70 グリモア詩編・第十三災厄『希望』、不死者『アンデッド』
歓声はいつまでも鳴り止まない。
グレアロス砦の兵士たち。
砦にいた冒険者のグループ。
砦に住む若手の住人たち。
あるいは、すでに引退していた老兵たち。
この火急の事態に参戦し、命を懸けてこのグレアロス砦を守ろうとしていた彼ら彼女らの感情の振り幅は凄まじいものだった。
何しろ、あのエルドアールヴが救援に駆けつけたのだ。
絶望的な戦況だった。
軍勢とも言える魔物の群れが襲撃してくるという異常事態。
3体もの準特級の魔物。
そして、特級の魔物ウートベルガ。
さらには、このデルトリア辺境を統治するデルトリア伯ことフリードリヒ・クラウゼヴィッツの裏切り。
波のように押し寄せてくる危難の連続。
生きた心地はしなかっただろう。
死を覚悟していただろう。
しかし、生き残った。
砦を守るという使命を貫き通した。
あの、伝説の英雄エルドアールヴと共に。
昔話やおとぎ話の中に登場する偉人と共に戦ったのだ。
誇りは胸に。
高揚は心に。
昂ぶりは魂に刻まれる。
たとえその正体が誰であれ、今感じている情動は変わりなく、天を衝く勢いで迸っていた。
「…………」
エリクシア・ローゼンハートは兵士たちが歓喜している端で、立ち尽くしていた。
自分を命掛けで助けてくれようとしたガラハド・ベネトレイトは、騎士団の救護班に連れられていった。
なにしろ片腕を斬り飛ばしたのだ。
さすがの完全回復薬でも肉体の欠損までは治せない。
付き添いを申し出たが、ガラハド本人に断られた。
こっそり耳打ちされたのが「戦いは終わったが悪魔の立場は変わっていない。だからこそ、今はクロ・クロイツァーの傍にいろ」という言葉だった。
ガラハドはエリクシアの頭を不器用に撫でながら、「あいつなら何があっても何とかしてくれる」と笑っていた。
今、エリクシアの瞳が映しているのは、かの英雄と成ったクロ・クロイツァー。
彼と話しているのは副団長。
このグレアロス砦防衛戦の最高責任者であるマーガレッタ・スコールレインだ。
副団長の立場として英雄エルドアールヴに礼の言葉を伝えている最中だった。
周囲の兵士たちはエルドアールヴには近づかない。
あまりにも憧れが過ぎる存在であるがゆえ、わきまえた態度を心掛けているのだ。
だからこそエルドアールヴに殺到することはせず、英雄の動きを邪魔しないという、ある種の不文律が兵士間に出来上がっていた。
「…………」
エリクシアはそれを見て、
自分ではどうしようもない、昏い不安を感じていた。
「そなたが何を感じているのか当ててみせようか?」
エリクシアに話しかけてきたのは、エーデルヴァイン・エルフィンロード。
ウートベルガの毒を見事に中和した功労者のひとりだ。
「男子、三日会わざれば刮目して見よ」
「……え?」
「人というものは、たった数年で変わってしまうものじゃ。クロ・クロイツァーは二千年。そなたとあやつはそれだけの隔たりがあるわけじゃの」
「…………」
「不安なのじゃろ? あやつが本当に、自分の知っているクロ・クロイツァーのままなのか。変わってしまったことが、不安でたまらないのじゃろ?」
エーデルの言葉は、エリクシアが感じていたものを正確に表していた。
クロとは、特に長い時間を共に過ごしたわけではない。
出会ったのはほんの数日前だ。
時間だけで言えば、ただの顔見知りだと言っても差し支えない。
しかし、エリクシアにとっては人生が激変した数日だった。
彼と会ったからこそ、『希望』を得た。
何度命を助けられたか分からない。
共に闘いを乗り越えて、心が通った実感があった。
しかしその途中で、グリモア詩編『変革』によって彼と離れ離れになってしまった。
離れた時間で言えば、自分にとってはほんの数分の出来事だった。
しかし彼にとっては『二千年』もの長い時間。
「あやつが英雄として帰還したことが、逆に不安になっておるのじゃろ?」
その隔たりが、怖くてたまらない。
二千年だ。
彼はそれほどの長い時を不死で過ごしたのだ。
いったいどれほどの想いで今ここにいるのか。
エリクシアには想像すらできない。
そのクロの想いが、彼をどんな風に変えてしまっているのか、それが不安でたまらない。
「…………はい」
絞るような返事だった。
