40 グリモア詩編
デルトリア伯がなぜ『悪魔の写本』を求めているのか。
エリクシアはまず、グリモアに宿る『災いの力』について説明した。
クロはもうその内容は聞いている。
というより、身をもって知っている。
グリモアのひとつひとつのページに災いがあり、それらすべてが人類を滅ぼし得る力が宿っているということ。
マーガレッタとガラハドはその説明を熱心に聞いていた。
エリクシアは、クロの不死については触れなかった。
「1ページ、正確にはこの紙の表と裏でひとつの災いになります」
エリクシアが、開いたグリモアのページをひとつ摘まんでから言った。
紙には読めない文字がびっしりと書かれてあり、黒い霧がそれを覆っている。
この薄い紙に、自分の不死と同じような災いがあるのだと思ったら、クロはなんだか複雑な心境だった。
「そんなものが、このグリモアに……」
「それぞれ用途や種類は違いますし、力の強弱もありますが、どれも使い方によっては、人類に対して『災い』と言っていいレベルのものです」
看守室の真ん中に備えられているテーブルには、グリモアが広げられている。
黒い霧がゆらゆらと揺れるグリモア。
それを、恐る恐るといった様子でのぞき込むマーガレッタとガラハド。
人類を滅亡させる災いの力という突飛な話を、ふたりは疑っていない様子だった。
それもそのはず、この黒い霧にはそれだけの力があるのだと、見ただけで否応なく理解できてしまう。
危険なものだと、本能が訴えかけてくる。
災いと呼ぶに相応しい、この世ならざる不吉な『何か』が、このグリモアの黒い霧にはある。
それを見聞きして取り乱さずにいられるのは、このふたりの胆力のたまものなのだろう。
さすが役職幹部の座にいる傑物だ。
そのおかげか、エリクシアの説明は円滑に進んでいった。
「たとえばこのページには、どんな力がある?」
マーガレッタがたまたま開いていたページを指差した。
単に好奇心で、ということなのだろう。
古い紙に書かれている文字はエリクシア以外には読めない。
彼女いわく、古代アトラリア語で書かれているということなのだが。
「あまり聞かないほうがいいのですが、ひとつぐらいなら……そうですね。
このページには『人を視認しただけで心臓を止める力』があります。防御は不可能で、詠唱もなし。本当に見ただけで人を即死させる災いです」
「――――――――」
これにはエリクシア以外の全員が仰天した。
なんだそれは。
想像以上のものだ。
魔法か?
いや違う、それ以上だ。
魔法とは自然界にある現象を再現する力のことだ。
だが、これは違う。
仮にいま言った力を使う者がいたとしたら、それは文字通り対人戦に限っては『無敵』だ。
人に対する強烈な災い。
やはりこれは相当に危険な代物だ。
「…………」
と、そこまで考えて、クロは疑問に思った。
――なら、自分の『不死』は?
これが人類に対して、いかなる災いを招くのか。
これまでは自分に対するデメリットで考えていたから、さすがにいまは想像がつかない。
「待て……ちょっと待て。
それを、エリクシア。お前は使えるってことか?」
今度はガラハドが訊ねた。
そんな質問が来ると分かっていたのか、エリクシアは淀みなく答えていく。
「いえ、わたしは『災いの力』を使えません。
これを使えるのは、グリモアが認めた者だけで、それはわたしの意思でもどうにもなりません」
一瞬、エリクシアがこちらを見た。
不死の災いのことを言っているのだろう。
グリモアが召喚されて2000年。
そのなかで、クロ・クロイツァーという人間だけ。
自分だけが、たったひとり、グリモアから災いの力を与えられた。
エリクシアは洞窟でたしかにそう言っていた。
「……」
あれ?
と、クロはまたひとつ気になった。
なら、エリクシアの魔法はいったい何だ?
