51 毒雲
すさまじい殺意の視線がクロの肌を刺す。
魔物の咆吼は四方八方から聞こえてくる。
少し離れた場所で、兵士の剣と魔物の爪がぶつかり合い、激しい火花を散らす。
命のやり取りはそこら中で行われている。
「……すごい数の魔物ですね」
エリクシアが周囲を見渡しながらそう言った。
クロたちが辿り着いた最前線の戦場は、門付近とは比べものにならないほどの、敵味方が入り交じる乱戦模様となっていた。
「これは……ちょっと多すぎる」
言いながら、クロが半月斧を大きく振り上げる。
なりふり構わずこちらへ向かってくる魔物目がけて、振り下ろしによる強烈な大打撃を見舞う。
「ハァ…………ッ」
息をつく。
ここに来るまで、立ちふさがる魔物を薙ぎ倒しながら進んできた。
一撃で倒せるとはいえ、数が多すぎる。
半月斧を振るった回数は、もう百は超えているだろう。
木剣の素振り500回は日課だったが、この巨大な半月斧で、しかも闘いのなかで神経を研ぎ澄ませながら振るのとでは疲れの度合いがぜんぜん違う。
「すみません、クロ。わたしが魔法をもっと巧く使えてたら……」
この乱戦だ。
弓兵でさえ得物を近距離武器に持ち替えて闘っているほどだ。
エリクシアの魔法では広範囲すぎて、命掛けで闘っている他の兵士たちの邪魔になってしまうだろう。
それどころか、兵士まで巻き込んでしまう可能性すらある。
グレアロス砦の兵士に魔法使いはいない。
だからこそ、魔法攻撃に合わせて魔物と闘うなんてのは想定の外だ。
そういう理由で、エリクシアは魔法を使うことができないでいた。
「大丈夫、まだまだいける」
ふところに入れていたパンをくわえる。
もぐもぐと咀嚼し、呑み込む。
エーテル補給は大事だ。
もうデオレッサの滝のような無様はさらさない。
「……ッ! クロ、いました! あそこです!」
エリクシアが指差す方向に、ひときわ魔物が群がっている場所があった。
数で言うなら30から40体ぐらいはいるだろうか。
中心にいる獲物を数の暴力で押しつぶそうと、魔物たちが集まっているのだ。
しかし、それらの魔物は、秒単位で死んでいく。
「ハァアアアアァッ!!」
鈴とした声を張り上げて、裂帛の気合いで剣を振るう女性がそこにいた。
鬼気迫る勢いとはこのことか。
数に物を言わせようとしていた魔物たちを斬り倒している。
「さすが……」
あきれるほどの強さだ。
これが、これこそがグレアロス騎士団の副団長。
マーガレッタの強さに惹きつけられたのか、周囲にいる魔物たちがさらに寄ってくる。
次々と襲い来る魔物たち。
そのすべてを、たったひとりで相手取っている。
「む?」
魔物が群がっている中心にいたマーガレッタが、クロたちの接近に気づく。
「参戦しますッ!」
クロがマーガレッタに向かって叫ぶ。
円状に群れている魔物を突破して、クロとエリクシアはようやくの思いでマーガレッタのもとに辿り着いた。
人間が3人になったことで、魔物たちがこちらの出方を窺っている。
3人が背中合わせになって魔物を警戒する。
「待機と言っておいたハズだが、貴公ら……迷いなく来たな? 来るのが早すぎるぞ」
マーガレッタは半ばあきれたような、それでいて、どこか安心したような表情をしていた。
「特級がいるという情報が入ったので。……すみません」
「……そういうことか。いや……だが助かった。来てほしいと思っていたからな。おかげで命拾いをした」
「……?」
マーガレッタのその言葉は、違和感の塊だった。
いまの闘いぶりを見ている限り、何ら命の危機はなかった。
まったくと言っていいほど、危なげのない闘いだった。
魔物の群れに囲まれていたとはいえ、本来ならクロが参戦する必要すらなかった。
それぐらいに先ほどの闘いは、彼女にとって余裕だったハズだ。
しかし、その疑問はとりあえず頭の隅に置いて、
「副団長、特級はどこに?」
クロはこの質問をするために、マーガレッタのもとまで来たのだ。
マーガレッタが特級と闘っているという見当をつけていたが、状況をひと目見ただけでここにその相手がいないことは分かった。
特級の行方を訊くために、余計だとは思いつつも彼女の闘いに手を貸したのだ。
「逃げた」
「逃げた!? 特級が!?」
見当が外れたとかいうレベルじゃない。
まさか魔物が逃げるなんて思いもしない。
しかも特級。
あのヴォゼのような敵を想像していたが、まったく違うタイプの魔物らしい。
「どうやら相当に慎重か、あるいは臆病な性格をしているようだ。幾度か攻防を重ねたら、そのまま退却してしまった」
「そ……その特級はいまどこに?」
クロは特級と闘いにきたのだ。
ヴォゼ級の敵と闘うのなら、不死である自分が最も都合がいい。
「あそこだ」
マーガレッタが上空を見やる。
