3 いつか少年が流した涙の理由を、少女は問わないと決めている
紙をめくる音が絶え間なく部屋に響く。
「…………」
書類に目を通しているのは副団長のマーガレッタ・スコールレイン。
書いてある内容のほとんどは先日の戦いについての報告書だった。
特級の魔物の襲撃から端を発した戦い。
これほどの大規模な戦闘は、このデルトリア辺境では千年ぶりになる。
初代グラデア国王が率いる当時の王国騎士団と、最古の英雄エルドアールヴらが力を合わせて戦った、伝説の怪物グリュンレイグ討伐。
今回のグレアロス砦防衛戦は、その伝説の戦いと比べても遜色ないほど危機的な状況だった。
「……奇跡だな」
書類を確認し終わったマーガレッタが呟く。
負傷者の数や施設の被害状況など、その書かれてある内容に驚いていた。
「何が奇跡なんですか? 姉さん」
「死者が出ていないんだ。信じられん……」
「ああ、それはエルドアールヴのおかげですね。なにしろこの日のために、ずっと以前から作戦を立てていたんですから」
「なるほど……ん?」
と、そこまで会話して、マーガレッタがギョッとする。
「ヴィ……ヴィオレッタ!? いつからそこに!?」
「今さっきです。姉さんが書類に集中している間にこっそりと」
「……そんなバカな。集中していたとはいえ、ドアを開く音にすら気づかないなんて」
「ふふふ。ようやく姉さんに勝てました」
ヴィオレッタがにっこりと笑う。
彼女はいつもしていたフードを被っていない。
エルドアールヴの従者として影で動いていた彼女は、マーガレッタの妹だということを隠す必要がなくなったからだ。
「……その気配隠しは同志クロイツァーから習ったのか?」
ヴィオレッタがこくりと頷く。
「4年前、エルドアールヴは私を助けてくれました。だから今度は私がエルドアールヴの力になりたかったんです」
魔人樹に攫われて、行方不明になっていたヴィオレッタ。
その話を聞いたクロ・クロイツァーが、エルドアールヴとなってヴィオレッタを助けた。
この4年でマーガレッタは劇的に変わった。
当時の、戦闘のいろはすら知らなかったただの少女から、グレアロス騎士団の副団長にまでなった。
ヴィオレッタもまた、この4年で成長を遂げたのだろう。
「最初は反対されたんですけどね。仕方がないとはいえ、私の4年を奪うからには、これ以上迷惑はかけられないって」
マーガレッタはこの辺りの事情をまだ知らない。
ヴィオレッタが生きているだけで、それだけでいいと彼女は言った。
しかし、4年間も生死不明のまま音信を寄こさないようにさせていたのはエルドアールヴだ。姉として、普通なら疑いの眼を向けてもおかしくない。
しかし、クロ・クロイツァーのことだから、そうせざるを得なかった重大な事情がある。マーガレッタは考えるまでもなくそう思った。
だから何も聞かなかった。
エルドアールヴだからではなく、これまで接してきたクロ・クロイツァー本人に対する信用ゆえのことだった。
そう考えていたのだが、クロ・クロイツァー自身が、これまでの経緯を説明する機会を設けた。
不死について、悪魔の写本について、グリモア詩編について。
これまでのエルドアールヴとしての活動と、これから何をするのか。
そして――目下の『敵』について。
シャルラッハやアヴリルも交えて、それらを説明するというのが今夜だ。
「……それで、エルドアールヴに反対されたからといって大人しく引き下がったわけではないと?」
「拝み倒しました。1年ぐらい頼み続けて、しぶしぶ了解させました」
そこでマーガレッタが「ふっ」と笑った。
「とんでもないな……いや、元々そういうところがあったなヴィオレッタは。負けず嫌いで、決めたことは絶対に曲げない」
いつか本人に話した通り、そのあたりは本当にクロ・クロイツァーに似ている。
