64 抵抗
「クロ……」
エリクシアが生気のない声でつぶやいた。
クロ・クロイツァーの消失。
それがあまりにも突然で、そして衝撃だった。
周囲を見渡しても何もない。
クロの影も形も見当たらない。
彼のエーテルの残滓すら感じ取れない。
「そんな……」
脳裏をかすめるのは『不死殺し』という言葉。
不死者を殺すほどの『何か』。
デルトリア伯の放ったあの黒い球体は、それほどのモノだった。
アレを受けて無事なわけがない。
「……うそだ……」
くちびるを噛みしめる。
爪が食い込むほど、そのこぶしを握りしめる。
絶望に染まりそうになっている自分の心を、エリクシアは必死に抑えつけていた。
「くくく」
そんなエリクシアを嘲笑うのはデルトリア伯。
消失したクロを嗤っているのかもしれない。
あるいはその両方か。
「ようやく邪魔なゴミを排除できた」
その言葉を聞いて、エリクシアは自分の心に眠る炎が燃え上がったのを感じた。
今、この男は何と言ったのか。
クロ・クロイツァーをゴミと罵ったのか。
「……クロを……」
キッと睨みつける。
声を張り上げて、精一杯の威勢を示す。
「……クロをどうしたんですかッ!」
「何、地獄へ送ってやっただけだ。もうヤツはこの世にいない」
「……ッ!」
「お前を守る者は誰ひとりいない。これでようやく本来の目的を果たせるな」
デルトリア伯が一歩、エリクシアの方へ近づいてくる。
よく見ると、デルトリア伯は肩で息をしていた。
疲れが明らかに見てとれる。
あの黒い球体に凄まじい量のエーテルを使ったのだ。
災いにもいくつか種類がある。
闘気や魔力、すべての生物の原動力となる生命力……エーテルを発動時に消費するものとそうでないものが存在している。
クロの『不死の災い』そのものはエーテルを消費するものではない。ある意味、『呪い』のようなもの。
しかし、その副次効果である再生や治癒はエーテルを消費する特殊なものだ。
デルトリア伯が持っているグリモア詩編は、エーテル消費型に属する災いだとエリクシアは考えている。
デルトリア伯のエーテルと融合して、はじめて災いとして機能するタイプである。どちらかというと、魔法や戦技に近い。
「ふふ……」
そこまで考えて、エリクシアが自分の考え違いに気づいて、笑う。
「……何が、おかしい」
デルトリア伯が眉をひそめた。
「何がおかしいか、ですか?
あなたが勘違いをしているからです」
「……何?」
「クロが、あなたなんかに負けるわけがありません」
不死は死なない。
エーテルの有無なんて関係ない。
無理やりにでもこの世に命を留めるのが不死だ。
そう、それはまさしく『呪い』。
死にたくとも死ねないのが不死だ。
本人の意思など関係ない。
たとえ肉体が粉々になったとしても。
たとえ灰になったとしても。
それでも、物理的に死ねないのが不死なのだ。
不死殺しとはすなわち、不死者の精神を殺すこと。
もう二度と立ち上がることができないほどに、心を挫くこと。
あり得るだろうか?
あの、クロ・クロイツァーが、何もかも諦めて、足掻くのを止める。
そんなことがあるだろうか?
いいや、絶対に――無い。
エリクシアはそう確信する。
あの少年の背中を見てきた。
どれほど力量の差があろうと、決して諦めることのない不屈の意志。
その真っ直ぐすぎる瞳は、たとえ深淵の暗闇に囚われても曇らない。
「バカめ。何度も言わせるな。もうアイツは終わったんだ」
デルトリア伯は自分の勝利を確信し、余裕の笑みで接近している。
「……っ」
来い。
そう、もっと近くへ。
来い。
エリクシアは心の中でそう念じる。
「…………」
デルトリア伯は完全に油断している。
今ならグリモアの魔法で倒せる可能性が高い。
しかし、もっと近くだ。
エリクシアの奥の手。
即死の氷魔法。
あの魔法なら、確実にデルトリア伯の息の根を止められる。
しかし、その範囲は非常に狭く、射程は約5m弱。
詠唱も必要だ。
零距離にデルトリア伯がいたとして、気づかれてから発動するまで数秒はかかる。その数秒間、デルトリア伯をいかに逃がさないか。
一か八かの大勝負。
外せば警戒されて二度と魔法は喰らうまい。
いや、その前にエリクシアは後一発分しか魔法は撃てない。
文字通り、最後の希望。
デルトリア伯さえ倒せれば、後はもうウートベルガだけだ。
