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エリクシアオブライフ ~不死の災いと悪魔の写本~  作者: ゆきわ
外章『純悪胎動』編

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1 毒沼の魔物、大海を知らず。されど、星海の高きを知っている。




 地上より遙か高く、山脈よりも更に上。

 雲の合間に隠れるように、吹き荒ぶ強風に乗って流れる影があった。

 それはまるで海に浮かぶクラゲのような風貌だった。


「ハァー……はぁ……ハァー……」


 その正体は、先日グレアロス砦を襲撃した特級の魔物。

 ウートベルガだった。

 かつての彼とは見間違えてしまうほどに弱々しく、体は所々がボロボロの様相で、少しずつ崩れていっている。

 文字通りの瀕死だった。

 まさしく風前の灯火のような状態だった。

 呼吸すらままならない。

 崩壊していく肉体を風にさらすことでしか移動できないほどに、彼は弱っていた。


 あり得ない威力の『断空』。

 それが直撃して、こうして命を繋いでいるのは奇跡と言うに相応しい。

 背に乗せていたデルトリア伯の肉体が、ほんの僅か『断空』の威力を削いでくれたのもあるが、やはり最も大きいのは『運』だった。

 九死に一生と言うにはあまりにも手遅れな致命傷。

 しかし、まだウートベルガは生きていた。


 気を抜けばそのまま永遠の眠りにつけるだろう。

 今のように、死への苦痛を感じながら生き続けるのはあまりにも酷だ。

 しかし、彼には目的があった。

 どうしても辿り着かなければならない場所がある。

 今、彼がこうして生きているのは、使命感がゆえ。

 気力だけで生きているような状態だった。


「……あッ、ぐッ……ハァハァ……ハァ……」


 朦朧とした意識の中で、ウートベルガは己が決めた大命を想う。

 これを果たさずして死ぬわけにはいかない。

 自分の命などどうでもいい。

 ただ、この意志を、この大命を果たす。

 それだけを考えていた。




 ◇ ◇ ◇




 半年以上前のことだ。

 ウートベルガは魔境アトラリアの禁域で、とある魔物を殺す機会を窺っていた。

 その魔物とは他でもない、『魔物の英雄』ヴォゼだった。

 理由は簡単だ。

 気に入らないから。

 ただそれだけの理由だった。魔境アトラリアとはそういう場所である。


 ヴォゼは昔から、『最古の魔物』エストヴァイエッタに気に入られていた。

 エストヴァイエッタは自分を慕う者には何の興味も示さない。

 彼女が昔から気に入るのは、自分に対して牙を剥く者のみだった。


 ウートベルガにとってエストヴァイエッタは神のごとく崇める存在である。

 牙を剥くなど愚の骨頂。

 天地が逆さまになってもあり得ない。

 それゆえに、ウートベルガは崇拝するエストヴァイエッタと会話などしたことすらなかった。

 ほとんどの魔物はウートベルガのような立ち位置であった。


 対して、ヴォゼは異端の魔物だった。

 エストヴァイエッタはおろか、他の最古の魔物にすら噛みつく始末。

 敵うわけのない相手。

 絶対に届かない次元違いの怪物たち。

 そんな相手に果敢にも立ち向かう姿から、ヴォゼは『魔物の英雄』と謳われるようになっていた。

 普通なら――といってもでの普通だが――死ぬ。

 最古の六体を敵視し、戦い、負けて生き延びた魔物はヴォゼ以外にいない。

 魔物以外にあとひとり、魔物の中でも伝説になっている『反逆の翼』のみだ。


 特別が過ぎた存在。

 それがヴォゼだった。

 気に入らない。

 ウートベルガは心の底からそう思っていた。

 だからこそ、ヴォゼを殺すために、自分の全力を懸けて動いていた。

 ウートベルガはスライムだ。

 スライムは潜み、忍び、決定的な隙を見て動く慎重な魔物。ウートベルガもその例に漏れず、そういう闘いを好んでいた。

 ヴォゼの暗殺を狙い続けて数年。

 ウートベルガに転機が訪れる。

 それが、今から半年ほど前のことになる。


 エストヴァイエッタが現れたのだ。

