09.浅い眠り
かちかち時計の針の音が響く。
もうすっかり日は落ち梟の声すら聞こえなくなったと言うのに、一向に眠りは訪れてくれない。
少し高い枕の居心地が悪くて横を向いたら、自分の髪が引っ掛かって一旦頭を上げて髪を流した。白いシーツに広がる黒い髪はカーテンを二枚引いた暗い部屋に溶けるように馴染む。
――本当は、切るつもりだった、髪。
抗ガン剤の影響でお姉ちゃんの髪は抜けて、いつからかキャスケット帽をかぶり始めた。柔らかなベージュ色の耳のところにコサージュがついたシンディからのプレゼント。内面から滲み出る美しさが損なわれる事はなかったし、本人も飄々としていたけれど、――息が詰まって目を逸らしてしまう様な気まずさがあった。
温かい春の日に車椅子を引きながら、風に靡く自分の髪が、『これ見よがし』に見えて、何だかいたたまれなくなった。
明日朝美容院に行こう。
特にこだわりもないし、気分転換になるかもしれない。
『奈菜』
ぼんやりとどの店に行こうかと考えていたら不意に名前を呼ばれた。
見下ろした細い鍔のその下の瞳は同じ色なのに、吸い込まれる様な深さがあった。
『駄目よ』
『え』
『私まだ美容師になる夢諦めた訳じゃないんだから、切らないで』
『なんで? ……いやもう夏だし、さ』
見透かされた様で、居心地悪く呟いた。
『駄目だって、ほら練習台いないと』
『……練習台?』
『そ、練習台』
にーっと猫みたいに目を細めて、白い指先を二本立たせて、切る仕草をした。
落ちた影が、風に靡くあたしの髪を切る。
『ひどいよ』
『ふふっ身内の方が気が楽よね~』
コロコロ笑うお姉ちゃんの声が、遠ざかっていく。
あれは最初に入院した時だっただろうか。
――ねぇこんなに伸びたよ。お姉ちゃん。
のそりと起き上がって、瞼を擦り、溜め息をついて寝台から抜け出した。
ひやりとした床の冷たさが、ぼんやりとしていた頭を覚醒させていく。
扉を開いてカーテンから漏れる赤い光を頼りに暗い応接間に足を踏み入れた。長い影を踏んで、ソファに乗り込み、その隅に収まる。膝を抱えてうずくまって冷たい膝に頬を付けた。
静か、だ。
追い掛ける様な時計の音は、もう聞こえない。
「――神子様、どうかなさいましたか」
小さなノックの音と共に低い声が扉越しに掛けられて心臓が跳ね上がった。
びっくりした……。
悲鳴を上げなかった自分を誉めてやりたい。
しかし彼は、こんな時間まで護衛をしていたらしい。とっくに交代したと思っていたけれど、彼も大変だな、と思った。
「サダリさん?」
呼びかけてみれば、少し躊躇う様な間の後「お休みにならないのですか」と、さっきより幾分大きな声で問い掛けられた。裸足だし、扉もなるべく音を立てない様に開けたつもりだったけれど、どうやらこちらの行動は筒抜けらしい。
やはり剣を扱う人間は小説や映画の様に、気配を読む事に長けているのだろうか。
腰に穿いていた剣を思い出して苦笑する。あの中にあるのは本物の刃、メッキで加工されたものではない。もし見る事ができたら少しは現実感が出るだろうか。
返事はせずに、ソファから下りて扉へと向かう。
そうっと扉を開けば、微かに眉を顰めて私を見下ろすサダリさんと目が合う。やはり気配で分かるらしく驚いた様子はなかった。……つまんないなぁ。
「遅くまでお疲れ様です」
おどけて手をまっすぐ額に当てる。向こうの世界ではお馴染みの敬礼のポーズだったけど、彼にその仕草の意味が分かる筈もなく、サダリさんは静かな瞳で私を見下ろしたまま、ゆっくりと口を開いた。
「仕事ですから。眠れないのでしたら侍女をお呼び致しましょうか」
「サリーさんを? どうしてですか」
夜中ですよ? と問い返せば、サダリさんさんは少し考える様な間を置いて答えた。
「温かいものでもお飲みになれば眠れるでしょう」
夜中だ。眠れないからと言って、他人を起こしてお茶を淹れさせるなんて、自分の常識ではありえない。
「大丈夫ですよ。サダリさんは随分遅くまで起きてるんですね。休憩はいつ入るんですか? さすがに交代制ですよね」
「仮眠の間は代わります」
必要最低限の言葉で答える。
どうやら自分と会話をする気はないらしい。
「いつですか」
「神子様が朝食を終えた辺りです」
「いつ戻るんですか」
「昼食の前には」
「それだけしか休まないんですか」
「護衛ですから」
「……サダリさんは、昔から騎士になりたかったんですか」
笑みを深めて唐突に話題を変える。
