60 夜
――エルドアールヴを見た。
ずっとずっと彼に憧れていた。
幼かったクロ・クロイツァーの心の奥に、彼が火を灯したのだ。
――間近で、彼を見た。
はじまりは、マリアベールの教会にあった分厚い本だった。
それから、本棚に敷き詰められた、彼の物語を書き記した数々の本。
二千年にも及ぶ武勇の数々。
幼いクロ・クロイツァーは、それに生きる意味を見出した。
――彼のその背中は、
闘いの最中、突然現れたエルドアールヴ。
憧れて、憧れて、夢にまで見たその人が、すぐそこにいた。
エルドアールヴと会ったのだ。
けれどそれは、喜び心躍るようなものじゃなかった。
思っていたような人物じゃなかった。
想像していたのとはまったく違った。
幻滅じゃない。
どちらかと言うと、驚きだとか衝撃の類い。
人類最強のはずのエルドアールヴ。
何よりも強く、誰よりも雄々しい『最古の英雄』のはずだった。
なのに、彼は、
――まるで泣くのを我慢している子供のように見えた。
「……い……おい、おい! 聞いておるのか!」
「……え? 何?」
幼い少女の声で、クロが現実に戻る。
ダークエルフのエーデルが、クロの肩に乗ったまま言った。
「ちょっとここらで止まるのじゃ」
戦場の騒がしさとは一転して、グレアロス砦は静かだった。
クロたちの乗る、馬の蹄鉄の音だけが道に響いていた。
「……ここで?」
「うむ」
手綱を握るクロは、疑問を浮かべながらも馬をゆっくりと止めた。
「…………」
しん、とした道。
周囲には建物だけ。
人っ子ひとりいない。
魔物の襲撃で、住人はみんな西側に避難したのだろう。
「…………」
クロはふと、さっき通ってきたグレアロス砦の東門を見た。
東門は、ガラハドが仁王立ちして魔物を中に入らせないようにしていた。
エルドアールヴも東門を通って参戦したようで、ガラハドは、エリクシア絡みの事情を一瞬で把握したらしく、砦内に入ろうとするクロたちを素通りさせてくれた。
「おーい! つれて来たぞーッ! どこにおるのじゃーッ!」
エーデルが誰かを呼ぶ。
しかし、誰も姿を現さない。
それから何度も叫んだが、エーデルの声が虚しく響くだけ。
「……なんでじゃ! なんで来ないのじゃ!」
エーデルが涙目になった。
「……誰かと落ち合う予定だったの?」
あまりの居たたまれなさに、クロがエーデルに聞く。
「わらわの従者で、街の様子を見回らせておったのじゃが」
「……エーデルの従者、か……」
前に座るエリクシアを見る。
彼女は巨大なグリモアを手掴みにして、馬体の側面に浮かしている。
非力なエリクシアが片手で持てるぐらい、このグリモアは軽いということだろうか。いや、そもそもグリモアに重量なんて無いのかもしれない。
「…………」
ひと目見ただけで分かる異常性。
このグリモアを見たエーデルの従者がどんな反応をするのか、クロはそれが気になった。
「心配するでない。お主らの事情は十分理解しておる。わらわも、わらわの従者たちも。当然、エルドアールヴもな」
「……どういうこと?」
「スコールレイン卿の言葉を真似るなら、『同志』といったところか」
同志。
マーガレッタは仲間のことをそう呼んだ。
デルトリア辺境を守る、騎士団とは違う裏の仲間。
権力と実力を持ち合わせる難敵、デルトリア伯を倒すための仲間だ。
クロが知った中では、ガラハド、そして彼の故郷の生き残り、そのぐらいだった。
「この広いデルトリア辺境。その情報をスコールレイン卿に渡していたのが、わらわ率いるエルフィンロードなのじゃ。主にデルトリア伯の動きに関しての情報じゃがな。お主らの情報を得たのは別経路じゃが、まぁそれは後々分かる」
想像以上に多数の人員が動いていたらしい。
さらに、それにエルドアールヴが加わっている。エルフィンロードが動いているとなれば、その守護者も動くのは当然の成り行きだろう。
「デルトリア伯の悪事を追っていたのはエルフィンロードの方が早い。それで、どうにも危なっかしいスコールレイン卿らを仲間に引き込んだ、というワケじゃ」
クロが頷く。
グラデア王国のトップは国王だが、国土のすべてを国王が統治しているわけではない。
広い国内の領地を分けて、それぞれ貴族諸侯に任せている。
統治者である子爵以上の貴族は、各支配圏内では絶対の存在だ。
デルトリア辺境を統治するデルトリア伯は、すなわち絶大な権力を有している。
