42 ――大悪胎動――
地下牢の一番深い場所。
そこは、魔境アトラリアの最も危険な場所にちなんで、同じ『最奥』という名で呼ばれている牢がある。
いつもはここを目指して通っていた。
ここにいるはずの、ジズ。
自分の同期であり、ヴェイルと同じく『友』と呼べるかもしれない人間だ。
「……なんだ、これは」
数日前に来たときと、まったくと言っていいほど有様が違っていた。
岩がそこら中に転がっている。
土砂が最奥の牢から流れてきている。
「崩れて……る?」
牢の檻は土砂が押しつぶしたのか、ぐにゃぐにゃに曲がっていて、簡単に入れてしまう。
ジズがいたはずの牢のなかを覗く。
「…………」
ジズが繋がれていた鉄の壁。
それが、ない。
天井も、ない。
巨大な穴――空洞といったほうが正しいか。
上に向かって深い空洞ができていた。
少し急な斜面になっているが、それでも歩いて上に行けてしまいそうな雰囲気だった。
「……これは、いったい……」
「ジズの仕業だ。言ったろ、大事件があったってな。お前らが遠征に出た日、昼ぐらいのことだ。突然、爆音が聞こえたと思ったらコレだ。
その穴からジズは脱獄したんだよ。そんときの衝撃で、地下牢全体が揺さぶられて、上から土砂が降ってきて看守と囚人らが大ケガだ」
追ってきたガラハドが言った。
次いで、マーガレッタとエリクシアも到着していた。
クロは脇目もふらずにガラハドに問う。
「ま、まさか……この穴は地上まで?」
「そうだ。音は1回だけだった。つまりアイツはたった1発……しかも素手でコレをやりやがったんだ。
穴の先は、砦の中央付近にまで繋がっちまってる。地下牢に出口がもうひとつできちまったってことだな」
冗談だろう?
そんなの、まるでおとぎ話の怪物だ。
マーガレッタがこの地下牢に現れたとき、妙だとは思っていた。
出口は自分たちが来た方向しかないはずなのに、マーガレッタは奥からやってきたのだ。
彼女はこの空洞を通って地下牢にきたのだろう。つまり本当に、地上までこの穴は繋がってしまっているのだ。
「ジズがバケモンなのは分かってはいたことだが、これほどとは思わんかったな。鉄の檻や鎖なんぞまるで意味がねェ。いつでも外に出られる。アイツにとっちゃこの牢獄もただの寝床だったってワケだ」
この地下牢をつくったのはドワーフ族だ。
彼らがここを掘るのにかかった時間は、数十年単位だと聞いている。
大地の恩恵を受けたドワーフでさえ、長い年月を費やした。
雨や自重で固まった土と岩盤。
千年万年、あるいは億年をかけて積み重なった頑丈な地層。
それらを地下から地上まで、何十mもある距離を突き破る?
それを、たった一撃で?
一瞬で?
しかも素手で?
なんだ、それは。
夢か幻を見ているとしか思えない。
「…………」
ジズが異端だと知ってはいた。
しかし、ここまでとは。
ここまで常識から乖離しているとは。
「――ジズは、グリモア詩編を持っていると思います」
言葉こそ憶測気味に言ったが、クロは確信した。
「なにか、分かったのか?」
マーガレッタが牢の外から声をかけてきた。
彼女の横にはエリクシアがいた。心配そうにこちらを見つめていた。
「俺、ジズに聞いたことがあるんです。どうしても正規兵になりたくて、でも強くなれなくて、どうやったら自分でも強くなれるのかを」
ガラハドが牢のなかで静かに頷いた。
思い出す。
あれはたしか、遠征に行く前日のことだ。
「そのとき、ジズはこう言いました。
――『悪魔の力を奪えばいい』って」
「……ッ!」
そんな表現、普通はしない。
何か確信がないと絶対に思いつきもしないことだ。
「それは……ほぼ決まり、だな」
「なんてことだ……」
だんだんと思い出してきた。
ここでジズと語り合ったこと。
ジズの妄想の話、それが本当に楽しくてたまらなかったこと。
だが、それらがもし、すべて真実の話だったとしたら。
「……副団長と看守長は、『最古の六体』っていう魔物をご存じですか?」
それはヴォゼが言っていた、最奥を守っているという魔物たち。
おそらくは魔境『アトラリア』最強の魔物。
人類にとって最大の難敵となり得る存在だ。
そして、以前からそのことをクロは知っていた。
「待て……なぜそれを貴公が……!? それは役職幹部以上の者しか知らない極秘事項――『最上級の魔物』の詳細だぞ……」
「そんなもんどこで聞いた!?」
「ここです。ジズから、聞いたんです」
