5 うんと悪いコに育ててね?
「これは美味い。素晴らしい」
『最古の魔物』エストヴァイエッタが満足そうに舌鼓をうった。
絶品の菓子を口に運び、小綺麗なカップに入った極上の紅茶で喉を潤す。
「うふふ。それはよかったわ」
マザーと呼ばれる、魔境アトラリア唯一の人間が言った。
マザーはベッドに座っており、じっとエストヴァイエッタの姿を眺めている。
その優しげな微笑みは、さながら孫を可愛がる老婆そのものだ。
ベッドの傍には見舞い用の机と椅子が置いてあり、エストヴァイエッタはそこに座って茶菓子のもてなしを楽しんでいる。
「うんうん~! おいしいね~!」
『第二世代の魔物』エルトリンデも同じく、エストヴァイエッタの隣の椅子に座って菓子を頬張っている。
その姿はまさしく幼女そのもので、ほっぺたに菓子の食べかすをつけている。
「なんでエルトリンデまで食べてるのよ……」
エルトリンデと同じ『第二世代の魔物』であるジークリンデ。
彼女は文句を言いながら、エルトリンデのほっぺたについた食べかすをハンカチで拭いてあげている。
「ジークリンデ、あなたも一緒に食べたらいいのに」
マザーが言うが、ジークリンデはゆっくり首を振る。
「私はマザーの従者だから、客人の前でそんなことはできないわ」
「そのワリには余に無礼を働くではないか」
「エストヴァイエッタ、うるさい!」
ふたりのいつものやり取りを見て「うふふ」と笑いながら、マザーは部屋の隅にいる人物にも声をかける。
「セヴァスちゃん、あなたも一緒にどうかしら。みんなで食べたら楽しいわよ」
「申しわけありません。私めは、どうも甘いものは苦手でして……」
背筋を伸ばし、真っ直ぐに屹立しているセヴァスがすまなさそうに答えた。
「うふふ。なら、私と同じなのね。と言っても、私の場合は、歳を取ったから、だけれど」
マザーが部屋を見渡す。
「あなたたちが羨ましいわ。70年前に、ここに連れて来てくれた時からずっと変わらない。私も、魔物に生まれたかったわ。あなたたちとずっと、一緒にいたかった」
「……マザーよ」
エストヴァイエッタが話しかける。
「それで、そなたは後どのくらい生きる?」
「エストヴァイエッタ! 失礼よ!」
ジークリンデが声を荒らげる。
それがあまりにも配慮の欠けた言葉だったからだ。
「いや、大事なことだ」
「う……」
エストヴァイエッタが声を低くして言い、ジークリンデがたじろぐ。
「ジークちゃん、ありがとう。でも気にしないで、それは本当に大事なことだからね」
「マザー……」
マザーはひとつ息を吸って、言う。
「ジークちゃんの見立てでは、私の寿命はよっぽど頑張って生きて後1年、といったところね」
ジークリンデはマザーの世話係りである。
食事から何から、主にマザーの健康に関わるものが主軸になっている。
彼女は幼い見た目に反して高度な医療技術も持っており、マザーの寿命を把握していた。
「ふむ」
「今度は私に聞かせて。エストちゃんが久しぶりにここに来たということは、見つかったの?」
「うむ。そなたの後継……詩編を継ぐ者のアテはついた」
それはつまり、人類を滅ぼそうとする人間がいるということだ。
エストヴァイエッタはそれを見つけたと言ったのだ。
「ああ……よかった」
マザーは感極まって、声を漏らした。
「良い機会ね。今までずっと我慢してきたけど、これでやっと……私も『初代』に報いられる」
マザーは懐に入れていたグリモア詩編を取り出す。
「とうとう産むのか?」
「ええ。正直、体の限界が近いの。残りの寿命1年というのも、安静にしてやっとというところ」
グリモア詩編の紙を優しく撫でるマザー。
そこには、ただならぬ決意を秘めているのが見てとれる。
