65 王都ローゼンガーデン
――エリクシア、あなたは逃げなさい――
3年前のあの日、ノエラはわたしにそう言った。
嫌な予感がして、わたしは泣きながら首を振った。
――必ず迎えに行くから、待っていて――
ノエラと会うことは二度となかった。
ドワーフの里は滅ぼされ、帰る場所もなくなった。
わたしは独りになった。
里が狙われた理由は分かっていた。
わたしが悪魔だったから。
だからノエラが死んでしまった。
わたしがノエラを殺してしまった。
悪魔の写本は災いを撒き散らす。
わたしが存在するだけで、大切な誰かが死んでいく。
ノエラ。
わたしの大切な人。
独りぼっちで泣いていた幼いわたしに、優しく声をかけてくれた人。
母親のように思っていた。
わたしには使命がある。
このグリモアを世界から消し去るという使命がある。
この世から悪魔の災いを無くさなければ。
でも。
ああ、神さま。
つらいのです。悲しいのです。苦しいのです。
生きているのが、つらいのです。
みんなが悪魔を憎むのです。
みんながわたしを憎むのです。
憎まれて生きていくのが、心が張り裂けそうなほどに。
わたしのせいで誰かが死んでいくのが、魂が削られそうなほどに。
つらいのです。
神さま。
ああ、神さま。
どうか、どうか、教えてください。
わたしは。
わたしは、この世に存在してはいけないのでしょうか。
◇ ◇ ◇
「ガラハドさん。どう……して」
ノエラの旦那、ガラハド・ベネトレイト。
ノエラが永遠の愛を誓い、共に生きていくと誓い合った人だ。
そのガラハドが、エリクシアを娘だと言って、助けたという事実。
エリクシアは何よりもそれに衝撃を受けていた。
「ふん……お前らが心配だったんだよ。そしたら案の上だ」
ガラハドが照れくさそうに言った。
「まったく、ちっとは一人前になったと思ったらコレだ」
ガラハドがキョロキョロと周囲を見回す。
「んで、クロイツァーは?」
「…………」
エリクシアは何も言えなかった。
クロがどうなったのか、まったく分からなかったからだ。
「なるほど。どうなってるのかは分からねェが、死んでねェんだろ?」
「……はい!」
エリクシアは強く返事をした。
そう、彼は絶対に生きている。
それだけは確実だ。
「それならアイツのことだ。そのうち戻って来るな」
確信めいたその言葉で、エリクシアの心が幾分か軽くなった。
「さて……」
ガラハドは、自分が殴り飛ばしたデルトリア伯を見る。
長いヒゲを触りながら、ガラハドが言う。
「ようやく会えたな、デルトリア伯」
「……誰だか知らないが、キサマ……楽に死ねると思うなよ?」
デルトリア伯は、口についた血を拭いながら立ち上がる。
殴り飛ばされた怒りに震えている。
「ガラハドさん、近接は危険です」
「ほう?」
「グリモア詩編の力です。デルトリア伯のエーテルに触れてはいけません」
エリクシアが神妙な口調で言う。
「……なるほど、それでこうなるわけか」
ガラハドは平然とした顔で、デルトリア伯を殴った方の左腕を見た。
その左腕は、手首から先が腐り落ちていた。
ガラハドに攻撃される瞬間、デルトリア伯は体に纏うエーテルを災いの力に変えていたのだ。
そのため、災いに触れてしまったガラハドの左手が腐ってしまった。
これを天性の才能だけでやってのけてしまうのだから、あまりにも難敵だ。
「ガラハドさん……ッ」
「……大丈夫だ。お前は自分の心配をしてろ」
言いながら、片手斧を使って左手首を切り落とす。
苦痛はあるはずだ。
デルトリア伯の災いは、あのクロ・クロイツァーが絶叫を上げるほどのもの。
しかし、ガラハドにはもはや苦痛を感じる余白はなかった。
なぜなら、
「これをノエラにやりやがったのか……」
今、目の前には、妻の仇がいる。
3年間。
この瞬間のために、待ち続けていた。
ガラハドの中には、もはや怒り以外を感じる余裕などない。
「さっき聞いた名だな? ドワーフ……くくく。そうか、あの女は、キサマの縁者だったか?」
「もう喋るんじゃねェ。大気が腐る」
「キサマもすぐに後を追わせてやる。ボクを殴った罪……万死に値する」
「喋るなっつったろ」
「虚勢はよせ。今ので解っただろう? ボクに触れただけでキサマは死ぬ。諦めろ、キサマに勝ち目は無い」
「ハッ、ワシを誰だと思ってやがる」
「……何?」
「若ェやつらは知らねェだろうな。教えてやるぜ」
