08.鐘音
白く薄く流れる雲が分けたような青い濃淡の空、日差しは春を思わせる暖かさだった。
この世界に四季はあるのだろうか、と高い空を見上げてから、カップにそっと口を付けた。
午後を少し過ぎて、朝から神殿から差し入れらた本を読みふけっていた私に、サリーさんが気遣って庭園でお茶でもどうですか、と声を掛けてくれた。とりあえず体力回復の為に今は休養を、と言う事らしく、儀式で奉納する舞いに関しては、体調が戻ってから神殿に赴き練習を、と神官長が部屋に来て説明してくれた。
神官長本人は神殿に戻るらしく、側にいられない事を丁寧に謝罪し部屋を出ていった。国教となる程の大きな宗教の頂点に立つ人なのだから忙しいのだろうし、彼とは舞の練習で嫌でも顔を合わせる事になるから、今引き留める理由はない。
与えられた部屋の応接間から張り出した日除けのあるテラスの向こうにはよく手入れされ花々が、計算されたように整然とした配置で並んでいて、綺麗だけどどこか寂しく思えた。
……体調はあまり良くない。けれど顔色の悪さは綺麗にサリーさんがお化粧で隠してくれた。身に付けているドレスも映画にでも出てくる様な裾を引き摺る凝ったもので、緩めに締められていると言うのに慣れないコルセットは座っていると息が詰まる。
「イチカ様、こちらは如何ですか」
飴色のテーブルに並んだタルトを視線で差し、サリーさんは皿を運ぶ。
「大丈夫、さっき食べたからお腹いっぱい。お茶のおかわりを貰っていい?」
笑ってお腹をさすってみせる。花同様綺麗に並べられたたくさんのお菓子は、どれも可愛いらしく一口で食べられるように小さく作られていた。
「これ余ったらどうするんですか?」
ふと気になって尋ねてみれば、すぐに「廃棄します」と返って来て少し驚く。
バターや卵をふんだんに使ったのが分かるお菓子なのに、随分贅沢な事だ。
「じゃあ、他にも女官さんたくさんいるでしょう。持って帰ってその人達と食べてくれますか?」
「しかし」
「せっかく作って貰ったのに捨てるのはコックに悪いわ。誰かから何か言われたら私に食べるように言われたって言って下さいね」
それでもまだ渋る様なサリーさんだったけれど、押しつけて近づけた香ばしいバターの香りに綻ばせた所を見る限り、好きなのだと思う。
「サリーは甘いの苦手ですか?」
「いえ……では、有り難く頂きます」
躊躇うような長い間の後、こくんと頷いたサリーさんに、良かった、と笑ったその時、俄かに茂みの向こうが騒がしくなった。
ざ、と茂みが動く不穏な音。上げた視線の端の緑の中に一瞬藍色が見えた。今朝方見たばかりの色合い。
護衛になると言っていた騎士――サダリさんだろう。
ああそう言えば護衛だもんね。四六時中くっついてるか。
あはは、すごいどこのVIPだ。
心の中で笑って目を凝らす。さて鬼が出るか蛇が出るか。結局のところ本当の目的を知らない人間が、実質ただの小娘である『神子』をどう思っているか、私は知らないのだ。
「神子様!」
草を踏みしめる音と共に、少し離れた場所で声が上がる。
声の主は振り向かずとも分かった。一度聞けば耳に残る鈴を転がした様な愛らしい声。ああ、随分可愛らしいものが出てきてしまったようだ。
けれど予想はしていなかった人物の登場に、さてどうするか、と迷ってサリーさんを伺えば困惑した様な表情を浮かべていた。
身分差故に騎士様は抑え切れなかったのか、程なくして現れたのは、緋色の髪を靡かせたお姫様だった。淡い水色のふわりとしたドレスに縫い込まれた銀糸が日差しに反射して眩しい。
「神子様、失礼をお許し下さい。昨日もお会いしましたが……私、この国の第一王女でアマリと申します」
