4 魔物の正体、魔物に母と呼ばれる人間
夜、星の明かりが最大になった頃。
グレアロス砦にある迎賓の間。
砦には武骨な部屋が多くあるが、この迎賓の間は客を迎える部屋として使われているため、例外的に豪華なものになっている。
丸く真っ白なテーブルは大理石でできており、グラデア王国の南方にある火山の近くで採石されたものだ。
椅子は豪奢で丈夫、座り心地は柔らかく、深く沈むような感触だった。
この円卓を取り囲むように、そうそうたる顔ぶれが揃っていた。
まず、このグレアロス砦の主である副団長のマーガレッタ・スコールレイン。
その横に座るのは英雄の娘、大貴族のシャルラッハ・アルグリロット。
シャルラッハの護衛であるアヴリル・グロードハット。
この3名が、グレアロス砦『三強女傑』と言われる砦の最高戦力である。
そして、『最古の英雄』エルドアールヴこと、クロ・クロイツァー。
エルフの王であるエーデルヴァイン・エルフィンロード。
その従者でありマーガレッタの妹、ヴィオレッタ・スコールレイン。
そして、グリモアの所持者『悪魔』エリクシア・ローゼンハートが座っていた。
異様な存在感を放っているのはエリクシアの背後に浮いている『悪魔の写本』だ。
迎賓の間に集まったのはこの7名だった。
看守長でありエリクシアの義父であるガラハド・ベネトレイトが参加する予定だったが、ケガの具合を考慮して欠席となっている。
もうひとり、副団長直属『特殊部隊』第3班・班長ルシールも同じく参加予定だったが、欠席していた。エルフの戦士であり、エルドアールヴを子供の頃から知っている彼女は、今回の戦いで大した活躍もできなかったことを悔やんでいた。
そのため、少しでも役に立とうとデルトリア伯の居城を調査する任務に立候補し、現在ルシールはそちらへ向かっている。
今回の集まりは、主にグリモアに関することを説明する場で、三強女傑に対して行われた。
「つまり、あの時心臓が止まっていたにもかかわらず、その後すぐ元気に空の上で闘っていたのは、グリモアの『不死』の能力が原因だった……ということでよろしいかしら?」
一通りの説明を受けた後、シャルラッハが言った。
教会でクロの遺体を安置したと思ったら、空の上でウートベルガと闘っていた時のことを言っている。
クロが頷くのを見て、アヴリルが続けた。
「信じられない、と言いたいところですが……まぁ、実際にこの眼で見てしまっていますからねー」
説明は、まずはシャルラッハとアヴリルに事の発端から話した。
最初に説明をしたのがエリクシアについて。
悪名高き『悪魔の写本』を持っていること。
その破られたページを『グリモア詩編』と言い、デルトリア伯が使っていたものだということ。
グリモア詩編は全部で12枚あり、そのひとつひとつが人類を滅ぼすほど危険な代物であること。
さらに、クロが『不死』の能力を持っていること。
こちらはグリモア詩編とは違い、ページを破って持っているわけではなく、グリモアから力を与えられた――あるいは呪われた能力なのだと話した。
その次は、マーガレッタに向けての説明だった。
デルトリア伯のグリモア詩編により過去に飛ばされたこと。
歴史というものは簡単に変革できてしまい、グリモアの災いという性質がゆえ、未来を変革してしまうような行動は取れなかったこと。
4年前にヴィオレッタは救出できたものの、元の未来では彼女が行方不明だったというクロの既知が原因で、マーガレッタには連絡を取らせることができなかったことを謝った。
「謝罪など必要ない。前にも言ったが、私はヴィオレッタが生きているだけでいい。同志クロイツァーよ、貴公には返しても返しきれない恩ができた」
話を聞いたマーガレッタはそう答えた。
ここまではすでにエリクシアとエーデル、そしてヴィオレッタは理解していることだった。
「何か分からないこととか、知りたいことがあったら遠慮なく言ってほしい。全部話すって約束したからね」