あの傍若無人の王エーデルと、頑固者のヴィオレッタ。
さぞや苦労しただろう、とマーガレッタは思った。
「エルドアールヴは本当にずっと前から今回の戦いの準備をしてきたんです。その手伝いついでに、色々と生き残る方法を仕込んでもらいました。諜報活動は最後まで反対してましたけど」
「あの伝説の英雄が万全の準備をしていたわけか。だからこその、この結果か」
戦の勝敗は情報に左右されるとは言うが、クロ・クロイツァーは未来を知っていた。
これほどのアドバンテージの中、最強と謳われる英雄が長年準備し続けてきた。
今回の戦で死者が出なかったというのは、奇跡でもなんでもなく、なるべくして成った結果というわけだ。
「ん? そういえば……」
ふと、マーガレッタが気づく。
このグレアロス砦での訓練の基本は、まず生き残ることを重視している。
これにより、この砦の兵士たちは守備重視の戦いを得意とし、負傷者が少なくなるように鍛え上げられる。
予備兵にオークなどの下級の魔物と一対一で闘わせ、死への恐怖を自覚させ、生きることへの執念を学ばせることから始まる訓練だ。
これはこの砦がグレアロス砦と呼ばれるようになったずっと以前から代々伝わる訓練法に則って行われる。
「この砦が出来た原因はたしか……グリュンレイグ」
グレアロス騎士団の旗印にもなっている伝説の怪物。
それを討伐したのがエルドアールヴだ。
そのエルドアールヴが、初代グラデア国王に進言して作らせたのが、この砦である。
それはつまり、この訓練法を作ったのがエルドアールヴということになるのではないか。
「まさか……」
「姉さんが何を考えているのか、何となく分かりますよ。多分、思っているとおりかと。エルドアールヴはずっと前から、この戦いの準備をしてきたんですから」
「……千年前だぞ? この戦いのためだけに砦まで作って、訓練の基礎まで一から作り出したと……?」
「私が知っているエルドアールヴなら、そこまでやります」
ヴィオレッタが言う。
マーガレッタは少し考えて。
「……たしかに、私が知っている同志クロイツァーなら、やりかねん……」
敵か味方かも分からなかった水竜に完全回復薬を飲ませたり。
空にいたウートベルガを倒すために、雷の魔法を纏わせて斬空に乗ってまで突撃していくような人間だ。
エルドアールヴとなっても、味方を助けるためだけに砦の壁面に大穴を開けてまでショートカットするような英雄だ。
「でしょ? 私の知っている限り、エルドアールヴほど常識の無い人は見たことがありません」
「同感だ」
マーガレッタが笑う。
たしかに、英雄といえば英雄だ。
普通ではないのが英雄なのだから。
「敵の目的は『悪魔』の持つ『グリモア』だったんです。この戦いで死者が出てしまったら、エリクシアさまのせいにされる可能性が高い。だからこそ、エルドアールヴは必死だったんです」
「そうか、そこまで考えて……」
悪いことはすべて悪魔の仕業。
それがこの人境レリティアに根付いてしまった考え方だ。
例えば、今回の戦いで殉職した兵士がいたとして、敵が狙っていたのは悪魔だったのだと知ったら、残された家族は間違いなくエリクシアを恨むことになる。
人の感情は止めることなどできない。
怒りや恨み、負の感情は特に。
ケガなら治ることもあるだろう。
家が壊れたなら建て直すこともできるだろう。
だが死者を取り戻す術はない。
償うことはできない。
「……本当に」
マーガレッタが呟く。
ここにはいない、あの少年に向けて。
「本当に強くなったんだな……」
窓の外を見やる。
陽が傾いて、空が朱く染まっている。
「そろそろエルドアールヴ達が帰って来る頃ですね」
「今日はデオレッサの滝に向かったんだったな。闘いの後なのに、ゆっくり休めばいいものを」