いまや大穴の入り口となっている、ジズがかつて繋がれていた場所をクロは指差した。
「そんなバカな……。レリティア各国の限られた者しか知らないはずのそれを……ジズ・クロイツバスターが……?」
人類は、魔物の強さを鑑みてそれぞれのクラスに分類している。
下級・中級・上級・特級とケタ違いに強くなっていく。
そしてその上――『最上級』と呼ばれる魔物が定められていることは公然の事実だ。
と言っても、幽霊や悪霊のような噂程度の眉唾もので、魔物をあなどる者への警告的な戒めだと一般には思われている。
数々のおとぎ話で語られて、いたずらをする子供を叱ったり諭したりするときに使われる、よくある怪談の類い。
それを現実の災害の危険度に分類しているようなものだ。
曰く、世界最強の生物。
曰く、魔物の王。
曰く、魔神。
ジズからこのことを聞いたクロは、『最古の六体』というのは彼の妄言の類いだとばかり思っていたほどだ。
しかし、マーガレッタとガラハドの反応からして、クロはこれが事実だということを確信した。
「……ジズが脱獄したのは遠征に出た日でしたよね?」
そんなことを知っているジズ。
彼は、何者なのか。
「うん? ああ、そうだ」
看守長が間違いないと答えた。
「……じゃあ日時も、ピッタリ合う……」
得体の知れない匂い――つまり、グリモア詩編の持ち主。
自分とガルガの闘いをガケ上から見ていたという、詩編を持っているであろう謎の人物。
そして、地下牢を脱獄した、詩編を持っているかもしれないジズ。
すべてが繋がってしまう。
それは――それはつまり。
「俺、見たんです。
浅瀬の川のところ、ガケの上に、人がいたのを……」
あの姿に勇気をもらって、エリクシアを助けるために動くことができた。
彼のようになりたいと、希ったのだ。
アレが幻覚でないとしたなら――
「やはり……それがジズだったのか?」
「あのとき、俺が見たのは――」
そう、見間違えるはずがない。
2対1体となった斧の武器。
アレを持てる者は限られてくる。
というより、ひとりしかいない。
あんな独特な武器を持つ者は他にいない。
そして、漆黒の外套を身に纏うあの立ち姿。
すべてが本物だった。
あのとき以外に、彼の姿をこの眼で見たことはないけれど、
仮面に隠れたその素顔なんて知らないけれど、
本や伝承でしか彼を知らないけれど、
子供のころから憧れ続けたあの人を、
この自分が、見間違えるはずがない。
「――エルドアールヴでした」
自分の体が、心が、魂が、あのときの彼はそれで間違いないと言っている。
あのとき、ガケの上にいたのは間違いなく――
――『最古の英雄』だった。
◇ ◇ ◇
◆ ◆ ◆
デオレッサの滝、アトラリア山脈の絶壁に、ヴォゼはいた。
自分の剣槍で貫かれ、そのまま絶壁に磔にされている。
ウートベルガの毒が体に回り、もう意識は朦朧としていた。
あれからいままで、この瀕死の状態で生きているのがすでに常軌を逸している。
おそるべき生命力である。
「ガ……ハッ……」
吐血をひとつ。
ヴォゼの命の火は消えかかっている。
地上より数十mの高さ。
腕に力は入らない。
グレイヴを抜くこともできない。
「く……くく」
それでもヴォゼは嗤う。
ここで死ぬ。
そう理解っていても。
これこそがオークの宿望。
敵と闘って殺されるのも善し。
罠にハマって死ぬのもまた善し。
ただひたすらに真っ直ぐ、文字通り、愚直に。
盛大に闘った。
それで死ねるなら、何も問題はない。
「…………」
ただひとつ。
惜しむらくは、
もう一度――クロ・クロイツァーと闘いたい。
あれほどの敵はそうはいまい。
できるなら、自分と同程度に強くなったクロ・クロイツァーと闘ってみたい。
「くく……無念、である……な……」
その望みは叶うことはないだろう。
無念と言いながら、どこか満足げな表情を浮かべるヴォゼ。
「ふー…………、…………――――」
そして、ヴォゼが意識を手放し、その命を終えようとした、
そのときだった。
「――やぁ、まだ生きてるかい?」
何者かが、ヴォゼの体に突き刺さったグレイヴの上に乗った。
「グッ……!? ガ……ッ」
その衝撃で、ヴォゼの体に激痛が走る。
同時に意識が舞い戻ってしまった。
「グゥゥォオオオオ……ッ!?」
死の間際、すさまじいその痛みは拷問に等しい。
苦悶の声を上げたヴォゼを見て、グレイヴの上の何者かは手を叩いて悦んだ。
「ああ、ああ!
