28 クロ・クロイツァー
「同志クロイツァー、動けるか?」
マーガレッタは早口にそう言うと、腰につけた鞘を取り外して手に持った。
「はい、大丈夫です」
ひとり水のなかに入ったままのクロは、木株に掴まりながら返事をした。
「よし、そのまま山脈側の岸まで泳げ」
マーガレッタはそう言って、次はアヴリルへと声をかけた。
「貴公はそこの少女を運んでくれ」
「了解です」
アヴリルは返事をしたと同時、木株の上に寝かせていたエリクシアを背負った。
「わたくしは?」
「好きにしろ」
シャルラッハの問いかけに対しては、ある意味冷たい返答だった。
だがこれは、マーガレッタが彼女の腕前を完全に信用しきっている証だ。
「りょうかい」
小指をくちびるに当てて、「ふふっ」と笑うシャルラッハ。
シャルラッハならたとえひとりでも、いや、むしろ単独だったなら、この状況からでも余裕で逃走できる。
それだけの実力――『雷光』という技がある。
雷を追える者など、この世に存在しないのだから。
「逃がすか、戯け共がッ!!」
ヴォゼが轟声を出して水上を駆けてくる。
そして、そこからやや離れた場所から、水竜がこちらへ向けて口を開いていた。
「水竜は魔法を使う気ですわね」
「させん」
マーガレッタは即座に行動を開始していた。
鞘を手に持ったまま構え、収めていた剣の柄を握りしめる。
居合いの構え。
「…………」
クロは先日のアヴリルの言葉を思い出していた。
――目に見える範囲ならそのすべてが剣の間合いでしょう――
戦技『遠当』の応用。
次期英雄候補とまで謳われる、グレアロス騎士団・副団長の神髄。
それが、このおそるべき奥技。
「戦技、『斬空』――横一文字」
ヒュッ、という鋭い音だけが聞こえた。
次の瞬間、
ヴォゼと水竜の上方にあったガケが崩落した。
「な……」
思わず、おどろきの声がクロの口から漏れ出た。
片方のガケだけじゃない。
滝壺を囲むすべてのガケが斬り崩されていた。
研ぎ澄まされた刃はどこまでも鋭く、一瞬のうちに大破壊を実現した。
「なんて、威力……」
ヴォゼと水竜はとんでもない量の土砂に巻き込まれ、やがて見えなくなっていった。
水しぶきが無数に上がり、地獄めいた光景が滝壺に広がっていた。
「……ハァ、わたくしの出番なんてないじゃないの」
ヴォゼの戦技と張り合うほどの、超然たる威力。
こんなことを人間ができるのか。
これが――これが、英雄候補。
特級の魔物と対等に闘える、人類最強の戦士になれる逸材。
「ほらほら、クロ・クロイツァー。速く泳がないと崩落に巻き込まれますわよ」
クロの肩から離れ、ぴょんぴょんと木片を跳びはねて誘導してくるシャルラッハ。
「そんなこと、言ったって……ッ」
すでに巻き込まれている。
大質量の土砂が滝壺に落ちて、水面は時化のごとく荒れている。
どんなに腕で水をかいても一向に進まない。
「……マズいな、想像以上だ」
水面に立っているマーガレッタが苦い顔をして言った。
「え?」
「まったく効いていない。どうやら簡単には逃してくれないらしい」
そして一息経って、信じられないことが起こった。
土砂を大量に被ったはずのヴォゼが、力任せにそれらを弾き飛ばしたのだ。
「やるではないかッ! まさか戦技使いと相見えられるとは思わなんだぞッ!」
ヴォゼが戦意をみなぎらせて駆ける。
いまのでさえ止められないなら、もうどうにもならない。
「ガケ崩れに巻き込まれても無傷とは……本当にバケモノですね」
「魔物が、しゃべりましたわよ!?」
アヴリルとシャルラッハがそれぞれ別の意味でおどろいていた。
「……貴公らはこのまま岸へ逃げろ。殿は私が引き受ける」
決死。
その覚悟を、マーガレッタは決めていた。
ここから逃れるには誰かがオトリにならねばならない。
誰かが闘い、時間を稼ぐしかない。
つまりは、誰かが死なねばならない。
そうじゃないと全滅する。
マーガレッタはそう決断した。
「悪いが、同志シャルラッハ。あとのことは頼んだ」
しかし、
「お断りですわ」
そんなことを素直に聞くようなシャルラッハではない。
「副団長命令だ」
「知りません。聞きません」
「……相手は特級だぞ、ワガママを言うな」