あえて言葉にされることで、その不安はより大きくなっていく。
「…………」
エリクシアは手をギュッと握る。
クロ・クロイツァーの顔を遠くから眺める。
「くくく……そなたはまだ、クロ・クロイツァーという人間のことを分かっていないようじゃの」
「……え?」
「普通は変わる。百年あればエルフであっても変わらざるを得ないじゃろう。時の流れはそれほどに強い影響を受ける。人であるなら赤子から老人になる。
あやつの場合は二千年。国が興り、時代が変わり、文明も変わるほどの長い時間じゃ」
「………」
「しかし、アレは普通ではないのじゃ。まぁ、マトモであったなら二千年などという時の流れに人の心が耐えられるわけはない」
エルフの王であるエーデルは、その小さな指で示す。
「見よ」
かの英雄を。
よく見知った、あの少年を。
◇ ◇ ◇
「正直、おどろいたぞ。まさか貴公がエルドアールヴだとはな」
マーガレッタが言う。
こうして彼女と、ありのままの自分として会話するのは本当に久しぶりだった。
彼女とは何度か会った。
グラデア王国の晩餐会などでは、英雄エルドアールヴとして仮面越しに挨拶をする程度だった。
だからこうしてクロ・クロイツァーとして会話をするのは本当に二千年ぶりになる。
「黙っていて、すみません」
「謝ることはない。貴公にも、事情というものがあったのだろう?」
そして、エルドアールヴとしてではなく、クロ・クロイツァーとして接してくれているのが本当に嬉しい。
「強く、なったな。同志クロイツァー」
マーガレッタが手を伸ばしてきて、それが握手だということに気づいたのは数秒遅れてからだった。
ギュッと手を握り合う。
周囲でワッと歓声が上がる。
「マーガレッタさん」
歓声に混じって、クロが言った。
「もうひとつ、謝らなければならないことがあるんです」
「ん? なんだ?」
クロが背後を見る。
そして、その人物を呼び寄せる。
「……? 彼女はたしか、エーデルヴァイン王の従者だったか」
クロが呼び寄せたのはフードを被った少女。
ヴィオレッタだ。
この闘いにおいては砦に侵入しているかもしれない魔物の索敵から、増殖するウートベルガの監視、戦況の情報収集まで多岐に渡る影の活躍をしてくれていた。
毒を中和していたエーデルを守る役目もあり、水面下で頑張っていたのがこのヴィオレッタだった。
当然、エルドアールヴであるクロの仲間だ。
「……エルドアールヴ」
ヴィオレッタがクロを呼ぶ。
どこか尻込みしたような様子だった。
「もう大丈夫。エルフとの約束は果たした。ここまでずっと隠し通してきた。もう刻の枷はない。だから、君との約束を今、果たす」
クロが言う。
ヴィオレッタの背中を押すように、ゆっくりと彼女を前に促す。
「……なんだ? どういうことだ?」
マーガレッタは困惑していた。
当然だった。
エーデルの従者で、マーガレッタとはエルドアールヴ同様に面識はあるが、いつもフードで顔を隠しており、会話もしたことはなかった。
マーガレッタ自身も、彼女はエーデルの影に徹する役目を持っていることを理解しており、顔も名前も明かさないことを不思議にも思っていなかった。
「マーガレッタさん。どうしても言えない事情があったとはいえ、ずっと隠していて……すみません。あなたとの約束も、今、果たします」
クロがマーガレッタに言った。
そして、ヴィオレッタがそのフードを取った。
「――――――――」
マーガレッタが、絶句する。
体が固まる。
「……久しぶり、です」
フードを取ったヴィオレッタは、夏の空のような青い髪と青い瞳。
マーガレッタの、冬の湖のような青い髪が風で揺れる。その青い瞳も同じように、微かに揺れていた。
「まさ……か……」
一歩、マーガレッタが近づく。
その体は震えている。
「……まさか、ヴィオレッタ……なの、か?」
そして、教えられたことが一度もないはずの、彼女の名前を呼んだ。
「……はい。4年振りですね、姉さん……」
「ああ……ああ……ッ」
マーガレッタがヴィオレッタを抱きしめる。
ギュッと、強く。
「姉さん……ずっと、黙っていてごめんなさい……」
ヴィオレッタもまた、マーガレッタの体を抱きしめて、姉との再会を噛みしめていた。
「ヴィオレッタ……ヴィオレッタ!