息を弾ませながら、ドレスの裾を掴んで挨拶する。そのお人形の様な可愛いらしい仕草に、苦笑して立ち上がった。昨日と言い今日と言い、随分とお転婆なお姫様だ。昨日の様子を考えれば、兄王子が私に会う事を許可する訳が無い。昨日と同じ様に周囲にいるであろう侍女の目を振り切ってここまでやって来たのだろう。
「イチカです。アマリ様」
微笑んで倣う様に同じ様に礼を返すと、お姫様は目を瞬いた後、嬉しそうに綻ばせた。ふんわりとしたその微笑みは本当に花みたいだ。確かに多少の我侭なら可愛いと思える愛らしさがある。
「私神子様に会えるのを楽しみにしていましたのに、お父様がお許し下さらないのです!」
笑顔の私に受け入れられたと思ったのだろう。
少し砕けた態度で悪気無く吐き出された言葉に、納得する。こうして改めて見れば年齢も近い。いつか死ぬ神子に情なんて移せば、お姫様が可哀想だとでも思ったのか。……ああ、本当に馬鹿馬鹿しい。
「わざわざ来てくれたんですね。ありがとうございます」
お姫様の頬が、ふわりと赤く染まる。
来てしまっては仕方ないだろう。相手は一国の王女だ。むしろここで追い出す方が失礼にあたるだろう。サリーさんに、カップの用意をして貰うついでにお姫様の侍女を呼んで来る様にお願いして、席を勧めた。
立ち話もする理由もないし、なによりこの前同様お姫様の目は好奇心に輝いている。
問われるままに元の世界の、彼女に取っての異世界について答える。もう二度と戻れない元の世界の記憶の欠片が胸に刺さって――痛い。お姫様は純粋で無知、だからこそ残酷だ。
良い機会なので、さり気なく話題を切り替えて、一番警戒心が低いであろう彼女にこの世界や国の事を聞いてみれば、ここはさすがお姫様と言うべきか、思っていた以上に分かりやすい説明をしてくれた。
この世界に大陸は四つ、存在する国も四つ。ここまではサリーさんに聞いていた。海峡がそれぞれ国境となり、小さないざこざはあっても大きな戦はなく概ね平和。その中で最も面積が広く農業、鉱業共にさかんで国力があるのが、私を召喚したこの国ブラン。年に一度行われる四国会議でも、一番発言力が強いらしい。
神子を召喚出来るのも大きいのかな、と考えて、また戻った元の世界の話題に苦笑して適当に相槌を打つ。
科学も召喚術以外の魔法も無いこの世界で、私の世界はさぞ便利で神の国にも近いだろう。その裏側に隠された貧困や格差社会には敢えて触れなかった。夢見がちなお姫様に聞かせる話でもないだろう。
「あの……神子様はおいくつなのかしら」
ふと話題が途切れ、お姫様は少しだけ窺うような視線を見せた。
「いくつに見えます?」
悪戯っぽく笑ってそう問い掛けて見る。
「……二十歳は超えていらっしゃる、と思うのですけれど」
「二十二なんです。私の国の人間は向こうでも幼く見えるんですよ」
保険を掛けてそう申告する。それ程違和感は無かったらしくお姫様は、納得した様に頷いた。
「……アマリ様はお幾つですか?」
「十四歳です」
少し照れたようにはにかんだお姫様。
『ナナカ』と同じ年齢だった事に驚いた。立ち居振る舞いからもう少し幼い気がしていたから。
――決めた、三人目。
薄く微笑んだ私に、お姫様は赤く染まった頬を華奢な手で押さえて、小さく吐息を吐き出した。
「ではお姉様ですわね。私、前から憧れておりましたの。お兄様はいちいち口出し……」
「アマリ!」
頬を膨らませたお姫様の声を遮ったのは、たった今話題に出て来た『お兄様』だ。
「ここに来る事は禁じられていたはずだ」
お姫様付きであろうすっかり顔色をなくした侍女を伴い、駆け込んでくる。
前に見た時は暗くてよく分からなかったけど、お姫様より緋色の髪は鮮やかだった。――この世界の月の様に。