ガラハドが、左手首の断面を地面につける。
じわり、と赤い血が土に染み込んでいく。
「――『母なる大地の声を聞け。かつて在った意思を知れ。その堅牢なる抱擁に、熱き脈動を感じ取れ』――」
ガラハドの詠唱。
それは明らかに魔法のそれだった。
「なッ……」
デルトリア伯が動揺する。
騎士団の服装をしていたガラハド。その手に持っていたのは片手斧。
魔法とは縁のない様相だった。
近接の兵士なのだと決めつけて、自らのグリモア詩編の能力ゆえに無警戒だった。
油断と慢心。
それを突かれた形となったデルトリア伯に為す術はなかった。
「――『真理の土塊』――」
ガラハドの魔法が完成する。
地面につけた左腕を持ち上げていく。
すると、石が土が、ガラハドの腕に絡みついていく。
硬く、固く。
大きく。
強く。
数秒もしない内に、巨大な土の腕を形成した。
「――『小人の巨兵』、それがワシの戦名だ」
ガラハドがその巨大な左腕を天に振りかざす。
まるで塔のようにそびえ立ったそれは、大質量の塊だ。
「歯ァ食いしばれ」
ガラハドが腕を振り下ろす。
同時に、その巨大な左腕が凄まじい轟音を立てて、デルトリア伯に向かって落ちていく。
その暴虐の塊は、荒々しく武骨に、ただ目前の敵を押し潰す。
地面が震動するほどの衝撃が、広場に叩きつけられた。
「……ッ…………っ」
開いた口が塞がらないのはエリクシア。
ガラハド・ベネトレイトという戦士の凄まじさ。
高位の魔法を瞬時に発動し、デルトリア伯の僅かな隙に付け入り、必殺の剛撃を喰らわせた戦いの妙技。
それを間近で見たエリクシアは、もはや唖然とするしか反応ができなかった。
「……チッ、マジか」
しかし、ガラハドは神妙な面持ちで、積み重なった土の瓦礫を見ていた。
嫌な予感がして、エリクシアはその場所を見る。
「……そん、な……」
エリクシアが信じられないといった様子で声を漏らした。
そこには、
「ボクを誰だと思っている? 知らないのなら、教えてやろうか?」
無傷のデルトリア伯が、土の瓦礫の上に立っていた。
ゴーレムの腕だった土塊が、波のように蠢いていた。
「――『神に愛された者』、それがボクだ」
デルトリア伯が腕を天にかざす。
すると、周囲の土が集まっていき、巨大な腕が形成されていく。
これは明らかに、先のガラハドが使った魔法と同じものだ。
「……話にゃ聞いてたが、これが『才能殺し』かクソッタレめ。魔法の才能まであるってのか、あの野郎は……ッ」
ガラハドが吐き捨てるように言った。
あれは自身の魔法だ。その威力は誰よりも分かっている。
そして次の瞬間、暴力の化身のようなゴーレムの腕が、ガラハドに向かって来る。
真正面から殴りつけてくるようなその動きは、近くにいるエリクシア諸共に攻撃してきていた。
「……危ねェッ!!」
ドンッ、とエリクシアを横に突き飛ばす。
「……っ!?」
エリクシアは突然のことに何もできなかった。
自分を突き飛ばして無防備になってしまったガラハドと目が合った。
「――――ッッ」
ゴーレムの腕が、土砂のようになってガラハドを飲み込んでいく。
そのまま、広場の奥までガラハドを吹っ飛ばしていった。
「ガラハドさんッ!!」
エリクシアが叫ぶ。
しかし、その場からは動けない。
もう体の力が入らない。
突き飛ばされて倒れ伏したまま、駆け寄ることすらできない自分の無力さに歯噛みする。
◇ ◇ ◇
向こうで火急の事態が起こっている。
はやく助けに向かわなくては。
しかし、目の前の魔物を倒さなければならない。
急いてはいけない。
けれど迅速に。
「――いける」
シャルラッハは確かな手応えを感じていた。
相手は特級の魔物、ウートベルガ。
たしかにこの魔物は強い。
これまで闘ってきた魔物の中でもダントツだった。
でも、アヴリルと一緒なら、倒せる。
「アヴリルッ!」
「はいッ!」
連携を繋ぎ、息つく間も与えない。
ひとつひとつが必殺の想いを込めた一撃。
それを紙一重で凌ぎ続けているウートベルガも強敵だが、それでも、このままいけば倒すことはできる。
口には決して出さないが、エーデルヴァインもよくやってくれている。
人としては最低の部類だが、それに関しては決して認めることはできないが、むしろ嫌ってさえいるが、彼女の魔法の腕は確かだとシャルラッハは考えている。
このウートベルガという魔物の真骨頂である『毒』の存在。