シャルラッハたちも大概にギリギリの攻防になるだろうが、時間はおそらく稼げる。そうなったらこちらには英雄エルドアールヴがいる。
全て終わった後に、クロを助ければいい。
不死殺しはまだ完遂されていないハズだ。
彼なら絶対に心は折れていない。
あんなに諦めの悪い人が、こんな簡単に膝を崩すハズがないのだから。
「さぁ来るんだ」
デルトリア伯が5m圏内に入る。
後一歩。
エリクシアの心臓が早鐘を打つ。
「ボクに新しい災いの力を寄こせ」
デルトリア伯の手がエリクシアに伸びる。
エリクシアが魔法の発動を準備する――その時。
「……誰だ」
デルトリア伯が足を止める。
警戒を最大にして、周囲を確かめる。
そして、広場の隅。
建物と建物のわずかな隙間に、目を止めた。
エリクシアも同じようにその場所を見る。
そこに――『彼ら』がいた。
「……あ」
エリクシアが声を漏らした。
そこにいたのは、エルフの男、ヒュームの女、ドワーフの老人。
見覚えのある顔の3人だった。
「ああ……なんてこと……」
デオレッサの滝からここに到着し、エーテル切れになっているクロを助けようと教会に入り、兵士に見つかり逃げ回っていたあの時。
悪魔を殺そうと躍起になっていた、あの住人たち。
あの時とまったく同じで、農具を握りしめている。
彼らは、魔物襲撃の混乱の中でも、ずっとエリクシアを殺そうと捜し続けていたのだ。
そして、運悪くここで見つけてしまった。
「そこまで……」
悪魔が憎いのか、と。
そこまでして、自分を殺したいのか、と。
「……うぅッ」
ビキリッ、と心が痛んだ。
割れていく。
エリクシアの心にヒビが入っていく。
痛い、痛い、痛い。
肌を切られるより、なお痛い。
魂が引き裂かれるような激痛だった。
しかし、
「逃げてくださいッ!!」
そんな痛みに耐えながら、エリクシアは叫んだ。
「……え?」
エリクシアを狙っていた住人が混乱する。
しかし、すぐに理解する。
「……見たな。キサマら」
「ひ……ッ!?」
デルトリア伯の殺意を肌で感じて、住人たちが腰を抜かしてしまった。
「見たのなら、生かしてはおけないな?」
ゆらりと、デルトリア伯が住人の方へ歩を進めた。
もうエリクシアはいつでも捕らえられるとの判断なのだろう。
ゆったりとした動作で、しかし素早く住人たちへ近づいていく。
エリクシアとの距離が開いていく。
「ダメ! はやく逃げてッ!!」
逃げられない。
住人たちは腰を抜かして座り込んでしまった。
殺される。
「――させませんッ!!」
痛む心を押し殺して、エリクシアはデルトリア伯に向かって走る。
「――『かの姫君は嘆き悲しみ泣き叫ぶ。海よりも深い愛情は、その重さがゆえにあらゆる者を傷つける。其が力は絶大なりて、独り氷の墓標に立ち尽くす』――」
走りながら詠唱を。
最後の魔法を編んでいく。
「……キサマ!? 魔法か……ッ!!」
デルトリア伯が気づく。
その魔法の危険さに。
「『氷姫の――抱擁』ッ!!」
放つ。
即死の魔法を。
「くッ……おおおおおッ!!!」
キン――という、水の中に氷を沈めたような音が響き渡る。
氷塊が出現する。
対象を閉じ込め、そのまま即死に至らせる魔法だ。
「……くッ、あ……」
エリクシアが地面に崩れ落ちる。
最後の魔法を使って、体に限界がきた。
体中から出血している。
もう力が入らない。
エリクシアは視線だけを氷の方に向けて――
「キサマ、こんな奥の手を残していたか……」
――絶望する。
「そん……な」
魔法を避けられた。
失敗した。
「甘く見ていた。小娘でも、悪魔は悪魔というわけか」
エリクシアは地面に倒れたままで、
「はやく、逃げてッ!!」
住人たちに声をかけた。
「え……」
混乱するのは住人たちだ。
エルフの男も、ヒュームの女も、ドワーフの老人も、呆けた顔でエリクシアを見る。
「ここにいたら、殺されますッ! はやく逃げてくださいッ!!」
「え……あ……」
さすがの住人たちも、殺されるのは分かっている。
今し方、デルトリア伯の殺意にさらされていたのだ。
彼らが混乱している理由はたったひとつ。
自分たちが殺そうとしていた悪魔に、助けられたという事実に対してだった。
「はやくッ――――逃げなさいッ!!!」
普段のエリクシアからは想像もつかないほどの強い口調だった。
そのあまりの気迫に我を取り戻したのか。
住人たちは短く何度か頷いて、それぞれの手や肩を貸し合い立ち上がり、建物の奥に消えていった。