 もちろん、ウートベルガに会うためではなく、彼女の目的はヴォゼだった。

 自らが崇拝する魔物が目の前に現れる中、とてつもない緊張の中、ウートベルガは隠れ潜みながらふたりの会話を聞いた。


 いわく、暇つぶし。

 いわく、面白そうだから。

 そういう理由で、エストヴァイエッタは『悪魔の写本』を取ってこいとヴォゼに命令した。

 当然、素直に聞くヴォゼではない。

 しかし、エストヴァイエッタはエサを用意していた。

 もしも悪魔の写本を取ってきたら、その時は『本気』で相手をしてやる。

 そういう条件を提示していた。

 そう、ヴォゼと闘ったことのあるエストヴァイエッタは、闘いの中で全力を出すことはなかった。

 全力を出す必要性がないからだ。

 それほどまでに実力の乖離がある。それが最古の魔物である。


 そして、ヴォゼは了承した。

 ウートベルガにとっては理解の外。

 戦闘狂の考えなど理解できるはずもない。

 困惑の極みにあったウートベルガは、気がつけば、ふたりの前に姿を現していた。

 その時の行動はウートベルガ自身も理由は分からない。

 ただ、この機会を逃してしまえば一生後悔する。そんな予感からの行動だった。


 その任務を自分にも手伝わせてほしい。

 そう希った。

 殺されてもおかしくない愚行だった。

 エストヴァイエッタにとって、他の魔物など道端の石にすら劣る存在である。

 そんな輩が話しかけてくること自体、不快極まりないことなのだとウートベルガは知っている。

 しかし、意外にもあっさりと了解された。


 悪魔の写本を取るための計画があるが、ヴォゼが素直に聞くはずがない。

 計画を円滑にするための役がどうしても必要だったのだ。

 そしてこれが、ウートベルガがエストヴァイエッタとした初めての会話だった。

 感激だった。

 感無量だった。

 エストヴァイエッタにとってはお遊びでしかない計画。

 それでも、ウートベルガは真剣だった。


 それから、内密に『増殖』したウートベルガはヴォゼの後をつけて二手に分かれて人境レリティアを目指した。

 一方のウートベルガは、エストヴァイエッタが指定した場所で、とある人物と出会う。

 笑い声が不快な男だった。

 人間なのか、それとも魔物なのかも分からない不気味な男。

 枯れ木のような出で立ちで、魚のようにまん丸な赤い眼をしていた。

 エストヴァイエッタの古い知り合いらしい。

 ジズと名乗ったその人物は、人を紹介すると言った。

 どうやらその人物も、悪魔の写本を必要としているとのことだった。

 エストヴァイエッタも了承済みだったため、文句を言いながらもそれに従った。

 その相手こそが、デルトリア伯である。




 ◇ ◇ ◇




 あの断空を食らってから一体どれだけの日数が過ぎただろう。

 もはやウートベルガには分からない。

 あと少し、あと少しで目的の場所へ着く。

 レリティアからアトラリア山脈を風で越え、境域を抜けて深域へ。

 長い長い、深域の空旅を越え、そしてようやく目前に禁域が見えた。

 あと少しだった。

 この禁域を越えて、更に東の果て、最奥の手前まで。

 そこに用がある。


「ぐ……うぅ……ッ」


 しかし、そこで運が尽きたが、あるいは限界が来たか。

 風が止む。

 少しずつ、少しずつ高度が下がっていく。

 待ってくれ。頼む。あと少しなんだ。

 その思いも虚しく、ウートベルガは地上へと落ちていく。

 やがて落ちた先は、岩場とおぼしき場所だった。


「く……そ……」


 ずるっ、ずるっ……と岩場を這う。

 しかし、なめくじのような速度しか出ない。

 このままでは目的地に着く前に、先に自分の命が尽きる。

 それどころか、他の魔物に踏み潰されて殺される可能性すらある。

 やっとここまで来たのに。

 空を羽ばたく他の魔物から隠れてここまで来たのに。

 それなのに、こんなところで終わってしまうなんて。


「エスト……ヴァイエッタ……さま……」


 己が決めた、生涯の主の名を呼ぶ。

 あの御方のために、ここまで来たのに。