「アヴリルとクロ・クロイツァーにも聞いてみては?」
シャルラッハとマーガレッタがこちらを見る。
当然、クロの答えは決まっている。
「仲間を見殺しにするのは騎士道に反するはず。
逃げるのなら、全員で」
言うと、シャルラッハが満足げに笑った。
マーガレッタは指を額に当てて困った顔をした。
「……同志グロードハット」
「私も、クロイツァー殿の意見に賛成です」
アヴリルも同じように反抗した。
3人に言われ、マーガレッタが嘆息した。
「……まったく、貴公ら全員懲罰ものだぞ。この問題児共め」
「全員で生きて帰れたら、謹んでお受けいたしますわ」
「……なら、闘いながら隙をつくり全員でここから脱出だ。異論は?」
「それでこそ副団長ですわ」
シャルラッハが細剣を出した。
そして、後ろでニコニコしていたアヴリルが、
「――ッ!? 下ですッ!」
叫んだ。
「水竜ッ!」
一瞬遅れてシャルラッハが気づく。
ガケが崩れて姿が見えないと思ったら、水のなかを潜ってこちらまで迫っていたのだ。
岸側の水面から頭を出して、叫声を上げる水竜。
「挟まれたかッ」
前方にはヴォゼ、後方には水竜。
絶望的な挟撃。
「いまの『斬空』は、キサマだな」
「……チッ」
迫りきったヴォゼがマーガレッタに攻撃を仕掛けた。
それを難なく剣でいなしたマーガレッタが反撃を試みる。
前方で闘いがはじまった。
◇ ◇ ◇
「――――ッ」
後方、水竜が勢いよく現れた結果、水面が荒れに荒れていた。
浮いた木片に足をつけていたシャルラッハとアヴリルのふたりは、ぐらぐらと揺れる足場のせいで思うように動けない。
アヴリルにいたっては、ひとりの人間を背負っているために、その影響は計り知れないものだった。
その隙を、水竜は見逃さない。
「アヴリル、危ないッ!」
「……ッ!?」
水竜が口を広げて、アヴリルを呑み込もうとしていた。
「アヴリル、歯を食いしばりなさいッ!!」
シャルラッハが叫ぶ。
その意味するところを察したアヴリルが、背中のエリクシアを背負い直した。
「――――ッ!!」
シャルラッハが『雷光』を使い、目にもとまらない速度でアヴリルに突進。
正面から抱きしめる形で激突した。
「ぐッ……ッ!!」
アヴリルが苦悶の声を押し殺す。
「我慢して!」
そのまま雷光の勢いで後方に吹っ飛ぶ3人。
さっきまでアヴリルがいた場所を、水竜がかぶりついた。
間一髪。
少しでもシャルラッハの判断が遅れていれば水竜の腹のなかだった。
「……ふッ!」
水面から出ていた水竜の首あたりを一度蹴ってまた雷光。
一気に岸までジャンプした。
「――――――――――――――――ッッッ!」
水竜が叫声を上げて、岸に着いた3人に追いすがる。
滝壺に侵入した者を水竜は許さない。
水竜の性質として、いや、獣の本能としての行動は単純だ。
まず逃げる者から追う。
だからこそ何よりも優先してシャルラッハたちを追ったのだ。
絶対に逃がさない。
皆殺しにする。
そんな決意めいた断固たる意思を元に、水竜が迫ってきた。
が、しかし。
「……え?」
唐突に水竜の動きがピタリと止まった。
その朱く輝く瞳を限界まで見開いて、こちらを凝視していた。
「……どういうこと、かしら」
「……突然、動きが止まりましたね」
水竜の謎の行動に困惑するシャルラッハとアヴリル。
しばらく経っても、水竜は完全に沈黙したままだった。
「アヴリル、ケガは?」
シャルラッハが水竜を警戒しながら訊ねた。
「はい、問題ありません」
「問題ないハズないでしょう? ムリしないの。どの程度のケガなのか聞いてるの」
「すみません……。胸骨あたりを、少々痛めました。さすがに雷光をくらって無傷とはいきませんでしたね……」
「英雄の技をそうやすやすと受け止められたらたまったものじゃないですわ。
後ろの子は無事?」
「こちらのお嬢さんは本当に問題ありません」
「それじゃ、あなたはそこで休んでいて。あとは、副団長とクロ・クロイツァーがこちらに来られれば……」
シャルラッハが水上の闘いを眺める。
マーガレッタが特級のオークと激戦を繰り広げていた。
クロ・クロイツァーはその近くで浮いていた。水竜が突然現れたときの波でそこまで押し流されていたようだ。