クロが言った。
その言葉にすぐ反応したのはシャルラッハだった。
「あなたの――『死力』について詳しく教えてくださる?」
彼女らしい質問だった。
戦闘に関することに、貪欲なまでの好奇心がある。
エルドアールヴの実力の秘密。
それを知りたいと思うのは、彼女にとって当然のことだったのかもしれない。
「まだまだ解明されていない特性ですが、あなたのことですもの。どうせ色々と試したんでしょう?」
図星だった。
この『死力』が、才能のない自分が強くなるために必須だったことは身に染みて理解していた。
致命傷を負う――つまり即死ではないものの、その後に死亡するのが確定のケガを負うことで発動し、エーテルの強さ、そして最大量を爆発的に増加させるものだ。普通なら一生に一度だけしか使えない特性である。何しろその後に死亡するからだ。
しかし、不死なら何度でもその恩恵にあやかることができる。それは過去の自分の闘いで実証済みだった。
だからこそ、シャルラッハが言うとおり色々と試した。
「死力は……ちょっと条件が多すぎてね。まず、必ず殺気を持った敵と戦う必要がある」
「適当な誰かからワザと致命傷を喰らうというのはダメということですね?」
今度はアヴリルが身を乗り出して質問してくる。
クロが頷く。
「自分で自分を傷つける行為もダメだった」
「『不死』を利用して自決しても発動しないと。なるほど……」
アヴリルが爪を噛みながら言う。
この中で、クロ以外にもし『死力』のスキルを持っているとしたら彼女が有力だ。
『死力』は野性的な者に発現する傾向がある。
身体的に言うなら獣人に多く、その他には、自然に近い環境で生まれ育った者に発現する可能性が高い。
逆に、己を律する騎士や魔法使い、賢者や聖職者のようなタイプが発現させたという例は極端に少ない。
アヴリルは天性の狩人である。
それを自分で理解しているからこそ、アヴリルは珍しく真面目だった。
「あとは、その相手が自分よりも強い敵の場合に限る」
「……強い相手、ですか」
アヴリルが首を傾げる。
今度はシャルラッハが聞く。
「強さの基準は? 何を判定してますの? 強さにも色々ありますわよね」
やけに鋭い質問が飛んでくる。
椅子から身を乗り出してくるふたりの勢いに押されながら、クロが答える。
「エーテルの総量が判定基準かな。『死力』はエーテルの特性に属するから、エーテルに反応する。自分よりもエーテルの総量が多い敵が、殺気を放っていることを無意識に感じ取って、なおかつ致命傷を与えられる……これが発動の条件になる」
「……それで不死以外なら、その後に死ぬ……」
「ダメですね……」
「ダメですわね」
シャルラッハとアヴリルが「ハァ……」とため息をつく。
強くなるために死力を使うのは不死以外には不可能だ。
条件が厳しすぎるうえに、その条件をクリアすると死ぬ。
それが死力である。
「と、とりあえず意識的に使えるような代物じゃないってことが分かってくれたらいいよ……」
ふたりのガッカリ具合に、なんだか自分がガッカリされているようで、クロはちょっとショックだった。
「まぁ、これでハッキリしましたわ」
シャルラッハがテーブルの上で手を組んで、視線だけでクロを見る。
「あなたは、『レリティア』ではこれ以上強くなれない」
「…………鋭いね」
彼女の知識量と、その非凡な洞察力にクロが驚嘆する。
これは、ちょっと予想以上だった。
一を聞いて十を知るどころじゃない。
ほんの僅かな取っ掛かりがあれば、真なるものに辿り着く素養がある。
「どういうことですか?」
エリクシアが興味深そうに聞いた。
その質問に、上機嫌になったシャルラッハが答えた。
「レリティアでは、エーテルが自分より強い者じゃないといけない条件が満たせないの。なぜなら、今のクロ・クロイツァーよりエーテルの総量が多い人はこのレリティアでは『2人』しかいないから」
シャルラッハが指をふたつ立てる。