 あの御方のために、生涯の全てを懸けたのに。

 あの御方が示した大命を果たすために、命を懸けたのに。

 もはや小さな水たまりのような形状になったウートベルガが、涙を流す。

 自分が死ぬことへの哀しみではない。

 これは、大命を果たせないことへの悔しさだ。

 悪魔の写本を取ってくるという任務は果たせなかったが、ようやく手に入れたのだ。

 あの御方が最も欲しがった情報を。

 あの御方が遙か昔に命じた――大命を。

 これを伝えられずして死ぬことが、どれほどの無念さか。


 ウートベルガが絶望を感じ、自らの天命の弱さを呪う一歩手前。

 声が聞こえたのはそんな時だった。




「――余の名を呟いた無礼者はキサマか」




 岩場の奥から聞こえたその声に、世界が変わる。

 大気は静観を貫き、草花は息を潜める。

 大地は緊張に満ち、木々が頭を垂れる。

 声の主の凄まじい重圧を受け、深閑とした世界が顕現する。


「あ……あぁ……」


 ウートベルガはあまりの驚きに、出した声は言葉にならない。

 それもそのはず、目の前にいるその存在は彼が目的としていたものに他ならない。


『傾天の幼麗』エストヴァイエッタ。

 この魔境アトラリアを統べる魔物のひとり。

 魔物の中でも最強の――否。

 この世の生物すべての中でも、最強の座に君臨する個体の一柱である。

 人型に近い彼女は、『魔人』と呼ばれる種の原型。


 ウートベルガはその姿を見て、思う。

 やはり、似ている。

 あの悪魔――エリクシア。

 瓜二つだ。

 双子なんてものじゃない。

 そのものだ。

 実は同じ存在なのだと言われてしまえば信じてしまいそうなほどに。


『最古の六体』。

 彼女こそはその中でも最も美しく、最も麗しい魔物。

 銀河色の髪は艶やかに煌めいて。

 雪結晶のような純白の肌は目映いほどに澄んでいて。

 薔薇色の朱眼は、空の太陽すら凌駕するほどに輝かしい。

 瑞々しい薄紅の唇は禁断の果実を思わせる誘惑を秘めている。

 その体を包む絹のような滑らかな衣装は純白で、彼女の美しさを更に引き立てており、その周囲をふわふわと浮かぶ羽衣は、まるでオーロラのように光り輝いていた。

 奥ゆかしさと派手やかさを併せ持ったその容姿は、女神と称するに相応しい。

 幼く小さなその体躯は、儚さと愛らしさを内包している。

 しかして最強。

 体から発せられるエーテルは尋常逸脱の強さが渦巻いて、彼女の体ごと宙に浮かせている。

 今ここに存在するだけで空間がひび割れそうなほどに、重く、強い。

『傾天』。

 天を傾かせるとは言い得て妙で、彼女にはそれを実現する絶対的な力がある。


「なんだキサマ。すでに死に体ではないか」


 眉根を寄せるその仕草すら芸術だった。

 彼女のあらゆる行為、行動が、あらゆる生物を魅了する。

 生まれながらの美。

 それが、魔物エストヴァイエッタである。


 おそらく、以前に会ったことを覚えていないのだろう。

 あの時、彼女はウートベルガを見ていなかった。

 興味もなかった。

 つまりは、どうでもよい存在だったのだ。

 それに対して哀しみの感情などはウートベルガにはない。

 それが当然だからだ。


「エストヴァイエッタさま、貴方さまに、お伝えしなければならないことが」


 ウートベルガが言う。

 瀕死の体だったのが嘘のようだった。

 彼女を前にして、体の苦痛などもはや気にもならない。

 黒い水たまりのような形になっていたウートベルガは、命の全てを使い潰して、生涯最後の言葉を紡いでいく。

 しかし、


「なぜ、余がキサマの話を聞かねばならぬ?」


 エストヴァイエッタは意にも介さない。

 その冷たさは氷河の如く。

 ウートベルガの命など僅かにも気にとめない。


「キサマのせいで久方ぶりの散歩が台無しだ。気に入らぬ、不愉快だ。疾く、死ね。余の手間をかけさせるでないぞ」


 今すぐ自決しろ、と。

 エストヴァイエッタが冷たく言い放つ。

 言われた方のウートベルガの心中は、そんな無茶な言葉ですら感激の想いに満たされる。

 彼女がそれで喜ぶのなら、自分の命など些細なものだ。

