7 この世に存在してはいけないもの
深夜。
コツコツコツと、ブーツが石床を踏む音が鳴り響く。
空気が冷たく、明かりは壁に備えられた松明だけなので薄暗い。
クロは長い廊下をひたすら進んでいく。
ここ、グレアロス砦の地下には牢屋がある。
いわゆる地下牢というやつだ。
近くに出没した盗賊や、周辺の街や村で罪を犯した悪人を収容する目的で運用されている。
極稀に、捕縛した魔物を閉じ込めることもあった。
地上から地下牢に行くには長く狭い廊下を通らなければならない。
同期の語らいを終えて訓練場を出たクロは真っ先にここへ来た。
クロの目的は地下牢の最奥――最も危険な者が投獄される牢にあった。
「こんばんは、看守長」
「おお、クロイツァーか。今日は遅かったな」
ひげの生えたドワーフが、クロの訪問を歓迎した。
囚人たちを厳しい目で監視する役目を持つ看守たちをまとめる看守長だ。
騎士団のなかでも古株で、クロにとっては大先輩である。
「ジズは起きてます?」
「あいつが寝てるのをまず見たことがねェな。お前が来てくれて本当に助かるぜ」
彼は長く立派な白いひげを触りながら、しわの深い笑顔を浮かべた。
このひとつひとつのしわが、彼の生きてきた年輪を表している。
この看守長とクロは、得物が同じハンドアクスなこともあってか非常に仲が良く、いろいろな話をした。
若いころは別の騎士団の突撃隊長として腕を振るっていたらしい。
もう歳で体がついていかないとのことで、一線を退き、洞窟のなかにあったかつての故郷に雰囲気が似ているこの地下牢で晩年を過ごすと彼はクロに語った。
そんなことならもういっそ故郷に帰ったらどうか、とは言えない。
アトラリア山脈の近くにあった彼の故郷はとうの昔に魔物の襲撃を受けて滅んでしまっている。
お前はワシみたいな思いはするなよ、と彼はよく言ってくれる。
故郷を大事にしろ、とは彼の金言だった。
今日はちょっと時間も遅いこともあり、会話はそこそこにした。
「それじゃクロイツァー、面会の手続きをしてくれや。面倒だが、規則でな」
看守長から出された1枚の紙に、必要な要項をボロボロの羽根ペンで書いていく。
その時だ。
「――ねぇ看守さん。どう思う?」
底冷えのするような声だった。
これを一言で言い表すのなら、悪意の塊だ。
聞くだけで人を不快にさせる類の声。
悪徳を凝縮させて煮詰めて、より濃厚な邪念を取り出したかのような、おぞましい雰囲気を感じる。
「――この世に存在しちゃいけない生き物ってなんだと思う?」
ジズだ。
クロと同じ日に入団した、5人の同期のうちの1人。
彼は今、この地下牢の最奥の牢に入れられている。
それぞれ武器を手にしていた上官他数名を、素手で殴り殺しかけたことで投獄されていた。
最奥の牢はここよりもっとずっと奥だ。
声が聞こえることはまずあり得ないはずなのだ。
が、なぜか彼の声だけが聞こえてくる。
「――魔物だと思う? いいや、ぼくは違うと思う」
牢獄にジズの声が絶え間なく響く。
ここからでは遠く、そして薄暗すぎて見えない最奥の牢を見据えて、看守長がため息をついた。
「お前が来てない時間はずっとこの調子だ。朝も昼も夜も、延々ずっとわけのわかんことを喋ってる。アレのせいで部下はだいぶまいってる。
ジズ・クロイツバスターがここにいるならもう仕事を辞めたいって言うやつが出るぐらいだ」
「はは……」
「黙らせようとムチを打っても、心が折れないんじゃどうにもならん。正直、毎日来てくれて助かるぜ。お前と話したあと数時間ぐらいはおとなしくなるからな」
クロは苦笑いしかできない。
でもたしかにアレはきつい。
必要事項を記入して、羽根ペンを置く。
「さて、では行ってきます」