彼女は明らかにグリモアから魔法を引き出しているように見えた。
災いでないとしたら、あの氷の魔法は何なのか。
「…………」
しかしここで問いただすのは止めたほうがいい。
まだ、ダメだ。
マーガレッタとガラハドに余計な不信感を与えてはいけない。
まだふたりはグリモアのことを知ったばかりだ。
エリクシアもそう考えているからこそ、クロが不死だということを明言するのを避けたのだ。
「――それで、ここからがデルトリア伯にかかわってくる話になるのですが」
エリクシアはそう言って、グリモアのページをめくっていく。
紙と紙がこすれる摩擦音が看守室に広がった。
「これを見てもらえますか」
しばらくして、エリクシアがページをめくる手を止めた。
「これは……」
「……ページが、破れている?」
そう、このグリモアはいくつかのページが不自然に破れていた。
クロは覚えている。
これを見たのは、エリクシアとはじめて会話をしたあの洞窟だ。
あのときは、彼女がこれについて何か言おうとしたところで、オークの邪魔が入ってしまい、結局聞けずじまいだった。
「……そんなとんでもねェ災いがあるグリモアのページが破れてるってのは、いったいどういうワケだ?」
ガラハドの言うとおりだ。
何か、嫌な予感がする。
こういうのは当たってしまうものだ。
「これは、いつの時代かは分かりませんが、『人類の誰か』がグリモアのページを破ってしまったんです。
その破れたページを『グリモア詩編』と呼ぶのですが――」
エリクシアは続けて語る。
人類にとって、決定的な危機を。
「――最悪なことに、グリモア本体から離れた詩編は、グリモアの意思とは関係なく、所有するだけで誰でも自由に災いの力を使うことができるんです」
おそるべき事実。
それは、計り知れない衝撃だった。
「……なん……だと……」
「誰、でも……?」
「……おいおいおい、シャレになってねェぞ……」
それがどれほど危険極まりないことなのか。
話を聞いていた3人は、一瞬にして理解した。
「――破られた『グリモア詩編』は全部で12枚」
グリモアの悪魔は宣告する。
これはまさしく世界の危機だと。
これこそが災いなのだと。
「つまり、災いの力を持っている能力者が、
この世界のどこかに、12名いるんです」
悪魔の写本を元凶とする人類への災いとは、
その所有者の悪魔でもなく、
グリモアの意思でもなく、
詩編を悪魔から奪った、人類そのものなのだとエリクシアは言った。
「……そのひとりが、デルトリア伯……?」
クロはエリクシアが言わんとすることが理解できた。
「はい。さっきまでの話を聞いて、わたしはそう思いました」
「まさか……デルトリア伯は、さらなる力を求めている……?」
「おそらく……そうなんだと思います」
自分以外の詩編を欲している。
マーガレッタたちが3年に渡って調べ上げた、悪魔を捕獲しようとするデルトリア伯の動き、その理由。
力を持ってしまった者が、より強い力を望む。
あり得る話だ。
そして、悪魔を発見した者を次々と殺害していく凶行。
その行為が、自分以外の誰かが『詩編』を手に入れないようにするためだとしたら――。
そんな人間が――悪人が、グリモア詩編を所有し、人類を滅ぼせるほどの強大な力を、好きなまま身勝手に使っている。
それだけに飽き足らず、悪魔を捕まえてもっと多くの詩編を奪おうとしている。
それは、このレリティアにグリモアの災いを増やそうとする行為に他ならない。
「……ダメだ」
このままデルトリア伯の悪辣を放っておいたら、前代未聞の犠牲者が出る。
直近に起こり得る可能性としては、まず、このグレアロス砦の人々が殺戮されてしまう。
この街には、日々を共に過ごした戦友や仲間がいる。
この街には、ここで日々を過ごしている住人たちがいる。
老若男女、種族の垣根なく、自分の想像もつかない数の人々が住んでいる。
見知った人、知らない人、とにかくたくさんだ。
その人たちが、殺されてしまう。
そんなことは許容できない。
英雄を目指す自分が、これを見過ごすなんてできやしない。
「――デルトリア伯を止めよう」




