01.はじまりの白
ざわめきと電子音の後に続くアナウンスに、背中を押されながら足を進める。
「……っと」
不意に滑り落ちそうになった雑誌と画集を抱え直し、広いロビーに出れば、エスカレーターの前で、見慣れた顔が手を振った。
手を振り返すと、赤毛交じりの茶色い髪を弾ませて、シンディが駆け寄ってきた。お姉ちゃんとあたしの幼なじみ。
「ナナカ! おはよう」
「シンディおはよう、道に迷わなかった?」
ここは、サナトリウムも併設している郊外の総合病院だ。
シンディやあたし達が住んでいる街からは、かなり離れていて、二時間は掛かる。免許を取ったばかりの彼女には些か荷が重かっただろう。
「ん、大丈夫。パパに運転して来て貰ったから。そこのカフェでお茶して待ってるって」
「そっか。気を遣ってもらってごめんね」
娘の友人と言っても若い女の子だ。お見舞いを遠慮してくれたらしいシンディのパパの気遣いに感謝する。
そう言うとシンディはちょっと笑って首を振った。けれどすぐに顔全部で笑って見せる。
「ほら早く行こう!」
普段大人っぽい彼女のそんな仕草は、わざとはしゃいでいる様にも見えた。
もしかしたら自分もこんな風にお姉ちゃんに見えてるのかもしれない、と一瞬不安になって慌てて打ち消す。
あたしが暗い顔してどうするの。
「後でおじさんに 挨拶に行くね。お姉ちゃんの病室五階なんだ」
エスカレーターの裏にあるエレベーターホールを指差すと、シンディは、あ、と小さく声を上げて、椅子に置きっぱなしだった花束を取りに戻った。
手にしていたのは、シンディみたいな爽やかなひまわりのフラワーアレンジメント。シンディの胸に収まったそれは、清潔な――ともすれば寒々しくも見える白いばかりの周囲の中で、太陽が昇ったみたいに見えた。
「シンディらしいね」
お姉ちゃんの病室は今、お見舞いの花束や果物でいっぱいだ。だけど控え目な色味が並ぶその中で、鮮やかなひまわりはよく映えるだろう。
「そう?」
「うん綺麗。あ、でもお姉ちゃんの病室でお花屋さん開けそうかも」
「あはは、イチカは人気者だからね」
トートを肩に掛け、籠を抱え直してシンディは苦笑すると、二人でエレベーターに乗り込んだ。
* * *
軽くノックをして返事を待ってから、扉を引く。
広い病室は見舞いのお花や品物で溢れ返っているけれど、消毒液の匂いの方が強い。
だけどシンディは気にならなかったようで、素直にその花の多さに「想像以上だわ」と笑ってくれた。
「あら、随分早かったわね」
本を膝に置いてお姉ちゃんは笑う。小柄なせいか薄いクリーム色の寝着のせいか、壁の白さに溶けてしまいそうな危うさがある。胸に巣くう不安がざわりと騒ぎ出して、それを振り払う様にわざと明るい声を出した。
「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよう奈菜。シンディも、来てくれたのね。嬉しいわ」
ありがとう、と目を細めて嬉しそうに笑う。
少し緊張していた様に思えたシンディも肩の力が抜けたみたいだ。ベッドに歩み寄り、お姉ちゃんの手を握り締めた。
「良かったわ。元気そう」
「うん、大丈夫」
痩せてしまった身体とは違い、声にはきちんと張りもあって、頬に赤味も差している。
……今日は元気そうで良かった。
ほっとして、持ったままだった画集をサイドテーブルに置く。
それに気付いたお姉ちゃんが「重かったでしょう。ありがとう」と労ってくれた。
シンディの為に紅茶を入れようか、それとも病院内のケータリングに頼むか考えて、結局シンディとの関係の気安さも手伝って自分で淹れる事にした。
「手術が決まったって言ってたけど」
お見舞いを渡した後、勧めたパイプ椅子の上で長い足を組み、シンディはそう尋ねる。
「ええ、奈菜とHLA……適合してるから」
そう言ったお姉ちゃんの横顔にほんの少し影が差したのを、あたしは見逃さなかった。
「もー、まだお姉ちゃん納得して無いの? 他にいないし、身内から見つかってラッキー位に気軽に手術受けてよ」