「私はこれまで一度も魔物を産んでいない。もしこれを産まずに何かの拍子に死んでしまったら、悔やんでも悔やみきれないわ」
「マザー……」
「そんな悲しそうな顔をしないで、ジークちゃん、エルトちゃん。これが私の生きる目的だったのだから」
ズズズズ……と。
グリモア詩編から黒い霧が湧き出してくる。
「歴代の支配者は、とにかく魔物の数を増やすことに専念する人が多かったわね。それぞれの種を生み出して、その生み出した種が繁栄して、魔物の数は莫大なものになった。もう魔物の数は必要ないぐらいに増えた」
このグリモア詩編『創造』で生まれる魔物は、最小存続可能個体数が一度に生まれる。つまり、種が長期間存続するために必要なだけの数の魔物が生まれてくる。
たとえばオークの場合なら、オスとメス合わせて100体ほど一気に生まれている。
そうして、歴代のミストレスにより魔物の種族のひとつひとつが次々と生み出されていった。
「私は1体でいい」
当代ミストレスであるマザーは言う。
片手でグリモア詩編を握り。
もうひとつの手には、古ぼけた木の人形を握りしめている。
「私の力なんて、エストちゃんたち『最古の六体』を生み出した『初代』とは比ぶるべくもないけれど、それでも……この70年溜めに溜めた私の憎悪を、今ここに集約する」
黒い霧は、より禍々しく。
マザーの底知れぬ深い憎悪を体現するかのように、激しく噴き出していく。
「このコが、人類絶滅の最後の一手となる――カギ」
空間が歪むほどの大いなる力。
人が人を呪う、強大な力。
絶望。無念。苦しみ。恨み。妬み。憎しみ。
哀しみ。怒り。嫌悪。悔恨。羞恥。恐怖。
そして――希望。
これは、人が最も力を発揮する悪徳の業。
悪逆に唆されし、この世の理すら破壊する災い。
「グリモアの災いよ――どうか、どうか、人類を滅ぼすための力を」
深い憎しみを絞り出すように、マザーが呟いた次の瞬間。
目映い、黒い光が周囲を包み。
それはこの世に生を受けた。
「ア…………アァ、アッ……アアア…………」
マザーのベッドの上には、木の人形がいた。
よろよろと蠢くように動いたそれは、ベッドからゴトリと落ちる。
「はぁ……ハァ……ハァ………」
マザーが息を切らしている。
額からは汗が滝のように流れていて、消耗の度合いは明らかだった。
「マザーッ!」
ジークリンデがマザーの容態を確認する。
「マザーは!? ねぇねぇジークリンデ! マザーは大丈夫!?」
「エルトリンデ、うるさい!」
「うぅ……だってぇ……」
「こらこら……ケンカはダメ、よ……」
マザーが優しい声でふたりをたしなめる。
「ああ、マザー! よかった……」
ジークリンデがホッとした様子で胸を撫で下ろし、
「マザー! マザー!」
エルトリンデがマザーに抱きつく。
「さぁ、みんな……祝ってあげて。私たちの新しい仲間の誕生を」
マザーが愛しいものを見るような目で、
その生まれたての命を祝福する。
「ア……ァ……ァ……」
木で出来た人形のような魔物には顔がない。
頭は滑らかなタマゴ型。
同じように、大きなタマゴ型の木が胴体になっている。
細長い木の枝のような腕が胴体にくっついていて、足も同じようになっている。
床を這っているため分かりにくいが全長は高い。
2mは越えるだろうか。
表面は木目で出来ていて、どこからか不気味な音を……いや声を発している。
カタカタと不規則に蠢くその動きも、この魔物の不気味さを強調している。
「な……何コイツ。エーテルがぜんぜん感じられないけど……」
「しっぱい~?」
ジークリンデとエルトリンデがそれぞれ言う。
エーテルが微塵も感じられない。
それはつまり、弱い魔物ということだ。
しかし、エストヴァイエッタの意見は別だった。
「これは、素晴らしい」
