36 長
騎士団の包囲網は、徐々にだが確実に狭まっていた。
クロとエリクシアは砦の東側に追い詰められていき、とうとう騎士団の軍営本部区画に入ってしまっていた。
見習いとはいえ、予備兵のクロにはこの辺りの地図は頭に入っていた。
どの道を行けば隠れやすいか、どこなら見つかりにくい地形なのか。
運も多少あったのだろう。
運と言っても悪運の類いだが、そのおかげか、ここまで誰にも見つからずに来られた。
いや、来てしまった。
教会があった区画とは違い、もはやここには一般人が住む建物は一切ない。
完全に騎士団の敷地内であり、すべての建物が騎士団の施設だった。
追われるクロたちに逃げ場はなく、予想していたとおり、袋のネズミ状態になっていた。
「出てこい。どんなに巧く隠れてもムダだ」
そして、クロが最も怖れていたことが起こった。
この野太い声。
よく知っている。
グレアロス騎士団の役職幹部だ。
砦の騎士団は副団長を筆頭に、突撃隊長・遊撃隊長・防衛隊長など、それぞれの役割に応じた精鋭兵を隊として束ねる『長』がいる。
そんな、騎士団屈指の実力者たちのことを役職幹部と呼ぶ。
正規兵にすらなれなかった自分とは雲泥の差がある権威者だ。
そのおそるべき戦士に――見つかってしまった。
「……っ」
クロたちが隠れている場所は最悪と言っていい。
体を隠すものは道の脇に植えられた街路樹と、腰ぐらいにまで伸びている草だけだ。
紙の地図が貴重品だったころの名残で、いまだに道標になっている並木である。
「どうした? ワシは出てこいと言ったぞ」
「…………」
クロは草のなかに隠れながら、後悔していた。
選択を誤ったのだ。
ここに来る手前に分かれ道があった。
兵舎がある区画と、こちらの区画への道。
兵舎区画なら建物はたくさんあるし、自分もよく知っている場所だ。
隠れるところはそれこそ山のように思いつく。
時間稼ぎなら何日だってできた可能性がある。
けれどクロは、自分たちの身を隠すものがほとんどない、こちらの区画を選んでしまった。
「…………」
これまでは、言うならば非日常だった。
デオレッサの滝や森。
砦の教会や裏道。
行ったことのない場所や、よく知らない場所ばかりだった。
しかし、本部区画に入ってからは違った。
日頃から自分が寝起きして、訓練をしていた場所へと続く道を見て、知らず知らずのうちに、正常な判断ができなくなっていた。
もしも――顔見知りの兵士と出くわしてしまったら。
悪魔を見つけて攻撃してくるであろうその誰かと、エリクシアを守るために自分は闘うことができるだろうか。
まず一番に思い浮かんだのは、ヴェイルの顔だった。
赤い髪の同い年の少年。
この3ヶ月、いつも一緒だった。
同じ釜の飯を食い、同じ部屋で寝起きをした。
田舎者だった自分に街での生活の仕方を教えてくれた友人だ。
英雄になりたいと、身の程をわきまえない大きすぎる夢を語ったときも茶化さず親身になって聞いてくれた。
親友と言ってもいい。
戦友と、そう言ってもいい。
そんな彼と闘うなんて、できるだろうか?
訓練での闘いなんかじゃない、命を削る闘いだ。
――絶対にイヤだ。
そんな心の迷い。
心を押しつぶすような葛藤が、兵舎区画への道を拒んでしまっていた。
そしてその結果が――これだ。
「ここは地下牢へ続く道、つまりはワシの庭だ。
ワシの特性は他の同胞よりも少しばかり秀でていてな、ほんのわずかな土の違和感でも気づいちまう」
ドワーフ特有の、土の加護というスキルだ。
この人の場合、ウサギの足跡すら見分けることができると聞いたことがある。
冗談かと思っていたが、どうやら本当のことだったらしい。
「いい加減さっさと出てこい。クロイツァー。
ワシは土の足跡だけでそれが誰のモンなのか分かるんだ」
もうダメだ。
そう観念して、街路樹の影から出て行く。
「……看守長」
「よォ、ひさしぶり……ってわけじゃねェな。遠征前に会ったしな」
言葉を投げかけていたのは、長く立派な白いひげを生やした小人だ。
ジズの面会に行っていたときに、よく会っていた看守長だった。
他に兵はいない。
いるのは彼ひとりだ。
けれど、決してあなどってはいけない。
かつては別の騎士団で突撃隊長を務めていた本物の強者だ。
彼に見つかるぐらいなら、兵士数百人に見つかったほうがまだ易しい。
クロが選んでしまったのは、地下牢の区画へと続く道だった。
顔見知りの兵を避けたら、顔見知りの長と出会ってしまったのだ。
考え得る限り、最悪の事態だった。
「お前だけじゃねェだろ。後ろに隠れてるのも出てこい」
「…………」
「さっき緊急の幹部会議があった。そこで悪魔の話が出たんだ。騎士団の幹部連中全員がお前を捜してる」
やはり幹部が動いていた。
ただでさえ包囲網が厳重で西側に行けないというのに、幹部まで出張ってしまっては、もう逃げ切ることができない。
「…………」
エリクシアが街路樹から出る。
その背後には、さっきまで座布団のようにしていたグリモアが浮かんでいる。
ひと目で悪魔だと分かる様相だ。
街の人々や兵士たちのように、突然攻撃してくる可能性も考慮して、クロは体勢を整える。
看守長と闘えるのか?