「ひとりは帝国ガレアロスタの英雄『黄昏の大魔導』。現在のレリティアで、最もエーテル総量が多いのがコイツで間違いないですわ」
指をひとつ折りたたむ。
他国の英雄をコイツ呼ばわりである。
「うむうむ! それでそれで?」
これまで黙っていたエーデルが、身を乗り出して話を聞いていた。
わくわくした様子で、「はやく言え」と眼を輝かせている。
「…………」
それを見たシャルラッハが指で数えるのを止めて、残ったひとつの指をクロに向けた。
「そして、わたくしの見立てではクロ・クロイツァーはおそらく3番目。それほどのエーテル量なら、特級の魔物でさえ上の敵はなかなかいない。違いまして?」
エーデルを完全に無視してシャルラッハが言った。
「……合ってるよ」
クロの白状を聞いて、シャルラッハが満足そうに微笑んだ。
「つまり、強くなりすぎて、自分より『強い敵』がレリティアには存在しない。だからクロ・クロイツァーはこれ以上、劇的に強くなれないってことですわ」
「なるほど……」
エリクシアが納得したように頷いた。
同じ英雄同士、殺気をもって本気で闘うなんてことは余程のことがない限り起こらない。
必然的に、敵とは魔物に限られてくる。
特級の魔物……それも、上位に位置するほどの猛者でなければクロより上の敵は存在しない。
しかしこのレリティアには特級の魔物と出遭う機会は、幸運にも、なかなか無い。
だからこそ『死力』を使ってクロが強くなることは、このレリティアではほとんど不可能なのだとシャルラッハは看破したのだ。
「死力を使わなくても強くなろうと、今も努力はしてるんだけどね」
「……そう……よかった。そこは変わっていませんのね」
クロ・クロイツァーには才能がない。
エルドアールヴが強いのは『死力』のおかげだ。
しかしそれに腐らず努力を続けるのがクロ・クロイツァーという人間の性だった。
人によっては無駄な努力と笑うだろう。
しかし、シャルラッハは『よかった』と言った。
それがクロには、無性に嬉しく感じた。
「ちょっと待てえぇぇいッ!!」
無視され続けたエーデルが、とうとうシビレを切らした。
「何ですの? 突然大声を出して。はしたないですわよ、エルフィンロードの王さま」
エーデルが机に足を乗せて、シャルラッハを指差しながら叫ぶ。
「そなたわざと2番目を省いたじゃろ!?」
「当然じゃない。うるさくなるのが分かっていて言及するはずがないでしょう? 結局はうるさくなったけど……」
シャルラッハがやれやれとため息をついた。
「え、えと……?」
エリクシアが目を点にしていた。
「あー、なんだ……その、一応説明しておくとだな」
マーガレッタがエリクシアに言う。
「このレリティアで2番目にエーテル総量が多いのが、そこのエーデルヴァイン王なのだ……」
「ええええッ!? エーデルさん、そんなにスゴい人だったんですか!? 意外です!」
「……ちと言い方が気に入らんが、そうなのじゃ! わらわ、スゴいのじゃ!」
エーデルは人類第二位の最大エーテル保有者である。
十三英雄に引けを取らないそのエーテル量は、まさしく魔法に特化した種族である、エルフの王に相応しい。
ウートベルガの毒に対抗するため、浄化の魔法をグレアロス砦全域およびその周辺地帯を覆いながら、長時間それを維持する力量は賞賛に値する。
彼女の態度や振る舞いからは想像もつかないが、レリティアを代表する大魔法使いなのは間違いのない事実である。
「ハァ……」
エーデルがふんぞり返ってドヤ顔をする中、シャルラッハがこれ見よがしに大きなため息をつく。
「どうでもいい話は置いておきましょう」
「ど、どうでもいいとはどういうコトじゃ!」
「それで、クロ・クロイツァー」
またもエーデルを無視して話を進めるシャルラッハ。
「今も努力しているということは、あなたはまだ強くなる必要がある……ということでよろしいかしら?」
英雄となったクロ・クロイツァーが力を欲する理由。