「うふふ……分かる? エストちゃん」
子を褒められた母のように喜ぶマザー。
そんな時だった。
「おいおい、楽しそうなコトやってんじゃないの!」
部屋の窓から、その声が聞こえたのは。
「悪巧みならオレっちも混ぜてくれよ」
突然現れた男は、とにかく巨大だった。
3mほどもある身長で、筋骨隆々の体付きのせいか、更に大きく見える。
シルエットだけで言えばヴォゼに似ている。
「……セロ」
エストヴァイエッタがその男の名を呼ぶ。
「ちょ、ちょっと! 何よあんた窓からなんて! 礼儀がなってないんじゃないの!」
ジークリンデがその男の無礼を非難する。
「おいおい、オレっちに殺気を向けるんじゃねェよ。興奮して生えちまうじゃねェか」
セロと呼ばれた男の額が、ビキビキと隆起していく。
そこにはおぞましいほどの力が集まっている。
「イヒヒ! テメェもしかして誘ってんのかァ? アァ?」
肌をかき分けて現れかけているのは角だ。
とてつもない威圧が部屋に充満する。
「セロよ、ジークリンデは番外。こやつ等は闘わぬ。まさか知らぬわけではあるまい?」
「おっと、エストヴァイエッタじゃん! 何々? テメェが代わりに相手してくれんの?」
セロのその物言いに、エストヴァイエッタが立ち上がる。
「殺すぞ、キサマ」
「イヒヒ! 殺れるモンなら殺ってみろよ」
一触即発の空気だが、それはその場にいたもうひとりの言葉で静まる。
「お二方。ここはマザーの寝室ですぞ」
セヴァスだ。
毅然とした振る舞いで、粛々とふたりを諭す。
「それに、『最古の六体』同士で闘うことは自重されておられるはず。お二方は、古い約定すら忘れてしまわれたのでしょうか?」
その約定という言葉に、ふたりの動きが止まる。
そして、セロが口を開く。
「人類の結界がある以上、禁域はオレっち等には狭すぎる。『最古の六体』同士が闘うと、アトラリアが崩壊しちまいかねない。だからオレっち等は同士討ちはしない。ハァ……面倒な約束をしちまったモンだ」
額をボリボリ掻く。
そして、生えてきかけていた角を、バキッと折った。
その角を窓の外に放り投げて一息つく。
「ふぅ……痛ェ……」
鬼と呼ばれる種の原型となった彼は、エストヴァイエッタと同じ『最古の六体』である。
『破天の悪鬼』セロ。
魔境アトラリアを統べる魔物のひとり。
この世の生物すべての中で、最強の座に君臨する個体の一柱である。
「私めの言葉、お聞きいただき感謝でございます。セロさま」
セヴァスが一礼する。
「エストヴァイエッタさまも、よろしいですかな?」
「よい。余も頭に血が上っただけだ。矛を収める理性ぐらいは持っている」
「まことに感謝でございます」
「ねぇ、ちょうどよかったわ」
一連の騒動を、ニコニコした様子で見ていたマザーだったが、ひとつの提案を持ちかける。
「多分セロちゃんが適任だと思うの。このコの育成、任せても構わないかしら?」
言って、マザーが視線で示す。
床に這いつくばっている、木人形の魔物を。
「へぇ、面白そうだな。でも、オレっちに任せてくれんの?」
「ええ。あなたが一番、悪いコだもの」
マザーが柔やかに微笑む。
絶大な信頼をこめて、言う。
「うんと悪いコに育ててね?」
「誰に言ってやがる。オレっちは鬼だぜ?」
イヒヒと笑いながら、セロが言う。
「そういやコイツの名前は? 決めてんの?」
「ええ。ずっと前から」
マザーが言う。
長年の憎悪をこめて生み出した魔物の名は。
「そのコの名前は、不完全な存在。
きっと、あなたたちを人類絶滅に導いてくれる」
マザーと呼ばれる老婆は、揺るがぬ意志で、人類の破滅を願う。
人類の敵はあまりにも強く。
あまりにも、用意周到だった。
これに対抗する人類側は、あまりにも、脆弱だった。