そんな迷いを心のなかに持ちながら。
「こっちはひさしぶり――だな。エリクシア」
「……ガラハドおじさん……」
看守長とエリクシアのふたりは、神妙な顔つきで互いを見ていた。
どちらとも複雑な表情をしている。
「……え? まさか、看守長と知り合い?」
当然の疑問をエリクシアに投げる。
出てきたときからこちらの服のすそを握って話さないエリクシアが、小さく肯いた。
「……わたしを育ててくれたノエラの話は、洞窟でしましたよね」
エリクシアとはじめて会話をしたあの洞窟のことだ。
ノエラとは、当時3歳ぐらいだったエリクシアを山で拾って育てた女性だったはず。
なぜ彼女が悪魔のエリクシアを庇護したのか。
どうしていまエリクシアがひとりなのか。
そういうところまでは深く切り込まなかった話だ。
「ノエラさんって、たしかドワーフの……、……まさか」
看守長を見る。
「そうか、そっちの事情はいくらか知ってんのか。そういえばワリと頻繁に会ってたのにクロイツァーには自己紹介がまだだったな」
彼は――ドワーフだ。
「ワシはガラハド・ベネトレイト。
死んじまったノエラ・ベネトレイトは――ワシの嫁だった女だ」
アトラリア山脈の近くにあった看守長の故郷は、魔物の襲撃で滅ぼされたと聞いている。
大事な人も亡くしただろうということは、彼が漂わせる雰囲気で分かっていた。
エリクシアとガラハド。
このふたりには、ただならぬ因縁があるのは間違いなかった。
「…………」
背筋が凍った。
ふたりの間に何が起こったのかは分からない。
けれど、尋常なものじゃないということぐらいは理解る。
教会近くの裏道にいた一般人は、エリクシアが悪魔だという理由だけで彼女を殺そうとしていた。
なぜなら、自分の大切な人が魔物に殺されてしまっても、悪魔のせいになるからだ。
なにか不幸なことが起きればそれは悪魔のせい。
すべての災いの根源は――悪魔。
おそろしいことに、それがレリティアの常識なのだ。
故郷が滅んで、大切な人まで奪われてしまった看守長がどれほどエリクシアを憎んでいるか。
それを考えるだけで悪寒が走る。
「…………」
隣にいるエリクシアはひどく怯えている。
これまで彼女が恐怖しているのは何度も見ている。
だが今回のそれは、そのどれをも凌駕するほどのものだ。
――戦闘になる。
クロは覚悟を決めた。
何が何でも守らなければならない。
持っていた半月斧の柄をギュッと握りしめる。
闘う。
ただし、殺さない。
顔見知りの、しかもこれまで良くしてくれていたこの人を殺せるわけがない。
片手斧の使い方まで丁寧に教えてくれた、いわば師匠とも言えるような人だ。
それに、いまこの状況で死人が出てしまっては、エリクシアが人に害をなす悪魔だということが間違いようのない事実になってしまうだろう。
それは絶対にダメだ。
殺さず――つまり手加減をして、この看守長という役職幹部と闘わなくてはならない。
そんなことができるか?
いや、できるできないじゃない。
やるしかない。
看守長は自分が『不死』だということを知らない。
隙を突くなら、その一点だ。
相手を殺せないのなら――自分が死ぬ覚悟を決めればいい。
「…………」
クロがそんなことを思案していると、
「――ついてこい。逃がしてやる」
くるりと背を向けて、看守長がそう言った。
聞き間違いじゃない。
たしかに、彼は逃がしてやると、そう言った。
しかし、頭のなかで理解が追いつかない。
「――え?」
疑問の声はふたつ。
クロと、そしてエリクシア。
「何度も言わせんな。お前らをここから逃がしてやるっつってんだ。
会議の帰り道でお前らを見つけられてよかったぜ。他の幹部に見つかったら終わりだ。さっさとついてこい」
言いながら、返事も聞かずズンズンと先を歩く看守長。
「…………」
「…………」
クロとエリクシアは呆気にとられて、お互いを見つめ合う。
わけが分からない。
エリクシアもそういう表情をしていた。
看守長も他の人と同じように攻撃してくると思っていたのだろう。
だが、彼は自分たちを逃がすと言ったのだ。
あまりにも突然な出来事に、どうしたらいいのか分からない。
「遅ェぞ! さっさとしやがれヒヨッコ共ッ!!」
「「は、はい……っ!」」
怒鳴られたふたりは反射的に返事をして、
その小さく頼りがいのあるドワーフの背中へと走った。