それは、そうしないと勝てない敵がいるということだ。
「あなたの目的……グリモアを消し去るために、アトラリアの『最奥』に行かなくてはならない。そのためにはアトラリアを護る魔物と闘う必要がある。それ以前に、レリティアのどこかにいるグリモア詩編の持ち主から、詩編を奪い取らないといけない」
矢継ぎ早にシャルラッハが続ける。
「エルドアールヴとなったあなたが……レリティア最強と言われるようになったあなたが、今もまだ強さを必要としているのは、どれのせい?」
「…………」
クロが息を呑む。
ほんの少し話しただけで、先の先を読み取る力。
先見の明。
シャルラッハの恐るべき資質の片鱗を垣間見たような気がした。
「具体的に言った方がよさそうだね……」
「よろしく」
「まず、アトラリアの『最奥』を護る『最古の六体』の存在が大きい」
「特級よりも強い、最上級の魔物ですわね?」
クロが頷く。
「千年前、俺は一度アトラリアに攻め込んだことがある。その時に『最古の六体』と闘った」
「……どのぐらい強かったの?」
「俺が闘ったのはエストヴァイエッタっていう魔物だけど――」
言葉の途中で、エリクシアがピクッと反応したのが分かった。
ウートベルガに言われた、似ているという言葉を思い出したのだろう。
「――手も足も出なかった。逃げるのがやっと……いや、逃げられたのが奇跡だった」
「……でも、それは千年前のことでしょう?」
「あの頃から『死力』で強くなるのは限界が見えていたから、千年前の俺の実力は、今の俺とそんなに変わらなかったよ」
「英雄と比べても、そこまで実力の差があると……? 冗談ですよね?」
アヴリルが言った。
が、クロは首を横に振った。
「さっき、最大エーテル量の話があったから流れに乗ると、レリティアにいる人類すべてのエーテルを足したとしても、エストヴァイエッタには届かない。天秤の対にもなれないほどに、アレのエーテル量は尋常じゃない」
これには全員が絶句した。
「仮に俺のエーテルを小さな水たまりだとしたら、エストヴァイエッタは海だと思ってもらっていい。広さも深さもレベルが違う。エーテル量イコール強さじゃないけど、それでも、特級の魔物が無条件にひれ伏す理由が分かるぐらいには、アレは本物の怪物だった」
敵は、遙か絶大。
そんな怪物が、この世界にいる。
アトラリアの奥地にいる。
その恐るべき現実には、新進気鋭の三強女傑でさえ息を呑んだ。
「……私からも質問させてくれ」
少し間を置いて、マーガレッタが言う。
クロが「どうぞ」と促した。
「……魔境アトラリアにいる魔物の中で最強なのは、そのエストヴァイエッタだと思っていいのか?」
「……これはエストヴァイエッタ本人が言っていたんですが、アトラリアの魔物には強さの序列があって、六位までは『最古の六体』で占められているらしく」
「……ふむ」
「序列一位以外は、エストヴァイエッタと同等の強さだと言ってました」
「…………、……虚言の可能性は?」
「ないです。アレは嘘をついて騙すようなタイプじゃないです。それに、その場に最古の六体らしき魔物が他にもいましたが、実際にこの眼で見た感じ、間違いないと思います」
「なんということだ……」
しん……と部屋の中が静まりかえる。
エルドアールヴでさえ手に負えない魔物がいる。
その事実を飲み込むのに、時間を要すのは仕方のないことかもしれない。
「全部話すと言ったから、続きも話すけどいいかな?」
「…………」
シャルラッハが額を指で押さえた。
今でもいっぱいいっぱいの絶望に浸っているのに、他にもまだあるのか、と。
「……どうぞ」
促されて、クロが言う。
「これは特にエリクシアには知っておいてほしいんだけど」
「はい」
話を振られたエリクシアが姿勢を正した。
「今話した『最古の六体』とはできれば闘いたくないんだけど、グリモア詩編を奪うためには、そうもいかない」
「……グリモア詩編を奪うため……ですか? アトラリアの『最奥』に行くためではなく?」
