29 誰がために竜は啼く
「おかあさん、だいすき」
水竜ヴォルトガノフがその幼い少女と出会ったのは、いまから500年も前のことだった。
かつてこのデオレッサの滝は別の名で呼ばれていた。
アトラリア山脈から来たる魔物を退治するため、多くの戦士たちが休息する場。
――憩いの滝、と。
人々が集まる滝の近くには冒険者や戦士たちをもてなす村があった。
幼い少女はその村で生まれたごく普通の人間だった。
いまは昔の話。
取り返しがつかないほどの、過去の話だ。
◇ ◇ ◇
「ここまで来ればもう安全だろう」
滝壺から離れた森のなかで、マーガレッタが言った。
公道に止めている馬車まであと少しの距離だ。
「……どうして水竜は我々を見逃したのでしょう?」
後ろを歩くアヴリルが問いかけた。
「分からん。気が変わったのか、それとも完全回復薬の副作用が効いたのか……何にしろ、我々にとっては幸運だったな」
会話のなかでも足を止めず、先頭を歩くマーガレッタは草木をかき分ける。
簡易的な道をつくり、後ろからついてくる者が歩きやすいように配慮していた。
「……たしかに、運がよかったですね」
アヴリルは気絶したエリクシアを背負い直す。
言葉どおりのことをアヴリルは考えていなかった。
水竜が攻撃を止め、言わばこちらに味方するような行動をとり始めた。
その理由を考えていた。
「…………」
クロ・クロイツァーがヴォゼに致命傷を与えて水竜に呑み込ませたあとの話だ。
水竜は完全に沈黙し、こちらをじっと眺めているだけだった。
滝壺から逃げるのは至極簡単だった。
水竜はどうしてそんな意味不明な行動をとったのか。
分からない。
どれほど考えても答えは出てこない。
魔物の考えを推し量ることは無意味だ。
人類同士ですら完全な意思疎通なんて難しいのだから、敵対している生物の気持ちを慮るなんて不可能だろう。
――分からないものは分からない。
きっと、マーガレッタもシャルラッハも同じようなことを考えて、そして自分と同じ結論に達したのだろう。
だから2人は何も言わないのだ。
アヴリルは考えを打ち消すように、最後尾を歩くシャルラッハに声をかけた。
「シャルラッハさま、大丈夫ですか?」
滝壺から離れたあと、クロ・クロイツァーは糸が切れた人形のように突然倒れた。
その彼をどうしても自分が背負うと聞かなかったのがシャルラッハだった。
「…………」
シャルラッハは何も答えない。
彼女の動揺が伝わってきて、思わず足を止めた。
「シャルラッハさま?」
「どうした?」
先頭を歩くマーガレッタも異常を感じて足を止めた。
さっきまでずっと背中を気にしていたシャルラッハがこちらを向く。
「……ねぇ、クロ・クロイツァーの様子がおかしいの……」
泣きそうな声だった。
はじめて、彼女が本気で焦っている顔を見た。
「ど……どうしたら、いいの? わたくし、どうしたら……」
クロは、シャルラッハの背中でぐったりとしていた。
「お、落ち着いてください。どう様子がおかしいのですか」
「見せてみろ」
シャルラッハの動揺を見て、マーガレッタがクロの様子を確かめる。
「……これは……」
マーガレッタがクロの首元に指を当てた。
そしてしばらくして、くちびるを噛んで眼を伏せた。
「……ど、どうしたんですか? いったい何が……」
エリクシアを背負っているため、自分では確認できないアヴリルが2人のただならぬ様子に焦りを強くした。
「――息を、してないの……」
消え入りそうな声で、シャルラッハが言った。
その短い言葉はすべてを物語っており、アヴリルは会話をつなぐことはできなかった。
◇ ◇ ◇
水竜ヴォルトガノフは自分の強さに誇りを持っていた。
魔境序列、第七位。
それが、500年前の『彼女』のすべてだった。
自分より上は最上級の魔物である『最古の六体』しかいない。
