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エリクシアオブライフ ~不死の災いと悪魔の写本~  作者: ゆきわ
第1章『英雄胎動』編

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54 『第四悪魔』デオレッサ、グレアロス砦『三強女傑』


 東の方角では、いまだに水竜の魔法が威光を轟かせていた。

 大量に押し寄せていた魔物は全滅必至。

 雷轟はとどまることを知らず、破壊に次ぐ破壊をただひたすらに繰り返す。

 東方は、見える限りの一面が焼け野原。

 ながらも、これは始原の世界の再現だ。

 あの雷の内部では生物の生存は許されない。

 あまりにも過酷な世界。


 おそるべきはそれを再現した水竜にこそある。

 生ける伝説として語り継がれてきた特級の魔物。

 その力の強大さに、戦場を駆けていたすべての戦士、すべての魔物が戦慄する。

 眼が離せない。

 戦場のなかですら、この光景を直視せざるを得ないほどに。

 神々しいほどの雷は、あるいは魅了の効果もあるのだろうか。


 戦闘の幕間ともいえるこの瞬間に、雷に目もくれない人物が2人いた。

 クロ・クロイツァーとデオレッサである。


「――つまり君は500年前に実在した史上4番目の『悪魔』で、死後ずっとグリモアに囚われていたってコトでいいの?」


 デオレッサの話を聞いたクロが情報をまとめていく。

 悪魔が人の魂を取るという話はよく聞くおとぎ話だが、本当のところは悪魔自身がグリモアに魂を取られるのだという。

 魂というものが本当にあるのかだとか、正直、眉唾ものの話だが、グリモアのやることだ。いちいち常識を当てはめていては話が前に進まない。


「おにいちゃん、言い直して」


 エリクシアの体を借りているというデオレッサが、クロに訂正を求めた。


「……? 何か間違ってた?」


「わたし独りじゃない。おかあさんも『第四悪魔』なの」


「……水竜も?」


「そう。わたしとおかあさんで、ひとりの悪魔なの。二度とまちがえないで?」


「…………第四悪魔は『君たち』、だな。わかった。気をつけよう」


 どうやらそこは彼女にとって、どうしても譲れないものらしい。

 理解して頷くと、デオレッサはにっこりと笑った。


「ありがと。おにいちゃんには、わたしたちのコトをちゃんと知っておいてもらいたいんだー。好きだから」


「…………」


 屈託のない無垢な笑み。

 心臓がドクンと鳴った。

 思わずクロは眼をそらし、誤魔化すようにデオレッサから聞いた話を反芻していく。


「あとは……悪魔は500年に一度現れる、だったか」


「うん」


 これは意外だった。

 悪魔が死んだらすぐにでも次の悪魔が現れると思っていたが、実際には500年の間隔があるらしい。


「エリクシアも知らなかったね。『第三悪魔』はエリクシアに何にも教えてあげなかったみたい」


「第三……それはもしかして氷の?」


 エリクシアが使うグリモアの魔法は、ついこの間まで『氷の魔法』だけだった。

 今回のデオレッサと水竜の魔法――『雷の魔法』からも分かるとおり、グリモアの魔法は、歴代の悪魔が使う魔法を借りるものなのだという。


「そうそう。とってもとっても可哀想な人。もしこうやって会うコトがあるなら、『第三悪魔』を抱きしめてあげて。きっと本人もそれを願ってる」


 彼女と会話をしているなかで気づいたコトがあるが、デオレッサはたまにこういう意味不明な、意味深長なコトを言う。


「……どういうこと?」


 抱きしめる?

 誰が?

 会う機会?

 他の悪魔も、デオレッサのように現世に降臨するコトがあるのか?

 さまざまな疑問が頭をよぎる。


「べー、これ以上は乙女のひみつ。教えてあげない」


「………」


 言動と仕草は本当に子供のそれだ。

 だからこそ、デオレッサが言わないと言ったら、意地でも言わないのだろう。


 しかし、いまがチャンスなのだ。

 何か、何でもいい。

 悪魔のコトを少しでも多く知っておきたい。

 エリクシアのために。


 エリクシアの先輩にあたる、第四悪魔。

 デオレッサとこうして会話できているうちに。

 水竜の魔法で、戦闘が一時止まっているこの瞬間のうちに。


「4番目の君たちが500年前ってコトは、悪魔がはじめて現れたのが2000年前になるな」


 焦る気持ちを抑え、平静を装って会話を続ける。


「うん。『初代悪魔』はすごい人。とってもとってもやさしくて、誰よりも


 2000年前といえば、古代王国アトラリアの滅亡がまず頭に浮かぶ。

 一夜にして滅んだ巨大な王国。

 魔物の出現も2000年前からだ。

 そして、『最古の英雄』エルドアールヴ伝説のはじまり。


「…………」


 クロが息を呑む。

 アトラリア、魔物、エルドアールヴ、そしてグリモアと初代悪魔。

 そう。

 何もかもが、なのだ。

 ひとつひとつはそれぞれまったく別の存在だ。

 しかし、ここまでの偶然があるか?

 誤差はあるだろうが、そのすべてが2000年前を示している。

 この長い人類史のなかでも特に重大な存在が、ここまでつどうだろうか?