「…………」
それを見届け、ホッとしたため息をつくエリクシア。
だが、
「逃がしたか……まぁいい。どうせこの街の人間はひとり残らず消すつもりだ。今死ぬか後に死ぬかの違いだな」
デルトリア伯がエリクシアを見る。
その表情は激怒のそれだった。
「まさかキサマがあんな魔法を使えるとはな。おどろいたぞ?」
言いながら、倒れ伏すエリクシアの腹を蹴り上げた。
「あ――――ぐッ……ッッ」
悶絶するエリクシアを見下しながら、
「ふん」
デルトリア伯は、エリクシアの胸倉を掴んで無理やり立たせる。
そして、エリクシアの幼い顔を、振りかぶった拳で殴りつけた。
「ッ……うッ……ぐッ……」
殴られた勢いで吹っ飛んだエリクシアは、痛みに喘ぐ。
「ゲホッ……ゲホッ……ッ」
顔面から血を流し、土埃を被りボロボロの状態だった。
「助けは来ないぞ。あちらもマジメに闘っているようだ」
言われてシャルラッハたちを見ると、ウートベルガとの壮絶な闘いがはじまっていた。
エリクシアを助けようと動いて、ウートベルガに阻まれている状態なのだろう。
「キサマはグリモアの悪魔だ。丁重に扱ってやろうと思っていたのだが、まさかこのボクを殺そうとしてくるとは……バカな女だな?」
「あぐ……ッ」
ガンッ、とエリクシアの頭を踏みつけるデルトリア伯。
「許しを請え。泣いて謝れ。二度と歯向かわないと誓え」
言いながら、エリクシアの頭を何度も踏む。
「あッ……がッ……」
もはや見るに耐えない光景だった。
デルトリア伯の責苦に、必死に耐えているエリクシア。
「だ……」
「ん?」
エリクシアが何を言いかけるのを見て、デルトリア伯が踏む足を止める。
「誰が……あなたなんか……に」
返事は、最後まで聞くまでもない。
明確な拒絶だった。
「……最後のチャンスだ。
ボクの靴を舐めろ。そうすれば今までの無礼を許してやる」
言って、横たわるエリクシアの顔の前に足を置いた。
「このままでは、向こうの仲間も死んでしまうぞ?」
「…………」
それは言うまでもない、シャルラッハたちのことだ。
「キサマ次第だ。キサマがボクに隷属するというなら、あいつらも助けてやろう」
くくく、と嗤いながら。
「ふむ、そうだな。キサマらは顔だけはいい。愛玩用の奴隷として、ボクの城で飼ってやってもいいぞ?」
そんな下劣なことを言う。
「……ど、れい……? 人類三大汚点の……あの?」
「ああ、そのとおり。悪魔でも、教養はあるようだな」
「1500年前に……あのエルドアールヴが、潰した制度のハズですが……?」
「くくく。このデルトリア辺境は、このボクがルールだ。ボクの城じゃ、復活させているんだよ」
「……なんて、ことを……」
『悪魔狩り』『種族浄化』と並ぶ、人類三大汚点のひとつ『奴隷制度』。
デルトリア伯はそれを復活させているという。
人類三大汚点は、レリティアの絶対禁忌だ。
グラデア王国・聖国アルア・帝国ガレアロスタの三大国家は当たり前として、他の全ての国々からも忌避されている、全世界の禁忌だ。
もしこれを破れば、レリティアの全てを敵に回すことになる。
すなわち、レリティア十三英雄と全国家武力を敵に回すということだ。
「…………」
あり得ない。
あり得ないが、この男ならやりかねない。
おぞましい。
こんな人間が、グリモア詩編を持っている事実が、本当に、おそろしい。
「キサマが決めろ。ここであいつらを死なすか、生かすか。答えは決まっているだろう? 命を懸けてまで助けてくれようとしていた人間を、キサマは薄情にも殺すのか?」
「…………」
ずいっ、とエリクシアの口の前に靴を出す。
「さぁ、舐めろ。バカみたいにな。
ボクに媚びを売れ。永遠の忠誠を誓うんだ」
デルトリア伯はエリクシアのあごを持ち、靴の方へ誘導する。
それをエリクシアは。
「――――ッッッ!!!!」
手袋に包まれたデルトリア伯の手を。
思いっきり。
噛んだ。
力の限り、全力で。
「ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!?」
デルトリア伯は噛みついてくるエリクシアを殴り飛ばす。
「ああああああああああああああッ! キサマッ! キサマッ!! なんてことをッ!!」
「……あなたの、ものに……なるぐらいなら、死んだ方が……マシです」
エリクシアが、言い切った。
「おのれッ!! おのれええええええええええええッ!!
