52 毒満ちる戦場
雲に形状変化したウートベルガは、眼下の戦場を見下ろしていた。
地上から200mほども離れた上空だ。
すさまじい突風が吹き荒れていて、戦場の音や声はここからではまったくといっていいほど聞こえない。
「イイ感じの乱戦になってやがるな」
真っ黒な雲の表面に浮き出た孔から、ウートベルガが声を出す。
そのすぐ上には、ギョロギョロした両眼が赤く光っている。
「お?」
ウートベルガが何かに気づき、「ケケケ」と笑う。
「山の方角から新しい魔物がわんさか来てるじゃねェか!」
見えたのは魔物の大群。
この騒ぎに便乗して暴れようと考えた魔物たちだろう。アトラリア山脈から次々とやってくる。
その数は、自分が引き連れてきた魔物の数に匹敵する。
ほとんどが下級の魔物だろうが、ウートベルガにとっては実に都合がいい。
ここにきて魔物の援軍の登場。
騎士団にとっては最悪の展開だ。
「よし、このまま毒をまき散らしながら、じっくり待つか」
ウートベルガが好む戦術は、基本的に『待ちの一手』である。
いかにして安全に、かつ的確に敵の戦力を削ぐか。
そのためなら、どれほど時間をかけても構わない。
ウートベルガは好戦的ではあるが、それとは裏腹に、慎重を期す性格をしている。
その原因となっているのが生まれ持った種族としての特性だ。
ウートベルガは『スライム』である。
洞窟や遺跡の奥深く、あるいは湿地などの薄暗い場所を好んで生息し、ただひたすらに獲物を待つ液状の魔物がスライムだ。
ひとたび狙いを定めると音もなく近づき、毒や酸などの攻撃手段にて獲物を狩る、不意打ちの戦法を得意としている魔物。
生まれながらに特異な成長をし、人の言語を操るほどの知能を有し、形状変化の極みに達し、特級の魔物となったウートベルガといえど、その本質であるスライムとしての性質はどこまでいっても変わらない。
ウートベルガは、ある意味でこの臆病とも言える性質を恥じてはいない。
現に、怪物ひしめく『魔境アトラリア』で序列70位にまで登り詰めている事実がある。
強きこそが正義である魔境で、これを誇ることこそあれど、恥じることなど微塵もない。
「ん? 竜王種の進みが遅ェな」
上空から戦場を眺めていたウートベルガがちょっとした異変に気づく。
ハイドラゴンは相当な巨体だ。
ここから様子が分かるのはハイドラゴンとキュクロプスぐらいのものだろう。
「ちと手強いヤツがいるみてェだな」
人間大の大きさなら、ここからでは豆粒程度にしか見えない。
闘っている相手は分からない。
「まぁ、どうせあの『斬空』使い程度のヤツが関の山か。実力的にはハイドラゴンと五分ってところか」
ウートベルガが言う『斬空』使いとはマーガレッタのことだ。
自分との実力差は天と地ほども違っていた。
軽く捻れる程度。
その程度の強さしかない人間だった。
しかし、ウートベルガがここまで逃げ――否、様子を見ようと考えたのにはそれなりの理由がある。
それが、『戦技』という脅威だ。
たとえどれだけ実力差があろうが、一発で戦況をひっくり返すほどの技。
『手負いの獣には気をつけろ』とよく言うが、それに輪をかけて酷いのが戦技使いの人間だ。
相手が明らかに格下なのにもかかわらず、最後の最後で詰めをあやまって返り討ちにされてしまった魔物たちが歴史上に存在する。
戦技使いと相対するときには、石橋を叩いて歩くぐらいの慎重さが必要だとウートベルガは知っている。
だからこその撤退だった。
しかし、それで逃げるなど特級としてのプライドが許さない。
それゆえの『毒』の散布である。
徹底的に相手を弱らせてから蹂躙する。
ウートベルガの性質と能力を存分に発揮した、常勝の戦術だ。
「あの辺りはそろそろ毒も広がりきった頃合いだな。ハイドラゴンなら負けることは無ェだろう」
◇ ◇ ◇
グレアロス砦の東門から南東に離れた場所では、もはや通常の戦闘とは呼べない領域の決闘がはじまっていた。
猛烈な火炎がそこら中で立ち上り、熱波が吹き荒れている。
無数に生えていた雑草は、炎の渦に巻き込まれて見る影もない。
闘いに勇んだ魔物の軍団ですらこの戦場には近づけない。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
炎が暴れている理由はただひとつ。
竜王種の吐く息のせいだ。
魔法の性質に近いそれは、炎の息吹。
目前の『敵』を狙い、ハイドラゴンが次から次へとブレスを吐く。