「それ、姉さんが言いますか」
机の上にある仕事の書類を見て、ヴィオレッタがため息をついた。
マーガレッタが苦笑する。
「お前は行かなくてよかったのか?」
「はい。今は暇をもらっているので。ようやく姉妹で再会できたんだから、存分に甘えておいでって、エルドアールヴに言われました」
ヴィオレッタは「なので」と付け加えて続けた。
「姉さん、仕事が終わったら一緒にご飯でもどうですか?」
「ああ、そうだな。一緒に食べよう」
「今夜のエルドアールヴの話は長くなるはずですから、いっぱい食べておきましょう。実は今日は、ずっと料理をしていたんです。姉さんに食べてほしくて」
「そうなのか。お前が料理か……」
「ふふ。もう4年前の私じゃないんですよ。姉さんの好きなものだけを選りすぐって作ったから、楽しみにしてください」
ヴィオレッタがにっこり笑う。
マーガレッタもつられて柔らかな微笑みを浮かべた。
ふたりはあらためて、4年越しの幸せを噛みしめた。
◇ ◇ ◇
陽がすっかり落ちて、空に星々が輝き出してきた頃。
クロ・クロイツァーは砦の外を歩いていた。
「隠れ潜んでいる魔物はいなさそうだな」
ここは地形上、砦からは死角になっている窪地だった。
こういう場所に隠れ潜む魔物は多い。
あれだけの大群の魔物だった。
壊滅させたとはいえ、討ち漏らしがいるかもしれないと確認していたところだ。
油断はできない。
勝利した後に隙ができて、そこを突かれてしまうなんて冗談じゃない。
「班長、そっちはどう?」
「大丈夫。気配の名残もないですわ。もちろん土の中にも」
別方向を見ていたシャルラッハが答えた。
彼女もまた、同じように魔物の索敵をしていたところだ。
「ひとまずは安心ってところかな……」
「意外と心配性ですのね、クロ・クロイツァー」
「魔物も必死だからね。これまでも油断して痛い目にあってきたから。用心するに越したことはない」
「ふぅん」
あれから、デオレッサの滝から馬車で帰ってきた。
そして、グレアロス砦が遠くに見える距離のところで、戦場の確認をしたいと言ってクロは馬車を降りた。
それに続いたのがシャルラッハだった。
エリクシアとアヴリル、そしてエーデルの3人はそのまま馬車で砦の中に入り、今頃は用意された部屋で休んでいるところだろう。
「それで、何か俺に聞きたいことがあるの?」
シャルラッハがわざわざ馬車を降りてまで自分と一緒に外に残った理由。
まさか本当に魔物の残党を確認するためだけに来たわけじゃないはずだ。
「ええ」
「全部話すって約束してたから、今夜みんなの前で話す予定だったんだけど」
「いえ、そのことじゃないですわ」
クロは首を傾げた。
シャルラッハが言わんとすることが分からなかった。
「聞きたいのは、3ヶ月前のこと」
「…………」
どっちのことだろう、と。
クロは少し考えた。
クロ・クロイツァーという人間は最近まで、この世に『ふたり』いた。
今から15年前に生を受け、そのまま育った過去の自分。
そして、2000年前に飛ばされてエルドアールヴとして生きてきた今の自分。
3ヶ月前と言うと、前者ならグレアロス騎士団の入団を希望して、グラデア王国の王都にいたことを微かに覚えている。
しかし彼女が言っているのは、エルドアールヴとしての自分のことだろうと数秒遅れて理解した。
「3ヶ月前は……」
クロが言いかけて、シャルラッハが遮った。
「いえ、聞くよりも早い方法がありますわ」
すたすたすた、とシャルラッハが離れていく。
「……?」
ふたりの距離が離れていく。
しばらくそのままシャルラッハが歩いていって、適度な距離が出来てから、彼女がピタリと止まった。
「このぐらいでいいですわね」