「エリクシアに教えてあげたのはそのぐらいかな。

 それじゃ、ここでお話はおしまい!」


 指で×をつくるデオレッサ。

 しかし、クロもそうはいかないと食い下がる。


「ま、待ってくれ! まだ聞きたいことが山ほど……ッ」


「ううん。もうダメだよ」


 デオレッサが首を振る。

 そして、


「…………ッ、と」


 グラッと体が揺れた。

 地震ではない。

 クロとデオレッサは、いままさに水竜の体の上に乗っている。

 つまり、水竜が大きく動いたのだ。


「おかあさん、見つけちゃったみたい」


「……何を?」


「――おかあさんを、


「……え?」


 そのクロの疑問をかき消すかのように、


「――――――――――――――――ッ!!!」


 水竜が空に向かって、大きく吼えた。

 ガラス割ったような金切り声は激怒の咆吼だ。

 もはや音とすら認識できないほどの大音量の高音。


「うんうん、わかるよ、わかる。

 くやしかったよね、苦しかったよね、許せないよね」


 デオレッサは変わらず笑顔だが、いまは眼が笑っていない。

 先ほどまでとは漂わせる雰囲気が違っている。

 ぞっとする。

 無垢と冷酷は同居するものなのだと、クロはこの笑顔を見てはじめて知った。


「殺しちゃおう。いいよね? おにいちゃん」


「ま、待て……誰をだ!?」


「――


 デオレッサが指差すのは、夜空に浮かぶ『雲』。

 水竜が空に吼えたのは、そういうコトだ。


「ちょ、ちょっと待て! あの魔法を撃つ気か!?」


「うん。消し炭にするの。なぁに、ダメなの?」


 かわいらしく首を傾げるデオレッサ。

 幼い子がおねだりするような仕草だが、言葉は物騒なこと極まりない。


「……ダメに決まってるだろ!? こんな距離であんなの撃ったら、俺らも巻き込まれるぞ!?」


 水竜の『神雷』の規模は直径30kmケームほどもあった。

 対して、あの雲は地上から200エームの空に浮いている。

 地上で闘っている兵士どころか、グレアロス砦までまるごと攻撃範囲に入ってしまう。


「おかあさんが守ってくれるから、わたしは平気。おにいちゃんも『不死』だから大丈夫でしょ?」


「他の人まで巻き込むだろ!? ダメだ」


「えぇ……」


 露骨にめんどくさそうな顔をするデオレッサ。


「だってわたし、人も魔物もきらいだし、ベツにどうでもいい」


「――――」


 デオレッサは悪魔である。

 それも真性の。

 人の生死なんてどうでもいい。

 興味の無いものにはまったく関心がなく、どうなろうが構わない。

 何も知らない幼児が笑顔で虫を叩き潰すような無邪気の残忍さ。

 幼さゆえの悪性。

 それがデオレッサ・ヴォルトガノフという悪魔のごうである。


「……そんなことをしたら、エリクシアが悲しむ」


 どうしたらデオレッサを納得させられるだろうか、と考えた末。

 これがいまできる精一杯の説得だった。


「…………おにいちゃんも?