「おう、頼んだぜ」
力強く腕を振る看守長を後ろに、クロはさらに奥へ足を進める。
薄暗いなかを歩いていくと、両脇に牢がいくつも続いていた。
一番手前には、何人もの囚人を一気に収容する大部屋がある。
廊下に面した部分には鉄の檻をガッチリ組み込んでいて、中の様子が一目でわかる。他3方は硬い石壁で囲まれている作りだ。
奥に行くにつれて、牢の種類も変わってくる。
それが独房だ。
ひとつの小部屋に――部屋と言っていいのかわからないが――ひとりの囚人を収容している。
全部で30~40部屋はあるだろうか。
チラリと牢の中を覗いてみると、何人もの囚人がいた。
最近、騎士団に捕縛された盗賊団の一員だ。
歩きながら横目で見ていくと、その全員が耳をふさいでうずくまっていた。
これはジズのせいだ。
「――ぼくが思うに、この星に存在しちゃいけない最も害悪な生き物は植物なんだよ」
呪いのようなこの声にさらされ続け、精神がまいっているのだ。
これではまるで拷問を常に受け続けているようなものかもしれない。
「――地中に根付いて星の栄養を吸い取る寄生生物。最悪な生き物だと思わないかい」
うめきながら泡を吹いている囚人もいた。
あとで看守に言っておこう。
「――ぼくは月に行ったことがあるんだ」
ようやく最奥の牢が見えてきた。
牢の前には看守部屋があり、そこには2人の看守がジズを見張っていた。
「こんばんは――」
と、クロが看守に挨拶したと同時――
「キサマ、ふざけるなよッ!!」
――怒号が走った。
看守のひとり、ウェアウルフの男が、ジズがいる牢の檻を勢いよく掴んだ。
「我らウェアウルフの聖域を穢すか、このゲスがッ!!」
「おい。こいつの相手をするんじゃねェ」
そしてもうひとりの看守、若いドワーフの男がウェアウルフの肩に手を置いた。
小さいながらもその腕力はすさまじく、ウェアウルフを牢から引きはがす。
「クソ……ッ」
「看守長も、副団長も言ってたろ? こいつの妄言を真に受けるんじゃねェ」
「しかし……」
犬牙を噛み鳴らし、ウェアウルフの看守が毛を逆立てていた。
そこに――
「ゲハハハ」
悪意を煮込んだようなジズの笑い。
「どうしたんだい? もしかして、ぼくが月に行ったことがそんなにうらやましかった?」
「キ、キサマ……ッ!!」
「落ち着け。耳を貸すんじゃねェ」
「でもたしかに、君たちウェアウルフが月を神聖視するのはわかるよ。あそこはすばらしいところだった。見渡す限りの荒野。うつくしいものだ。アレこそが星の本当の姿なんだよ、きっと。
でもぼくたちがいるこの星はイビツだ。植物が寄生しているからね。やつらはどこにでもいる。山や谷、そして海の底にすら寄生している。気色悪い……。やつらのせいで、この星本来のうつくしさが損なわれているんだ。あれだけ邪悪でおぞましい生き物だ、やがてこの大地の栄養をすべて喰らい尽くして、星を殺してしまうかもしれない」
怒りに毛を逆立てていたウェアウルフの看守はしかし、何かに縫い付けられたかのように動かなくなった。
いや、正確には震えている。
もうひとりのドワーフの看守も同じだった。
脅えていた。
ジズから溢れ出るすさまじい威圧にあてられていた。
「そして、どうやらこの世界のありとあらゆる生き物は、植物がないと生きていけないらしい。まさに植物の奴隷だ。やつらと共存するなんて、断じて許せることじゃないと思わないかい? だからそんな生き物は植物もろともぜんぶ――」
種の聖域を言葉で穢されたウェアウルフの怒りすら超える、ジズの憤怒――
激烈、と言っていいほどのジズの殺意。
「――根こそぎ滅んでしまえばいいと思わないかい」
ぞわり、と。
2人の看守だけじゃなく、牢にいた囚人たちすべてに戦慄が走った。
