22 魔境序列・第三位、『傾天の幼麗』エストヴァイエッタ
大地が震えている。
大気が怖れている。
「ハァ……ハァ……ハァー……」
その呼吸に。
その脈動に。
その興奮に。
その存在に。
「クロ・クロイツァー……」
想い人の名を呼ぶ。
小さい声で。
しかしどこまでも透き通った声で、魔境の果てより愛をこめて。
「ふっ……くくくくく」
口端を華麗に歪め、彼女――エストヴァイエッタは笑う。
その一笑のひとつひとつが、破滅的に彩られている。
ガケの上に浮いている彼女の周囲では、無数の岩が重力を無視して浮き上がっている。
クロが『海のようだ』と称した彼女の膨大極まるエーテル。
それが空間自体に圧力をかけ様々な異常現象を引き起こしているのだ。
エストヴァイエッタはあまりにも強い。
そこにいるだけで世界に多大な影響を与えるほどに。
それが、
魔境序列・第三位、『傾天の幼麗』エストヴァイエッタである。
「ああ……待ちきれぬ。早く、早く会いたい……」
自らの体を抱きしめて、熱い想いを堪えている様子。
それでも溢れ出てくるエーテルは脈動を放ち、その度に、彼女が身に纏っている羽衣が揺れている。
どくん、どくん、と鈍く重い音で溢れるエーテルはもはや暴風の如く。
それが引き起こす破壊によって、周囲の風景が次から次へと変わっていく。
「ハァー……ハァー……」
麗しい顔を赤らめて、額から汗を流し、銀河色の髪が頬に張り付いている。
白く艶めかしいふとももを摺り合わせ、体をくの字に折る。
自分を抑えるかのように自らを抱きしめる手の力が強くなる。
小さいエストヴァイエッタの体躯が更に縮こまっていく。
「キサマを想うと体が熱い……胸が苦しい……」
薔薇色の朱眼はかつての光景を眺めている。
いつも思い出すのは千年前。
彼と出逢い闘ったあの日のことだ。
「キサマの胸に穴を穿ち……その心の臓を握りつぶしたい。キサマの唇を、余の唇で塞ぎ……その舌を噛み千切り、流れ出る血を飲み干したい。キサマの全身の骨を砕くほどに、その体を抱きしめてやりたい……」
これは間違いなく愛情である。
エストヴァイエッタなりの恋慕である。
物騒なことを言っているが、好きな人を自分のものにしたいという乙女心である。
ただ、その方法や考え方があまりにも魔物的なだけだ。
しかし、彼女に想われる者は幸せ者だろう。
何しろ彼女は美しい。
この世のどんな景色よりも、どんな絵画よりも、宝石よりも、天秤の対にもならないほどに、エストヴァイエッタは麗しい。
彼女に触れてもらうために、これまでどれほどの命が流れただろう。
彼女にひと目見てもらうために、いくつもの命が散っていったことだろう。
エストヴァイエッタの美しさは生命を狂わせるほど、常軌を逸している。
その彼女が、ひとりの人間に恋をしたのだ。
エストヴァイエッタの愛情を一身に受ける存在。
それが、クロ・クロイツァーである。
「ハァ……ハァ……」
クロを想うあまり、極度の興奮状態にあるエストヴァイエッタ。
彼女の傍には誰もいなかった。
なぜなら、たとえ特級の魔物だったとしても一瞬で絶命するほどのエーテルが、暴虐的にこの場で荒れ狂っているからだ。
「……エスト」
しかし、そんな絶命必至の危険な場所にやって来た者がいた。
その姿は人に近い。
エストヴァイエッタとは別のベクトルの、容姿端麗な女性だ。
その見た目からの年の頃は、17か18ほどの少女だろうか。
『魔人種』の原型であるエストヴァイエッタよりは幾らか年上といった印象だ。
黒を基調とした赤の装飾が目立つドレスを身に纏っていて、まるでどこかのお嬢さまのようだった。
艶やかで真っ白な髪が腰まで伸びている。
頭には狐のような大きな耳がついている。
最も目につくのはしっぽだ。
ドレスは背中から腰まで開いていて、いくつもの尾がそこから伸びている。
その手はふわりとした白毛で覆われており、爪が凶悪に伸びている。
瞳の色は左右で違い、左眼は朱眼で、右眼は金眼のオッドアイ。
人の中でも獣人が最も近しい風貌だった。
「――『名無し』か、何をしに来た?」
エストヴァイエッタが少女を視認して、言った。
「……魔境、壊れる。エスト、落ち着く」
たどたどしい口調でエストヴァイエッタをたしなめる少女。
姿勢良く真っ直ぐ立つその姿は、何者にも媚びない凜々しさを身に纏っている。
「魔境がどうなろうがどうでもよい。いちいちキサマに言われる筋合いはない。それとも何か、キサマが余を宥めるのか?」
「……いいよ」
こくり、と頷く少女。
エストヴァイエッタと対等に接し、今でも暴虐のエーテルが周囲を破壊し続けているのに、平然とその場に立つ彼女。