言葉のニュアンスがおかしいと気づいたエリクシアが言った。
「最古の魔物は『最奥』の手前、『禁域』の奥地にいる」
クロが言って、エリクシアが頷いた。
「そこに――グリモア詩編の持ち主がいる」
「え!?」
「……どういうことかしら、魔物が詩編を持っているということですの?」
シャルラッハが疑問を口に出す。
それに続いたのがマーガレッタ。
「『最古の六体』が詩編を持っているとなると、本当にどうしようもないんじゃないか……?」
それにエリクシアが答える。
「いえ、魔物は詩編を使えません。詩編を使えるのは人類だけです。詩編の中身の災いは人類に与えられた、人類に対する災いなんです」
「…………ちょっと待って、まさか……」
シャルラッハがそのどうしようもない事実に気づき、言葉を詰まらせる。
言葉にならず、クロを見る。
クロはシャルラッハのその様子を見て、またも彼女が先に真実に辿り着いてしまったことを悟った。
「今から話すことは特に、このメンバー以外には、絶対に誰にも喋らないでもらえると助かる」
「……なるほど、そういうことですのね……」
シャルラッハが頭を抱える。
「な、なんですか? シャルラッハさま? クロイツァー殿? 私にも分かるように説明してください」
アヴリルの言葉にクロが頷いて、
「グリモア詩編・第六災厄『創造』、支配者」
その詩編の災いを、伝える。
どうしようもなく呪われたそれは。
「この詩編の歴代の持ち主は、魔物から『マザー』と呼ばれていて、その能力は『異端の命を創り出す』こと。つまり、この世に存在しなかった『生物種』を丸ごと創る能力だ」
レリティアではこんな言葉がある。
『悪魔の写本』は、すべての災いの元凶。
それは決して間違いではなく。
それは魔物ですら例外ではない。
「魔物は二千年前に突然現れた。そんな不可思議なことが普通起こるはずもなし、そんなことができるのは古来より唯一つ」
エーデルの言葉どおり、魔物が突然現れるなんてことが起きるはずがない。
人類を滅ぼすほどの災い。
悪魔の写本。
その力の一端、グリモア詩編。
「つ、つまり魔物は……」
エリクシアは声を震わせる。
シャルラッハもアヴリルもマーガレッタも、やっとの思いでその事実を飲み込んでいる現状だった。
「人が災いを生み出し、人を呪う。ずっとずっと昔から、二千年も前から続いてきた闘いの真実が、これだ」
いつかの日。
まだ不死になったばかりの頃。
ヴォゼと闘っていたクロが、魔物の裏に人の存在が見えると言ったことがあった。
その時はここまでのことは想像すらしていなかった。
明確に、人類を滅ぼそうとしている人の存在がある。
つまり、これまで人類が戦ってきたものとは。
魔物と血で血を争う生存競争をしてきたものは、敵側の武器が魔物に変わっただけのこと。
ずっと昔から変わらない。
これまでも、これからも。
二千年以上前から続く、グリモアを介して撒き散らされた人類への災い。
この争いはつまり。
人と人の、闘いなのである。
◇ ◇ ◇
アトラリア『禁域』、その奥地。
そこには巨大な城があった。
周囲には木々が生い茂り、城壁は蔦が幾重にも巻かれ、自然と一体になりかけた風体だ。
しかし、それは朽ち果てているわけではない。
「いつ見てもここは変わらぬな」
少女の声が、城のエントランスで響いた。
『最古の魔物』、エストヴァイエッタである。
「エストヴァイエッタさま。ようこそお越しくださいました」
丁寧にお辞儀をしたのは、燕尾服に身を包んだ人間のような魔物だった。
白髪をオールバックにして白いヒゲをたくわえている。
目元の皺のせいか、優しそうな印象を受ける。
どう見ても人の良さそうなヒュームの老人だが、彼は魔物である。
柔やかに細めた眼の奥、真紅の瞳は微かに光を帯びていて、顔を動かす度に赤光の残滓が宙に棚引いている。
「挨拶はいらぬ。セヴァスよ、さっさと余を案内せぬか」