火炎が地面を舐め上げるように燃やしていく。
「……くッ!」
火の手から逃げ回っているのはシャルラッハ・アルグリロット。
戦技『雷光』を使い、信じられない速度でハイドラゴンの周囲を走っている。
迫る炎から逃げ回るという神業を披露してはいるが、本人は気が気でない。
炎の熱はシャルラッハの肌をじりじりと焼く。
騎士団のマントはもう焼け焦げてボロボロだ。
「ハァ……ハァッ!」
息をすると炎の熱が肺を焼く。
軽度の火傷だが、確実にシャルラッハの命を削っている。
避けているだけでこの威力。
いつもの優雅さはなりを潜めて、シャルラッハは必死になって大地を走る。
高速で流れていく景色を見ながら、頭のなかでは後悔と反省が堂々巡りしていた。
「…………ッ」
痛恨のミスだった。
考え無しに突っ込んでしまった。
相手をナメていたワケではない。
自分の実力を過信していたワケでもない。
蝶のように舞い、蜂のように刺す。
敵の攻撃など一切受けず、無傷のままに勝利する。
それが戦技『雷光』の基本戦術だ。
優雅に敵を倒す、まさしくこれは英雄の技。
しかしその実体は、そうしなくてはならない脆弱性があるからだ。
『雷光』は、足の裏に爆弾を設置してそれを爆発させて移動しているようなもの。
相当に精密なエーテル操作が要求される。
ほんのわずかなケガでも発動に影響が出てしまう。
それほどの高度な戦技なのだ。
気持ちの昂ぶりすらも天敵だ。
それは3ヶ月前、王都の正門にぶつかりそうになったことからも分かるとおりだが、未熟だったあのころと違って、血の滲むような訓練を経て、戦闘時にはそんな失敗はしない精神性を会得している。
想定外だったのは――『毒』だ。
空に浮いているあの漆黒の雲。
アレから毒がまき散らされている。
気づいたときには時すでに遅し。
ハイドラゴンと接敵するころには、少々ながら毒の影響が出てしまっていた。
まさか物理的にエーテル操作を阻まれるとは思っていなかった。
体がうまく動かない。
痺れが全身に行き渡ってきている。
さっきも走りながら大量の血を吐いた。
「……ハァ、ハァ……ハァ……」
いまのように毒に蝕まれている状態では、半端な雷光しか発動できない。
刻一刻と状況は悪くなる。
そう、次の瞬間にも――
「――しまッ……」
しまった、と思った瞬間にはもう遅かった。
ハイドラゴンの尾が、目前にあった。
その巨体から繰り出された、尾の振り回しによる攻撃。
咄嗟に体を回避させようと試みたものの、尾の先端に掠ってしまう。
「――あッ……ぐッ……ッ」
その衝撃だけでシャルラッハは吹っ飛ばされ、地面に何度も体を打ちつけられる。
頭からは流血し、鼻からは血がボタボタと流れ出す。
「くッ……うぅぅ……ッッ!!」
止まってはダメだ。
動かなくては。
全身の痛みをこらえ、ガクガクと震える足を必死に立たせようとするが、
「…………あ……」
体に毒の痺れが回りきったのか、赤子のようにコテンと転がってしまった。
手が、足が、体がまったく動かない。
そして、
「…………」
すぐ目の前には、大きく広げられたハイドラゴンの口があった。
ノド奥で、自分を焼きつくそうとする炎がチラチラと燻っているのが見えた。
「ここまで……ですわね」
シャルラッハは己の死を悟り、夜空を見上げた。
◇ ◇ ◇
ハイドラゴンの闘いに興味をなくしたウートベルガは、別の戦場を眺めていた。
「チッ、見つからねェな。グルドガのバカめ、どこ行きやがった」
お目当ては、双頭狼のグルドガだ。
ハイドラゴンほどの巨大さがないため、この上空からはグルドガの姿が見えない。
「高く昇りすぎたな。見物もできやしねェ」
ハイドラゴンのときとは違い、グルドガの心配は一切していない。
なぜなら、毒抜きにしてもグルドガが人間程度に負けることなんてあり得ないと知っているからだ。
グルドガは特別中の特別だ。
他の準特級と比べても、頭ひとつ抜けている実力を持っている。
あと数年もすれば特級になっていてもおかしくない。
それほどの手練れだ。
この魔物の軍団は、ウートベルガが『禁域』からここに来る途中で拾ってきた魔物たちだ。
しかし、ただ1体、グルドガだけは違う。
グルドガだけは数十年来の手下だ。
ゆえに実力は当然、その性格もウートベルガは熟知している。
「アイツはオレさまよりエゲツねェからな。ケケケ、可哀想になァ」
グルドガという魔物は、極悪非道なのだと。
◇ ◇ ◇
全体から見て戦場のちょうど真ん中付近では、一方的な戦闘が行われていた。