サダリさんは軽く目を瞬かせて、きゅっと眉を寄せた。
「……神子様」
「はい」
「どうして質問ばかりするのです」
「質問して答えたら会話してる事になるでしょう」
「もうお休み下さい」
「だって眠れないんです」
少し俯いてそう呟くと、しばらくの沈黙の後、小さな溜め息が落ちて来た。
「……もう暫くしたらお休み下さい」
しゃちほこばった許諾。
ありがとう、と微笑んで、質問を差し障りのないものに変えてみる。さっきの質問は今の二人の関係では出しゃばり過ぎていたから。
「じゃ、サダリさん年齢は?」
「二十三になります」
思わずまじまじと見つめて無言になってしまった。体格の良い少し強面のサダリさんは、かちりとした騎士の制服がよく似合っていて風格がある。いや、ありすぎたと言うべきか。……正直に言ってしまえば三十くらいだと思っていた。
「……なんですか」
沈黙に耐えかねたサダリさんは厳めしい顔のままそう呟いた。慌てて首を振って、そのまま扉を閉めそうな腕を掴む。
「いえ……えーっと貫禄があるので」
「……年相応には見られる事はあまりありませんので、お気遣いなく」
少しだけ逸らした目がきゅうっと眇められる。拗ねた様に見えるのは気のせいだろうか。存外可愛らしい。
『ナナカ』なら頷いて共感するだろう、でも『イチカ』ならばきっと。
「いいじゃないですか。私年齢の割に幼いって言われ続けてたんですよ。バーとかクラブ……お酒飲むトコじゃ門前払いですよ。証明書見せても店の雰囲気にそぐわないから、って入れてくれないんだから」
これは実際にあった出来事で。
その隣であたしはフリーパスで入場し、お姉ちゃんは恨めしそうにそれを見送りスタッフに噛み付いていた。すぐに回れ右したが、お姉ちゃんは酔っ払うとよくその話をしては心底悔しそうにくだを巻く。
あの時の『イチカ』の様にほっぺたを膨らませれば、ふっと空気が和らぐ。ちらりと顔を上げれば、サダリさんは微かに口の端を吊り上げて笑っていた。
ずっと無表情だった彼を笑わせた事に、自然に笑顔が生まれた。嬉しい――と、思って、ぎくりとする。
――は、
さっき、暗闇の中で突然、声を掛けられた時よりも格段に跳ねた心臓に、きゅっと拳を握り締めて自分に言い聞かせた。
……違う、合ってる。嬉しい。大丈夫。だって、仲良くならなきゃいけないの。だから。
「あ、じゃあ私幾つに見えますか」
「……私には分かりかねます」
お昼もついて来てたのだから、王女との会話は筒抜けだろうに。護衛だがプライベートな会話は聞いていない振りをするのが、彼らの常識なのだろうか。
「二十二なんです。一つ違いですね」
しつこく聞いてみたい気分だったけれど、年齢の話は長くなるとぼろが出る可能性もある。
お姫様同様特に引っ掛かった様子もなく、そうですか、と頷いたサダリさんは私越しに部屋の窓を見て静かに口を開いた。
「もう夜が明けます。そろそろお休み下さい。まだ身体も本調子ではないはずです」
……もう少し会話したかったのに。
ゴネてしまいたくなる気持ちを抑えて、サダリさんを見上げれば、廊下の薄明かりのせいか、顔色があまりよくない様に見えた。
「私よりサダリさんの方が疲れて見えますよ?」
護衛と言う仕事上、ずっと立ちっぱなしなのだろう。食事を取っていたかどうかも気配に疎い自分は分からないが、恐らくあったとしても短い時間で詰め込んだんだろう。
ふわり、と指を持ち上げる。長い裾が落ちて日焼けのない腕は白を通り越して青白い。ああ、お姉ちゃんもこんな手をしていた。
思っていたよりも温かい頬に触れる。新しい引っ掻き傷――昼間のものだろうか、それと古い傷痕が幾つもあった。
きらきら、と暗いせいで指先から零れた光が輝く。その光が頬に届く前に逆に腕を掴まれた。
「……私如きに貴重なお力を使うのはおやめ下さい」
微かに困惑が入り混じった声音。
握り締められた手から光の粒子がサダリさんの手に移る。気持ち悪い、とは思われていない事にほっとした。 だって。
「私の力なら、使い道は私に決めさせて」
私の力を誰よりも疎んじていいのは、私だから。
本音を押し隠して、指先に力を込める。光は帯状になって傷口を包んだ。
「……もうお休み下さい」
今度こそ分かりやすく苦い口調になったサダリさんは、そう繰り返す。私はそっと身体を引いた。
「ありがとう、サダリさん」
返事は聞かずに扉を閉めて、私は寝台に入った。能力を使った事で生まれた倦怠感が、私を浅い眠りへと誘った。