その毒を押さえ込んでいるのは非常に大きな貢献だった。
「ケッケッケ。テメェら、なかなかやるじゃねェか!」
しかし、不気味なのはウートベルガのこの余裕だ。
ここまで追い込まれている中で、これほどの余裕。
そういえば、エーデルヴァインが特殊な分裂を使うと言っていた。
手が付けられなくなる、とも。
「……ふん」
どちらにせよ、このままいけば倒せる。
どんな奥の手があろうが、発揮する機会がないのなら存在しないのと同じこと。
このまま攻撃の手はゆるめない。
アヴリルと共に、このまま倒しきる。
シャルラッハはそう考えていた。
しかし、
「――――ッ」
ウートベルガの様子が変わったことに、『雷光』での突撃を繰り出した瞬間に気づいた。
そして、ウートベルガを剣で斬りつけ、すれ違った後に、シャルラッハは見た。
「……ッ」
鎧を着たウートベルガの中から、もう1体のウートベルガが出現していた。
分裂という奥の手があるのは分かっていたが、それでも、これはシャルラッハにとって意外の極みにあった。
分裂というにはあまりにも速すぎる。
時間にして1秒あるかないかの刹那の早業。
これでは気をつけていても防ぐのは不可能だ。
そしてもうひとつ。
明らかに、増えた。
姿だけというわけではない。
さっきまでと同じ力を持ったウートベルガが、増えた。
「アヴリル」
「……なんですか、アレは……」
縦横無尽に動いていたシャルラッハとアヴリルは、合流して互いに確認し合う。
「分からない」
「増えてませんか? 文字通り、エーテルも」
「ええ、普通の『分裂』じゃないのは確かですわね」
「元々2体いたと言われた方がしっくりきますが……」
彼女らは知らなかった。
ウートベルガの異常とも言える能力性。
『増殖』の存在を。
エーテルを半分にして分かれるのが分裂の常識である。
しかし、今ウートベルガがやったのは、エーテルをそのままに2体に増えた。
アヴリルが言ったとおり、元々2体いたと言われれば信じてしまうぐらいの異様な特性だ。
「固有特性、ってことですわね」
「厄介ですね」
簡単に言葉を交わし、相手の真を見抜いていく。
「…………」
2体になったウートベルガたちは無言で佇んでいた。
片方は鎧を着込んださっきまでのウートベルガ。もう片方は黒い影のような人型で、見分けることはできる。
さっきまでとは明らかに様子が違う。
どこか、焦燥のようなものを感じ取れたのは、シャルラッハの天性の勘によるものが大きい。
シャルラッハが訝しんでいると、
「伯爵ッ! 外の兄弟が殺られた。その悪魔、予定通り生かして利用するのか、殺すのか、どっちでもいいが、さっさと終わらせて撤退すんぞッ!!」
鎧のウートベルガが叫んだ。
それに応えるのはデルトリア伯。
「もうエルドアールヴにやられたのか。くくく、いつもの余裕はどうした、ウートベルガ。まさかキサマ、怖いのか?」
「ガタガタうるせェな。外には3体いたんだぞ。だが兄弟は同期すらしてこなかった。できなかったんだ。やっぱ『反逆の翼』は尋常じゃねェ。いずれ殺すにしても、ここは様子を見た方がいい」
「随分と慎重だな?」
「オレさまは元々そういう性格だ。ご託はいいからさっさと用を済ませやがれ。あそこからなら急いでも5分はかかる。この場所が分からなければもうちょい時間はある」
「それだけあれば十分だ」
言って、デルトリア伯がエリクシアの方へ向き直った。
鎧のウートベルガが、シャルラッハたちに語りかける。
「悪ィな、せっかくのお楽しみだったが事情が変わった。テメェらまとめて全員、殺させてもらうぜ?」
そして、更なる絶望がシャルラッハたちを襲う。
黒い人型のウートベルガが『増殖』し、3体へ。
その新たなウートベルガがまた『増殖』し、4体へ。
そのすべてが、同じ強さのエーテルを纏っている。
すなわち、さっきまで闘っていた強さのウートベルガが、4体となったということだ。
「マズいですわね……」
「……マズいです」
シャルラッハたちが相対するのは、4体になった特級の魔物。
それは、シャルラッハが死を予感するには、十分すぎるほどの脅威だった。
◇ ◇ ◇
「そういうわけだ。そろそろ終わらせようじゃないか、悪魔よ」
デルトリア伯がゆっくりと歩み寄って来る。
一歩一歩、エリクシアの絶望を誘うように。
「……ッ」
キッ、と相手を睨みつけるエリクシア。
こんな怪物相手にどう対処したらいい?