それはつまり、特級の魔物で『最強』ということを意味していた。
水竜は特異な魔物だった。
ほとんどの魔物は人類と変わらない雑食だ。
しかし水竜は、それに輪をかけた異常性があった。
魔物を主食とする異端。
究極の弱肉強食。
『最古の六体』以外の魔物はすべて水竜のエサだった。
腹が減っては魔物を見つけて喰らい貪り呑み込んだ。
水竜は魔物にとって恐怖の象徴であり、同時にその強さを崇められる頂点捕食者だった。
やがてただ魔物を喰らうことだけに飽きたころ、水竜は人という生物に心を奪われていく。
人の血を。
人の死を。
人類の殺戮を。
食欲よりも強い魔物の本能。
魔物の至上使命である人類根絶。
水竜は強大な殺戮欲求に支配されていく。
しかし、いつになっても動こうとしない『最古の六体』に業を煮やし、本能に抗いきれなくなった水竜は、単身レリティアに向かうことになる。
水竜は己が強さに傲っていた。
生まれ育った禁域から深域へ、そして境域まで移動していく。
やがて辿り着いたアトラリア山脈。
眼下に見えるレリティアを眺め、水竜は思った。
ここを地獄に変えてやろう。
死山血河をつくり、絶望で大地を埋め尽くし、人類の悲鳴を大空に昇らせてやろう、と。
アトラリア山脈からレリティアに流れる滝を下り、水竜はその滝壺に到着した。
そして――ここから水竜の運命が狂っていく。
滝壺の岸には人間の少女がひとり、いた。
『魔法』を使うまでもない。
水竜は悦び勇んで少女を噛み殺そうと口を開いた。
が、
「おかあ……さん?」
おどろくほど弱々しい声で、少女がそう言ったのを聞いてしまった。
水竜は、人の言葉を理解できるほどの知能はあった。
その言葉の意味を知っていた。
この魔物喰らいの水竜に、禁域ですら誰もがおそれて近づきすらしなかった自分に向かって、そんな言葉を投げかけてくる生物がいた。
そんなことを夢にも思わなかった水竜は、信じられないぐらいに自分が動揺したのを感じた。
「おかあさん……?」
よく見ると、その小さな少女はケガをしていた。
眼をケガしているようだ。
何も見えていない。
具合からして、ケガをしたのはほんの数時間ほど前だろう。
うつ伏せに倒れて、小さい手を宙にさまよわせていた。
少女の様子を見て、水竜は計り知れない衝撃を受けていた。
何だ、この生き物は。
これまで見たどの生物よりも弱い。
生まれたばかりの魔物でもここまで貧弱じゃない。
魔物の赤子は生まれてすぐ狩りをするし、動物の赤子でさえすぐ歩こうとするが、この少女はそれよりも遙かに弱い。
眼が見えないからではない。体つきからしてすでに弱々しい。
ほんのひと撫でしただけで死ぬ。
もしかすれば、自分が少し吼えただけで絶命するのではなかろうか。
水竜は、人間の子供を見たことがなかったのだ。
あまりにも弱々しい少女の姿。
いつの間にか水竜は、手をさまよわせる少女をただ眺めていることしかできなくなっていた。
やがて夜になって、少女におどろくべき変化が現れた。
その小さな体躯よりも巨大な『本』が、突然に出現したのだ。
明らかに異常だった。
しかし、そんなことは水竜にとってどうでもよかった。
それよりも、この幼子の少女をどうしたらいいのか迷っていた。
殺すべきか、それとも――
「おなか……すいた」
少女は空腹を訴えだした。
本が現れた途端、眼のケガが治るとはいかないが、消耗していた体力が回復したようだ。
そのまま死ね。
水竜はそう思った。
ケガをした動物は真っ先に死んでいく。
それが自然の摂理であり、当たり前のことだ。
「…………え?」
水竜は、近くにあった木の果実を少女の手の近くに落とした。
この貧弱な少女でも食べられるよう、わざわざ砕いてやった。
「……くれるの?」
自分が何をやっているのか理解できなかった。