シンディにカップを差し出して、自分も隣の椅子に腰掛ける。
お姉ちゃんはきゅっと眉間に皺を寄せたまま、あたしの顔を見て溜息をついた。
「だって、熱が出たり血圧下がったりするって言うし、奈菜に100パーセント危険が無いって訳じゃないもの」
「ほぼ無いって説明されたじゃん。別に切る訳じゃないし手術って感じでもないしね。腰に数カ所注射刺されるだけだよ? 跡も二、三週間で無くなるって言うし、そもそもお姉ちゃんがあたしでもそうするでしょ」
そう、お姉ちゃんはCML――いわゆる骨髄性白血病でこの病院に入院している。発症したのは三年前。当時は手術ではなく、投薬中心の治療をし、一時は回復して退院し日常生活を送っていた、が――二ヶ月前にまた再発した。
小学生の頃、両親が離婚し私達は父に引き取られて日本を離れた。年の離れたお姉ちゃんはまだ幼かったあたしの母代わりとなり、今もそれは変わらない。
綺麗で明るく雰囲気も柔らかくて一緒にいると 優しい気持ちになるお姉ちゃんは、スクールでも人気者だ。それは入院して二ヶ月になるのに一向に減らないお見舞いに現れていると思う。
「ナナカはいつから入院?」
「ギリギリで良いらしいから、前日に。お父さんもその日から長期休暇取ってくれるって」
おじさんで大丈夫なの? と、少しの沈黙の後、不安気に問い掛けられて、あたしはお姉ちゃんと顔を合わせて苦笑する。家がご近所な事もあってシンディには、お父さんの仕事以外のダメダメ具合は筒抜けである。
「何か困った事があったらすぐ電話するのよ。どうせ日中はうちのパパも暇してるし運転手する位小さな事だから」
「でも、あたしが入院するの三日か四日そこらだし大丈夫だよ。でも本気で困ったらメールするね」
絶対よ? と何度も念を押すシンディに頷いて、それからまた他愛ないお喋りをしてから、ロビーまで見送った。
* * *
病室に戻るとお姉ちゃんはさっき持って来た画集を見ていたらしく、俯いていた顔を上げてあたしを見た。
すっかり薄暗くなった病室に「目ぇ悪くなるよ」なんて言いながらライトを点けると、お姉ちゃんは、眩しそうにぱちぱちと瞬きする。
「気付かなかったわ。あ、奈菜お疲れ様。おじさんにお礼伝えてくれた?」
「うん大丈夫。それよりお姉ちゃん疲れてない? そろそろ横になった方がいいんじゃない?」
「心配性ね。今日は本当に気分が良いの。それよりこっちおいでよ、髪やってあげる」
画集を閉じたシーツの上には、ブラシとクリップが既に用意されていた。
どうやら拒否権は無いらしい。
「えー変かな?」
そんなに器用じゃないので、今日は高い位置で作ったお団子だ。
子供っぽく見えるのを承知で敢えてそうしてる。お姉ちゃんは小柄で、どっちかって言うとベビーフェイスなのに、あたしは大人っぽい……いや老け顔って言われる。海外でも年上に見られるとか、アジア顔マジックはあたしには当てはまらないらしい。
クラブでバレーやってるせいもあるんだろうけど、身長もそこそこあるし。どうやらあたしは背ばっかり高いお父さんに似たらしい。
それに反してお姉ちゃんは小柄で、一緒に歩いてると、あたしが妹だと思われる事は殆ど無くて、お姉ちゃんはよく拗ねていた。
「ううん、私がやりたいだけよ」
くすくす笑って手招きする。
歩み寄ってベッドの端に腰掛ければ、消毒液と、微かなリネンウォーターの匂い。りんごのまろやかな甘い香り。
昔から使ってるせいか、無条件にこの匂いを嗅ぐと安心する。
「最近、奈菜がしっかりしすぎて楽しくないわ」
「いつまでもお姉ちゃんに頼ってばかりじゃいられないよ」
七つ離れたお姉ちゃんは、昔からあたしの面倒をよく見てくれた。
渡米したばかりの時に、家事能力皆無なお父さんがベビーシッターやハウスキーパーを雇ってくれたんだけど、まだ幼かったあたしは、ガラスみたいな青い目にも、彫りの深い骨格も、きらきらした明るい髪にも慣れず、その人達から逃げてはお姉ちゃんにくっついていたらしい。