仮に、実力行使だけでデルトリア伯を倒したとしても、国王に任された貴族への反乱と見なされて、グラデア王国のすべてが敵に回ってしまう可能性すらある。
騎士であるマーガレッタの権力だけでは到底敵わない。
ゆえに、必要なのが悪事の証拠だ。
そのための情報集め。
逆に、デルトリア伯の悪事を追っていたというエルフィンロードにしても、マーガレッタの加入は願ったり叶ったりだ。
エルフィンロードはグラデア王国ではなく、あくまで他国だ。
無理にデルトリア伯を倒してしまえば、侵略と見なされてしまっても文句は言えない。
それでも、エルドアールヴの名声を強引に使えば何とかなるだろうが、マーガレッタという王国へのパイプと、彼女と大義を同じくする意義を得たのは非常に大きい。
「とまあ、そういうわけで、スコールレイン卿とわらわは仲間じゃ。信用に足ると思ってもらってよいぞ。わらわの従者もな」
信用できる。
だからこそ、このエーデルが同行すると言った時に、マーガレッタは何も言わなかったということだ。
「……分かった。エリクシアも、いい?」
「わたしはクロがいいのでしたら、大丈夫です」
エリクシアも異論は無いようだ。
「しかし、あやつどこに行ったのじゃ……」
エーデルがキョロキョロと周囲を見る。
「まだ街の方にいるとか?」
街の様子を見回っているなら、まだの可能性が高い。
「いいや、絶対におるはずなのじゃ。性根はひん曲がっておるが、頼りになるやつなのじゃ。それに、エルドアールヴとの約束をあやつが反故にするはずがない」
「――性根が曲がっているのは王さまの方でしょう?」
「ひぎゃあああああッ!?」
突然声がして、エーデルが飛び上がる。
「ふふ、何て声を出しているんですか。みっともないですよ? 王さま」
馬のそばに現れたのは、フードを被ったヒュームの少女だった。
黒いコートを全身に纏い、さながらエルドアールヴ女性版といった印象だ。
「び、びび、びっくりしたわ! 気配を消して近づくでないわ、たわけッ!」
「王さま、ちょっと黙って」
フードの少女がそう言って、クロとエリクシアの方を向く。
そして、
「ヴィオレッタと申します。クロさま、エリクシアさま、エルドアールヴの命により、これよりおふたりのお供をいたします」
片足を地面について跪き、忠誠の意を表した。
真っ直ぐに見つめてくる。
フードで隠されていたその瞳は、まるで夏の空のように澄みきった青。
「ちょっと待てーい!」
それに横やりを入れたのはエーデル。
「それ服従のポーズじゃろ! わらわにはそんなのしたこと無いではないか!」
「何で私が王さまにしなきゃいけないんですか?」
「わらわが王だからじゃろうが! こやつらにするぐらいなら、わらわにせんか!」
「ぷっ。王さまにするぐらいなら、その馬にする方がマシですね」
「なんじゃとキサマ! どれだけわらわがキサマの世話をしたのか忘れたとは言わせんぞ!」
「王さまの世話になった覚えが無いです。むしろ世話をしているのはこっちの方です。私はエルドアールヴの世話になったんです」
おかしい。
エーデルの従者と聞いていたが、様子がおかしい。
まるで敬っていないように見える。
「キィィ! お主も何とか言わんか!」
「何とかと言われても……」
「クロさま。ワガママ王の話は聞くだけムダです。子供みたいなフリしていますが、この人は15歳、私たちと同年代ですので騙されないでくださいね」
「えっ!? わたしより年上なんですか!?」
エリクシアがおどろいた。
エルフの年齢は見た目だけでは分からない。
エルフもダークエルフも同じ種族だ。ヒュームの2倍は寿命がある分、その成長速度も遅い。
「黙っておればいいものを。余計なことを……」
エーデルが指を噛む。
それを見ながらヴィオレッタが言う。
「大方、幼い少女のフリをしてワガママ放題しようとしたのでしょうが、そうはいきません。王さまに騙され続けて4年。その図々しく恥知らずで小癪な性格は熟知しておりますので、私がいる以上、王さまの好きにはさせません」
「ぐぬぬぬ……ッ」
余程のことがあったようだ。
とは言っても、本気で憎んでいるような感じではなく、姉妹同士でケンカをしているような微笑ましい印象を受けた。
「で! 首尾は!?」
ふて腐れた様子でエーデルが言う。
「このまま、この場に留まるのが最良かと」