技術も、魔法ですらこの男は一度見ただけで自分の物にしてしまう。
才能の塊。
まさしくこれは天賦の才。
こんなデタラメのような怪物に、自分はどうすればいいのか。
「……む? まだ生きているのか」
デルトリア伯が害虫を見るような目で、広場の奥を一瞥した。
「……に、げろ……エリクシア」
土砂の中から這い出てきたガラハドが、血を吐きながら言う。
「…………ッ」
あの負傷は危険だ。
はやく手当てをしなければ、命が危ない。
まただ。
また、自分のせいで人が死ぬ。
また、自分のせいで大切な人が死んでいく。
いやだ。
いやだ。
いやだ。
「……くッ」
気力だけで立ち上がる。
背後に浮いているグリモアから魔力を引き出していく。
いける。大丈夫。
その魔力を糸のように操って、自分の体を支えていく。
「あッ……ぐぅぅぅ……」
痛い、苦しい、つらい。
でも、動く。
体が動く。
これ以上動かすなと、体が悲鳴を上げる。
黙っていてほしい。
これ以上動くと死ぬぞと、本能が苦痛で訴える。
邪魔をしないでほしい。
自分には今、やらなければいけないことがあるのだから。
「……はっ、あッ……」
まだ闘える。まだ間に合う。
体が痛い。息が苦しい。
でも――誰かが自分のせいで死んでしまうのは、もっとつらいッ!!!
「何……してやがる」
瓦礫から這い出したガラハドが、腕の力だけでこちらに這って来る。
彼は必死だった。
「……ガラハド、さん……」
「さっさと……逃げろ」
そう、まるでノエラのように。
「いや、です……」
拒否する。
絶対に、嫌だと。
「逃げろ、っつってんだろうが……言うことを、聞きやがれ……ッ」
「いやですッ! わたしはもう、逃げませんッ!!」
もうあんな思いは二度としたくない。
あの光景を思い出す。
ノエラは逃げろと言った。
けれど、二度と会うことはできなくなった。
そんなのは、もういやだ。
「わたしは、もう……ッ」
叫ぶ。
苦痛も、つらさも、吹き飛ばすように。
精一杯の想いを叫ぶ。
「――『家族』を失いたくないんですッ!!!」
言った。
とうとう言ってしまった。
ノエラを母のように思っていた。
しかし、ガラハドのことは怖い人だと思っていた。
あの頃の彼はたしかに自分のことを疎んでいたから。
でも、それでも。
「わたしは……もう、逃げないって、決めたんですッ!!」
自分のことを『娘』と呼んでくれた。
血の繋がらない、しかも『悪魔』の自分を。
ノエラは自分のせいで死んでしまったのに、それでも。
それでも彼は自分のことを娘と呼んだ。
うれしかった。
うれしかったのだ。
本当に、心の底から、うれしかった。
「く……そ、ガキが……言うことを、聞きやがらねェ……」
「わたし、反抗期なので……ッ」
強がりを言う。
だって、そう。
自分は、この人の娘なんだから。
「……茶番は終わったか?」
いつの間にか、目の前にデルトリア伯がいた。
さあ、闘おう。
グリモアの力のすべてを使って、この男を倒そう。
家族を、みんなを、助けるんだ。
ああ、そのためなら。
そのためなら――悪魔にだってなってもいい。
グリモアの魔力が爆発的に上がっていく。
黒よりも黒く。
闇よりも暗く。
翼のように従えたグリモアが、力の解放を祝っている。
「――『この身、この心、この魂は天地万物に反逆せり。深淵に浸りし虚空の王座は、終焉の導き手を待っている』――」
グリモアの魔力が言葉を紡ぐ。
本能のように、それが当たり前かのように、知らない言葉を紡いでいく。
「――『我が庭を駆けよ。新世界への道、ここにあり。我が言祝ぎは永劫の苦難。渇望した茨はここにあり。原初の約束を思い出せ』――」
爆発。
そう、爆発的に魔力が上がっていく。
「……なんだこれは……魔力で、くそッ……近づけん……ッ!! キサマ、何を……ッ」
エリクシアは確信する。
これなら、殺せる。
間違いない。
もう誰も、悲しませない。
自分の力で、みんなを、助けてみせる。
「――――え?」