 おにいちゃんも悲しむの?」


 こくり、と真剣に頷く。

 それを見たデオレッサは、しばらく考えて結論を出した。


「わかった。2人が悲しむなら手加減する。

 あいつを空から墜とすお手伝いをしてあげる。そのあとは、おにいちゃんたちが何とかして。たしかそういう予定だったんだよね?」


 そう。雲になった特級の魔物を墜とすために、エリクシアは魔法を使ったのだ。

 デオレッサと水竜が出現するという想定以上のものになってしまったが、本来はそういう作戦だった。


「でも約束して。

 おかあさんのかたきは、おにいちゃんがとってね?」


 言って、デオレッサは手を空にかざす。

 向いた方向は、夜空に浮かぶ毒をまき散らす『雲』。



「――『聖域を穢す愚か者共よ、思い知れ。赦されざる罪を雪ぐがいい。滅尽の極みにてこそ贖罪は果たされる』――」



 それは、エリクシアがデオレッサを召喚するときに紡いでいた詠唱の一節だ。

 言霊から受ける印象は激烈な怒り。

 デオレッサが言霊を練ると同時に、水竜が吼える。



「『竜娘のヴォルト――」



 デオレッサがかざした腕に、突如として青白い電気が走る。

 うねるようにとぐろを巻くそれはまるで雷の竜。

 激しい稲光を放ちながら、デオレッサが指し示す空をめ上げる。



「――逆鱗グレア』」



 弓から放たれる矢のごとく。

 雷音を轟かせながら雷竜が昇天する。

 2対1体の悪魔が放つ魔法は、鋭く鮮烈に闇夜を切り裂く。

 悪魔に狙われた漆黒の雲に――逃げ場はない。




 ◇ ◇ ◇




 突然に現れた水竜の咆吼によって、この戦場でもっとも影響を受けたのは竜王種ハイドラゴンだった。

 同じ竜種だからだろうか。

 ハイドラゴンの怯えの色は、この戦場にいるどの魔物よりも、どの人間よりも大きかった。

 まるで水竜から隠れているかのようにおとなしくなったハイドラゴン。


 九死に一生を得たのはシャルラッハ・アルグリロットだ。

 水竜の出現におびえたハイドラゴンは、シャルラッハに放とうとしていた炎の息吹を、発射の直前で止めてしまったのだ。

 本当にギリギリの瀬戸際で命を拾ったシャルラッハ。

 その偶然は、もはや豪運か強運の類いだ。


 英雄の資質というものがある。

 そのうちのひとつ――天運。

 努力ではどうしようもない、生まれつき備わった運命力だ。

 たとえ強者といえども所詮は人の子。

 負けるときは負け、死ぬときは死ぬ。

 その常識を覆すほどの運を味方につけた――神に愛された子。

 闘いに生き残るに足るだけの、運の良さ。

 シャルラッハ・アルグリロットには、当たり前のように、その天運があった。


「まさか『神雷』をこの眼で見るとは、想像もしていなかったですわ」


 すかさずハイドラゴンから距離を取り、しばらく様子を見ていたシャルラッハは、およそこの世のものとは思えない雷を目撃した。

 それはまさしく『神雷』であり、シャルラッハはその魔法の神髄を知っていた。


「……あんなのを見せつけられたら、心がたぎるのも仕方ないですわね」


 調子を確かめるように、靴のつまさきでトントンと地面を蹴る。

 シャルラッハの体を蝕んでいた毒はもう消え去っている。


 神雷のあとに続いた雷竜の魔法。

 先ほどのそれが、あの毒雲に直撃したせいだろう。

 神雷と比べてしまうと格段に威力は下がるだろうが、雷は雷。

 その威力は普通に考えて尋常なものじゃない。


 この戦場に満ちていた毒は魔法の類いだ。

 術者が深手を負うと消えるのも道理。


 頭も幾分か冷静になった。

 体の調子も元に戻った。

 いまこそ反撃の刻。

 シャルラッハはそれを誰に言われることもなく、理解わかっていた。



「――『光あれ。暗黒を照らすは一条の栄光』――」



 戦技とは、己の生命力エーテルを武器として使う技だ。

 それは魔法と根源を同じくする闘いの技。

 であるならば、言霊によって威力や精度が跳ね上がるのは自明の理。

 無秩序のエーテルを言葉という枠にはめ、指向性と意志力をより高めることで、無言のままに放つ戦技とは比較にならないものとなる。

 いわばこれは戦技の詠唱である。


「ゴアアアアアアアアアァァッッ!!」


 ハイドラゴンが眼を血走らせながら雄叫びを上げる。

 シャルラッハの並々ならぬ闘気の高まりに気づき、完全なる戦闘態勢に入った。

 生半可な覚悟ではこの人間の攻撃を受けられない。

 油断即死亡。

 本能でそれに気づいたハイドラゴンが、自身の体を炎で覆う。


――戦技『紅蓮』。


 とてつもない巨体を誇るハイドラゴンの身体能力を大幅に引き上げる、無慈悲な自己強化技。

 炎を身に纏うその姿は、先ほどまで水竜に怯えていたとは思えないほどに、凶悪かつ凶暴だった。

 おそるべき隠し球。

 ここぞという土壇場でこれを発動させる戦闘の嗅覚こそがすさまじい。

 いまこの瞬間だけは、水竜の存在を頭から完全に捨て去ったハイドラゴンが、己の全存在を懸けてシャルラッハを迎え撃つ。


 しかして決戦。

 英雄の申し子シャルラッハと、準特級の魔物ハイドラゴン。

 互いに全力。

 実力は拮抗。

 1人と1体の本気の死闘が、いまはじまる。


「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 ハイドラゴンの豪快極まりない突進。

 全長10エームを超える巨体だ。

 しかも、『紅蓮』により炎を纏い、大幅に身体能力を上げたうえでの突撃である。

 建物が馬車以上の速度で突っ込んで来るような攻撃力だ。

 ほんのわずかにかすっても即死なのは間違いない。


 しかし、シャルラッハはひるまない。

 それどころか、自分も相手に突撃する構えだった。

 突進対突進。

 シャルラッハの身長は140cmシームほどしかない。

 圧倒的な体格差。

 普通なら絶対にシャルラッハには勝ち目はない。

 そう、普通なら。



「戦技『雷光』――閃光疾駆デア・リヒト



 これなるは秘奥。

 暗闇を切り裂く雷光のごとく、シャルラッハが突撃を敢行する。

 踏み込みは苛烈に。

 その推進力はまるで爆発だ。

 稲妻のように鋭く。