助けにいきたいが、水竜が岸のすぐそばにいるため、動きたくとも動けない。
「……なんなんですの、コイツは」
こちらを眺めたまま惚けている水竜。
魔法を撃とうとしているわけでも、何かをしようとしているわけでもない。
ただその場で佇んでいるだけだった。
「…………」
どうして水竜が途中で攻撃を止めたのか。
人間でたとえるなら、何かを見て戸惑ったような感じだった。
「……ふん」
考えても仕方がない。
シャルラッハは次の行動をどうするかを考えることに専念した。
◇ ◇ ◇
シャルラッハたちが挟撃から一気に抜け出た。
何という機転。
相手がアヴリルだからこそできた力技だ。
衝突する寸前にアヴリルが後ろに跳んで衝撃を和らげ、シャルラッハの負担をも激減させた。
失敗すれば大惨事。
両者共に重傷を負うことになる。
しかし、それをあの2人は一瞬の機転でやり遂げた。
見事と言わざるを得ない。
互いの信頼と実力なくしては実現しない、起死回生の逃走だ。
「あとは、私と同志クロイツァーだけだな」
そして、前方の闘い。
クロがあれほど苦戦していたヴォゼ相手に、マーガレッタは互角以上に闘っていた。
それも当然だ。
彼女はこのグラデア王国で最も英雄に近い、誉れ高き騎士なのだ。
「なかなかやるではないか。特級並の人間に出会うのはこれがはじめてだ」
「そうか。私も言葉を話す魔物に出会ったのははじめてだ」
会話をはさみながら、それでも攻撃の手は一切緩まない。
交わし合う武器の軌跡はそのすべてが致命傷を狙っている。
一撃必殺のそれらを互いが紙一重で避け、あるいは受ける。
判断のミスひとつで死に繋がる鬼気迫る攻防。
これが頂の闘い。
絶対の強者たちが命を賭して武器を振るい合う。
「…………」
その闘いを間近で見ているのはクロ・クロイツァー。
副団長なら、もしかしたらヴォゼを倒せるかもしれない。
そんな期待をしてしまうほどに、両者の闘いは拮抗していた。
「く……ッ!」
「副団長ッ!」
しかし、唐突にそれは起こった。
マーガレッタとヴォゼの闘いは、それまでものと一転する。
「――戦技、『紅蓮』」
ヴォゼの体が、燃えていた。
元々、炎が燃えているような不気味な肌だったが、炎を纏ったガルガと同じような技を使ったのだとクロはハッキリと理解した。
「すぐに死んでくれるなよ? 我をここまで滾らせたのだ。せめて、数秒ぐらいは生き残れ」
まだ、強くなる。
もはや直視しただけで理解できる。
これまでのヴォゼとは一線を画すほどの、震天動地の大変化。
本当に底がない。
バケモノだ。
「……なんて、ことだ。これが特級か……ッ」
マーガレッタがその威容に衝撃を受けていた。
彼女の顔に流れる水滴は、滝壺の水のせいだけではないだろう。
グレアロス騎士団の副団長をして驚愕させる。
彼女のその表情は、闘いの結末を物語るには十分すぎた。
ヴォゼからは誰も逃げられず、ここで全滅する。
英雄候補のマーガレッタですら、どうにもならないのだと。
「…………」
そして、そんなマーガレッタの絶望を見たクロは、心の奥底に火が灯る。
マーガレッタはヴォゼに殺される。
シャルラッハもアヴリルも、同じように殺される。
自分を助けに来てくれた人たちが殺されてしまう。
エリクシアはまんまとヴォゼに攫われるか、水竜に殺されるかのどちらかだ。どちらにせよ、苦渋に満ちた未来が待っている。
生き残ってしまうのは不死の自分だけ。エーテル切れで動けなくなり、この滝壺の底で屍のような永遠を過ごすことになる。
この闘いは、そんな最悪な結末に収束する。
「――ない」
――ドクン、と。
ひとつ、胸の早鐘が鳴った。
――ドクン。
またひとつ。
そしてまた、ひとつ。
「――冗談じゃ、ない」
瞳孔が極限まで収縮する。
何もかもがゆっくりに見えた。
うねる波。
弾ける水しぶき。
ガケから舞い落ちる土砂。
極限の集中。
五感のすべてを総動員させて、そのなかで研ぎ澄まされた超感覚。
「――冗談じゃないぞ」
このままおめおめと仲間を殺されてたまるものか。
そんな結末なんて納得できるか。
相手が特級だから、どうしようもない?