――王子、だ。
『気狂いか』
『――人一人の命など軽くて比べようも無いだろう』
頭の中で、酷く冷たい声が反響する。
――最後の一人。
かち、と頭の中でなにかが嵌って動き出す音がした。動き出す歯車、そこから繋がる細い糸の先にあるのは葬送の鐘。送り出すのは『一華』でもあり、『奈菜香』かもしれない。
現れた王子は、こちらに視線を向ける事無く、乱暴に嫌がる姫様の腕を取りすぐに歩き出す。
私はゆっくりと立ち上がって声を掛けた。
「王子」
ゆっくりと振り向いた王子の目がようやく私に止まり、戸惑った様に一度大きく見開かれる。その動きに、苦笑して、言葉を続けた。
「先日は失礼致しました」
三日間眠り続け目覚めたばかりだった私は、さぞかしみっともない姿を晒していたのだろう。髪を振り乱して神官長に詰め寄っていた私は彼の言うとおり、狂人めいていたかもしれない。
今の姿はサリーさんが施してくれた化粧でそれなりに体裁は整っている。
お姫様は緩んだらしい王子の腕から抜け出し、侍女の後ろに隠れて顔だけを覗かせた。そうしていると小柄なお姫様は本当に小さな子供そのものだ。
「いや……こちらこそ」
ぶっきらぼうながらも、王子は謝罪に近い言葉を口にして改めて私を見る。その軟化した意外な態度に少し驚いた。彼の第一印象は最悪だ。もっと傲慢で傍若無人だと思っていた。
――あの時は機嫌でも悪かったのか、なんて考えようとして打ち消す。理由なんてあってもなくても無駄な事。彼の真実はどれだけ取り繕ってもあの言葉だ。
ふと、妹姫に良く似た綺麗な顔に幾つか擦り傷が入っているのに気付く。視線を置いて首を傾げて見せた。
「それ、大丈夫ですか」
「……ああ、先程引っ掛けたらしいな」
一言目とは違うわざと使ったぞんざいな言葉遣いに、王子は少しむっとした様に眉を顰めたが素直に答えた。
結局の所王子は、どれだけ私を苛立たしく思っても危害を加える事は出来ないだろう。大事な『神子』様だ。不機嫌を隠さないまでも、素直に答えるのがいい証拠である。前も神官長は彼を諌めていた。
――見目麗しい王子様。妹姫への態度から察するに、面倒見は悪くない。真面目な性格で――多分頑固だ。誇り高さの裏側に潜むのは孤独感。第一王子ならばその責務も重圧も相当だろう。不機嫌さを隠し切れないのは彼の若さであり――弱さだ。
王子は私から傷を隠すように手の平で頬を覆った。指の先が当たったらしく微かに眉を顰める。
テラスが見えない様に花の向こうはぐるりと背の低い木で覆われている。王子はそこを掻き分ける様にしてやってきた事を考えれば枝にでも引っ掛けたのだろう。お姫様が無傷なのはきっと身長差のせい。
「王子、少し失礼しても?」
返事を待たずに、傷を見る為に手を伸ばす。赤くなった部分をさらり、と撫でると、小指が耳朶を掠めた。
「大した事ではない!」
狼狽えた様に身体を離した王子にまた驚く。随分子供っぽい、いや初々しい反応だと思う。思っていたよりも幼いのだろうか。けれどお姫様の兄なのだから確実に自分よりは年上なのだなら躊躇なんてない。
「少しだけ、我慢して下さいね」
離れた分一歩詰めて顔を覗き込む。整えられた前髪が、一筋流れて落ちた。
指一本分離れた指先から、金色の粒子が溢れ出して王子に向かう。
「なんだ……?」
斜めに走った傷を覆ったと同時に粒子は細かく弾け飛んで消えていった。後に現れたのは傷一つ無い白い肌だ。他人に使うのは初めてだったが、成功して良かった。
王子はようやく理解した様に、頬に触れて目を瞬かせる。
「これが神子の力か、……凄いな」
ひとしきり撫でて感心したように呟いた。
ああ、やはりこれがそうなのか。