当然、尋常な者ではない。
『名無し』と呼ばれたファーリーに近しい彼女こそは『最古の六体』。
獣種の魔物の原型。
魔境序列・第六位、『呑天の狂獣』。
彼女に名前は無い。
故に『名無し』と呼ばれている。
「……はい、これで、どう?」
エストヴァイエッタに近づく名無し。
そのいくつも生えたしっぽでエストヴァイエッタを包み込む。
「……ふむ」
ふんわりとした毛並のしっぽは、ひとつひとつが大きく、まるでベッドかソファのようにエストヴァイエッタを接待する。
そのしっぽは柔らかくふわふわで、極上の肌触り。
エストヴァイエッタの興奮は、ものの数秒で落ち着いていた。
「やはり、キサマの尾は良い」
ご機嫌な様子で目を細めるエストヴァイエッタ。
もふもふに重なり合った大きなしっぽ、その上に寝転んだ。
「む……? キサマ、尾が8本しかないではないか。
残り1本はどこにいった?」
「え?」
無表情の名無しが自分のしっぽを数える。
「ホントだ。わたちのしっぽ、1本、ない」
「まさかキサマ、今の今まで気づかなかったのか? 呆れたやつだ……」
「どこか、いったのかも」
「いつからだ?」
「さぁ?」
名無しが首を傾げる。
「ま、いっか」
自分のしっぽが無くなっていることに驚いた様子もない。
普通、動物であればしっぽが千切れてしまうのはある意味で死活問題だ。
体幹が保てなくなり、歩くのに難儀することだってある。
だが名無しは特に気にしたような素振りは見せない。
「エスト、落ち着いた?」
「ふん……キサマの尾に免じて、此度は気を抑えてやろう」
エストヴァイエッタはしっぽの上でゴロゴロしている。
まるで絨毯に寝転ぶ小犬か小猫のよう。
「ふふ」
無表情を少し崩して微笑む名無し。
そんな時だった。
遠くの地平で、とてつもない轟音が鳴り響いたのは。
「チッ……やかましい」
しっぽに寝転んでいたエストヴァイエッタが、手の平をその轟音の方向へ向けた。
尋常ならざる量のエーテルがその手に集まっていく。
圧縮されていくそれは、明らかにおぞましいほどの破壊力を秘めている。
これが放たれれば、目に映る視界全てが惨状に変わるのは間違いない。
しかし、
「何のマネだ」
それを阻止するように、余っていた名無しのしっぽが邪魔をする。
「ダメ。怖くて、怯えて、隠れてた。
エスト、落ち着いた。だから、離れてる。殺す、可哀想」
名無しの言うように、遠くの地平の果ての果て。
そこにあった巨大な山脈が、ゆっくりと動いている。
まるでエストヴァイエッタから、あるいは名無しから、逃げるかのように。
「殺しはせぬ。アレはキサマのペットだからな。というより、この程度の攻撃ではアレは死なぬであろうが」
「でも、ダメ。もっともふもふ、していい、から」
言われて、エストヴァイエッタは手の平に圧縮された莫大なエーテルを握りつぶした。
「……ふん。長い付き合いなだけはあるな。余の機嫌を取る術を心得ておるわ」
そうして、エストヴァイエッタは再び名無しのしっぽの上で寝転んだ。
「余は寝るぞ」
「おやすみ、エスト」
掛け布団のように、エストヴァイエッタにしっぽを乗せる。
ふわふわの雲のような肌心地に包まれる。
「…………すぅ、すぅ……」
エストヴァイエッタはどうやら眠ったようで、小さな寝息をたてている。
名無しは地平の果ての山脈を見て、
「もう、大丈夫。行って、いい」
平坦な声で、そう言った。
それに呼応するかのように、巨大な山脈にしか見えないその生き物がどこかへ去って行く。
見えなくなるまで見届けて、名無しはその場に座り込んだ。
その巨大すぎる生物は、名無しが可愛がっているペットである。
かつて人類に猛威を振るった星を喰らう怪物。
その生物の名は、
「またね、ベヒモス」
水竜ヴォルトガノフの後継。
魔境序列・第七位、『陸の神獣』ベヒモス。
魔境の序列は何も魔物だけの話ではない。
この魔境に住まう者全てにあてはまる。
500年前。
長い時を経て冬眠から覚めたベヒモスが、ヴォルトガノフがレリティアに住んだことで空席になった第七位の椅子に座るのは、至極当然のことであった。
特級の魔物よりも強く、『最古の六体』には及ばない。
すなわち、『最古の六体』を除いた魔境アトラリアの中で最強の生物こそが、この巨大生物ベヒモスである。
強い者に服従するのは生物の根幹であり、本能である。
例え神獣であったとしても、その自然界の法則からは逃れられない。
星を喰らう『神獣』でさえ『最古の六体』の前座。
魔境アトラリアはその名のとおり、人智及ばぬ魔境なのである。