 それほどの忠誠がウートベルガにはあった。

 だが、しかし、それでは己が大命を果たせない。


 思えば生まれて500年余。

 魔境の毒沼で生を受け、死にもの狂いで生きてきた。

 他の魔物を騙し、陥れ、裏切り、必死に生きいていた。

 この世は実力主義の弱肉強食で、生きていくには強く在るしか方法はなかった。


 そんな中で、ウートベルガは強烈な出会いに心奪われた。

 それが、エストヴァイエッタとの出会いである。

 出会いと言っても、遠くから彼女を眺めたという程度のものだった。

 しかし、ウートベルガにとっては信じられないほどの衝撃だった。

 あまりにも美しいと、あまりにも尊いと。

 そう思ってしまったのだ。

 暗い毒沼で育ち、周囲には醜悪な魔物たち。

 そんなウートベルガがはじめて出会ったキレイなもの。

 それがエストヴァイエッタだった。


 女神のように微笑みながら、生まれ育った毒沼を、そこに住む魔物ごと消し飛ばした。

 ただ汚らしいという理由で。

 ただ目障りだったという理由で。

 彼女は全てが許される。

 文句を言う者などひとりもいない。

 なぜなら彼女は誰よりも強く、反抗する者は尽く叩き潰されるからだ。

 それ以外は、彼女の美しさに心奪われた者だけだ。

 たまたま生き残ったウートベルガのように。


 それ以来、ウートベルガは彼女の信奉者となった。

 彼女は大勢の部下を持たない。

 実際に彼女に付き従うのは極少数の認められた魔物のみ。

 しかし、彼女を崇める魔物の集団がある。

 それを構成するのはウートベルガのように、彼女を信奉する魔物たち。

 その数、およそ三百億。


 この魔境アトラリアにはとてつもなく大きな集団が三つあり、ほとんどの魔物はそのどれかに属している。

 魔境『三大派閥』と言われる、それぞれが『最古の魔物』に従う魔物の集団。

 そのひとつが、エストヴァイエッタの派閥である。


 他の派閥と違って、エストヴァイエッタが指揮することは決してないが、極稀に気まぐれで命令を出すことがある。

 これまでエストヴァイエッタが表立って命令したものはたった二つ。

 その二つをウートベルガたちは『大命』として扱っていた。


 そして、そのひとつをウートベルガは成し遂げたのだ。

 それは――


「『反逆の翼』……の正体を、貴方様に、どうしても……お伝えしたいのです」


 千年前。

 エストヴァイエッタと闘った不死者の正体を探ること。


「――――申せ」


 エストヴァイエッタの怒りが急速に消えていく。

 じっとウートベルガを眺める。


「反逆の……翼と……闘いました」


「強かったか?」


「はい。伝説の通りに」


「そうか。くくく……そうか」


 エストヴァイエッタが笑う。

 とてつもなく嬉しそうに。


「顔を……名を、知りました。それをお伝えしたく……」


 ウートベルガが体に力をこめる。

 ボロボロの体が一層激しく崩れていく。


「貴方様の想い人を、真似る無礼をお許しください……」


「……よい、許す」


 そして、黒い水たまりのウートベルガの表面が変わっていく。


「こちらが……その顔でございます」


 驚くべきことに、ウートベルガの表面に、クロの顔が浮かぶ。

 力の全てを使う。

 彼女に真を伝える、ただそれだけのために。


「それが、『反逆の翼あやつ』の顔か。うむ」


「名を……クロ・クロイツァー……と」


「――クロ・クロイツァー」


 エストヴァイエッタはウートベルガの言葉を反芻する。

 しっかりと心に止めるように。

 それを見届けたウートベルガは満足したかのように、


「大命を……果たせました」


 体から力を抜いていく。

 崩れていく。

 少しずつ。


「――待て」


 そこに、エストヴァイエッタが言った。


「名を、申せ」


「……クロ・クロイツァー……で、ございます」


 言われるままに再び答えたウートベルガだったが、


「違う。キサマの名だ。余はキサマの名を知らぬ」


「え……」


 まったく見当違いだったことに気づく。


「分からぬか?