明け方なかなか訪れない眠りを諦めて、ふと「特殊な能力を持つ」という神官長の言葉を思い出して何が出来るのかと試してみた。
指先に意識を集中させれば、白く発光しそれを腕に当てれば、うっすらと残っていた腕の注射痕は跡形も無く消え失せた。テーブルの夜露に少し萎れていた花も、ぐい、と頭を上げて鮮やかな色を取り戻していた。
身の内の変化、普通の人間には持ち得ないものに恐怖よりも悔しさを感じた。
特殊な力が癒やしなんて皮肉な話だ。一番治したかった人はもうこの世にいないのに。
神様がいるのなら相当意地が悪い。
不意に強い風が吹いてスカートの裾と髪を靡かせた。王子に当たらない様に手を離して身体を引けば、感心した様に王子が溜め息をついて呟いた。
「綺麗な髪だな」
少し癖のある黒髪。
お姉ちゃんみたいな女の子らしいサラサラの髪になりたくて、頑張って伸ばしていた。
「魔女みたいですか?」
くす、と笑って小首を傾げる。黒と言う色にはやはり悪いイメージが付くのだろうか。
「馬鹿な。他国ではどうかしらんが、艶やかな黒髪は豊穣の神と同じだ。そのような不吉なものでは無い」
王子は心外だ、とでも言う様に眉をひそませて強い口調で否定する。
「そうなんですか」
また強い風が吹く。日が落ちるのが近付いたせいか、雨でも降るのか少し冷たい空気を含んでいた。
お姉ちゃんがいつもしてくれたみたいに、椅子に掛けていたショールをお姫様の肩に掛けてやる。ふわっと嬉しそうな笑みを零してお姫様はお礼を言った。見た目だけでなく仕草まで甘い砂糖菓子のようだ。奈菜香とは正反対で、お姉ちゃんとも違う。
「冷たい風が吹いて来ましたね。……王様も心配するでしょうから、戻りましょうか」
「あの……お部屋に訪ねても構いませんか。ショールのお礼に何かお返し致します」
お返しも何も、王宮から用意されたもので私のものでは無い。いや、この世界に私のものなんて何一つないのかもしれない。身体すらこの国の所有物なのだから。
苦笑すれば、王子が諌めるような声でお姫様の名前を呼んだ。
びくりと肩を竦めたお姫様は今にも零れ落ちそうな潤んだ瞳で私を見る。
「喜んで、と言いたい所ですが……王が私に会う事を許可されていないのでしょう? 私のような得体の知れない人間に近付けたくない親心も分かりますから」
やんわりと断ってみせれば、小さく唇を噛み締める。
本当に素直で可愛らしいお姫様。
「……分かりましたわ。お父様の許可を頂いたら許して下さいますか」
零れ落ちた涙を手にしていたハンカチで拭ってあげれば、お姫様は俯いたままそう呟いた。
「勿論、歓迎致します。この世界に知り合いが増えるのは嬉しいんです」
そう返すと、お姫様はぱっと表情を輝かせて「必ず」と頷いた。侍女さんに連れられ何度もこちらを振り返るので、その度に手を振った。その背中が消えた頃、王子がちらりと私を見たので、笑顔を返す。
そして少し歩み寄って囁きを落とした。
「王様に許可を頂けなかったら、きっとがっかりされるでしょう。そうなったら慰めて差し上げて下さいね。お願いします」
「……お前に言われなくても分かっている」
ムッとした様に王子はそう言って踵を返す。
「王子」
「なんだ」
「偶然でしたが、お会い出来て嬉しかったです」
そう伝えれば王子は動揺したように足を止めた。
第一印象は最悪だ、多分お互いに。だからこそ思いがけない言葉だったのだろう。
「謝りたかったですから」
にっこりと笑ってそう言えば、王子は瞬時に顔を真っ赤にさせて怒鳴った。
「私はもう行く!」
「はい。行ってらっしゃいませ」
少しおかしいかな、と思いながらもそう言って送り出した。
鐘の音は鳴り止まない。
恐らくは、最後の瞬間まで。




