69 グリモア詩編・第一災厄『絶望』、虚死者『ロストデッド』
「ちくしょう……」
背後に迫る『断空』を見て、デルトリア伯は自らの死を悟った。
回避不能。
超絶威力。
かの英雄の大戦技は、類い希なる天運を授かった彼でさえ絶望するに余りある。
漆黒の死が迫る。
太陽の光を飲み込むような勢いで、破滅の波動がやって来る。
デルトリア伯とウートベルガがその破壊に飲まれるまで、残り数秒もない。
その間、デルトリア伯は不可思議な体験をしていた。
これまでの記憶が脳裏を走る。
忘れていた事柄ですら、今この瞬間には鮮明に浮かび上がる。
一瞬が数分に感じられるほど、凄まじい勢いで過去の情景を思い出していく。
いわゆる走馬燈である。
英雄の子として生まれ、類い希なる才能を持って生まれ。
何不自由なく育ち、己が欲望のあるがままに生きてきた。
これからの人生も順風満帆なものになるハズだった。
――一体どこで間違った?
死を目前にしたデルトリア伯が思ったのはただひとつ。
恵まれたものになるはずだったこの人生が、一体どこで狂ってしまったのかという疑問だった。
走馬燈を見ながらひとつひとつ考えていく。
自分の死であるクロ・クロイツァーのせいか?
違う。
これは結果であり、過程であり、原因などではない。
では、あの悪魔のせいか?
それも違う。理由はクロ・クロイツァーと同じ。
様々な人間をこの手でゴミのように殺してきたからか?
その罰か?
はじまりは子供の頃、クラウゼヴィッツの実家で騎士団に剣を教えていた生意気な剣豪を遊びながら殺した。
それ以来、従者や領民、あるいは旅人を、秘密裏に殺し回っていた。
皆、例外なく泣きながら、人生に絶望して息絶えていったのが楽しくてしかたがなかった。
それのせいか?
いいや、違う。
デルトリア伯は思う。
この世は強者が弱者を虐げるようにできている。
自分は誰よりも恵まれた生まれを持ち、秀でた才能があり、生まれながらの強者だった。ならば弱者を好きなようにするのは当然の権利である。
罰だなんてとんでもない。
では、グリモア詩編を手に入れたからか?
はじめてこの『変革』の力を使ったのは、たしか悪魔を匿っていた愚かなドワーフの女だった。
自分の体が腐っていく苦痛に涙を流しながら、それでも無言を貫いていたあの女は一番つまらない殺しだった。
あまりにもつまらないものだから、つい、ドワーフの里ごと潰してしまった。
その後も悪魔を捜して様々な人間を腐り殺してきた。
これのせいか?
いいや、いいや、違う。
デルトリア伯は信じて疑わない。
自分は神に愛された人間で、自分が何をしようが全てを赦される。
どれもこれも違う。
こんなものは原因ではない。
では何故だ。
どうして自分は今、死が迫ってきているのか。
一体どこで、自分の人生が狂ったのか。
一瞬よりも短い時間で、走馬燈と共に原因を探っていたデルトリア伯は、
『やぁ坊ちゃん。本当にそれでいいのかい?』
ようやく、見つけ出す。
こうなってしまった原因、元凶を。
『君は特別な人間だ。父上と同じだなんて考えちゃダメだよ。君ならもっともっと、父上よりも、もっと上に行ける。自分の可能性を疑っちゃダメだよ』
こいつだ。
この男だ。
こいつが全ての元凶だ。
記憶の中で、デルトリア伯が叫ぶ。
『さあ、動きだそう! 君なら間違いなく、大きなことを成し遂げられるんだ! 君なら何でもできる。そう、何だってできるんだ!』
グリモア詩編を手に入れて、凄まじい万能感に浸っていたあの瞬間を狙っていたかのように自分をそそのかした、あの男。
『君は神さまに愛されてるんだ。どんな困難でも乗り越えられる。
ねぇ、そうだろう? フリードリヒ・クラウゼヴィッツ』
クラウゼヴィッツの宮殿に、ずっとずっと昔からいたこの男。
宮廷道化として仕えていたこの男こそが、全ての元凶だ。
道化の仮面で常に笑顔を貼り付けて、
不気味な声で、面白くない話をする出来損ないの道化。
クロ・クロイツァーでも悪魔でもない。
あの道化こそが、自分を陥れた張本人だ。
「――ちくしょう……」
それが、デルトリア伯の最期の言葉になった。
容赦なく彼の体を飲み込むのは『断空』の波動。
一瞬にしてデルトリア伯の体が消滅していく、その最中、
デルトリア伯は、たしかに聞いた。
あの宮廷道化の、
悪意を凝縮したかのような、
邪悪の権化のような忌まわしくおぞましい、
あの、下卑た笑い声を――――
◆ ◆ ◆
「ゲハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!!」
ジズ・クロイツバスターが嗤う。
丸い魚眼を見開いて、
大きく、下品に、心から愉しそうに。
「ああ、ああ! なんて威力だ! なんてキレイな断空だろう!」
グレアロス砦から遠く離れた草原の丘陵、その頂。
ジズは指を丸くして、望遠鏡のように覗き込んで砦の様子を眺めていた。
「見たかい? ヴォゼさん! あれがエルドアールヴだよ!