 しかし、ただ真っ直ぐに。

 そして速く。

 ひたすらに疾く。

 一瞬よりも短い時間で、ハイドラゴンに肉薄する。


「――――――――ッ!」


 ザザッと、シャルラッハが着地する。

 あまりの速度から、地面を大きく削りながら滑走していく。

 ようやく停止できたのはハイドラゴンの遙か後方だった。


 対して、ハイドラゴンは動かない。

 時が止まったかのような静寂。


 シャルラッハは細剣を横に構えたまま、真っ直ぐ前を見据える。

 やがて。


「さようなら、竜王種ハイドラゴン

 なかなか強かったですわ。このわたくしが、死ぬかと思ったほどに」


 シャルラッハのその言葉と同時。

 ズ…………ン、と重く響く音が戦場に木霊こだまする。


 ハイドラゴンが足を崩し、倒れた。

 否、絶命した。

 あまりの速さに、自分が死んだことにすら気づかなかっただろう。

 脳天から背中、尾にかけて、一筋の剣線を残していた。

 戦技『紅蓮』も相まって、ハイドラゴンの皮膚が鉄のような硬さになっていたのは明白だった。

 しかし、シャルラッハはそれを

 これこそが世に名高い『斬鉄』である。


 シャルラッハは天運の他に、英雄の資質をいくつも備えている。

 胆力や度胸もさることながら、物覚えの早さは特筆に値する。

 そして、それらよりも英雄に相応しい資質。

 それは闘いに勝ち残るつよさ。

 勝利の決め手となる一撃。

 すなわち、放てば必殺の威力を誇る――強力な戦技。


 シャルラッハ・アルグリロットという少女は、天賦の才の持ち主だった。

 当代英雄『雷光の一閃』アレクサンダー・アルグリロットは、自分の愛娘であるシャルラッハをこう言い表した。


――『歴代最高の才覚』。


 アルグリロット家の歴史は古く、グラデア王国建国の時代にまで遡る。

 初代グラデア国王から当代まで変わらず仕えてきた武門の貴族。

 それぞれの時代で数多く英雄を輩出してきた名門である。

 そのなかで、最も秀でた才能を持つのがシャルラッハだ。


 これほどまでに才能に愛された者はレリティアの歴史上でもそうはいまい。

 才能というただ一点に関しては、他の追随を許さない。

 比類なきその才覚は、いずれ必ず英雄となることを約束されている。


「ハァ……疲れましたわ……」


 しかし、シャルラッハはまだ幼く若い。

 英雄になるためにはまだまだ足りない。

 まだ彼女は発展途上。


「……これからの課題が見つかりましたわ。

 次はもっと巧くる」


 シャルラッハは決して才にあぐらをかかない。

 父アレクサンダーが歴代最高と謳ったのはソコにある。

 どこまでも上へ。

 どこまでも星に手を伸ばす。


 時を重ねれば確実に英雄となる素質。

 あるいはエルドアールヴにすら届き得るかもしれないほどに。


 彼女の本当の強さ。

 それは闘いに対してのしたたかさ。

 現状に満足しない、強さへの飽くなき欲求である。




 ◇ ◇ ◇




 あり得ないコトが起こった。

 ぐしゃり、と。

 まるで果物がつぶれたかのような音が戦場に響く。


「ギィアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 悲鳴を上げたのはグルドガだった。

 あり得ない。あり得ない。あり得ない。

 激痛と恐怖のなかでグルドガは、の頭のなかで、何度も同じ言葉を繰り返す。

 なんだコイツは、あり得ない――と。


「おや? 失礼しました。力加減を間違えてしまったみたいですね」


 平然とした声を出したのはアヴリル・グロードハット。

 しっかりとした声だ。

 むしろ余裕さえある。

 つい先ほどまで明らかに劣勢だった――いや、死の瀬戸際にいたとは思えない。


「アアアアッ、アアッ……アアアアアアアアアアアッッ!!」


 アヴリルの言葉が届いていないのか、グルドガはひたすらに激痛にもがいている。

 当然と言えば当然か。

 なにしろ――


「まさかあなたの頭がこんなに柔いとは思わなかったもので。すみません」


 双頭狼オルトロス

 文字通り、2つの頭部を持った巨大な狼がグルドガである。

 そのグルドガの片方の頭が、これもまた文字通り、つぶされたのだ。


「グゥウウウウウウ……ッッ……ァァアアア……ッ」


「あら? もしかして会話できる方の頭をつぶしてしまいましたか? おかしいですね……私の記憶では、あなたの方の頭がしゃべっていたと思うのですが」


「ぐギィィィ…………ッッ」


 この女、この女ッ!!

 ふざけている、ナメやがって!

 そんな言葉を発しようとしても、激烈な痛みが邪魔をする。


 精神が壊れてしまいそうなほどの激痛だった。

 頭をつぶされる痛みというのは、普通の生物ならほぼ体験しないもの。

 なぜならば、その瞬間に死んでいるからだ。

 しかし双頭狼。

 片方の頭をつぶされたとしても、即死することは無い。

 それが逆に、グルドガを激痛の地獄へといざなっていた。


 アヴリルは間違いなく死に体だった。

 グルドガは準特級の力を遺憾なく発揮して、アヴリルをボロ雑巾のようにいたぶった。

 体中に牙を立て、引き裂き、瀕死に追い込んでいた。

 トドメを刺してやろうと、その頭部を噛みつぶしてやろうとしたその瞬間。

 アヴリルの肩に噛みついていたほうの頭が、逆に握りつぶされたのだ。


「…………ッッ」


 いままさに、グルドガの目の前にある、この巨大な『腕』によって。

 果実のように、いとも簡単に。


「なんダ……その腕ハ……」


 激痛に耐え、ようやく言葉を口にできたグルドガは、思わずアヴリルに問いかける。

 あまりにもアンバランスなその姿。

 右腕だけが異様に巨大になっている。

 アヴリルは背筋を真っ直ぐ伸ばして立っているにもかかわらず、その右腕は地面についている。

 灰色の体毛に覆われたその右腕は、狼――いいや、『怪物の腕』だ。

 こんなものが狼の腕のハズがない。

 これは暴力性の化身だ。


「これは人狼ウェアウルフ特性スキルで――」


 聞かれたから。

 という理由で、自分のスキルを説明しようとしたアヴリルだったが、


「――ウソをつくナッ!