 大命を果たした忠臣の名を知りたい。そう言ったのだ」


 何たることか。

 ウートベルガは慮外の出来事に仰天する。


「あ……ああ……」


 そんな有り難い言葉を、自分などに。


「余に名乗らぬまま死ぬでないぞ。疾く、申せ」


「ウートベルガ……にございます……」


 初めて、崇拝する御方に名乗る。

 光栄の至りだった。


「余の忠臣ウートベルガよ、よくぞ我が命を果たした」


「……有り難き……幸せに、ございます……」


 こんなことが起こっていいのか。

 こんな幸せが死の間際に起こっていいのか。

 信じられないことが起こっている。


「そのまま死なすのも些か不憫だ。余が介錯をしてやろう」


 言って、宙を浮かぶエストヴァイエッタが移動する。

 ウートベルガの元ではなく、深域の方向へ。

 ここは魔境アトラリア禁域の入り口。

 近くには深域への境がある。

 エストヴァイエッタはその境に手を伸ばす。


「……未だ余らの自由を奪う結界よな」


 すると、バチバチバチッ、と光が明滅し、エストヴァイエッタの手を弾く。


「あああああああッ!! なんということを……ッ! 御手が……ッ、すぐに手当てを……ッ!!」


 ウートベルガが発狂したかのように叫ぶ。

 死の間際、再び命に火を灯す。


「よい。取り乱すな」


 エストヴァイエッタの手が、真っ赤な血に染まっている。

 禁域と深域の境にある大結界。

『最古の六体』の出入りを封ずる絶対禁忌の結界である。

 たった六体に対してのみ発動するがゆえに強力。

 逆に言えば、これがあるからこそ、最古の六体は人境レリティアに来られない。

 つまり、この大結界があるからこそ、人類は今も存続していると言っていい。


 反逆の翼の正体を探ること。

 そして、禁域の大結界を解くこと。

 このふたつが、ウートベルガたち信奉者が受けた『ふたつの大命』の詳細である。


「余の血はこの魔境アトラリアの宝とまで言われる至高の味。くれてやろう、忠臣ウートベルガよ」


 言って、ゆっくりとウートベルガに近づく。


「あ……ああ……」


 ウートベルガはその手についた血から目が離せない。

 とてつもなく惹かれる。

 アトラリアの宝?