あれが、ぼくのクロだよ!」
ジズは興奮したまま隣を見る。
腕を組んだまま仁王立ちしているヴォゼだ。
「これがクロ・クロイツァーの秘密とやらか」
その灼熱色の肌は力に満ち満ちている。
水竜の胃酸や、ウートベルガに貫かれたキズは完全に塞がっている。
ジズが持っていた完全回復薬を飲んだことによる復活である。
「滝で聞いた時は耳を疑ったが、こうして目の当たりにしてしまえば信じる他ないな」
「でしょ? でしょ? やだなぁ、ぼくを疑うなんて」
「キサマの言葉を信じる方が難しいであろうが」
ヴォゼの辛口に、ジズは「ゲハハハ」と笑う。
「しかし、我が天敵と定めた相手がまさか『反逆の翼』本人だったとは……面白い」
ヴォゼはそう言って、踵を返す。
「あれ? どこに行くの? そっちは砦じゃないよ、クロと闘わないのかい?」
「気が変わった。我はアトラリアに戻る」
「え? なんで?」
「大方、キサマの目的は今のクロ・クロイツァーと我をぶつけて愉しむつもりだったのだろうが、残念だったな」
「そ、そんなこと考えてないよ? ぼくはヴォゼさんと手を組みたいって言ったじゃないか」
「ぬかせ道化が」
ヴォゼが笑う。
凶悪な笑みだが、怒りに満ちているわけではなかった。
元よりオーク。
たとえ騙されて命の危機に陥ろうが、そんなことはどうだってよかった。
「奴と闘うのは今ではない」
「……というと?」
ジズが赤い魚眼を丸めて訊く。
「今闘えば確実に我が死ぬ。それもまた面白いとは思ったが、くくく……」
ヴォゼはかつて無いほどに、愉しそうに言う。
「命が惜しいと思ったのは、生まれてはじめての経験だ」
「へぇ?」
ジズが驚く。
まさかオークの、しかもその中でも最も理想に近いオーク像であるヴォゼの口からそんな言葉が出たからだ。
「クロ・クロイツァーは、我の全てを懸けたうえで闘うのが相応しい」
「…………」
「我の矜持も意地も――アレと闘うに邪魔なものは全て捨て去る。そして、アレと闘うに必要なものを全て手に入れてから闘う」
ヴォゼは死を恐れているわけではない。
オークが闘いを恐れるわけもない。
命が惜しいとは、完全な状態でクロと闘いたいという想いがゆえの言葉だった。
「それでアトラリアに?」
「うむ。今の我は剣槍ひとつ。アレと闘うには、武器がひとつ足りないではないか」
今のクロには、大戦斧と斧槍がある。
対等に闘うにはもうひとつ武器が要るとヴォゼは言う。
「アトラリアに武器のアテがあるの?」
「いかにも」
ジズは何を考えているか分からないような魚眼でヴォゼを見つめる。
そして、しばらくしてから、
「それ、おもしろいね」
そう言った。
「実はさ、ヴォゼさんを今のクロにけしかけて、その闘いの最中でクロの大切な人が死んだら愉しいことになるだろうなって思ってたんだよ」
それを聞いて、ヴォゼが「くくく」と笑う。
「キサマはクロ・クロイツァーの何だ? アレをどうしたいのだ?」
「当然、トモダチだよ」
「友だと? くくく……疫病神か死神の間違いであろう」
言って、ヴォゼがグレイヴを肩に担いで背を向ける。
そのまま無言で去ろうとしたヴォゼだったが、
「ああ、ああ。アトラリアに戻るなら、エストちゃんに『失敗してゴメン』って言っておいてくれる?」
ピタリとヴォゼの足が止まる。
「……何?」
「ほら、『悪魔の写本』を手に入れられなかったからね。エストちゃん本人はただの暇つぶしのつもりだっただろうから、あんまり怒ってないと思うけど、一応ね?」
「それは……エストヴァイエッタのことを言っておるのか?」
「うん」
「……キサマは何者だ? 聞かぬままにするかと思ったが、少し興味が湧いたぞ。クロ・クロイツァーの秘密を知り、しかもエストヴァイエッタとも繋がりがあるだと? どう考えても尋常ではない」
クロが二千年前に戻ったことを知っており、
最古の六体、エストヴァイエッタと知り合いかのごとく振る舞うこの少年。
異常としか言う他ない。
「やだなぁ、怖いなぁ。そんなに睨まないでよ」
「……キサマ、不死ではないと言ったな」
「うん、『不死者』はクロだけだよ。ぼくは違う」
「グリモア詩編だったか。不死に近い能力というわけか」
「そのとおり」
ジズが濁った笑みを浮かべる。
「グリモア詩編の『絶望』。
ぼくは『虚死者』だよ」
「聞いたこともないな」
「やっぱり?」
「……まぁよい。キサマには恩がある。エストヴァイエッタに会うことがあったなら、伝えておいてやろう」
「よろしくね」
ヴォゼが去った後。
ジズはグレアロス砦をずっと眺めていた。
「はやく帰っておいでよ、ヴォゼさん」
ジズの魚眼は、デルトリア伯のグリモア詩編を手に取ったクロしか見ていない。
他のものは目に入らない。
「次はこんなものじゃないから、はやく帰ってこないとクロが壊れた後になっちゃうよ?」
そうしてジズがしばらく眺め続けていると、一陣の風が吹く。
その風に乗って、小さな花弁が舞ってくる。
バラの花びらだった。
ひらりひらりと舞い落ちたその先は、ジズの右頬だった。
「…………」
ニタニタした笑みで砦を眺めていたジズは、その笑みを引きつらせる。
感情をなくした顔で、おもむろに右手を頬にやり、
くっついたバラの花びらを、自分の頬ごと引きちぎって投げ捨てた。
「…………」
ジズの顔の右側は、頬を肉ごと引きちぎったために奥歯まで見えている。
ドロリとした血が滴っていく。
そしてもう一度。
強い風が吹いた時には、ジズの姿はもうどこにもなかった。
草原の丘には、悪意の名残だけが漂っていた。