本当に、お前なんだな……?」
ヴィオレッタを確かめるように、背中を撫でている。
マーガレッタの表情は、放心したままだった。
事実に思考が追いついていない。
それも当然か。
4年もずっと捜し続けていて、それでも見つからなかった妹が、目の前に現れたのだ。
「……貴公が、4年前に、助けてくれていたのか」
「はい」
クロが答える。
何も隠す事実はない。
4年前、マーガレッタの妹であるヴィオレッタを魔人樹から助けた。
「……すみません。本当はすぐにでもヴィオレッタが生きていることを伝えたかったのですが――」
それは出来なかった。
マーガレッタに、ヴィオレッタを助けたことを伝えてしまったら『事実』が変わってしまう。
彼女から妹のことを聞いた『事実』。
それは、妹がドリュアスに捕まったこと。
ドリュアスの巣に、妹の服の切れ端があったこと。
ドリュアスは死んでいたこと。
そして、妹の安否が不明だったことだ。
歴史というものは何でも受け入れてしまう性質を持っている。
過去に飛ばされたクロ・クロイツァーという『異常』ですらも受け入れてしまうということを、『予言の民』のラグルナッシュから聞かされた。
ここで異常というのは、クロが『未来を知っている』ことだ。
未来というものは確定していない。
二千年前、ラグルナッシュがクロとはじめて会った時、「めずらしく予言が当たった」と言った。
予言とは、未来の、その可能性の一部を指摘するということだ。
めったに当たらないのが予言なのだと言う。
つまり、未来とは未だそこに存在しないものの事を言う。
デルトリア伯のグリモアの力でも未来に行くことは不可能だった。無い場所にはいけないからである。
しかし、ここでひとつの異常が発生してしまう。
未来から来たクロは、未来の確定した出来事を知っているという異常だ。
つまり、普通なら確定していないハズの未来が、確定してしまっている。
そして、歴史はそれを受け入れてしまう。
未来を知っているクロが、その未来を防ごうとしてしまったなら、簡単に歴史が変わってしまう。
だからこそ、グリモア詩編『変革』なのだ。
アレの本質は、未来を変える災いである。
クロの目的は、元の場所に帰ることだった。
ほんの僅かでも未来が変わってしまったら、どんな未来が来るのか分からない。
もしかしたら、今よりもっと悲惨なものになるかもしれない。
否、確実に悪い方向に行く。
何しろ、グリモア詩編の『災い』なのだから。
そういう事情があって、ラグルナッシュは提案した。
それは、クロに『刻の枷』をつけるということ。
クロが知っている未来に変革を及ぼしてしまう行動。
それを完全に制限する『封印魔法』だった。
これの発動条件は、歴史の異変による刻の揺らぎに反応し、クロの行動を事前に束縛するという多重複合魔法である。
気をつけなければならないのは未来を知るクロの行動そのものだった。
歴史の特異点となってしまった彼こそが、未来を破壊してしまう可能性があった。
歴史を変革してしまったその先が、人類の滅亡なんて自体になったら目も当てられない。
だからこそクロはラグルナッシュの提案を受け入れた。
過去に飛ばされた先に、予言の民として時間の研究をしていた一族の長と出会ったのは、決して偶然などではないのだろう。
クロを束縛するのは非常に簡単だった。
自覚のあるなしに関わらず、クロが歴史に介入し、変革してしまいそうな行動を取った時、彼のエーテルを根こそぎ奪えばいい。
そうすれば、クロは一切の行動ができなくなる。
元の時代に戻るため、様々な契約と約定でがんじがらめになりながら二千年を過ごしたのだ。
