10.生きるということ
ある程度眠ったせいか、目が覚めたらずっと感じていた身体の倦怠感が随分ましになった事に気付いた。もうすっかり日は高く外からは人々が働く音が微かに聞こえて、きゅぅ、と小さくお腹が鳴った事に驚く。
――お腹空いたんだ。
しばらく信じられなくて、元の世界にいた時より大分薄くなったお腹を撫でて見下ろす。
召喚されて眠らされて……目覚めてからずっとお腹なんて空かなかったのに。
「……イチカ様?」
呆然と立ち尽くしていたらしく、いつの間にか部屋に入って来たサリーさんが名前を呼ぶ。はっと我に返って、朝の挨拶をした。そして。
「お腹、空いちゃって」
カラカラの喉のままそう呟くと、サリーさんは少し驚いた様に目を瞬かせ、次の瞬間ふわりと嬉しそうに微笑んだ。その顔がどこかお姉ちゃんに似ていて、続けようとした言葉を呑み込んでしまった。
「すぐご用意致しますね」
控え目なサリーさんにしては珍しいどこか弾んだ声。そういえば彼女は、よく食事や間食を勧めてきた。侍女として食の細い自分の事を心配していてくれたのだろう。
「お召し上がり下さい」
いつにない素早さで運ばれて来たのは、湯気が立つ温かなスープと、見るからに柔らかそうなパン。
恐る恐る手を伸ばして、スプーンを掴む。煮詰めた野菜がとろりとスプーンから零れ落ちてふわりと香ったその匂いに、自然にお腹が鳴った。
口に入れると、噛む必要も無く舌の上でとろりと溶ける。飲み下して、その温かと美味しさに、唇を噛み締めた。
「どうですか」
「――美味しいです、とても」
ふわりと微笑んで「お代わりして下さいね」と、給仕を続けるサリーさんの後ろ姿が、滲んで揺れる。
……どうして、どうして美味しいと思うのだろう。いつまでも砂を噛む様な食事をしていたかった。食欲がなくてやせ細って死んだって良かったのに。もう悲しくないの? 立ち直ったの? 大事な家族が死んだっていうのに、まだ二週間経っていないのに、お姉ちゃんを殺した国の人達から出された食事を『美味しい』と感じて、口に運ぶ私はなんて冷たい人間なんだろう。
――自分の図太さが疎ましい。
引っ込み思案で人見知りな自分の事は好きでもなかったけれど、嫌いでも無かった。
パンを千切って口に運ぶ。
その向こう側に嬉しそうなサリーさんの顔があった。その視線を避ける様に伏せて、咀嚼する。
今この瞬間、私は自分の事が大嫌いになった。
* * *
「そうですわ。アマリ様からお茶会の招待状が届いております」
食事を終え、最後に出された紅茶の琥珀色の表面に映る自分の顔をぼんやりと見下ろしていると、食器を片付けたサリーさんが思い出した様に口を開いた。
「お茶会?」
考えなくても覚えている。『アマリ』は、あの砂糖菓子の様なお姫様の名前だ。
「ええ、お茶会とは言っても二人で、との事で。お借りしたショールのお礼をしたいと仰っているようです。どうなさいますか」
「……王様の許可が下りたって事かな……」
独り言の様に呟いた言葉に、サリーさんは、ああ、と微かに眉を寄せて、きっとそうですわ、と頷いた。
「ええ。侍女長からお話を伺いましたから、王を説得出来たのでしょう」
少し不満気な響きは、自分の代わりに憤ってくれているのかもしれない。サリーさんから見れば、仮にも自分の主である神子である自分を王が得体の知れなさ故に、王子や姫を近付けようとしないのだと思ったのだろう。
私自身もそう言ってお姫様を説得したのだから、その奥にある真実に気付く筈はない。
けれどお姫様と王子と庭で会ってからまだ数日だ。根気強く説得したとしても、あのお姫様によく王が許可したものだ。
――けれど、自分にとっては歓迎すべき事。
「じゃあ、伺います、って返事しておいてくれますか」
私は温かな紅茶に口を付けて、サリーさんにそう頼んだ。
* * *
お昼を少し過ぎた頃案内されたのは、建物違いの二階の部屋だった。
「お父様がお許し下さいましたの」
