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17.奇跡の行方2


 灰色の雲から降り注ぐ銀の矢の先で緑が白く煙っていた。強い雨に地面を叩き付けるそれ以外の音は聞こえず、湿った空気のせいか広い部屋だというのに胸を塞ぐ様な閉塞感があった。


 雨のせいでいつもの広場は使えないので、今日は神殿の奥にあるらしい部屋で踊りの練習をするらしい。


「身体重いなぁ……」


 ぽつりと呟いて、窓の外から視線を戻し、ソファの上で膝を抱えて座っていると、きい、と緩やかに扉が開いた。少しぼんやりとした頭でゆっくりと振り返る。朝食の食器を下げにいったサリーさんにしては随分早く、ノックが無いのも有り得ない。吹き抜けの廊下から風が吹いたのだろうか。誰もいない廊下……と思えば、そこには雨の匂いを連れた小さな影――テトの姿があった。


 いつも忍び込んでくる中庭が近いと言っても彼がこんな場所までやって来るのは初めてだ。


 一度だけ連れて来たレミーから聞いてきたのだろうか。


 彼とは昨日から何となく気まずいままだ。何か言いたそうにするので促すように向き直ったとたん、「何でもない」と首を振って、ふらりとどこかに行ってしまう。昨日帰るまでそんな事が数回続いて、自分の部屋に戻ってからも気になっていた。


 けれど見るからに幼いレミーはともかくテトはまずい。生真面目な老神官に見つかれば間違いなくお咎めを受けるだろうし、何よりもうすぐ神官長が迎えに来る。



「テト? 一人よね? 風邪ひくよ。話があるなら明日そっちに行くからゆっくり聞けるけど……どうかした?」


 幼いものの慎重な性格であるテトがここまで忍び込んだのだ。何かどうしても伝えたい事があるのだろう。濡れて色を濃くした肩の辺りに、サリーさんが練習の為に用意してくれた手拭いを手に取る。ソファから立ち上がりテトの元へ歩み寄ろうとした時、テトがきつく引き結んでいた口を解いた。



「――なぁ、神子は人を治せるんだよな」


 問いと言うよりも確認するような抑揚に、足を止め改めてテトを見つめる。昨日その目で直接見た筈である。今更確認するその意味は何だろう。それにテトは私の事をずっと『神子』とは呼ばず『イチカ』と呼んでいたのに……。テトは俯いたままで、前髪の影でその表情は見えない。否、昨日の、あの時から見ていない。


 テトと私。


 距離にして十メートルも無いそれが、何故かとてつもなく遠くに感じる。開け放たれたままの扉から吹き込んできた風が細く揺れていた燭台の光を消し、花瓶に挿した花を揺らし小さな花弁を幾つも散らした。


「うん」


 治せるよ。落ちたテトの頭のてっぺんを見つめて、肯定する。


 次の瞬間、弾ける様に顔を上げたテトの表情は酷く強張っていた。

 ああ分かる、きっと次に言われる言葉は。


「死んだ人間は?」


 まだ幼い声が紡ぐにしては、物騒な言葉だった。絞り出す様に言われた言葉に、胸の深い場所で何かが壊れる音がした。



 ――今、私はどんな表情をしているのだろう。


 部屋が薄暗くなってしまったせいか、夢の中の様に酷く現実感が無かった。


 そうだね。そう出来たのなら良かった。


 恐らく鏡で映した様に私はきっとテトと同じ顔をしている。だから。


「無理だよ」


 即座に否定する。期待させる沈黙なんて残酷なだけ。だけどきっとテトは本当はその答えを知っている。


 それを証明する様に、テトの表情は動かなかった。けれど、床に縫い付けられていた様に立ち尽くしていたテトの足がゆっくりと動き出す。


「テト?」


 少し驚いた様な男性の声が部屋に響き、開け放たれたままだった扉から現れたのは、神官長とサリーさん。だけど、その声が合図になった様に、テトの灰色の目にみるみる涙が盛り上がって決壊し、丸みを帯びた頬に伝った。


「――なんで」


 くしゃり、とテトの顔が歪んだ。


「もっと、早く来なかったんだよ……ぉっ」


 両手の拳を握り締めて喉から振り絞る様に怒鳴る。 


「もっと、早く来てくれたら、母ちゃんは助かったかもしれないのに、なんで……っ」


 癇癪を爆発させた様にテーブルを蹴る。倒れて水が零れた花瓶を掴み振りかぶると、私に向かって投げつけた。


「神子様っ」


 重かったのか花瓶は私の身体に触れる前にソファの肘掛に当たる。ぱんっと勢いよく欠片が飛び散ると腕と頬に鋭い痛みを感じた。


「きゃあああっ」


 テトの後ろ、駆けつけた神官長の肩越しに甲高い悲鳴を上げたサリーさんが両手に頬を当てたのが分かった。泣きじゃくり尚も椅子を投げようとしたテトを神官長が後ろから羽交い締めにする。