封印魔法は、クロが二千年前に飛ばされたその日に施行された。
つまり、歴史は一切変わっていない。
そう、クロには、歴史を変える術はなかった。
エルドアールヴとなりながら、彼はいつしかある思いを持つようになった。
それは、とある『悪魔』を救えなかったことに起因するが、
歴史の流れという『運命』に反逆する決意である。
自分の知っている未来の通りに行動すれば、なんとかマーガレッタの妹を助けることができるのではないか。
そうしてやり遂げたのが、ヴィオレッタの救出である。
助けること自体は簡単なことだった。
何しろ、年1回のゴルドアの大商祭。その前日。王都からゴルドアまでの行商。今から4年前。それだけの情報は覚えていたので、マーガレッタとヴィオレッタがいる馬車の特定は楽なものだった。
マーガレッタがクロに話した情報通り、既知の未来通り、助ける。
それが、マーガレッタにヴィオレッタの安否を隠したままにした理由だった。
「――いいや、理由なんてどうだっていい」
クロが理由を説明するより前に、
マーガレッタが言った。
「ずっと……ずっと会いたかったんだ。
この子が、生きてくれていた。私はそれでいい。それだけで、いい」
ギュッとヴィオレッタを抱きしめる。
もう離さないというかのように。
最愛の妹の生存を喜んだ。
「姉さん……」
「ありがとう、ヴィオレッタ。生きていてくれて、本当にありがとう……」
ヴィオレッタの青い髪に顔をうずめながら、マーガレッタはそう言った。
そして、
「貴公も、ありがとう。本当に…………ありがとう」
クロに顔を向けて、頬を濡らした顔を隠しもせず、
マーガレッタはヴィオレッタを抱きしめたまま、そう言った。
そこには、副団長としての彼女ではなく。
ただひとりの姉としての、マーガレッタ・スコールレインだった。
◇ ◇ ◇
エリクシアはその光景を見ていた。
それはマーガレッタとの約束。
自分もその場に一緒にいた。
彼女の妹と必ず会わせると、クロは言った。
二千年経っても、それを忘れることなく、約束を守ったのだ。
「……何も、変わって、いないんですね」
エリクシアの心には、一抹の不安も残っていなかった。
「クロは……クロのままなんですね」
「言ったであろう? あやつは普通ではない、とな」
エーデルが笑いながら言った。
「さて、あやつもそろそろ限界じゃろう」
「……限界、ですか?」
「まさか『断空』を撃つ事態になるとは思わなかったのじゃ。西側の魔物からはじまり、東側の魔物も殲滅したうえ、特級の魔物にデルトリア伯。普段より相当気を張っておったこともある。絶対に失敗は許されない闘いじゃったからの。
さすがのエルドアールヴといえども、エーテル切れ寸前のはずなのじゃ」
「……っ!」
エリクシアはクロを見る。
しかし、いない。
マーガレッタとヴィオレッタは互いに泣きながら抱き合っている。
さっきまでその傍らにいたのに、今はどこにも姿がない。
「クロは……」
「大方、そこらの路地裏にいるのじゃろう。人目を忍ぶのはお手の物じゃからな。あやつも立場がある。弱った姿など誰ぞに見せられるわけもなし。何しろ『英雄』じゃからな」
エーデルがエリクシアに補充用のパンを渡す。
「そなたが行ってやれ。いや、今行かなければならぬのは、そなたじゃ」
「わたし……が?」
「あやつがどれほどの想いで此処に至ったか。あやつの二千年を労ってやれるのは、そなた以外にはおらぬ」
その言葉は重く響く。
強く頷いたエリクシアは決意を持ってクロに会いに行く。
◇ ◇ ◇
人の気配のない路地裏で、クロはひとり座り込んでいた。
「はぁ……ハァ……」
息が切れだした。
エーテル切れの兆候だ。