そこには、不自然な『雲』がひとつ浮いていた。
夜の闇よりもさらに濃い闇色の雲。
「スライムは不定形の魔物で形を変えるのは知っていたが、あの特級のスライムは、気体にもなれるらしい」
バケモノだ。
スライムは基本、液状の魔物だ。
意思を持つ液体というだけでも十分に脅威なのに、気体にもなれるなんて、もう意味が分からない。
「……その特級のスライムは、あんなところで何を……?」
150mから200mぐらいの高さだろうか。
遙か上空に浮く、特級の魔物。
まさか闘いをただ見物しているワケではないだろう。
「『毒』を振りまいているんだ。この戦場のすべてに」
「……毒」
イヤな予感がしてくる。
間違いなく、ろくでもないコトになっている。
「そう、魔法に似た毒だ。複数の毒素の混合と言ったところか。おそらく麻痺毒も入っている。周りを見たところ、どうやら闘気の強い者ほど効く毒のようだ。もうひとつ言えば、魔物には効かずに人だけに作用する毒らしい」
この戦場で最も闘気が強いのはマーガレッタだろう。
強者からその毒に侵されてしまう。
やはり状況は最悪だ。
「副団長は大丈夫なんですか?」
「正直に言うと……少しキツい。特に手足の痺れが酷い。気合いを入れていないと剣を落としてしまいそうだ。あとは体のダルさか。40度ぐらいの高熱で持久走でもしているような感じだな」
「一大事じゃないですか……」
ぜんぜん少しキツい程度じゃない。
そんな状態であんな数の魔物と闘っていた。
命拾いをしたという彼女の言葉はまさしく真に迫っていたということだ。
「まぁ、しかし……ッ……ッッ……」
何かを言いかけて、マーガレッタが咳をひとつした。
「…………」
「…………」
「…………」
クロ、エリクシア、そしてマーガレッタ本人ですら絶句した。
なぜなら。
「……症状の追加だ。喀血まで始まった」
口端についた真っ赤な血を拭いながら、マーガレッタが言った。
おそらくは肺に毒が入り、内側から体を蝕んでいっているのだろう。
「……しかし、同志シャルラッハと同志アヴリルも、私と同等の闘気量だから相当危険な状態だろう。それでも彼女らは闘っている。私が休むワケにはいくまい?」
刻一刻と体を蝕むスライムの毒。
相手が上空にいて、そこから毒を雨のように降らせているのなら、この戦場にいる限り逃れる術はない。
「エリクシア、どうだろう。貴公は魔法は使えるらしいが、解毒はできるか?」
「……いいえ、すみません。できません……」
エリクシアが首を横に振って、くちびるを噛んだ。
何もできないのがくやしいのだろう。
「そうか……。重傷回復薬はあるが、さすがに解毒薬は持ってきていなかったのが悔やまれるな。まぁ、たとえ持っていたとしても、薬が効くのかどうかは分からんが」
「……魔法に近い毒なら、多分、その毒を使った本人を倒せば消えると思います」
「やはり貴公もそう思うか」
「はい」
「ここにいれば、貴公らも毒にやられるのは時間の問題だ」
魔物よりも、何よりも、まずあの雲を――特級のスライムを何とかしないといけない。
「つまり、アレをどうにかしないと我々に勝ち目はない、ということだな。さて、どうするか……」
「副団長の『斬空』であの雲を斬れませんか?」
マーガレッタの戦技なら間合いはない。
たとえ数百mの距離だったとしても真っ二つにできるだろう、普通の魔物だったなら。
「ムリだった。私の『斬空』ではどうにもならん。威力が弱すぎるんだろうな」
しかし相手は特級だ。
常識の通じない強さを持つ怪物。
人では勝てない天災の類い。
「…………」
「…………」
事態は緊急を要する。
やはり特級は他の魔物とはワケが違う。
闘ってすらいないのに、クロはその手強さを肌身に感じていた。
「――やっと、役に立てるときが来ました」
沈黙を破ったのはエリクシア。
そう。
遠距離攻撃の威力というなら、彼女しかいない。
普段は魔力を散らしながら魔法を撃つ『悪魔の魔法』。
そうしないと、強すぎて周囲を巻き込んでしまうからだ。
「わたしに、やらせてください」
いまは違う。
相手は遙か上空にいる。
周囲を気にする必要はない。
しかし、
「氷の魔法なら、撃ったあとが大変なコトになるんじゃ……?」
エリクシアの魔法は、氷を物理的に召喚する魔法だ。
特級の魔物はちょうど戦場の真上に浮いている。
たとえ魔法で倒せたとしても、そのあとに魔法の氷が落下するのは必然だ。
降雹の被害でも分かるとおり、卵ぐらいの氷でも、その落下の威力はすさまじいものになる。
そうなったら真下にいる味方の被害は甚大だ。
「大丈夫です。そのための、新しい『魔法』です」
エリクシアの指示を待つかのように、
『悪魔の写本』は彼女の背後に浮いている。
ただいつも通り、静かに、黒い霧をくゆらせながら。