力量差がありすぎるから、仕方がない?
違う。
それがなんだというのか。
この憤激は、そんなどうでもいい理屈じゃ止まらない。
ヴォゼにナメられたままだ。
たった1発すら、ヤツに攻撃を当てていない。
闘いにすらなっていない。
あれほどまでに弄ばれた。
そんな辛酸を舐めさせられたままで終わってたまるものか。
「――俺が、闘う」
『死力』。
自分の持っていた特性。
死ぬほどの致命傷を与えられてようやく力を発揮する、普通なら何の意味もない特性。
しかし、不死には最高の相性だ。
死ねば死ぬほど――――強くなれる。
「水の上には、立てる」
だって、あれほどの痛みを感じたのだ。
背骨が粉々になるほどに、水は硬かった。
「なら、走れる」
バシャッ、と水面を弾いて疾く駆ける。
水上を走っていく。
半月斧はこの手に握りしめている。
「――なら、闘えるッ!!」
咆吼。
またたく間に、ヴォゼへと突撃を敢行した。
「ク、ハハッ……来い、小僧ッ!」
クロに気づいたヴォゼが嗤う。
体に纏う炎を盛らせて大いに嗤う。
「ヴォゼッ!」
その凶暴な笑みを消し去りたい。
その余裕の表情を崩したい。
「……『水渡』だと!? なぜ貴公がそれを使える……ッ!?」
マーガレッタとすれ違う。
さらに奥へ向かって駆け抜ける。
極限の最前へ。
「よいぞ、よい。キサマらまとめて掛かってこいッ!!」
半月斧と剣槍。
ふたつの巨大な武器が重なり合う。
硬質の打撃音が響き渡る。
◇ ◇ ◇
エリクシアを背負ったままのアヴリルは、いま起こっている事実に戦慄していた。
「クロイツァー殿……」
あり得ないことが起こっている。
エーテルを使って水の上を歩く技、『水渡』。
戦技とまではいかないが、アヴリル自身やシャルラッハですら使えない高等技を、予備兵の彼が使っているという事実。
これほどの急速な成長なんて聞いたことがない。
「…………」
2日前の昼。
彼と食事を共にしたときは、いつも通りだった。
何の変化もなかった。
しかしその後、夕方に彼はハイオークと川のなかで闘っている。
ここからもうすでにおかしい。
彼にはそんな実力はなかったはずだ。
数日前まではオークすら倒せなかったのだ。
遠征から帰還しヴェイルの報告を聞いて、捜索隊を結成した自分たちが彼とハイオークの闘いの痕跡を見つけたのが、ちょうどいまから丸1日前の早朝だった。
それからずっと、アヴリルたちは森のなかを捜索していた。
そして今朝。
日が昇りかけた、ついさっきのことだ。
デオレッサの滝からとてつもない爆音が響き、急いでここまで駆けつけた。
たった2日だ。
ほんの2日前まで、彼はただの予備兵だった。
それがどうしたことか。
特級の魔物と闘っている。
彼の身に何が起こったというのか。
激変と言ってもいいぐらいに、クロ・クロイツァーは強くなっている。
「…………」
後ろに背負っている少女を横目で見る。
この少女からは、あの川で嗅いだ『得体の知れない匂い』がする。
そしておどろくべきことに、クロ・クロイツァーからも同じ匂いがしていた。
匂いというのは自分なりの表現で、正確に言うと、『不吉な気配』がするというのが最も近い。
クロ・クロイツァーの身に何かがあったとするならば、間違いなく、この少女が関係している。
「――あなたは、いったい何者なんですか」
極々小さく呟いたアヴリルの問いかけ。
それは、滝壺の激しい水音にかき消されていった。
「…………」
そんな矢先のことだった。
戦況の変化は突然やってきた。
「――――ッ!?」