どうしてもマーガレッタにヴィオレッタを会わせたくて少し無茶をしすぎた。
本来なら、『断空』を撃ったすぐ後にでもエーテルを補充しなくてはならなかったが。
「く……」
このまま眠るわけにはいかない。
そんな醜態をさらすわけにはいかない。
幻想とはいえ、エルドアールヴ。
自分が英雄だなんて死んでも名乗ることはできないが、周りはそうとは思っていない。
いつ如何なる時でも人々の安心で在らなければならない。
それがエルドアールヴだ。
「クロ!」
「エリク……シアか」
人の声が聞こえて一瞬焦ったが、相手がエリクシアなら問題ない。
彼女には散々情けない姿を見せてきていたのだ。
今さら格好をつけてもしょうがない。
「また、無茶しましたね……」
「はは……進歩がないね」
苦笑いを浮かべる。
まったくもって成長がない。
いつもこんな感じだ。
これまでの闘いも、二千年の間の闘いでも、いつもこんなギリギリだった。
脚色されて伝えられるエルドアールヴの伝説と事実とでは雲泥の差があった。
「食べられますか?」
エリクシアがパンを寄こしてくる。
これはエーデルが持っていた特注のパンだ。
エーテルの補充がスムーズになるよう調整された食料だった。
「く……ッ」
受け取ろうと手を伸ばそうとしたら、ガクンと力が抜ける。
とうとう来た。
ここが限界だ。
最後の『断空』で相当エーテルを持っていかれた。
「わたしが食べさせますね」
エリクシアが介護するように寄り添ってきた。
その丁寧な仕草がとても優しい。
エーデルあたりなら無理やり口に詰め込むところだ。
「…………」
食べやすいようにパンを千切って口に入れてくれていたエリクシアの手が止まる。
もぐもぐと咀嚼しながら、エリクシアの視線を追う。
自分の胸元あたり。
「…………」
そこには、胸にかけていたペンダントがあった。
普段は服の中にしまっているが、何かの拍子に外に出たのだろう。
「これも、ちゃんと返さないとな……」
デオレッサの滝での闘いの後エーテル切れで死んだと思われて、教会でシャルラッハに手向けられたペンダントだ。
真ん中にはアルグリロットの紋章飾りが、二千年経った今でも輝いている。
「…………」
「エリクシア?」
エリクシアは、そのメダル型のペンダントをじっと見ていた。
聖なる十字を象ったアルグリロットの紋章は、エリクシアが持っているロザリオに形状が似ている。
しばらくそのペンダントを眺めていたエリクシアは、呟いた。
「――神さまなんて、いなかったんですね」
それは、予想外すぎる言葉で。
クロにとっては、いつかの大昔に、聞いたことのある言葉だった。
自分が英雄になりたいと決意したキッカケの言葉。
姉代わりのマリアベールが泣きながら言ったあの言葉だ。
◇ ◇ ◇
なんてことだろう。
エリクシアはそんなことを思った。
これをクロがしているということ。
クロが何かペンダントのようなネックレスをしているのは知っていた。
何となく、女性からのプレゼントなのだろうか、だとか考えていた。
問題はそこじゃない。
それよりも何よりも、昔、自分はこれを見たことがある。
そう、昔に。
3年ほど前のことだ。
「君……だったんですね、クロ」
育ての母であるノエラが殺され、ひとりぼっちで生きていかなくてはならなくなった3年前。
よくよく考えてみれば分かる。
当時10歳程度の少女がたったひとりで生きていけるはずがない。
ましてや『悪魔』。
一ヶ月も過ごせたなら奇跡だ。
でも、これまでの3年間、何とか無事に生き延びれた。
危ないことは数あった。
魔物に殺されかけたことがある。
盗賊に襲われそうになったこともある。