――このままここにいたら、ジズに殺される。
「ひっ……」
誰が漏らしたのか、恐怖にひきつった声が聞こえた。
看守たちが腰を抜かしかける寸前、
「そこまでだ、ジズ」
クロがジズに話しかけた。
牢に近づいていく。
「看守さんをからかうんじゃない」
「ああ、クロ! ひさしぶりだね。ええと……どれぐらいぶりだったっけ?」
すると、さっきまでの威圧はどこにいったか、ジズが嬉しそうに答える。
「昨日ぶりだよ、ジズ」
「ああ、そうだった。そうだった。ラグルナッシュは元気?」
「誰のこと? また知らない人の名前じゃないか。寝ぼけてる……いやむしろ寝てないんだっけ。ちゃんと寝たほうがいいよ。体に悪い」
「あれ? あれ? ああ、ああ。そうだった、ゴメンゴメン。勘違いしてた」
「あ、そうだジズ」
「なんだい、クロ」
「さっきの話だけど。植物と共存してる生き物は滅びなきゃいけないんだったら、今息をしてるジズも死なないといけなくなるんじゃない? 前にジズが言ってたけど、たしか酸素は植物がつくったんでしょ?」
「ああ……ああ! そうだね。たしかにそうなってしまうね」
「まったく、テキトウなこと言うからだよ」
「覚えててくれてたんだね。ぼくの話を」
ゲハハハと笑うジズ。
しかしその直後、沈んだ声になっていく。
「顔が……顔が見えない。ここじゃ暗くてクロの顔がよく見えない」
ジズは牢の奥、ここだけは鉄で作られた壁に鎖で縛られている。
牢の前にいるクロからすれば、真っ暗な中からジズの声だけが聞こえてくる状態だ。
「鎖……引きちぎっていいかい? 邪魔だ、そっちに行けないんだ」
「ダメだ。すぐそっちに行くからじっとしてるんだ」
そう言って、クロは看守に近づく。
ドワーフの看守はどこか安堵したような顔をしていた。
「やっと来てくれたか、クロイツァー。助かったぜ……」
「大丈夫ですか?」
よろよろとしていた看守の2人を気遣う。
ウェアウルフの看守は気まずそうな顔をしていた。
「……すまない。情けないところを見せてしまった」
「いえ、むしろこっちが申し訳ないです。よく言い聞かせておきます」
「はぁ……お前はすげェな、クロイツァー。やつと会話できるってだけで尊敬するぜ……。ここの見張りをするってだけで心身がやられそうだ。今日だって5人寝込んじまってる」
そう言いながら、ドワーフの看守が腰につけたカギ束を出す。
クロはぺこりとお辞儀した。
「……悪いな、いつも。どうしても俺ら看守がやるメシは食いやがらねェんだ」
ドワーフの言葉に、苦笑いを返すのが精一杯だった。
ウェアウルフの看守が、ジズの牢の真ん前にある看守室から食事を持ってきてくれた。
トレーに載っているのはパンがふたつと、干物がひとつ、そして水がたっぷり入った大きな水差しがひとつ。
ジズの1日分の食事だ。
牢の食事としてはワリと良い方らしい。
「どうもです」
トレーを受け取ったクロは、ドワーフの看守の方を見る。
鉄がこすれる音を鳴らして、牢についている何錠ものカギを外していた。
「よし、開いたぞ。お前が中に入ったらカギを閉める。出るときは声をかけてくれ」
いつもと同じ確認。
こくんと頷く。
少し重いトレーを慎重に持ちながら、クロはジズの牢の中に入っていった。
「中で何かあったら言ってくれ。さっきみたいな醜態はさらさねェ。看守として、命をかけてお前を守る」
ドワーフとウェアウルフの看守が、それぞれの武器を手にして気合いを入れていた。
「大丈夫ですよ。ジズはそんなに悪いやつじゃ……いや、悪いやつですけど、ええと、とにかく大丈夫ですから」
何のフォローもできずに、やっぱりクロは苦笑いをした。
重厚な音が鳴り響き、牢の檻が閉められた。