まだ生きてる! すごい生命力だ!」
「なん……だ、キサマ……」
ここは高所の絶壁だ。
いったいどこから降ってきたのか。
尋常な者じゃないことは確かだ。
「すごいね、そんなザマでまだしゃべれるんだ?」
真っ黒な服を着ている。
顔はフードを被っていてよく見えない。
声からして男。
しかも若い、少年のような声だ。
ただ、どこか不快な声だった。
まるで、この世の悪意を凝縮したかのような、おぞましい声。
「キサマ……は、なんだ?
魔物ではない、人でもない……なんだ、キサマは」
「ぼくは君を助けに来たんだよ」
正体不明の少年は、淡く発光する青色の液体が入ったビンを取り出した。
完全回復薬だ。
「どっかの野心を持った貴族がさ、商会をそそのかして『不老不死の霊薬』なんてものをつくろうとしたんだ。バカだよね~。これ、その失敗作らしいんだけどさ、ちょっともらってきたんだ。君にあげるよ」
「……失せろ。我は誰の助けも借りぬ」
「まあまあ、そう言わずに飲みなよ。ちょっと話を聞いてよ。そしてできれば、ぼくと手を組んでもらいたいんだ」
「……消えろ。キサマと話すことなど何もない」
「ああ、ああ……まいったな。君も頑固だね」
少年は、困ったようにゆらゆらと体を揺らす。
そして、良いことを思いついたと、ポンと手を叩いた。
「じゃあ、こうしよう。
君がコレを飲んで体を治してくれたら――」
フードの影から眼が見えた。
真っ赤な、丸い眼。
まるで魚の眼のようなそれは、なにを考えているのか分からない不気味さがあった。
「――『クロ・クロイツァーの秘密』を教えてあげよう」
「……な、に?」
コイツはなにを言っている。
ヴォゼは訝しみながらも、その少年の言葉に聞き入ってしまった。
「もちろん、クロ自身も知らない、
『不死』ってこと以外の――とっておきの『秘密』だ」
「……キサマ、ヤツの何を知っている」
少年は、嗤っている。
気に入らない。
そう思いながらも、ヴォゼは彼の言葉に強烈に惹きつけられていた。
クロ・クロイツァーの秘密。
それが何なのか。
「……くだらんことなら、殺すぞ?」
「大丈夫。
きっと君なら――気に入るハズだ」
「…………」
「ああ、ああ……。そうだね、もしそれで気に入らなければ、ぼくをこのグレイヴで滅多刺しにしてくれて構わないよ。ぼくは抵抗しない。武器もいまは持ってないしね。ぼくのこの腕を斬ってもいいし、眼をえぐり取ってもいい。この首を斬り飛ばしてもいい。ああ、ああ。いっそのこと、胴体を真っ二つにするのもおもしろいね?」
「……くくく、キサマ、死んでもよいとぬかすか」
「いいや、ぼくを殺すのはムリだ。
だってぼく――死なないから」
「なに……?」
嗤いながら、そんなことを少年が言う。
頭がどうかしている。
クロ・クロイツァーもどこか歪んでいたが、この少年は格別だ。
そう、まるでクロ・クロイツァーよりも不死に慣れているかのような――
「――キサマ。
まさかキサマが……『反逆の翼』……なのか?」
1000年前、魔境に攻めてきた『不死者』。
ヴォゼはそれにまだ出遭ったことはない。
どういう人物なのかも知らない。
ただ、死なないと言うのであれば、それはつまり、そういうことになる。
「――ゲハハ」
黒衣の少年は、魚眼を細めて不気味に嗤う。
その鮮血を思わせる朱色の瞳は、明らかに、悪意を胎動させていた。