なぜこの少女を助けるようなことをしているのか。
「ありがとう、おかあさん」
まったく見当違いの場所を向いて、少女がそう言った。
なぜか水竜はそれを見て、得も言われぬ充足感を覚えた。
水竜のこの行動は、誰にも理解できないだろう。
なにせ自分ですら理解できない行為だったのだから。
人類を滅ぼそうとレリティアにやってきて、最初に出会った人間を助けてしまう理由。そんなこと、説明がつくわけがない。
そう、理屈じゃない。
あえてこの行動に名をつけるのなら、
『母性による庇護欲』が最も近いのだろうか。
野生の動物でも実際にある話だ。
メスの肉食動物が獲物を殺したとき、その獲物の子供を見つけてしまい、そのまま自分の子供として育ててしまうことがある。
これは、そういう奇跡の話だ。
少女はよくしゃべる子だった。
自分の名前、そして年齢。
好きな食べ物、嫌いな食べ物。
水竜が言葉を話せないため、元気になった少女は自分のことをよく話した。
6歳になるこの少女は、憩いの滝近くの村で生まれ育った。
そしてあの出会った日。
なぜ眼をケガしたのかは決して話そうとしなかったが、どうやら何事かがあってひとりになってしまい、途方に暮れていたのだという。
「おかあさん、だいすき」
水竜のことをそう呼ぶ少女は、母親がいない。
少女が生まれたと同時に死んでしまったらしい。
背にのせてやったときに、水竜が人間ではないことに気づいた少女は、それでも水竜のことを『母』と呼んだ。
その瞬間から、
眼の見えない少女と魔物喰らいの水竜は、この滝壺で母子となった。
水竜は満更でもなかった。
心地よいとさえ思った。
人類を滅ぼすことなんて、もうどうでもよかった。
自分の強さへの誇りなんてものも、何の価値もないと断言できるほどに、
少女との生活は幸せに満ちていた。
何日か経って、少女に水中の魚を獲ってやろうとしていたときだった。
水上で何者かの気配がした。
岸で待っている少女に害があってはいけないと、水竜は水面へと上がろうとした。
すると、
「……やっと見つけた。ずいぶん捜したぞ」
男の声。
水中のなかから、水竜はその声を聞いた。
「お、おとうさん……?」
「そうだ。ああ……その眼じゃ見えないか」
どうやら少女を捜しにきた父親らしかった。
他にも数人の気配があった。
おそらく村人が少女を捜索していたのだろう。
水竜は考えた。
自分がこのまま少女を育てることはできないだろう。
魔物と人。
まったく違う生物同士でうまくいくわけがない。
人間のことは人間にまかせたほうがいい。
そのほうが少女にとって幸せだ。
父親がいるのなら尚のこと。
いま自分が水上に出てしまえばあらぬ誤解をさせてしまうだろう。
別れはつらいが、それもしかたのないことだ。
このまま自分は隠れたままで、少女が去るのを待っていよう。
水竜は少女のことを愛していた。
少女の幸せを願うほどに。
「悪魔め……もう逃がさんぞッ!!」
しかし、水竜は知らなかった。
本を所有するものが何者なのか。
人類にとって、それがどういうものなのか。
本の所有者に対する人類の扱いがどういったものなのか、知るよしもなかった。
「お、おかあさんッ! たすけて……たすけ……ッ!!」
少女が聞くにもつらい悲鳴をあげた。
何事か、と考えたときには水竜はすでに水面に顔を出していた。
そこで信じられないものを見た。
真っ赤な血に染まって倒れた少女の姿。
その近くで槍を構えた男の姿。
少女を取り囲むようにして、たいまつと武器を持っている人間たち。
「うわああああああああッ!? ド、ドラゴンッ!?」
少女の近くにいた男が叫んだ。
この声、さきほど父親だと言っていた男の声だ。
何があったのかは明白だった。
実の父親が、少女を槍で突き刺したのだ。