 ウェアウルフの『月酩』で……体が変化するなド聞いたこともナイッ!!」


 それを怒声で遮ったグルドガ。

 あまりにも理不尽だ。

 しかしアヴリルは特に気にしていない様子で不敵に笑う。


「おや、よくご存じで」


 スキル『月酩げつめい』。

 それは人狼ウェアウルフ特有の生まれ持った特性だ。

 しかし、いまのアヴリルのような、身体の体積を大きく変貌させる特性じゃない。

 せいぜいが身体能力の強化だ。

 さらに、普通なら『限定的な期間』だけでしか発動できないという制約のような縛りが存在する。


「いまは新月ダッ!! 『月酩』を使えるワケがなイ……ッ!!」


 ウェアウルフのスキルは、満月の夜にしか使えないというのが通例だ。

 そして今夜は月のない夜。

 一切の月光がない現状で、『月酩』を使えるハズがない。

 というのがグルドガの言い分だった。


「…………」


 それは間違いなく正解だった。

 ウェアウルフは満月の夜にしか『月酩』を使えない。

 つまり、グルドガにとっては、ウェアウルフのアヴリルと対峙するには最高のタイミングだったハズなのだ。


 スキル『月酩』の強力さをグルドガはよく知っている。

 狼と名のつく人間の種族。

 それを毛嫌いしているグルドガは、幾人ものウェアウルフをほうむってきた。

 あわよくば絶滅させてやろうという気構えだったグルドガは、魔境にやってきた冒険者のウェアウルフと幾度となく闘ってきたのだ。

 その経験と知識がグルドガにはあった。

 しかし、この目の前の女は、これまで殺してきたどのウェアウルフとも違う。


「うーん……そうですね。うまく説明できないのですが、これは『月酩』なんですよ」


 ガギギギギ……ッと右腕の爪で大地を削るアヴリル。

 その何でもない行動にビクッと体が反応したグルドガだったが、それをアヴリルは見逃さなかった。


「分かります。こわいですよね。私もできればこの姿にはなりたくなかったんですよ。ええ、あなたの気持ちはよく分かります。とてもおそろしい。怪物と言われても仕方のない姿です」


 ギラリとアヴリルの金眼が光った。


「……ヒッ」


 

 少しでも機嫌を損ねたら、次の瞬間に殺される。

 グルドガは魔境の理をその身に体感していた。

 圧倒的な力による恐怖支配。

 準特級の魔物であるグルドガが、アヴリルに恐怖するという意味。

 それは、アヴリルが特級の魔物に匹敵する力量を持つという事実を暗に語っている。


「でも、を『かわいい』と言ってくれた人がいたんですよ。おどろきですよね? 当時、年端もいかなかった小っちゃな女の子が、ですよ?」




――もふもふですわ、アヴリル――




「この力のせいで一族におそれられ、実の親にすら見捨てられ、人狼の里を追われ、王国に逃げ延び、力だけで生きてきた。そんな私を、こんな私を『かわいい』と言ってくださった、ただひとりの私のあるじ


 ガリガリガリと大地を削りながら、グルドガに近づいていくアヴリル。



「――ねぇ、あなたは私のコトをどう思いますか?」



 すさまじい重圧。

 絶大極まりない暴力がそこにある。

 グルドガは恐怖のあまり、ガクガクと体を震わせた。


「待ってクレ……犬と罵ったのは謝ルッ!! オマエハ狼ダッ!!