悪人に騙されそうになったこともある。
村人や街人に悪魔とバレて殺されかけたことだってある。
森に迷って死にかけたことも。
食料がなくて飢え死にしそうになったことも。
そして、病気で死にかけたことがあった。
でも、何かしら奇跡が起こって助かった。
その奇跡が起こる時は、決まって意識が虚ろな時だった。
走り逃げて倒れた後、急に追手が来なくなったり。
森に迷い疲れて眠っていた後には、なぜか森の外で寝ていたり。
飢えて意識が朦朧としていた時には、空から果物が降ってきたり。
そして。
熱が出て宿屋で寝ていた際には、薬がすぐ傍に置かれていた。
その時のことは特に印象深い。
熱でぼやけた視界の中で、冷たいタオルを掛け替えてくれて、自分に薬を飲ませてくれた誰かがいたことを知っている。
うっすらと見えたのは、この『聖なる十字』。
「君がずっと……」
あの十字を見たからこそ、自分は神を信じた。
なけなしのお金を使って、このロザリオを買い取った。
でも、違ったのだ。
神さまなんていなかった。
自分をずっと助けてくれていたのは、
「君が――わたしを見守ってくれていたんですね」
クロ・クロイツァーだったのだ。
◇ ◇ ◇
目の前で、エリクシアがぼろぼろと涙を流している。
どうやらこのペンダントがキッカケで、自分が昔から彼女を守っていたことを知ったらしい。
「わたし、世界中の人から憎まれているって思っていたんです……。ノエラが死んでしまって、クロと出会うまで、誰も味方なんていないって……でも――」
エリクシアを守ると誓ったのだ。
どうしても彼女を守りたかった。
なんとしても、彼女を助けたかった。
「――君はずっと、わたしの味方でいてくれてたんですね……」
10年前から彼女を見守っていた。
彼女がそれ以前は何をしていたのかは結局分からなかったが、ドワーフの里は知っていた。
だから、実はエリクシアが幼い子供だった頃から知っている。
遠くから、彼女をずっと見守っていた。
「ごめんなさい……」
まだ動けない自分を抱きかかえたまま、エリクシアが泣いている。
ぎゅっと優しく抱きしめられる。
「ずっと、ずっと……気づいてあげられなくて、ごめんなさい……」
彼女の胸の中で、赤子のように抱きしめられる。
柔らかい感覚と、とても優しい香りがする。
謝らないでほしい。
それはこっちのセリフだ。
ヴィオレッタは助けられたが、ノエラは助けられなかった。
君も、まだちゃんと助けられていない。
彼女の心からの笑顔が見たくて、頑張ってきた。
二千年。
そんな長い時間をかけて、ここまで辿り着いた。
でも、やっぱり自分は英雄じゃない。
だって、今、彼女は泣いている。
二千年もの時間を経ても、笑顔に至らない。
まだ足りない。
まだ、自分は成し遂げていない。
「……ごめんなさい、クロ……」
強く、優しく、抱きしめられる。
とくん、とくんと、エリクシアの鼓動が耳に届く。
その尊い心音を聞いて、少しだけホッとする。
泣いているということは、生きているということだ。
少なくとも、彼女は今ここで生きている。
ああ、だったら、この二千年を耐えたことにも意味があったのだ。
そう考えると、体と精神が勝手に安心して、すっ……と力が抜けた。
エリクシアの温もりの中で、
クロは静かに眼を閉じた。
ほんの少しなら、休んでも罰はあたらないだろう、と。
あまりにも長い、永い時間を耐えてきた。
不死の少年はほんの少し、休息する。
遠い記憶に微かにある母の温もりによく似た、エリクシアの温もり。
ゆりかごで眠る赤子のように。
クロ・クロイツァーは静かに意識を手放した。
――――第一章『英雄胎動』編――――