アマリ様付きの女官さんに促されて部屋に入れば、以前見た時よりもずっと華やかに着飾ったお姫様が立ち上がって私を迎えてくれた。そして意外な事に後で王子も顔を見せるのだと言う。
お姫様に腕を組まれて座ったソファ。前も見た侍女さんが、良い香りのする紅茶を淹れてくれた。
「頂きものなのですけれど、とっても香りが良くてお気に入りなんです」
口に含むと言葉通り、花の様な濃い香りが鼻から抜けた。まだ熱い紅茶を嚥下すると胃がきり、と痛む。
サリーさんは、お姫様の侍女と一緒に部屋の隅に控えていた。声を潜めれば聞こえない距離だろう。
それを分かっていたのか、お姫様は扇で口元を隠し、私の方へそっと身を寄せた。
「神子様。お兄様をお許し下さいね」
……なぜ、と、呟いた言葉に、お姫様は、そっと視線を伏せた。
「お兄様は頑固なんですけれど、とても真面目な方なんです」
相槌をうって続きを促す。お姫様がまた少し距離を詰めて、お茶よりも強い薔薇の匂いが香った。
「第一継承者でもありますから国の事を一番に考えてらっしゃるのです。父の仕事も少しずつ譲り受け、それ意外の時間は全て勉強や剣、国王に相応しい知識を蓄えるべくそちらに注いでおります。ですから……目に見えない存在でした安寧に導くという『神子様』の存在を信じ切れないのですわ」
目に見えない不確定要素に頼るこの国の未来を不安に思った王子。
それは正論であり当然である。寧ろ簡単に受け入れた他の人間の方がおかしいのだ。
一生懸命に兄の真面目ぶりと熱心さを、我が事の様に語る言お姫様。
ああ、なるほど、分かった気がする。
恐らく王子は、最初から、私の、いや『神子』の事を胡散臭い存在だと思っていたのだろう。突然現れ、何の努力もなく救世主となった小娘。彼が次期国王として色々なものを犠牲にして努力しているなら、その悔しさは到底堪えきれるものではない。
「召還されたのが、こんな小娘だったのが気に入らなかったんでしょうね」
もしくはますます不安を募らせたのか。
なにせ神子と言う地位も王に次ぐもので、王子よりは上なのだから。
私が、……もしくは、歳相応の知識や力に満ち溢れた勇者だったのなら、彼の態度もまた違ったものだったのかもしれない。
しかしお姫様と王子様は本当に仲が良い。彼女がこんな場を用意したのもショールのお礼と言うよりは、頑なに私を厭う兄の事をフォローしておきたかったのだろう。
「立派な方なんですね。……出来るだけ王子と打ち解けられるように頑張ります」
私がそう言うとお姫様はほっとしたように微笑んで、それから昨年生まれたと言う末王子の話へと話題は移り、子供好きらしく、どこか興奮して話すお姫様の横顔を見つめて相槌を打った。
「遅くなったな」
そんな言葉と共に背の高い騎士を二人引き連れて現れたのは、二時間程経った頃だった。
「本当ですわお兄様。私三時からお客様がいらっしゃるのに」
時計を見てお姫様は可愛いらしく頬を膨らませる。
少しわざとらしいそれに、無言のまま二人のやりとりを見守る事にする。
「神子様は、もう少しいらして兄の休憩に付き合って差し上げて下さい。お兄様ったらほうっておくと休憩も取りませんのよ」
お姫様の言葉に王子を窺う。視線が合うと王子はふん、と顎を逸らした。騎士さんの一人が困った様に苦笑して頷く仕草を見せる。
「特に疲れてもいないのだから必要無い」
「まぁ」
上品に口元に手を当てお姫様が非難する様に視線を向ければ王子は、わざとらしい程のしかめ面でソファに乱暴に腰掛けた。ちょうどお姫様を挟んで真正面。きりきりと胃の痛みが強くなる。
「お兄様」
お姫様は子供の様に王子の首に巻き付いて何やら耳打ちする。「……分かってる」と酷く不機嫌に吐き捨てた王子に呆れた溜め息を落として、私に向かって綺麗にお辞儀し、次の約束を取り付けた。
侍女を連れ、部屋から退室し王子の分のお茶を淹れたサリーが、不安そうな視線を向けた。安心させるように小さく頷いて見せると、渋々と言った様に元の場所へと戻っていった。騎士さんも窓際と扉の前へと移動する。
「……最初に会った時の事だが」