「テト、やめなさい!」

「何て事を! 神子様大丈夫ですか……ああ、お顔に」


 転がる様に私の前まで走ってきたサリーさんが、腰のベルトからハンカチを取り出し頬に押し当てた。


「すぐに治療を」

「後でいいです」


 私はそっとハンカチを押し返し、避け砕けた欠片を踏み越え、テトの前に立つ。


 しゃがみ込んで目を合わせると、テトは神官長に押さえつけられたまま血走った目で私を睨み付け唸った。手負いの小さな獣のようだ。自分もあの時――召喚されサダリさんに押さえつけられた『あたし』も、きっとこんな風に惨めに床に這いつくばっていたのだろうか。


「神子、離れて下さい!」


 彼の言い分は、独りよがり。幼い八つ当たりだと人は言うだろう。


 だけど。


「何を……」


 でも、それは彼にとってたった一つの真実なのだ。


「許さない! お前がもっと早く……っ」

「テト」


 呼び掛けてそのまま両手を広げて、テトの首に手を回して抱きつく。雨に濡れて酷く冷たい身体が一瞬だけ強張って、より一層暴れ出した。


「神子様! 離れて下さい」


 埋めた肩に鋭い痛みが走り、唇を噛み締める。子供の薄い歯は凶器だと孤児院の先生が言っていたけ」ど、身を以て知るとは思わなかった。食い千切られそうな勢いに、ぐっとこらえて抱擁をきつくする。 


 そして困惑した神官長の視線を感じながら、私は耳元で囁いた。


「……許さなくていいよ」


 耳に届いたのだろう。ぴくり、と肩が揺れる。


 触れ合う一瞬に見た血走った、けれどどこか虚ろなこの目は鏡に映った自分だ。


 仕方ないなんて、どうしようもなかったなんで、諦めないで

 許さなくて良いから。


 憎んで、殺したい程蔑んで。


 肩に食い込んだ歯がかすかに震えた。


 神官長が身体を離したと同時に、軽い衝撃がテトの身体から伝わった。ぐらり、と傾いたテトの身体を私が支えるよりも先に神官長がそのまま持ち上げた、だらりと下がった手に、完全に気を失っている事が分かる。


 ああ、無理矢理落としたのだ。前の私と同じ様に。寝台に映り込んだ赤い月と、元の世界と切り離された淡い光が頭を過ぎり込み上げた何かを呑み込んで堪える。


 神官長はテトを抱いたまま立ち上がると、そばにいたサリーさんに預けて、私をソファへと促した。華奢な腕にテトを預かったサリーさんはそのまま部屋を出て行く。


「……なんて無茶をなさるのです」


 呆れと感嘆が混じった複雑な声に、素直に「ごめんなさい」と謝ると、神官長は私の手を取り絨毯の上に跪いた。責める様に眇められた若草色の瞳に苦笑して、ゆっくりと口を開いた。


「他の人には言わないで下さいね」


 内緒に、と続けると、神官長様はより一層眉間の皺を深めた。


「神子様」

「顔の傷はちょっとよろめいた拍子に落とした花瓶が割れちゃった事にして下さい。後は服に隠れますし。テトもしばらくそっとしておいてあげて下さい」


 また復讐に来るならそれで良い。死にさえしなければ、彼にどれだけ傷つけられても構わない。


「……あなたは優し過ぎます」


 苦しそうに吐き出された言葉がありえないない程滑稽で吹き出しそうになった。


 私が優しい。

 なんて馬鹿げた言葉だろう。顔を歪ませた貴方を心の中で嘲笑ってるのに。


 ……ああ、でも。

 確かに『イチカ』は優しい。


 「一華」ならどう返すかと考える。そう、お姉ちゃんならきっと、少し照れた様に笑って否定する。


「嫌だなぁ。優しくなんてないですよ」


 嫌みなく、軽い口調で首を振る。


「私がもう少し早く来ていれば、救えたかもしれない事は事実ですし、子供達の前で無造作に力を使った事がいけなかったんです」


 きちんと認めたくない過ちも反省して、きっと、テトにとってより良い道を模索するのだろう。


「……分かりました。この事は私の胸の内に留めておきましょう。サリーにも同様に伝えておきます」

「ありがとうございます」


 笑顔を浮かべたまま、ぺこりと頭を下げる。そして。

 

「神官長様、抱擁を許して頂いてもいいですか」


 突然の申し出に、神官長の目が驚いたように瞬いた。答えを聞かずに目の前にあった頭を抱え込む様に抱き締める。少し意識を集中させて力を出すと、指先から金色の光が零れ落ちた。


「私より痛そうですよ」


 小さく笑ってさらさらの頭を撫でてみる。

 さっきから、違うここの所ずっと酷く顔色が悪かった神官長。


 抵抗するかと思ったのに、神官長は意外な程大人しく、私がしたいようにさせてくれた。恐る恐る背中に回された手は大きく、じわりと熱が伝わってくる。


「……温かいですね」


 しばらくそうして神官長はぽつりと呟いた。


「そうですか? 本人には分からないんです」


 少しずつ身体から力が抜けていく。

 ある程度、力を使えば、身体は疲労を感じるらしい。今日は寝付きがいいかな、とどうでもいい事を思いながら神官長に力を注ぎ続けた。私は何も言わなかったし、神官長も何も言わなかった。


 それからしばらくして、神官長は身体を離すと静かに礼を執り、サリーさんが戻って来たのと入れ違いに、部屋から出て行った。


 水を泳ぐ魚の尾びれの様な光のかけらが、閉められた扉にぶつかり途切れて霧散した。





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