シャルラッハが言って、彼女が何をしようとしているのかを理解した。
その細い足に、強大なエーテルを纏った。
彼女の十八番、戦技『雷光』を使う気だと察する。
「…………」
向かい合う。
シャルラッハに殺気はない。
彼女から感じ取れるのは輝かしいまでの闘気だ。
「――――ふッ」
合図も何もなく、シャルラッハが『雷光』を使う。
踏み込んだ地面が爆発する。
矢のごとく、いや、それよりも遙かに速い突進。
アルグリロット家の人間が代々使う、英雄の技。
「――――ッ」
そして、シャルラッハが今使ったそれは普段の『雷光』ではない。
あまりにも拙く、あまりにも雑で。
そして何より、あまりにも速い。
これは失敗の『雷光』だ。
着地点を見極めず、己の力の加減を知らず。
ただ全力で速さのみを求めた不出来な『雷光』。
彼女がわざわざそんなことをした理由はハッキリ分かる。
これは前にも見た。
ちょうどそれは3ヶ月前の王都のこと。
当時のデルトリア伯の最新情報を入手するため、王都にいるエルフの商会と会った後のことだった。
用事も終わり、久々の王都を散歩してこれからの闘いに向けて気分をリフレッシュしていた。いつもつけていた仮面は目立つから素顔のままで、武器も持たず当てもなく散策していた。
そしていつの間にか王都の外に出て、外壁を伝いながら遠く聞こえる人々の喧騒に平和を感じていた矢先。
今のように、彼女が飛び込んで来た。
「――――」
時間にして1秒もない刹那。
準備している時間はない。
遠慮容赦のない突撃。
これは文字通りの『暴走』だ。
シャルラッハを見る。
まっすぐこちらを見ている。
一瞬たりともこちらの挙動を見逃さないと、決意を秘めた眼差しで。
どうやら受け身を取る気はないらしい。
このままだと衝突して、大ケガをするのは間違いない。
「――――」
まったく、無茶をする。
瞬間思考でそう思いながら、クロは両手を前に差し出した。
同じタイミングで、シャルラッハが肉薄した。
頭から飛び込んで来る彼女の体を優しく、かつ素早くいなし、背中に手を回す。
もう片方の手はひざの裏に差し込み、自分の懐に彼女の体を入れる。
いわゆる、お姫さま抱っこのような体勢に。
衝突の衝撃を、体の力を抜くことで激減させる。
そして、彼女の体を自分のエーテルで優しく包み込んだ。
エーテルの量を寸分違わず調節し、誤差の隙間を一瞬で埋めていく。
ミスれば双方に大ダメージがくる。
しかし、これを失敗することはあり得ない。
なぜなら――何度も『雷光』を見てきたのだから。
「――――くッ」
『雷光』の威力は尋常なものじゃない。
ただの体術だけでこの衝撃を零にするのは不可能だ。
英雄の技であるなら、同じく戦技で対抗するしかない。
流れる川の水のように。
揺れ動く柳のように。
振り落ちる落葉のように。
力に力で対抗するのではなく、これは技。
激流に身を任せつつ、しかし――止める。
「…………ふぅ」
雷光を止めきった。
あまりの威力に全身がズキズキと痺れるが、シャルラッハの方には一切負担はかけていないハズだ。
「3ヶ月前と違って、『雷光』の威力が上がってる。前はその場で受けきれたけど、今回は威力に負けた」
前方を見ると、自分の足が地面を擦った跡が長く続いていた。
3ヶ月前は、その場で彼女の『雷光』を止めることができた。
この差は見た目以上に段違いものだ。
たった3ヶ月でこの成長とは、さすが天性の才女と言うべきか。
自分なら多分、30年はかかる。
「……その戦技、名前はなんて言うんですの」
胸の内に収まったシャルラッハが、ポツリと言った。
この戦技は誰も知らない技だ。
おそらく使えるのは、これを編み出した者と自分だけ。
なぜなら、これは実戦で使える代物ではないからだ。
「戦技『止水』って言う」