「最初、ですか」
首を傾げて考える振りをする。……ああ、お姫様が耳打ちしたのはこれか。きっとあの時、私を気狂いと称した謝罪を促したのだろう。
「何でしょう? ここに来て二、三日は記憶が曖昧で」
不思議そうにそう尋ねてみれば、王子は明らかにほっとした様に肩の力を抜いた。そうか、と微かに息を吐いた王子をカップ越しに見つめて、薄く微笑む。
――謝らせてなんかあげない。
「王子、お忙しそうですね」
気まずい沈黙に、王子ではなく不安そうに見つめるサリーさんが可哀想になって話題を振る。
溺愛する妹姫の言葉があったせいか、王子は視線を逸らしたまま素直に口を開いた。
「まぁな。だが、任せて頂いてる執務はまだほんの一部だ。残りは全て自分で希望した事だから苦ではない」
「良い王であろうと努力されてるのですね」
妹姫の言葉を思い出し、そう評価する。努力を認められて、嫌な人間はいないだろう。
「第一王位継承者として当然の事だ」
憮然として言い放つ。そうですか、と頷いて私はテーブルの上にあったミルクを取った。せっかくの紅茶なのに、ごめんね、とお姫様に心の中で謝りながら、自分のカップに多めに注いで、王子を見た。いつの間にか視線はこっちに向けられていて目が合って、にっこり笑う。
「王子、ミルクを入れてみませんか。胃に優しくなりますよ」
「結構だ」
「美味しいのに」
ちらっと視線を上げて王子を見る。突然の馴れ馴れしい口調に少し面食らった様だけど、この前と違って眉を顰める事はなかった。
「王子って大変なんですね」
どうぞ、と甘さ控え目のお菓子を勧める。これは私が王女への手土産としてサリーさんに用意して貰ったものだ。
王子は、迷った様にお菓子と私に交互に視線をやった。
「……うまいな」
「でしょう?」
――『お腹空いてたらいい事なんて一つもないのよ。苛々するし、そうなると人の意見も素直に聞けなくなるし。そういう時は甘いものね。それからミルクたっぷりの紅茶かコーヒーがあったら最高、緊張を解してくれるから』
ふわりと優しい声が頭に響く。もう取り戻せない優しい声。引き寄せて吐き出す。
「このお菓子、ミルクを入れた紅茶の方が合うんです。付き合って試してくれませんか」
ふっくらとしたクッキーよりはパンに近い、フィナンシェっぽいお菓子。
再度尋ねれば、王子は「分かった」と、カップを差し出した。
ゆっくりとミルクを入れる手に視線を感じる。厳しいものじゃないけど訝しい感じの。
毒なんて入れてないよ、小さく笑って自分のカップに口を付ける。
「……ん、美味しいですよ?」
普段あまり食べない人なら、ストレートの紅茶より、こっちの方が胃の負担にならないだろう。
温かな湯気に王子の深い眉間の皺が解けていく。ゆっくりと口を付けるその仕草を私は見つめて微笑む。
「――少し、思う事もある」
掠れた呟きだった。多分部屋の隅にいる侍女さんにも護衛にも聞こえない。
「はい」
「……ギッシュ……弟が生まれた時に少しだけ――安堵した。もし私が王に相応しくなかったら……代わりが出来たのだと。しかしそんな弱さはふさわしくない」
いつでも自信満々に人の上に立てる人間なんていない。それすら分からないのは、父親――目標とすべき王が立派すぎて、遠い存在であるからか。
「完璧である必要はありません。……王子の周囲には、たくさんの方がいるでしょう」
神官長とも懇意にしている様子だった。妹姫もこうしてフォローに回る程心配している。それに護衛の人も。王子が幾度となくお菓子を摘む様子に表情が柔らかくなった。
「もし間違ったのならば、王子の今の努力を知る皆が助けてくれると思います」
――優しさにね、気付かないのは罪なんだよ。
「……そうか」
さっきの私みたいに王子は俯いて小さく呟いた。
「ええ」
とっておきの微笑みを浮かべて、それ以上は何も言わない。どう取るか、は、どう取りたいか、で決まる。
「そうだな」
初めて見た笑顔は、いつもより幼く見えて、お姉ちゃんの友達によく似ていた。