 違う。

 そんな程度のものじゃない。

 この星の宝だ、この真血は。


 エストヴァイエッタの尋常ならざるエーテルが凝縮されたそれは、生物にとって劇薬に他ならない。

 その味は、この世の何よりも美味であり、中毒性があまりにも高い。

 エストヴァイエッタの血はたった一滴でも致死量だ。


「忠臣ウートベルガよ、キサマが瀕死なのは、反逆の翼――いや、クロ・クロイツァーと闘ったからであるな?」


「は……はい」


「キサマは幾ばくの命もない。核が砕かれている。助かる術もない。回復する見込みは絶無。であれば余がキサマに出来うるのは、いかな死に様を与えるか、だ」


 つつ……と、エストヴァイエッタの血がその手を伝う。


「どうせ死ぬのだ。ならば、キサマには極上の褒美をやろう」


「あ……ああ……あああ……」


 ウートベルガに手を差し出す。

 指先を真っ直ぐウートベルガに向け、その血を指先に溜める。

 ゆっくり、ゆっくりと血が溜まり、今にも落ちそうになっている。


「さぁ、だらしなく口を開け。浅ましく舌を伸ばせ。

 余が許す。情動のままに、この血を飲むがいい」


 ぽたり、と。

 エストヴァイエッタの血が、言われるままに行動したウートベルガの舌に落ちた。


 瞬間。

 この世のものとは思えない甘美な味が広がった。

 あまりにも美味。

 血に酔う。

 崩れ去りそうな細胞の隅々にまで行き届く、至極の味。

 文字通り、天に昇る心地。

 筆舌に尽くしがたいこれが、星の宝。


「ああ……生まれてきて、よかっ……た」


 断空をくらい、死が確定し、それでも自分の崇拝する方のために、地獄のような苦しみを耐えてここまで来た。

 それもすべては彼女のため。

 彼女の役に立ちたがったがため。


 これは恋でも愛でもない。

 そんな感情はおこがましい。

 彼女がそうなる相手は、この世でたったひとり、反逆の翼のみだ。

 だからこそ、クロ・クロイツァーの力を確かめるように闘った。

 そして、確信した。

 反逆の翼こそが、この至高の存在に連れ添うに相応しい。


 ウートベルガのこれは、そう――これは忠心だ。

 ウートベルガはまさしくエストヴァイエッタの忠臣だった。


「大義であった」


 至上の幸福に満たされながら、ウートベルガはその生涯を閉じた。




 ◇ ◇ ◇




 しばらくして、ひとり岩場に浮くエストヴァイエッタが呟く。


「屍をさらし続けるのは本望ではなかろう」


 自分の指についた血をぺろりと舐めて、その指をほんの少し弾く。

 すると、周囲の岩場が激変する。

 巨大な岩が動き出し、完全な水たまりになったウートベルガの姿を隠す。

 これは墓だ。

 死した忠臣に対しての、エストヴァイエッタの最大限の配慮だった。


「……さて、そろそろ戻るか」


 言って、ふわふわっと宙を漂うように動き出す。

 ウートベルガの墓が見えなくなった頃。


「くくく……くっくっく……」


 エストヴァイエッタが嬉しさを堪えられないかのように笑った。


「クロ・クロイツァー」


 呟く。

 ずっとずっと知りたかった、彼の名を。


「クロ・クロイツァー」


 何度も。

 何度も呟く。


「クロ・クロイツァー」


 何度も。

 愛おしげに。

 まるで恋焦がれる乙女のように。


「余はキサマの感触をまだ覚えている」


 その小さな手で、自らの体をなぞる。

 ふとももから腰、そして胸元から首筋に、そして頬にまで撫であげる。


「ああ、キサマの胸を貫いて、心の臓を直接握ったあの感触」


 自らの体を抱きしめる。

 溢れ出す感情を抑えるかのように。


「キサマの血の温もり……血の香り、余に向かって来るあの気迫。

 全てが懐かしく、愛おしい」


 エストヴァイエッタのエーテルに共鳴するかのように、地鳴りが響き、天が震えている。

 彼女のエーテルが、ドクン、ドクンと脈打つ。

 エーテルのあまりの量に、空間が捻れ、まるで陽炎のように揺れ動く。




「ああ、キサマこそが――余の伴侶に相応しい」




 これはもはや天変地異だ。

 彼女の周囲には、あの『断空』を遙かに超える量のエーテルが次から次へと脈打っている。

 体の奥底から溢れ出たエーテルだけでそんな途轍もない量だ。その実力のほどはもはや次元が違いすぎて理解の外である。

 感情が高ぶっただけで世界が変わる。

 これが、『傾天の幼麗』エストヴァイエッタである。




「愛しきクロ・クロイツァー。最愛の人。

 はやく――はやく、ここまで来い」




 反面、エストヴァイエッタの表情は、恋する少女のそれだった。

 乙女が夜空を眺め、意中の人を想うかのように。

 抑えきれない恋心、その想いを抱きながら悩むこれはまさしく『純愛』だ。




「はやく――キサマとあいし合いたい」




 ただし、間違えてはいけない。

 見誤ってはいけない。

 彼女は魔物である。

 彼女は最強の一角に座する魔物である。


 彼女は『最古の魔物』エストヴァイエッタ。

 天を傾けるほど幼く麗しい『傾天の幼麗』。


 彼女に狙われるということは、

 それすなわち、絶対に逃れられないということを意味しているのだから。











――――外章『純悪胎動』編――――




 



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