ様」
そっと優しく名前を呼んで、ふわりと目を眇めて微笑む。
「私、頑張ります」
最初に会った言葉を繰り返せば、神官長は口元を手で覆い、震える声で何か、言った。揺れた視線はどこか虚ろで、動揺しているのが目に見えて分かった。
その間ずっと黙って神官長を見つめていた。酷く心は凪いでいて、ただ彼が何か言うのを待っていた。
ややあって沈黙の後に落ちたのは、謝罪。
「……申し訳ありません」
――ああ、面白くない。
こんなに簡単に認めるなんて。
みっともなく白を切ってとぼければ、気のせいでしたか、とほっとした様な顔をして一層罪悪感を煽れたのに。
「レーリエ様」
穏やかに、優しく。お姉ちゃんが浮かべるのは、何もかも許される様な優しい笑顔。
「私、別に怒ってませんよ」
これは本当。憎んではいるけれど、怒りなんてとっくの昔になくなった。
「ただ、平和になったこの世界が続くのを見られないのは悲しいけど」
神官長の身体から力が抜けて、その場に倒れる様に膝をつく。
「仕方無いよ、ね?」
ゆっくりと近付き、手を広げて男性にしては華奢な身体を抱き締める。微かに震える身体に、私の指先から身体からふわふわした金色の帯が生まれて彼を包み込む。
神官長は私が力を使った事に気づいたもののされるままにじっとしていた。もう一度今度は軽く抱き込んで、お姉ちゃんがよくしてくれていたように何度も髪を梳くと、彼らしくない呻くような嗚咽が微かに聞こえた、気がした。
濡れた頬に唇を寄せて、優しく慰める。
「泣かないで」
ねぇ、神官長さま。
私はあなたの大事な人になれましたか。
* * *
シーツにくるまって丸くなっていたら、不意に気配を感じて顔を上げた。
「ひっでぇ面だな」
ベッドの脇に立っていた黒尽くめの――随分久しぶりな、賢者。三ヶ月と寸分違わぬ姿で私を見下ろしていた。
「……賢者、なんでいるの」
神殿には来れないって言ったじゃない。そう言外に滲ませれば、賢者はきゅっと眉間に皺を寄せ、ベッドの脇に腰を下ろした。気配は無いのに、ベッドはその体重を受け軋んで軽く沈む。
「明日には神殿出るし。まぁ、一番聡い奴がダウンしてるからちょっと位大丈夫だろ」
軽い口調でそう言って笑う。
一番聡い――そう言われて思いつくのは、やはり神官長だ。
そう思って胸の奥から競り上がった感情を、うずくまってぎゅっとシーツを掴んでやり過ごす。それを賢者はただじっと見下ろしていた。
「ってか、お前さぁそんなに泣くならやらなきゃいいじゃん」
賢者の手が伸びて、涙で頬にはりついた髪を、無造作に避ける。それを起き上がって避け、ベッドに座り込むと思いきり睨み付けた。
「うるさい」
「……お前、向いてねぇよ。仲良しって一方通行じゃねぇ。お前だって『振り』だろうがなんだで歩み寄ってんだから、両刃の剣だろ。ましてや」
「傷付いてなんかない!」
傷付ける権利はあっても、私が傷付く資格なんてない。
とっさにそう怒鳴って口元を手で覆う。まだ夜も明けない時間なのに、サリーさんを起こしてしまう。
「そうやって意地張って、考えないようにしてるだけだろ。今ならやめるって選択もあるぞ」
続けられた言葉にかっとなって、だけどさっきよりは抑えた声で怒鳴る。
「今更な事言わないでよ。あんたが言ったくせに」
だから、私は。
「『真実』を、か?」
ふざける風でもなく静かにそう言われて、一瞬にして頭が冷えた。
復讐を決めたのは自分。賢者は言葉通り、真実を私に伝えただけだ。
「……八つ当たりした。ごめん」
ややあってからぽつりと呟くと、賢者はあー……と、後ろ頭を掻いてちょっと困った様に溜息をついた。猫みたいに掴み所の無い賢者らしからぬ、酷く人間くさい態度だった。
「お前、素直かそうじゃないのか分かんねぇな。ほらもう遅いから寝ろ。子守歌歌ってやるよ」
「いらない」
「遠慮すんな」
半ば無理やり引っ張られて横になる。子守歌代わりなのだろうか、ひんやりとした手が伸ばされ熱を持った瞼に酷く気持ち良く、すとん、と落ちる様に意識を失った。
――明日には王城へ戻る、月の無いまっ暗な夜の事だった。