「しすい……」
その小さな体に染み込ませるように、シャルラッハが復唱した。
クロは彼女を地面に降ろそうとしたが、こちらにその身を完全に預けているため、そのまま抱っこしながら会話する形になった。
「水を、止める?」
シャルラッハの言葉に、クロが頷いた。
「これを編み出した人は、川の流れを止めたんだ」
「……何のために?」
「意地……かな」
およそ1500年前のこと。
当時はまだ僻地では治水がうまくいっていなかったこともあり、川の氾濫で村や町が滅びることが頻繁にあった。
そんな中、ある日クロは川の前に立ちすくむ若者に出会った。
その青年は絶望していた。
先日降った大雨で、水かさが増して川が氾濫、そして村を飲み込んだ。
村の住人はほとんどが助かったが、その青年の弟が犠牲になったのだという。
弟は足が悪く、逃げることが出来なかったらしい。
助けることが出来なかった青年はやがて、その後悔を原動力にして、川の水を止めることを目的として生きることになった。
何日も何日も、青年は川の水を止めようと躍起になった。
およそ常人のすることではない。
青年は言った。
『この目的に意味なんてない。人に生きる意味なんてないように』
ああ、とクロは思った。
人が生きる意味なんてものがあったなら、弟は何のために生まれてきたのか。
死ぬためか? いいや違う。
そんなわけがない。
ちょうどクロも、同じく大切な人を殺した後だったから、青年の気持ちがよく分かった。
人に生きる意味なんてない。
神が決めた運命なんて存在しない。
だから、自分が今生きている意味を決めるのだと。
自暴自棄と言ったらそうなのかもしれない。
けれどクロは、青年の言葉に共感した。
それから青年と共に過ごし、長い月日が経った。
青年が川に挑むのを傍で見守り続けた。
やがて青年が老人に変わり、命の火が尽きようとする頃。
彼は川の水を止めた。
文字通り、塞き止めた。
それは時間にして数秒ほどのものだったが、たしかに彼は川の水を止めたのだ。
『やってやったぞ』
彼は憑きものが落ちたような、清々しい表情になっていた。
この行為に意味なんてない。
たった数秒だけ、川の水を止めただけ。
でもそれでも、何の意味もないものだったとしても。
弟の命を奪った自然に立ち向かった。
もはやそれは正気の沙汰ではなく、狂気の『意地』だった。
けれどその男はたしかにそこで、必死に闘っていたのだ。
『長い間付き合わせてしまったな。でも、ありがとな』
そう言って、かつて青年だった老人は息を引き取った。
ひとりの人間の、狂気の生き様を見た。
「なんとしても、彼が生きた意味を……証をこの世に残したかった」
だから、この戦技『止水』を会得した。
彼の何倍もの時間を消費したが、なんとか形には出来たと思う。
「……そう」
シャルラッハが、クロの頬を手で優しくぬぐった。
「……え?」
自分の眼に涙は出ていない。
でも、シャルラッハはクロの涙をぬぐう様な仕草を見せた。
「どうしたの?」
「……いや、何でもない」
今の行動は、シャルラッハ自身も気づいていないようだった。
きっと無意識の行動だったのだろう。
それを指摘するのは野暮だと思った。
「わたくしの戦技を破ったのは『止水』。心に止めておきますわ」
「……うん」
「それと……」
シャルラッハが少し顔を赤らめて、
「あの時、助けてくれて――ありがとう」
ひとつひとつ言葉を切りながら、大切にその言葉を紡いだ。
「……うん」
おそらく、受け取った言葉以上の想いがそこにある。
それを真摯に受け止めて、クロが返事をした。
「……やっと、言えましたわ」
夜風がふわっと舞った。
シャルラッハの黄金の髪がそよそよと靡いた。
もう夜も更けた。
そろそろ砦に帰らないといけない。