殺すッ!! 殺してやるッ!!」
怒りのままに斧を取り出して、エリクシアの方へ歩み寄る。
そこへ飛んでくるウートベルガの声。
「おいおいおい、何やってんだテメェ。そいつ殺したらテメェの『目的』はどうなるってんだよ?」
「うるさいッ!! グリモアは『目的』に至るための『過程』に過ぎない! この悪魔がいなくとも、やり遂げてやるさッ!!」
「ああ~なるほどな。一時の感情で全部台無しにするタイプかテメェ」
「黙れッ! この女は絶対に許さんッ!!」
エリクシアを見て、殺意を隠そうしないデルトリア伯。
じりじりと近づいていく。
「……ハァ、ハァ……」
度重なる暴力にさらされ、意識が朦朧としてきたエリクシアはそれを眺めることしかできない。
デルトリア伯が斧を振りかぶる。
「死ね、悪魔め……ッ」
勢いよく振り下ろされる斧は、
「な……ッ!?」
小さな『片手斧』に止められる。
そして――
「ワシらの娘に何してやがんだクソ野郎ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!」
――デルトリア伯の顔面に、ゴツい拳がめり込んだ。
「ぐァ……ッ!?」
ブッ飛んでいったデルトリア伯はそのまま地面を転がっていく。
デルトリア伯をフルスイングで殴りつけたその人物は、
「ガ……ガラハドさ……ん」
「エリクシア、無事……とは言えねェか」
ドワーフの看守長。
ガラハド・ベネトレイトその人だった。
「だが、今度は間に合って……よかったぜ」
◇ ◇ ◇
「ここは……どこだ」
クロ・クロイツァーは、どことも知れない山奥にいた。
「何が起きた……?」
デルトリア伯と闘っていた。
その最中、相手の災い――黒い球体の中に飲み込まれた。
そして目を開いたら、ここにいた。
「どういうことだ……」
周囲は草木が覆い茂っている。
山だと思ったのは空気が薄いからだった。
この空気の感じは、かなりの高所だ。
「……ここは、どこだ……」
明らかに、さっきまでいたグレアロス砦じゃない。
注意深く周囲を見渡していく。
「……風がない」
グレアロス砦とは気候が違う。
さらに、おかしいところがひとつ。
「……なんで」
頭上を見上げる。
「……満月が出てるんだ……」
たしか今夜は新月だったハズだ。
目の前に浮かんでいる月はなんだ。
意味が分からない。
理解ができない。
「…………」
明らかな異常事態。
今の状況にクロが戸惑っていると、
「やぁ」
背後から声がかかった。
「――――誰だッ!?」
今いる場所から飛び退いて、クロが半月斧を構えた。
「警戒しないでください。大丈夫、ぼくは敵ではありません」
「……誰、だ……?」
もう一度、同じ言葉を出す。
見たこともない人物だった。
もし出会ったことがあるのなら、絶対にこの人物なら忘れない。
なぜなら、
「ふぅ、めずらしく予言が当たりました」
その人物は少年だった。
見た目は10歳いくかどうかの容姿。
しかしおそらく実年齢はもっと高い。
エルフ、それも、ダークエルフの少年だった。
褐色の肌。
あのエーデルヴァイン・エルフィンロードと同じ、ダークエルフ。
ダークエルフは稀少だ。
こんな人物、もし出会ったことがあるなら忘れるハズがない。
「あなたがここに来るのは予言で分かっていました。しかし、ぼくはあなたがどういう人物なのか、どこから来たのかは分かりません」
「…………」
丁寧な少年だった。
物腰の柔らかい、優しい雰囲気の少年だ。
「予言通りなら、あなたが戻りたい場所と、ぼくが行きたい場所は同じのハズなのですが……さて」
にこり、と柔和に笑う。
まったく敵意がない。
むしろ好意的ですらある。
「とりあえず自己紹介といきませんか?
まずはぼくからいきたいと思いますが、構いませんか?」
「……」
こくり、と頷く。
何がどうなっているのか分からないこんな状態で、現状をさらにややこしくするのは本意じゃない。
「ぼくはラグルナッシュといいます。『予言の民』の、族長をしています」
少年の名を聞いて、すさまじい違和感を覚えた。
そう、違和感。
――ああ、クロ! ひさしぶりだね。
はじめて会ったはずなのに、この名をはじめて聞いたという感じがしない。
たしかあれは、
――ラグルナッシュは元気?
自分が不死になる前の晩。
そう、たしかあれは地下牢で――――
「ええっと、ぼーっとしてますけど大丈夫ですか?」
「あ、ああ……うん。ごめん、もう大丈夫」
「そうですか。体調を悪くしたら、ちゃんと言ってくださいね?」
ラグルナッシュと名乗ったダークエルフの少年は、
屈託のない、優しい笑みを浮かべた。
「それではあらためて、
君の名前を教えてくれますか?」