それまで沈黙を守っていた水竜が――動いた。
その動きは巨体にあるまじき素早さだった。
水竜を警戒していたシャルラッハでさえ、まったく反応しきれないほどの。
◇ ◇ ◇
「――水竜ッ!」
焦るマーガレッタの声。
それは突然だった。
さっきまで岸のほうにいた水竜が、こちらへ向けて長い頭を突っ込んできたのだ。
ムチを水面に叩きつけるかのようなその攻撃は、水竜の巨体さもあって絶大極まる威力があった。
クロとマーガレッタ、そしてヴォゼもかろうじて直撃だけはしなかったが、その効果のほどはすさまじかった。
「く……ッ」
大波の波紋となって激震する水面。
マーガレッタは足をとられて自由に動けない。
この場の全員が『水渡』を使っている。
三者にとって、水面は地面と同義だった。
それがこれほどまでに揺れ動くのは、絶大な影響を受けてしまう。
「ぬ……ッ」
あのヴォゼでさえ体勢が崩れていた。
『水渡』は元々が不安定な水上に立つ技だ。
エーテルを足に集めて場をつくる技術。
そして、平衡感覚を律するための重心移動の体術が不可欠だ。
穏やかな水面ですら相当のバランス感覚が要求される。
こんな嵐の海のような荒れた水面では、立つことですら容易ではない。
唯一。
例外だったのは、クロ・クロイツァー。
荒れる水面を軽やかに駆ける。
半月斧を振るう力は平地と何ら変わりない。
もはやこれは妙技・曲技の域。
戦闘の才能はなくとも平衡感覚の高さという、ただその一点だけは第一級だ。
劣悪な足場のなかで動くことにかけて、クロ・クロイツァーは他者の追随を許さない。
「おおおおおおおおおおッ!!」
ヴォゼの胸元に、叩きつけの一撃を見舞う。
しかし、頑強なその体に致命傷は与えられない。
その燃えたぎる炎によって弾かれる。
「く……ッ」
防御力すらも跳ね上がっている。
反則だ。
元々強いうえに、一時的に力を底上げする戦技なんて反則にもほどがある。
「まだまだ、だな小僧ッ!」
不安定な体勢からヴォゼが剣槍を振り上げて、クロの半月斧を強く弾いた。
さすがに半月斧は手放さなかったが、思わぬ武器のさばかれ方にクロの体が硬直してしまう。
「く……ッ」
まだ、足りない。
技術・力・経験・精神力、そのすべてがヴォゼに及ばない。
ここぞという時に、届かない。
絶対的な実力差は覆せない。
「もう一度死ぬがいい」
「…………ッ」
だが、それでもいい。
何度だって殺してみせろ。
その度に、強くなって必ずお前を倒してみせる。
エーテル切れになるのなら、自分の腕をも喰らってみせよう。
「『死力』を出してみせよ」
クロの脳天に向かって振り下ろされる剣槍。
しかしそれは、当然の助勢によって阻止される。
「させんッ!!」
マーガレッタの『斬空』による一閃。
それはヴォゼの腕に命中した。
「……ぬッ!!」
ヴォゼが大きく仰け反った。
奇しくも同じ体勢になったクロとヴォゼ。
両者共に、武器を持った腕を天に掲げるような格好になっていた。
「……硬いッ! 腕すら斬れないか……ッ!」
マーガレッタは揺れる足場に四苦八苦しながら、ふたたび『斬空』の準備に入る。
「――――――――――――――――ッ!!」
しかし、水の底より来た巨大な怪物によって、それは阻まれる。
水竜は巨大な口を限界まで開く。
強烈な飢餓を癒やそうとしているのか、それはまさに『食事』だった。
狙われたのは、
「ぬ……ぉおおおおおッ!!」
ヴォゼだった。
獲物にかぶり付く行為。
蛇にはない、凶悪極まるギザギザの歯で、ヴォゼを押しつぶそうと口を閉じていく。