「…………」
シャルラッハの顔が近い。
至高の芸術品のように整った顔。
絹の糸を思わせる繊細な金髪。
稀少な宝玉よりも美しいその碧眼。
夜の闇でも瑞々しく輝く透き通るような白い肌は、ほんの僅か、火照っている。
シャルラッハを抱きかかえた手の感触が、その柔らかさと嫋やかさが、どうしても異性としての彼女を意識させる。
こんなにも軽く、華奢で小さな体。
しかし、その内に秘められたエーテルが全身に満ち満ちていて、強大な剛毅さを感じさせる。
見た目とのギャップ。そのあまりにもアンバランスな姿容が、彼女の人としての神秘性と高貴さを極限まで高めている。
「……あ、そうだ」
思わず魅了されそうになったクロが、大事なことを思い出す。
「班長、ちょっと俺の首にかかったペンダントとってくれる?」
「ペンダント?」
手を塞がっているため、シャルラッハに取ってもらう。
「これは……」
出てきたのは、『聖なる十字』の紋章が刻まれたペンダントだ。
「いつか君がかけてくれた、アルグリロットの紋章だ」
デオレッサの滝での闘いの後、クロが死んだと思ったシャルラッハが、教会でくれたもの。
これは彼女にとって途轍もなく大切なものだ。
アルグリロット家の紋章が入ったペンダント。
直系の子が生まれた時に作られる、唯一無二の家督継承の証である。
「俺が、心が折れることなく生きてこられたのは、これのおかげなんだ」
「……これの?」
「俺は『不死』だ。でも肉体は死ななくても、精神の死はある。それは俺の心が折れた時になる。二千年……そんな長い間、ずっと心の支えになってくれたのが、このペンダントだったんだ」
「…………」
「不死にまつわる話は、この後みんなに話す時に詳しく説明するよ。とにかく、君が渡してくれたこのペンダントのおかげで、俺は救われていたんだ」
二千年。
二千年だ。
長い、長い苦節。
この膨大な時間の流れに、心を砕かれそうになったことは何度もあった。
膝を屈し、立ち上がれなくなったことも幾度もあった。
しかし、その度に、このペンダントがキラリと光るのだ。
その度に、遠くの未来に存在するシャルラッハに励まされているかのような気分になった。
どちらかと言えば、優しく励ますよりは叱咤激励の類いだったが。
それでも、ひとりの力では決して立ち向かえない、暗い昏い闇の底で、まるで雷のように光るこのペンダントが道標となってくれていた。
帰る場所が自分にある。
戻らなければならない場所がそこにある。
このペンダントという、物理的な繋がりがあったからこそ、最後の最後までこの二千年という膨大な時間の波を凌ぎきれたのだ。
何度このペンダントを握りしめたか。
二千年間、一時も肌身離さず、この繋がりと共に耐えてきた。
だから――
「――ありがとう。礼を言うのは、こっちの方なんだ」
「……」
「君にずっと、助けられていたんだ」
しっかりと彼女の眼を見て、言葉以上の想いをこめて。
ずっとずっと言いたかった想いを伝えた。
「……そう。ウートベルガとのやり取りの時に、助けられてばっかりだって言ったのは、そういうこと」
「うん。ようやくこれを君に返せる時が来た。モノがモノだけに、ふたりの時じゃないとダメな気がして……」
これはアルグリロット家の家督継承の証だ。
これを無くすのは以ての外で、他人に預けることは自らの命と魂を預けるに等しい行為なのだ。
異性に渡すとなればそれはとんでもないことで。
長いアルグリロット家の歴史では、『結婚相手』やそれに比肩する者に預けることぐらいしか事例はない。
だからこそ、これを返すところを誰かに見られるのはさすがにマズい気がしたのだ。
「…………」
シャルラッハはしばらくの間そのペンダントを手に、確かめていた。
「ずいぶんと、色あせましたわね」