「申しわけございません。まだ準備中でございまして」
「ほぅ? まさかとは思うが、余を待たせるとでも言いたいのか?」
「も、申しわけございません。そのかわり、絶品の菓子をご用意しております。極上の紅茶も手に入りましたので、お待ちの間、お楽しみいただければ幸いです」
セヴァスと呼ばれた燕尾服の執事は、押しの弱そうな表情でエストヴァイエッタの機嫌をとる。
この光景を何かに例えるなら、貴族のワガママお嬢さまと、困った顔でそれを宥める老執事のやり取りというのが正確だろう。
「余が来ることは事前に伝えていたはずだが?」
「申しわけございません。今しばらく、お待ちくださいませ」
「そちらの都合は知らぬ。通せ」
エストヴァイエッタの不機嫌度が最高潮になりかけた、
そんな時だった。
「エストヴァイエッタ、うるさい!」
エントランスの奥から、幼い少女の声が響いた。
「ジークリンデか」
姿を現したのは声のとおり、幼女だった。
ジークリンデと呼ばれたこの小さな幼女もまた、ヒュームに似た魔物だった。
その容姿は人で言うなら6、7歳ぐらいか。
まるで人形のような愛らしさで、クラシカルロングのメイド服を着ていた。
「まったく、エントランスで騒がないでくれる!?」
「キサマの方がやかましいわ。準備ができていないとはどういうことだ? 余が来ることは分かっていただろう」
「1分ぐらい待ちなさいよ! もう準備はできたから、さっさと来て!」
ジークリンデは言うだけ言って、奥へ歩き出した。
「チッ」
あからさまに不機嫌に舌打ちをしたエストヴァイエッタは、床に足はつけずにふわふわと宙に浮いて移動する。
「セヴァス、菓子と紅茶を持ってこい。部屋で食す」
「かしこまりました」
密かにホッとしたセヴァスは一礼し、別の場所へ向かった。
言われたとおり、客人をもてなす準備に行ったのだろう。
しばらくして、城の奥。
ジークリンデに案内される形で、とある部屋の前に到着した。
「あ、エストヴァイエッタだ~! よく来たね~!」
こちらもまた幼い少女の声。
言葉の使い方もあってか、ジークリンデよりも幼く感じる。
扉の前に立っている彼女も、ジークリンデとまったく同じメイド服を着ており、その容姿もよく似ている。
ひとつ違うのは、その手に大きなホウキを持っていることだ。
「見ろ、ジークリンデ。キサマと違ってエルトリンデは余のもてなし方を心得ているではないか」
「エルトリンデは何も考えていないからよ。なんで私があんたをもてなさないといけないのよ」
嫌味を言うエストヴァイエッタに、ジークリンデが睨む。
「どしたの~? ケンカ? ケンカはダメよ~? メッ! だよ~」
扉前にいた幼女のメイド、エルトリンデが頭を揺らしながら言った。
最古の六体の一柱であるエストヴァイエッタと対等に話す彼女たち。
しかし、ジークリンデとエルトリンデは最古の魔物ではない。
彼女たちは最古の魔物の次に生み出された魔物であり、『第二世代』と呼ばれる特殊な魔物だ。
その存在意義は世話係り。
この扉の奥に住む者の世話をするための魔物である。
ゆえに彼女らは序列番外。
魔境アトラリアで戦闘をしないことを許された唯一の魔物たちだ。
「エルトリンデ、なんでもないから扉を開けて」
「は~い!」
元気良く手をあげて返事をしたエルトリンデが、部屋の扉を開く。
そして、エストヴァイエッタが中に入った。
部屋の中には絨毯が敷かれていて、窓の近くには大きなベッドがある。
そのベッドに座る形で、目的の人物がいた。
「ひさしぶりだな、マザー」
そこにいたのは、ひとりの老婆だった。
彼女は魔境アトラリアの禁域に住む唯一の人間だ。
「いらっしゃい、エストちゃん」
優しげな、心を落ち着かせるような、穏やかな声。
彼女こそが『マザー』と呼ばれる人間。
彼女こそが、人類の敵対者。
グリモア詩編・第六災厄『創造』。
支配者は、まるで、子を可愛がる母のように。
魔物と共に生きていた。