しかし、その時は訪れた。
消える。
消える。
力が消えていく。
グリモアの魔力が幻のように、消えていく。
今紡いだ詠唱による魔法が消えていく。
「……そん、な……」
暗い大地を照らすは目映い光。
東の彼方から光を生むは灼熱の星。
夜明け。
朝の到来だ。
「どうし……て……」
グリモアは、夜にしか出現できない。
知っていたことだった。
でも、どうして今なのか。
あと少し、あと少しでも待っていてくれれば、この窮地を打開できていたのは間違いない。
なのに、消える。
グリモアが消えていく。
「はっ、はは……」
デルトリア伯がホッとした様子で声を出す。
「見たか、悪魔。これがボクの『天運』だッ!」
神に愛された者。
それすなわち、天に味方された者。
どれほどの窮地に陥っても、幾多の困難に塗れても、それでも生き残る力。
理不尽なまでの運の良さ。
これこそが、デルトリア伯の天命である。
「あ……ああ……」
ガクンとひざをつくエリクシア。
グリモアの魔力が消え、体の支えを失った。
もう、どうにもならない。
もうどうしようもない。
こんな仕打ちがあるだろうか。
こんな理不尽があっていいのか。
「…………」
真なる絶望に覆われる。
けれど。
そう、けれど。
エリクシアはそれでも――立ち上がろうとしていた。
「諦めの悪い女だ。まだ足掻くか」
「……そりゃ、そうですよ」
ずっと、見てきたのだ。
闘う彼の背中を見てきたのだ。
クロ・クロイツァー。
彼は決して諦めなかった。
どれほどの実力差があっても、どれほど強敵であっても。
彼は決して逃げなかった。
ずっと見てきたのだ。
誰かを助けようと必死になって、足掻いて足掻いて、何度酷い目に遭っても。
それでも。
彼は決して諦めなかった。
「わたしはもう、命を諦めないって、決めたんですッ!」
それは彼が言った言葉。
命を諦めてたまるか、と。
なら、ずっと彼の背中を見ていた自分が、諦めるなんて嘘だろう。
彼と出会って――自分は変わったのだ。
「……不愉快だ、もう死ね」
デルトリア伯の腕が迫って来る。
黒い霧をたゆたわせ、腐蝕の災いを携えて。
それをどうにかしようと、エリクシアが動かない体で必死に足掻いていた時だった。
突如、大爆発が起こった。
グレアロス砦を囲む、あの分厚い壁からだ。
「……今度は何だ!?」
広場にいた全員が、一瞬、その異常に目をやった。
壁の一部が破壊されていた。
火薬によるものじゃない。
そんなものではあの壁は壊せない。
何か、もっと、とてつもない力で破壊されたような跡。
「……マジかよ、無茶苦茶やりやがる……。行儀が悪ィにもほどがあんぞ。魔物のオレさまですら門を通ったんだぞ?」
静まりかえったに広場に、ウートベルガの声が響いた。
「時間短縮にそこまでやるか!? なァ――」
そして、鎧のウートベルガが即座に行動した。
行き先は、デルトリア伯とエリクシアの間の空間。
今度はその場ですさまじい衝突音。
ウートベルガの腕が、突如乱入してきた武器とぶつかったのだ。
デルトリア伯を強襲しようとした人物を、ウートベルガが防いだ形だ。
「――反逆の翼ァ!!!」
つばの大きな帽子と一体になった仮面。
漆黒の外套は、夜の闇よりもなお黒い。
目を引くのは二対一体となった斧槍と大戦斧。
その姿はまさしく、あの英雄だった。
エルドアールヴの乱入だった。
◇ ◇ ◇
「静謐な凪の夜。月天の山にて死装束の救世主が現れる。本当に予言どおりで驚きました」
覆い茂った藪の中を進んでいく。
道なき道を行く。
風は無い。
虫の声も届かない。
とても静かな夜だった。
獣の遠吠えも、怪物の気配も感じない。
「……どこに向かっているんだ?」
ラグルナッシュと名乗った少年の後ろを歩きながら、クロが聞く。
焦燥が激しい。
ワケも分からずこんな場所に来てしまった。
今ごろ、エリクシアたちはどうなっているだろう。
それを考えると冷静ではいられなかった。
「まず、自分が今いる場所ぐらいは把握しておきたいでしょう?」