一瞬で真面目な雰囲気を出したヴィオレッタがそう言った。
「ふむ、しかし目的地は地下牢なのじゃが」
「敵が迫っています」
ヴィオレッタのその言葉に、クロが反応した。
「……敵?」
「東門あたりから馬を追跡されております。どうやら向こうは鼻が利く様子。逃げ切るのは不可能でしょう。なので迎撃するため、闘いに不向きな狭い地下牢よりも、この広い通りで待ち構えるのが最善かと。それに、エルドアールヴと距離を取り過ぎるのも得策では無いです」
「エルドアールヴが焦っておったのはコレか」
舌打ちをしたエーデルが言う。
「さて、そういうことじゃ。現状を理解はしたか? クロ・クロイツァー」
「俺らを狙って……いや、エリクシアを追ってきている敵がいる」
クロの頭に、あの黒いスライムの姿がよぎった。
「……増殖したウートベルガが、来ているのか」
「じゃろうな」
ウートベルガの特性を考えれば不可能じゃない。
せっかくエルドアールヴに助けられてここまで来たが、どうやら敵も相当やるようだ。
「ちなみに言っておくが、わらわは戦闘向きではないぞ。このヴィオレッタも諜報偵察は並以上だが、戦闘は並以下じゃ。戦力には数えられぬ」
「…………」
自分の力の感覚を確かめる。
エーテルはまだ大丈夫。
余裕は無いが、闘える分はある。
闘えるが、あのウートベルガ相手にどこまでやれるか。
「……わたしは、多分もう魔法は一発ぐらいしか撃てないと思います……」
エリクシアが言う。
ここまでの闘いで、魔法を酷使し続けている。
デオレッサの召喚でも、体に負担が相当かかっているはずだ。
無理をしているのがあからさまに分かる。
本当はすぐにでもベッドに横にならなくてはいけないぐらいだろう。
「……闘えるのは、俺だけか」
もうマーガレッタもいない。
砦外の戦場に戻ることはできない。
戻ればエリクシアがどんな目に遭うか分からない。
こちらの戦力は自分だけ。
「…………」
空を見る。
いつの間にか、薄らと空が明るくなっている。
あと少しすれば太陽が出てくるだろう。
「……夜明けぐらいには闘いは終わってるかと思ったけど……」
そんな希望を、口にした。
このままでは朝日を見る前に全滅してしまいそうだ。
相手はウートベルガ。
自分の力ではどうしようもない敵。
一度闘ったからこそ分かる力量差。
あまりにも強すぎる敵だ。
「…………」
自分にエルドアールヴぐらいの力があったら。
そう思わずにはいられない。
「知っておるか、クロ・クロイツァー」
「……?」
肩の上に乗っているエーデルが言う。
「明けない夜は無いのじゃぞ」
夜は必ず明けて、朝を迎える。
それはあまりにも当たり前のこと。
けれど、いまのクロにはその言葉が『希望』そのものに聞こえた。
「…………」
前を向く。
真っ直ぐに。
少し折れかけていた心が立ち直っていく。
「――いい言葉だな、それは」
そんな時だった。
その男の声が聞こえたのは。
背後の道から、ゆっくりと歩いてくる。
真っ赤なマントを羽織り、派手な貴族服を着ている。
手足は長く、ほっそりした体型の青年だ。
顔は美形で、その笑みには優雅さすら感じられる。
「だが――こういう言葉も知っているか?」
知っている。
この青年をクロは知っている。
直接見たことは無いが、肖像画で見たことがある。
これほど有名な人間はそういない。
英雄の嫡子。
類い希なる才を持った、神に愛された男。
グラデア王国のこれからを担う、次代の英雄。
そして。
「クロ……」
「うん……」
見ただけで理解できた。
あまりにも邪悪なエーテルを漲らせている。
こいつが、『グリモア詩編』の持ち主だ。
そして。
この男が、
エリクシアの義母、ノエラ・ベネトレイトを殺した相手。
ガラハド・ベネトレイトがどうしても倒したい仇敵。
マーガレッタが打倒しようとしている難敵。
エリクシアを狙い続け、グリモアを手中に収めようとしている怖ろしい男。
デルトリア辺境を統べる伯爵。
その名は、フリードリヒ・クラウゼヴィッツ。
通称、デルトリア伯。
「明けない夜は無い。しかし――夜は何度でもやってくる。
キサマらの命運はここまでだ」
デルトリア伯が凶悪な笑みを見せた。
苛烈極まりない殺意がクロを襲う。
「……お前が、デルトリア伯」
「キサマが、クロ・クロイツァーだな」
クロ・クロイツァー最大の敵が、ここに姿を現した。