もともと人見知りがひどかった事もあって、それからはずっと、お姉ちゃんは出来る限り傍にいてくれて、母親の様に甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
本当に面倒だったと思うのよね。同世代の集まりも昼の間しか行く事もなかったし。あたしが行けない場所なんかは、きっぱり断っていたし。自分も渡米したばかりで不安だったろうに、青春全部犠牲にして一緒にいてくれた事は感謝なんて言葉では表現出来ない。
そして馬鹿で幼かったあたしは、三年前お姉ちゃんが倒れるまで、一緒にいる事が当たり前すぎてその事に気付かなかった。
……だからこそさっさと病気を治して、元気になって自分の人生を楽しんで欲しい。
白血球の血液型であるHLA型が適合した時なんて、あたしはとても嬉しかった。ちょっとでも今までのお返しが出来るって思ったから。
「また固く結んだわねぇ」
お姉ちゃんは髪を引っ張らない様に丁寧にピンを抜き取って、一度髪を全てほどく。手に持った鏡の中で、器用に白い指先が動いて片側だけ編み込みすると、ゴムを隠す様に毛先で巻いて、クリップを付けた。
「ん、完璧」
「可愛いねー……あたし未だに編み込み出来ないよ。自分でやったら三つ編みも裏編みになるし」
「練習すればいいじゃない」
クスクスと笑って、ブラシをサイドボードに置く。
「ほんとあっと言う間に大きくなるわよねぇ」
「なんかお姉ちゃん、お母さんみたいだよ」
「まぁ、奈菜は私が育てたみたいなものよねー。寧ろ二人一緒にお父さんに引き取られて良かったわね。奈菜がお父さんと二人きりで生活するとか想像しただけでぞっとするわ」
言葉程嫌味は無く、軽口を叩いて朗らかに笑う。
窓のガラス越しに見える空は澄んでいて真っ青。その前に座るお姉ちゃんは自分の姉ながら綺麗だなぁって思う。芸術家のポートレートみたいだ。
「でも本当に有り難う、ね」
「いいってば、しつこいなぁ……あ、じゃあ元気になったら、アップルパイ作って欲しいな」
「分かったわ、とびきり美味しいの作ってあげる」
「あ、シナモン入れないでね」
「分かってるわよ。アップルパイ好きな癖にシナモン嫌いだなんて変わってるわよね、かわりにバニラエッセンス入れてあげるから」
「やったぁ」
お姉ちゃんの作るアップルパイは、美味しくてあたしの大好物だ。
楽しみにしてる、と笑ってから、あたしは病室を後にした。
それからすぐお姉ちゃんは移植の為の、前処置――抗がん剤投与と、放射線照射を開始し、あたしはその付き添いの傍ら荷物を纏め、細々した事務処理をしていたら、あっと言う間に手術当日が来た。
「はい、楽に――身体から力抜いてね」
冷たいビニールカバーが敷き詰められた狭くベッドの上で、目を瞑る。右手の鋭い痛みは一瞬で、点滴がゆっくりと落ちるのを視界の端で確認してから目を閉じた。
ゆっくりと訪れる不自然な眠気に、身を任せて。
拒絶反応なんて出ずに、うまく適合しますように。
ただそれだけを願って、眠りに落ちた。
* * *
「うわぁ幸せ! やっぱり世界一美味しい!」
「大袈裟ねぇ」
お姉ちゃんは、くすくす笑いながら、紅茶のお代わりを注いでくれる。
優しい湯気が鼻をくすぐって、なんだかあたしも笑い出したくなった。
ギンガムチェックのテーブルカバーは綺麗なパステルカラーで、センターはとっておきのレース。
また一口紅茶を口に含んで、つやつやした飴色にフォークを刺す。
「あたしも作れるようになりたいなぁ」
口の中のアップルパイをごくりと飲み込んで呟けば、お姉ちゃんはちょっと視線を泳がせてから、やぁよ、と首を振った。
「奈菜には教えてあげない」
「えーなんで?」
「だってアップルパイ作るのは、私の仕事だもの」
えー……と尖らせた唇を摘んで、お姉ちゃんは笑った。
「そうねぇ、奈菜が結婚して子供を産んだ時にでも教えてあげるわ」
……うん、楽しみにしてる。