それを是とするように、他の人間たちは少女が逃げられないよう取り囲んでいた。
水竜は知らなかった。
グリモアを持つ悪魔が、人類の敵だということ。
そしてそれを狂信する人間の村があったことを。
悪魔となってしまったなら、たとえそれがこれまで溺愛していた一人娘であったとしても、憎悪し殺すべき天敵になってしまう。
それほどに、彼らは悪魔の災いをおそれていた。
「――――――――」
水竜は、かつてこれほどの怒りを感じたことはなかった。
激高した水竜は、少女の父親を殺した。
周囲にいた人間たちの半分も噛み殺した。
そのうちの半分は悲鳴をあげながら逃げていった。
――殺ス――
その一念で水竜は動く。
皆殺しにしても飽き足らない。
絶対に許さない。
水面から体を出して、逃げていった者共を追う。
が、
「おか……さん」
弱々しい声が聞こえて我に返った。
血まみれの少女のそばに顔を寄せる。
「おかあ、さん……」
ここだ、ここにいる。
ああ……なんてことだ。
どうしてこんなことに。
「ど、こ……?」
少女は涙を流している。
痛いだろう、苦しいだろう。
口から血を吐きながら、手を伸ばして必死に水竜を捜している。
「……ぁ……」
少女の手が、水竜の鼻がしらに触れた。
ホッとしたように顔を綻ばせる少女。
水竜は激しく自分を呪った。
この体に手という部位があったのなら、ギュッと抱きしめて安心させてやれるのに。
この口が、人の言葉を発することができたなら、「もう大丈夫」と言ってやれるのに。
瀕死の少女に何もしてやれない自分の体を呪った。
「どこにも、いかないで……ひとりに、しないで……」
分かった。
もうどこにも行かない。
決してひとりにしない。
水竜はできうる限りの優しさで、少女の手に鼻をすり寄せた。
「……うん……」
言葉ではつながれない。
けれど、たしかに水竜の意思は少女に通じた。
「おかあさん、だいすき」
少女は最期にそう言って――息絶えた。
そして、
「――――――――――――――――――――――ッ!!!」
水竜は啼いた。
声にならない絶叫。
ノド奥が裂けんばかりに金切り声を張り上げた。
もう決してどこにも行かない。
これは誓いだ。
この滝壺は誰にも渡さない。
近づく者は何であろうと許さない。
もう誰にも手出しができないように、娘の亡骸を水底に沈め、弔う。
もう二度と、ここから離れない。
この滝壺は、自分たち母子の聖域だ。
ずっとずっと、守ってやろう。
水竜は固く――固く心に誓った。
水竜が住み着いた憩いの滝は誰にも近づくことができなくなった。
近くにあった少女の村は、水竜の魔法で消し炭に変えられた。
レリティアからやってくる英雄。
アトラリアからやってくる魔物。
水竜は強敵たちの的となってしまった。
しかし、それらすべてを薙ぎ倒し、駆逐し、滅殺した。
誰も水竜に敵う者はいなかった。
やがて、滝に住まう水竜の伝説は、人境レリティアと魔境アトラリアの双方で語り継がれていく。
決して侵してはいけない場所がある。
そこに行けば必ず殺されてしまう。
絶対不可侵の危険地帯。
その滝は、いつからか名を変えて呼ばれるようになる。
もしかしたら、生き残った村人の誰かが名付けたのかもしれない。
盲目の悪魔と魔物喰らいの水竜が住まう呪われし滝。
悪魔の少女の名を冠し、滝はこう呼ばれるようになった。
――デオレッサの滝――
◇ ◇ ◇
水竜はその身が朽ち果てるまで、デオレッサとの約束を守ろうとしていた。
しかし、
愛娘デオレッサとの出会いから500年。
止まったままの時間は動き出す。
ふたたび、水竜は出会ってしまったのだ。
デオレッサと同じ『匂い』をさせる少女と。
少女の名は、エリクシア・ローゼンハート。
グリモアにかかわった、すべての者の悲哀と悲願を背負う、悪魔の当代である。