 そ、そうダ! グルドガがオマエの仲間になってやルッ! どうダ? オマエが気に入らないヤツをグルドガが殺してやるゾ!?」


 グルドガは必死だった。

 死ぬのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。

 こんな強いヤツがいるとは聞いていない。


 せっかくウートベルガの計画に乗って、ウェアウルフとかいう狼を名乗るヤツラを思うままに殺してやろうとレリティアに攻め込んできたのだ。

 そう、自分は殺すために、ここに来たのだ。

 決して、殺されるために来たのではない。

 蹂躙じゅうりんするために来たのだ。


 とにかく時間を稼ぐ。

 そうすればウートベルガがコイツらを殺してくれる。

 アレは特級だ。

 本物の怪物だ。

 こんな常識外れのウェアウルフでも、ウートベルガには絶対に敵わない。

 いまは恥を忍んでコイツを騙して生き延びる。

 グルドガが心に秘めた邪悪さはしかし、すぐに狼狽ろうばいへと変わる。


「よいしょ」


 アヴリルが巨大な右腕を持ち上げた。

 ちょうどグルドガの真上。

 鋭利なかぎ爪は、そこにあるだけで恐怖の象徴だ。


「ヒィィッ!? ちょ、ちょっと待ってクレッ! ペットでも奴隷でも何にでもなるッ!! だから、助けッ…………」


 どうにかして、どうにかして生き延びなければ。

 その一心でひたすら命乞いをするグルドガだったが、


「わんわん」


 アヴリルが艶めかしい声で吼えた。

 一瞬、グルドガにはその意味が分からなかった。


「……? え……アッ!?」


 しばらく考えて、ようやくその意図するところに思い当たった。

 グルドガの毛という毛が、恐怖のあまり逆立った。


――オマエみたいな犬はワンワンとだけ吼えてればイイ――


 それはグルドガ自身が言った言葉だ。

 人の言葉は許さない。

 犬のお前の言うことなど興味もない。

 そう言ったのだ。


 つまり、犬のマネをしたアヴリルの、

 その言葉の真意は、


――お前と話すことなど何も無い。


 事実上の殺害宣告だった。

 すがるように、グルドガはアヴリルの眼を見る。


「――――ヒッ」


 闇夜を映す黄金色の眼。

 野生の眼、狩人の視線。

 相手に対して一切の慈悲はない、冷酷無比な瞳。

 自分はただ狩られるだけの獲物なのだと、グルドガは確信した。


「ひああああああああああああああああアッ」


 グルドガは逃げた。

 走る。

 走る。

 つぶれた片方の頭を引きずりながら、生涯最高の速度で走った。


「ずる賢い狼さん。騙そうとしてたのバレバレなんですよね。

 さて、放っておくワケにはいきませんよね」


 逃げるグルドガを見て、アヴリルがため息をつく。

 そして、すぅと息を吸い込んで、



「――『月光にて我が爪牙は光輝く。狩りこそが我が本能』――」



 己が本能のままに言霊を紡ぐ。

 右腕を前に突き出して、前方の地面に爪を突き立てた。



「戦技『月食つきはみ』――」



 地面をひっかく力を利用して、アヴリルは自身の体を前方に強く打ち出した。

 その跳躍力は激烈に。

 大地を低く滑空する姿はまるで疾風。

 右腕は次なる行動を準備している。

 ギリギリギリッ――と、こぶしを握る。

 強く。

 ひたすらに力強く。



「――月下狂狼ルナティック・ハウル



 これは秘奥の剛撃。

 人狼の突然変異。

 己が身体すら変貌させる究極の強化特性。

 その比類なき特異性はまさしく暴力の具現。

 彼女を相手取る魔物にとっては悪夢でしかない。


「――――ッ!?」


 前を逃げるグルドガが、思わず振り向いてしまった次の瞬間。

 彼の体は地上から消え去った。

 即死。

 おそらくは痛みさえも感じなかっただろう。

 巨大な怪物の手が、力任せにグルドガの体を大地のなかに押し込んでいた。


「逃げられたら全力で追いかけたくなるのが獣の本能ですよね」


 すさまじい量の土煙が消えたあと。

 残ったのは、まるで隕石が衝突したかのようなクレーターだけ。


「ちょっとやりすぎちゃいましたが」


 ペロッと舌を出してかわいらしさを演出するアヴリルだが、もはや誰も見ていない。

 ボロボロに傷ついているハズなのだが、彼女にとってはどうというコトもないらしい。


「あっ、新月なのになぜ『月酩』が使えるのか、でしたっけ?」


 思い出したように、アヴリルが答える。

 聞いているものは誰もいないが、手向けとしてはちょうどいいだろう。


「お月さまはですね。変わらず、そこに在るんですよ。光ってないから私たちには見えないだけで、ずうっと――そこに」




 ◇ ◇ ◇




「おかあさんが、消えちゃった」


 デオレッサが雷竜を放ったすぐあと、唐突に水竜が消えてしまった。

 まるでシャボン玉が弾けるようにあっさりと消えたため、水竜の上に乗っていたクロとデオレッサは自然落下を余儀なくされた。

 クロはなんとか空中でデオレッサを掴み、そのまま地面に着地した。


「最初の神雷でエーテル使いすぎちゃってたのかなー。雷竜もなんかちょっと威力が弱めだったし」


 ひとり考え込むデオレッサ。

 それを尻目に、クロは自分の体を確かめる。


「……毒が、消えた?」


 さっきまでの熱や頭痛、体のダルさは激痛がウソのように消えていた。

 デオレッサの雷竜が、毒雲に直撃したおかげだろう。


「ねぇねぇ、どうだった? わたしとおかあさん、すごい?」


 ぴょん、と抱きついてくるデオレッサ。

 無邪気な子供がするような仕草だが、彼女の体はエリクシアなのだ。

 年頃の少女の体が密着して、少し照れるクロだった。


「ああ、なんか懐かしいと思ったら……そういや班長にも毎回こんなことされてたな」


 シャルラッハを思い出す。

 彼女はことあるごとに自分にくっついてきていた。