「二千年経ったからね。でも、さすがアルグリロットお抱えの魔法造型師の仕事だ。欠けることもなく、紋章の輝きだけは今でもそのままだ」
十字の紋章が刻まれた部分は色あせはしているも、その輝きは新品のようだった。
これだけ見ても、このペンダントがどれほど素晴らしい出来なのかが分かる。
「…………」
シャルラッハは手で弄ぶように確かめていたそのペンダントを、クロの服の中に再びしまい込んだ。
「え?」
返すつもりだったのに、また戻された。
シャルラッハの意外な行動に、またも戸惑うクロ。
「……これはまだ預けておきますわ」
とん、と服の中のペンダントを手で押さえ、シャルラッハが言う。
「これを返してもらうのは、あなたの目的が果たされた時にしましょう」
「……俺の、目的が?」
クロの目的はこれまでと何ら変わりない。
アトラリアの最奥に行って、グリモアを消し去る。
いったいどれほどの時間がかかるか分からない。
「ええ。ちゃんと全部終わってから、あらためて受け取りますわ」
「え……でも」
「お黙りなさい」
シャルラッハが強い口調でクロの言葉を遮る。
「あなたの手で、直接、わたくしに返すの。いいですこと?」
有無を言わさぬ言葉だった。
挫折することは許さない。
目的を定めたなら、絶対にやり遂げろと。
そして、無事に帰って、このペンダントを返せと。
「…………ふふ」
クロが苦笑する。
叱咤激励にもほどがある。
まったく、ヒドい女だ。
そうだ。
彼女は甘くない。
厳しい女なのだ。
多分、誰よりも厳しく。
そして――良い女なのだ。
「分かった。その時まで、これは俺が大切に持っておく」
「ええ。それでいいですわ」
返事を聞いて、シャルラッハは微笑みを浮かべた。
「あとひとつ」
「……何?」
「わたくしのことはシャルラッハと呼びなさいな。いつまでも班長じゃ、他人行儀すぎますわ」
「……」
たしかに、とクロは思った。
もう自分はグレアロス騎士団の兵でもなければ、シャルラッハ班の一員でもない。
過去の自分を直接目の当たりにして、それに引きずられるようにこちらの意識も過去のものに近づいていっていたのは自覚している。
そういうことがあり、過去の自分がしていた呼び方を今でも使っていた。
自分からすれば二千年前の記憶だ。
ところどころ霞んで思い出せないことも多々ある。
だから、むしろそれを思い出せて嬉しい自分もたしかにいた。
マーガレッタさん、アヴリルさん。およそエルドアールヴが呼ぶには違和感があるそれは、クロにとって懐かしい場所に戻ってきた喜びゆえのことだった。
だが、シャルラッハは違った。
彼女のことは班長と呼び、名前を呼んだことは過去も現在も一度もなかった。
「…………」
これまで、エルドアールヴとして未来を知っている状態で生きてきた。
英雄だなんだと言われても、未来を知っている限りそれを誇ることなんて出来なかった。
エルドアールヴは今まで、過去の歴史を見ながら前に進んできたのだ。
だから、そう、もうそろそろ前を見ないといけない。
「分かったよ、シャ…………」
少し恥ずかしい。
まるで少年時代に戻ったかのようだ。
女の子の名前を呼ぶのが、こんなにも恥ずかしいものだったとは。
「…………」
意を決して、自分をずっと支えてくれた少女の名を、
「……シャルラッハ」
呼んだ。
「ふふ……あなた、顔が真っ赤よ」
シャルラッハが笑うが、
「……君もじゃないか」
彼女もリンゴのように真っ赤になっていた。
「う……うるさい! もう、いいから降ろしてちょうだい!」
バタバタとシャルラッハが腕の中で暴れ出す。
「さっきまで体を預けてたのは君なのに……理不尽だ」
「お黙りなさい!」
夜風は少し冷たく、今の火照った体にはちょうどよく感じた。