「……」
「そう警戒しないでください、クロ」
「そんなこと言われても……」
それから、しばらく無言で歩き続けた。
自分の身に何が起こっているのか。
考えても分からないが、この先どんな異常が起こっても適切に対処しよう。そう思いながら、ラグルナッシュの後ろを歩く。
「つきましたよ。ここからなら、よく見えるでしょう」
「――――――――」
言葉が出なかった。
辿りついた場所はガケの際だった。
想像していた通り、ここは山の高所にあった。
しかし、目の前の光景は、想像を遙かに超えるものだった。
「どうです?」
「……なんだ、ここは」
聞かれて、しかしクロは問い返す。
あまりにも不可思議な光景が眼前にあったからだ。
一言で言えば、絶景だった。
眼下には街があった。
夜の闇。
満月の光に照らされたその街……いや、これほどの規模なら都市と言った方がいいだろうか。
地平の果てまで続く、とてつもなく巨大な都市。
想像を絶する数の、人の気配がする。
こんな大規模な都市なんて見たことも聞いたこともない。
グラデア王国の王都でさえ、この都市に比べたら狭く感じるだろう。
視界いっぱいに広がる建物の群れ。
どういう用途で使われているのか分からない巨大な建造物。
クロが最も驚いたのは、いくつもの大船が空を飛び交っている光景だった。
大鳥を飼い慣らして空を渡ることはあるが、空を浮く人造物の乗り物なんてこの世に存在しない。
ただ。そう、ただひとつだけ。
おとぎ話の中でだけなら、そういうものがあった。
「…………」
信じられない光景が広がる中、ラグルナッシュが言葉を発する。
「どうやら君は、この王都『ローゼンガーデン』を知らないようですね」
「…………」
知らない。
何だその名前は。
そんな王都なんて聞いたことがない。
「王都……ってことは、ここは王国?」
グラデア王国ではないとしたらどこだろう。
帝国ガレアロスタは帝都で、聖国アルアは聖都と言われている。
つまりレリティア三大国家とは違う王国。
だがしかし、これほどまでの規模の王都を所有する王国なんて、クロの知識には存在しない。
「王都のずっとずっと向こうのアレ、見えますか?」
「……山?」
霞むほどに遠い場所。
ラグルナッシュが指し示したのは、かなり高い山だ。
雲が山頂にかかっているのが満月の光で見えている。
「……? いや、でも……なんか、違うような……」
「高さは約3776m。この王国で、どの山と比べても最も高いアレが王城なんですよ」
「アレが、城……ッ!?」
想像以上の答えに目を丸くするクロ。
「はい。この王国を総べる女王の居城――王城アトラリアです」
「……え……?」
そして。
その言葉に、これまでのすべてがかき消されるほどの衝撃を受ける。
「ちょっと待って……まさか」
視界がぐらつく。
あり得ない場所の名前を聞いた。
「まさか、この王国っていうのは……」
もしそれが本当なら、とんでもないコトだ。
そこに今も人がいるなんて聞いたこともない。
そこに今も都市として機能しているなんて聞いたこともない。
当然だ。
この2000年、誰ひとりとしてその場所に辿り着いた者はいないのだから。
「そうですね、まずはそこからでした。では、あらためまして――」
ダークエルフの少年、ラグルナッシュが王都ローゼンガーデンを背にして、クロの前に立つ。
その小さな手を大きく広げて、
「――ようこそ、王国『アトラリア』へ」
それは、ある意味で慣れ親しんだ国の名前。
存在するはずのない国。
もはや滅び去ってしまった亡国。
「……ここが」
その国の王都とはすなわち。
エリクシアが目的としていた最後の場。
グリモアが生まれた土地。
すべての因果が生まれた災いの地。
「ここが、魔境アトラリアの、『最奥』――」
あり得ない事態だった。
警戒して心の準備をしていてなお、衝撃を受けるにあまりある。
クロは目の前の光景に、ただ見入ることしかできなかった。