「戯けが……ッ! この程度で、我を喰らえると思うでないぞッ!!」
そのひとつひとつが人間ほどもある大きさの歯を、ヴォゼが掴んで堪え忍ぶ。
すさまじい怪力。
まるで丸太を口に突っ込まれたサメのように、水竜は口を閉じられない。
水竜も水竜だが、ヴォゼもヴォゼだ。
「同志クロイツァーッ!! 無事かッ!?」
「はいッ!」
水竜の巨体の動きで水面が激しくうごめいていた。
歩くこともままならないマーガレッタ。
クロは自分から彼女の近くに移動していく。
「貴公、よくこの足場で動けるな……」
「訓練してたので」
水を盛大にかぶり、2人とも髪も服もびしょ濡れだった。
「いきなり突っ込むとは……まったく、冷や冷やさせるな」
「すみません……」
「しかし特級同士の仲間割れか……。だがこれで我々は逃げられるな」
マーガレッタは上を仰ぎ見る。
水竜は水面から長い体を出して、のたうち回るように動いていた。
その動きはくわえた獲物を振り回して引きちぎろうとしているかのようだ。
「……副団長、意見いいですか?」
「聞こう」
「もし、ヴォゼが生き残ったら終わりです。アイツはどこまでも俺らを追ってくる。きっと俺らが砦に戻ったら、すぐにヴォゼはそこまで追いかけてくる。多分、英雄クラスの人でしかアイツは倒せない」
エリクシアのこともあるが、ヴォゼの執念は尋常なものじゃない。
獲物を取り逃がしたとなったら必ず追跡してくるはずだ。
「……たしかにな。私ではアレは荷が重すぎる。かと言って、団長を砦に呼ぶには日数がかかりすぎる」
「でももし、水竜が生き残ったら」
「なるほど……水竜は、この滝壺から出ない可能性があるな」
「やっぱり、そう思いますか?」
「ああ。賭けだが、悪くはない」
マーガレッタがそう言うなら間違いない。
これはチャンスだ。
水竜はわざわざヴォゼを狙った。
偶然なんてものは信じない。
あるのは必然によって積み重ねられる現実だ。
どうしてヴォゼを狙ったのかは知るよしも無いが、ここで便乗しなくてヴォゼを倒せる方法があるだろうか。
いや、無い。
ここだ。
いまこの瞬間でしか、ヴォゼという魔物は倒せない。
「――なら俺、水竜に加勢してきます」
迷いは無い。
すぐに行動を開始する。
「な……ッ!? おい待ッ――」
制止の声は聞かない。
真っ直ぐ、走る。
これができるのは、自分だけだ。
不死である自分だけだ。
誰にも任せられないし、任したくない。
走る。
荒れる水面を走り、そして水竜の体に跳び乗って、走り登っていく。
こんなところで足を滑らせるマヌケな姿は晒さない。
幼いころからの訓練でバランス感覚だけは人一倍だ。
長く険しい道。
水竜の長大な体を、真っ直ぐ頭部に向かって走っていく。
水竜が暴れ狂う。
炎を纏ったヴォゼを咥えて、ひたすらに頭を振り回す。
ヴォゼの怪力はすさまじく、上歯を片手で掴み、下歯を足で踏みしめて耐えていた。
水竜の顎でもかみ砕けない。
「やはりヌルい。全盛期と比べてなんたる弱さか、水竜ヴォルトガノフよ」
じりじりと水竜の口元が炎で焦げていく。
ヴォゼが力任せに口をこじ開けていく。
「――――――――――――――――ッッ!?」
水竜が悲鳴を上げた。
これ以上持ちこたえられないのは傍目から見ても明らかだった。
「特級で最強だったキサマがここまで衰弱するとはな。かつてキサマに憧憬した者として悲しいぞ」
ヴォゼが剣槍を持った腕を振るう。
バキッと音が鳴る。
水竜の凶歯にヒビが入った。
「水竜ーーーーッッ!!」