 でも過剰なスキンシップはやっぱり慣れない。


「……だあれ? わたしの知らない女の話?」


 顔を極限まで近づけてくるデオレッサ。

 心なしか、睨まれているような感じがする。

 前にもこんな会話をエリクシアとした気がする。


「俺の上司だよ。たぶんこの戦場にいると思うんだけど……」


「あの人?」


 デオレッサが指を差した方向には、マーガレッタがいた。

 彼女は真っ直ぐ空を見上げていた。


「いや、副団長も上司だけど、また別の……って。

 そうだ! あの毒雲はどうなったんだ!?」


 マーガレッタが見ている方向。

 その先をクロも視線で追う。


「毒雲の高度が下がってきてる。魔法のおかげか。戦場の毒が消えたってコトは相当な打撃になったハズ。

 よし。デオレッサ、副団長のところへ行こう!」


「え、ちょっと、答えを……わっ、ちょっと……おにいちゃん!?」


 デオレッサの体を掴んで担ぐ。

 そのままマーガレッタのもとへ走って行く。


「副団長!」


「ああ、うまくいったようだな」


「わたし! わたしがやったのよ!」


 デオレッサが得意げに言う。

 それを見て、くすっと笑ったマーガレッタがデオレッサの頭を撫でた。


「ああ、ありがとう。ところで、貴公は……エリクシア、じゃないな?」


「うん! デオレッサっていうの! ちょっとだけ体を借りてるの!」


 デオレッサがうれしそうに言う。

 頭をよしよしされて、眼がキラキラしている。


「そうか。貴公が毒雲を狙ってくれたのか」


 何という理解力だろうか。

 デオレッサのあの説明にもなっていない説明についていっている。

 これが副団長という役職につく者の度量……とクロが妙に感動していると、


「さて、同志クロイツァーも本当によくやってくれた」


 マーガレッタがこちらに向かって微笑む。

 思わず見とれそうになるが、いまはそんな場合じゃない。


「でもまだまだ上空でとどまっていますね」


 200mの高さにいた毒雲が、あの雷竜の魔法で100mぐらいの高度まで落ちた。

 だが、まだ高い。

 とても人が届くような距離じゃない。


「いや、問題ない。これでいい。この距離なら、


 剣の切っ先を上空に定めるマーガレッタ。


「……? 『斬空』なら最初から届く距離だったんじゃ……?」


 彼女の『斬空』は、その視界の範囲すべてが間合いだ。

 200mの高さだろうが関係ない。

 攻撃を当てるだけなら、彼女にとっては造作もない。

 しかし、エリクシアの魔法を頼ったのは、単純に毒雲を落とすほどの威力がなかったからだ。


「まあ見てろ。

 地上に……とまではいかんだろうが、アレをもう少し落とすぞ」


 マーガレッタが剣を鞘に納める。

 それは闘いを止めるためではなく、次なる一手を打ち出す布石。



「――『我が剣は泡沫の夢。人の夢は儚きか。断じて否』――」



 静かに、しかし何よりも熱く。

 言葉とともに練り上げられるマーガレッタの闘気エーテルは、そばで見ているクロでさえ背筋が凍りそうになるほどに膨大、かつ洗練されている。

 マーガレッタの青い髪が、ほとばしるエーテルによって逆立っていく。

 腰を落とし、半身になる。

 それはまさしく居合いの構え。

 堂に入った彼女の姿は、もはや芸術の域に達している。


 これよりはじまるは剣士の夢。

 強さを夢想し続けた古代の剣士が、己が人生のすべてを懸けて、修練に修練を重ねてようやく編み出し、到達した抜剣の極み。

 それこそが戦技『斬空』である。

 レリティア史上、『斬空』を会得した者は指で数えられるほど。

 類い希なる才能と、たゆまぬ努力を必要とするそれは、剣士と名のつく者たちの夢の到達点。


 それをわずか数年で会得したマーガレッタの剣士適性は、英雄ですら一目置くほどのもの。

 天才とはよく言ったものだ。

 彼女こそ、その称号に相応しい。

 脈々と受け継がれた血統ではなく、ただ一個の人間の才だけで『斬空』を体得するに至った事実は驚愕に値する。

 そして、それは、だったことをクロは知る。



「戦技『斬空』――多重斬撃結界・血雨チサメ



 マーガレッタが抜剣する。

 すさまじい剣の振り抜きは、その瞬間速度だけで言えばシャルラッハの『雷光』よりもなお速い。

 毒雲に向かって猛烈な速度で飛んでいく。


 戦技『斬空』を放ったあとは残心あるのみ。

 美しいまでの余韻を残し、エーテルを乗せた剣撃の軌道を見守るのが常だった。

 しかし、今回のコレは違った。


 振り抜いた先で手を返し、剣を返し、その反動で2度目の『斬空』を巻き起こす。

 追随する形になった『斬空』は、1度目のそれよりさらに速い。

 マーガレッタは息を継ぐ間もなく、さらに同じように、何度も何度も『斬空』を繰り出していく。


「――『斬空』の連続攻撃ッ!?」


 上空に到達した幾重もの『斬空』。

 クロがおどろくのはここからだった。

 毒雲に接するその直前に、それらの『斬空』同士が互いにぶつかり合い、跳ね返り、デタラメな軌道を作って暴れだす。


 毒雲を斬って、そのままの勢いでどこかへ飛んでいくハズの『斬空』が、他の『斬空』にぶつかり、また標的に向かっていく。

 ひとつの『斬空』が、何度も何度も標的を切り裂く。

 しかも、マーガレッタが放った『斬空』のすべてがを描いて、毒雲を囲むように切り裂いていく。


――斬撃の結界。


 10や20ではない。

 100回、いや、1000回。

 あるいは万にも届こうかという『斬空』の攻撃が実現する。

 無限の斬撃。

 攻撃の「質」を維持しつつ「量」を補う。

 これが副団長マーガレッタの奥の手。


「…………ッ……ッッ」


 クロは言葉が出てこない。

 あまりにもすさまじい。

 なんだコレは。

 これを計算して『斬空』を飛ばしたのか?