アヴリル・グロードハットとグルドガの闘いだ。
「ガルルルルルルッ!!」
「あ……ぐッ……」
双頭狼の片方の頭が、アヴリルの右肩に噛みついている。
ギリギリと鋭い歯が食い込んで、アヴリルが苦悶の声を上げていた。
「弱イ、弱イ、弱イッ!」
そのアヴリルの顔を見ながら、もう片方の頭がイビツな笑みを浮かべた。
「何が人狼ダッ! 何が狼ダッ! 弱すぎル!!」
「ぐぅぅうううッ……ッ……」
アヴリルの肩口から血が滴り、右腕がダラリと垂れ下がる。
左腕の力だけでグルドガの頭を押しのけようと抵抗している彼女の状態は、惨いの一言に尽きる。
巨大な爪で引っかかれたのか、顔の半分が流血している。
体はもっと悲惨だ。
全身に噛みつかれたせいで騎士団の服が真っ赤に染まっていた。
何十回と剣で斬りつけられても、こうも酷いことにはならないだろう。
どう考えても出血過多。
これでもまだアヴリルが生きているのは、生命力の高い種族である人狼だからだろう。
「少し気が変わったゾ、犬の女。オマエ、生かしておいてやってもいいゾ?」
「……な、に?」
「オマエは人の形をしてるガ、毛並みはキレイダ」
グルドガがアヴリルの灰色の髪を無遠慮に凝視する。
そして、ニタリと嗤う。
「首輪をつけてグルドガが飼ってやル。狼じゃなク、犬として生きるなラ、グルドガに従順なペットになるなラ、観賞用として生かしてやるゾ?」
「……ぐッ……」
興奮を抑えきれないのか、噛みつきの力が強くなった。
ブチブチと肉が切れていく嫌な音が聞こえてくる。
今にも肩ごと噛み千切られそうだ。
「人として生きるのは、ダメダ。服を着るのもダメダ。人の言葉を話すのも許さなイ。オマエみたいな犬はワンワンとだけ吼えてればイイ。
グルドガの言うことだけを聞いテ、グルドガを愉しませるためだけに生きるんダ。どうダ、愉しそうだロ?」
得意げにそう言うグルドガ。
いい提案だろう?
とでも言っているかのようだ。
「…………」
アヴリルは無言を貫いている。
「なぜ迷ウ? 死にたくはないだろウ? オマエらに勝ち目はなイ」
「……ふ、ふふ……。いえ、別に迷っていたワケではなくてですね……」
アヴリルが口から血を垂らしながら、壮絶に笑った。
「……ア?」
「あまりにバカバカしい提案なので、耳を疑っていたんですよ」
「……何、だト!?」
「お断りですね。私にそういう趣味は……………………ないことはないのですが、さすがに『主人』は選びたいので」
「…………バカガ。せっかくのチャンスだったのにナ?」
「それはチャンスとは言いません。あなたに飼われるぐらいなら、死んだほうがマシでしょう?」
「――なラ、望み通リ、殺してやルッ!!」
しゃべっていた方のグルドガが、アヴリルの頭に噛みつこうと、頬まで裂けるほど大きく口を開いた。
さすがの人狼でも、こんな凶悪な顎で頭を噛まれてしまえば死んでしまう。
「……今夜は、月が見えませんね……」
そんな極限の最中、
アヴリルは静かに夜空を見上げた。
◇ ◇ ◇
「よし、もういいだろ」
戦場に毒が満ちた。
そろそろあの『斬空』使いにトドメを刺しに行こうか、とウートベルガが考えたときだった。
「…………。……アア? ちょっと待て、どういうことだ……ッ」
眼を疑った。
「――キュクロプスが殺られちまってるじゃねェかッ!!」
門のすぐ近く。
キュクロプスが地面に倒れたまま動いていない。
この遠目から見ても、死んでいるのは明らかだった。
「…………ッッ」
言いしれぬ不安。
安全とはほど遠い、危険な『何か』が、自分のすぐ近くにまで迫っている。
そんな嫌な予感が、ウートベルガの胸中に渦巻きだした。
「……な、なんだッ!?」
そして次の瞬間、眼下の戦場で激変が起こった。
異常なほどのエーテルの高まり。
異様なほどの力の気配。
ウートベルガは、突然地上に現れた『ソレ』を見る。
「……バ、バカな……」
ウートベルガが恐怖する。
そんなハズはない。
こんなバカなことはない。
「ウソだ……オレさまは、確かに殺したハズだッ!!」
どうしてアレがいる?
なぜ生き返っている?
あり得ない、あり得ない、あり得ない。
「なんで、テメェがいやがるんだ――」
地上に現れたのは、蛇によく似た竜。
弱っているところに不意打ちをして、
毒を仕込み、粘りに粘ってようやく殺したハズの特級の魔物。
「――ヴォルトガノフッ!」
元・魔境序列第7位『魔物喰らい』。
水竜の大叫喚が、戦場に轟いた。