 いったいどんな頭をしていればこんなことが実現できるのか。

 技術も当然必要だろう。

 そして、それをやろうと思った想像力も突飛すぎる。

 桁外れすぎて意味が分からない。

 まるで夢を見ているかのようだ。

 これはもはや新しい『戦技』だ。


「普通なら血の雨が降るんだが、どうやらあの魔物は血も涙もないらしい」


 マーガレッタ本人はしれっとした顔でそんなコトを言っている。

 これが、グレアロス騎士団・副団長の実力。

 シャルラッハ、アヴリルという天賦の才を持つ両名をおさえて、グレアロス砦の頂点に君臨する最強の戦士。

 これが――マーガレッタ・スコールレイン。


「……しかし本当のところを言うと、いまので仕留めるつもりだったんだ」


 そりゃそうだろう。

 あんなとてつもない大技。

 むしろあれで生きているほうがおかしい。

『斬空』を象るマーガレッタのエーテルが霧散するまで、雨のような斬撃の嵐を耐え抜くなど、普通に考えたらまずあり得ない。


「アレの高度を下げる。有言実行はできたが……まったく、さすがの私も自信を無くすぞ」


 そう、生きているほうが――怪物なのだ。

 夜闇よりもなお黒い、毒の雲。

 特級のスライム。

 この戦場でもっとも強い、正真正銘の怪物。


 デオレッサの魔法で、そしてマーガレッタの戦技を立て続けに受けた毒雲は。

 高度50mほどの空中で、いまだ健在だった。




 ◇ ◇ ◇




「ドチクショウが……なんてコトしやがる……ッ!」


 スライムの毒雲――ウートベルガは怒りに燃えていた。

 液体とは違い、気体になった彼には弱点があった。


 気体の状態では、自分の意思で身動きがとれない。

 毒をまき散らすことしかできないが、それで十分だったハズなのに。

 あの高さで浮いていれば問題ないだろうと考えていたが、このザマだ。


 水竜のものらしき魔法の攻撃を受け、

 何千何万もの『斬空』の攻撃で度肝を抜かれ、

 上空遙か200mの高度からここまで叩き落とされた。


「クソが……ッ! ヒデェやつらだ、信じられねェ……ッ!!」


 大勢の魔物を率いて砦の人間を皆殺しにしようとしていた魔物が、どの口でそんなコトを言うのか。

 あまりにも自分勝手な言い分だがしかし、ウートベルガは本気で言っている。

 自分が相手に理不尽なコトをするのは構わないが、自分がされるのは我慢ならない。

 それが、ウートベルガだった。


「……許さねェ。オレさまをコケにしやがって……ッ!」


 少しずつ、ウートベルガの体が変化していく。

 雲だったものが、元の、人の影のような姿に。


「水竜は消えたみてェだな。まァ悪魔の仕業か。グリモアってのがヤベェとは知ってたが、まさか魂まで取り込むとは……また出される前にとっとと無力化しつつ捕獲しておかねェと」


 ウートベルガの手が、足が、ゆっくりとできあがっていく。

 そしてちょうど頭部が形成されているときだった。


「…………なんだッ!?」


 ウートベルガが浮いている位置よりも、ずっと下。

 真っ直ぐこちらに向かってくる気配があった。


「……ッ、さっきのヤベェ『斬空』じゃねェな? クソ、ちょっとビビっちまった」


 さすがのウートベルガでも、さきほどのマーガレッタの技は警戒していた。

 アレはそれほどのものだった。

 しかし、違うのだとすると、この気配は何か。


「――――アア?」


 ウートベルガが真っ赤に光る眼をこらす。

 その近づいてきている『人物』を見て、ウートベルガは滝で言われた言葉を思い出す。



――予言しよう、ウートベルガ――



 頭のなかで、あの憎きオークの声が響く。

 思えばこの言葉があったからこそ、砦を攻めたのだ。


「……そうか」


 ああ、アイツは見たことがある。

 どうやって、どんな方法で、人間であるアイツがこの空の上に飛んできているのかは、もう考える意味はない。



――『悪魔』を求めるというのなら――



 ヴォゼが水竜の口に叩き落とされたところを、ちょうど見ていた。

 そのときに、アイツの姿を見た。

 間違いない。

 まがいなりにもを倒した要注意人物。


「――テメェか」


 山の上から観察していた。

 あのときは遠くて顔はよく見えなかったが、絶対に間違いない。

 いまこちらに向かって飛んできている人物は、間違いない。


『雷の魔法』を半月斧バルディッシュに付与している。

 おそらくは威力の底上げのつもりだろう。

 だが、そのせいで武器を持つその手は炭化する寸前だ。

 電熱にやられて火傷どころの話じゃない。

 しかしそんなケガはお構いなしに、ただ真っ直ぐに決意の眼差しをこちらに向けてくる。


 狂気の沙汰。

 あの人間は普通じゃない。

 頭のネジがぶっ飛んでいる。

 どう考えてもマトモじゃない。

 ウートベルガは確信した。

 こいつが、ヴォゼと闘っていたヤツだ。



――キサマはクロ・クロイツァーに殺される――



 かつてコレほどの怒りがあっただろうか。

 あんなコトを言われたら、あんなナメたコトを言われてしまったら。

 これを見過ごすなんて、特級の魔物としての沽券に関わる。


 ウートベルガの憤怒は尋常なものじゃない。

 あるいは憎しみさえも感じている。

 お前を絶対に――殺してやる、と。



「テメェが――『クロ・クロイツァー』かッッ!!!」



 邂逅は天空で。

 クロ・クロイツァーとウートベルガ。

 死闘不可避の出遭いはどこまでも鮮烈に。

 互いの闘気はとどまることを知らず高まり続け。

 月明かりのない夜の空は、2人の決戦の舞台となっていた。



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[一言] 気体スライムって弱体化するのかな?密度の問題かなー。
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