クロ・クロイツァーが叫ぶ。
うねる水竜の体を伝って、ようやく頭部に辿り着いた。
間近にあった水竜の巨大な眼がこちらを見た。
「――――」
違和感、いや、既視感か。
妙なものを感じながら、クロは水竜から眼をそらした。
頭の鼻先から、くるりと身をひるがえし、口元に到着する。
「…………」
「…………」
歯にはさまれているヴォゼとにらみ合う。
ふいっと目を離して、半開きになっている水竜の口へ、手に持ったビンの中身を流し込んだ。
「水竜、飲み込めッ!!」
クロが水竜に向かって叫ぶ。
水竜もクロが何をしたいのか理解したのか、口のなかに溜まった液体をゴクンと飲み干した。
「……小僧ッ、何をした」
「すぐ分かるさ」
言った瞬間、水竜の体に変化が現れた。
純白に光輝く鱗が再生された。
水竜の様相が、一気に力強いものに変貌していく。
「よし、効いたな」
クロが水竜の口に入れたのは完全回復薬。
副団長からもらって、ポシェットのなかに大事にとっておいたものだ。
水竜は弱っていた。
強烈な飢餓によって弱体化した体ではヴォゼに敵わない。
これは賭けだった。
傷口にかければたちどころに治す薬。
飲めば気力体力を回復させ、一時的にだが万全の状態を取り戻すのがフルポーションだ。
水竜ほどの大きい体の生物に効くかどうか分からなかったという一点だけが不安要素だったが、どうやら杞憂だったようだ。
「――ぬッ、おおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!?」
力強くなった水竜。
その顎の力に、ヴォゼが苦悶の声を上げる。
開きかけていた水竜の口が、ヴォゼごと閉じられようとしていた。
このままヴォゼを倒し切れれば、残りは水竜だけ。
フルポーションの副作用は、しばらくすると体の倦怠感をまねく。
これだけ薬の効果が効いたのだ。
副作用も同様に効いてくれるはずだ。
その間に自分たちは逃げられる。
「ぐ……ッ、ぬぅううううッ!!!」
だが、しかし。
「……ウソだろ。これでも、ダメなのか……」
想像を絶する事態。
ヴォゼはふたたび水竜の口を押しとどめる。
「く、くっくっく」
そして、ヴォゼは嗤う。
凶悪な笑みだ。
「おもしろくなってきたぞ、小僧。そして水竜ヴォルトガノフ」
その絶対の自信は揺るがない。
なんという怪物か。
これでも、命に届かない。
ここまでしても、ヴォゼという怪物を倒すに至らない。
「さあ、闘おうぞ。まだまだ足りぬ。まだまだ我を愉しませよッ!!」
体の炎がさらに猛々しく燃え上がる。
力強さは桁違いに上がっていく。
回復しきった水竜の下顎をガンッと足で踏みしめ、上顎を片手で押し上げていく。
このままではヴォゼが水竜の口から逃れてしまう。
「水竜ッ、上を向けッ!!」
クロが叫ぶ。
これは共闘だ。
目指すものは同じだと、さっき水竜の眼を見て直感した。
アレは守る者の眼だった。
水竜が何を守ろうとしているのかは分からない。
けれど、直感した。
水竜は自分と同じなのだと。
どこか、心通ずるものがあるのだと。
「バカな……ッ! 小僧の言うことを……聞いただと!?」
ヴォゼが信じられないといった風におどろいた。
クロの指示通り、水竜が上を向いたのだ。
「……そこまで堕ちたか、ヴォルトガノフッ!! 魔物の恥さらしめがッ!!」
まさに激昂。
かつて己が憧憬した魔物が、人に命令され使われる。
その事実がヴォゼの感情を起爆した。
魔物としての本懐が、あるいはプライドが、ヴォゼの怒りを最大限に振り切れさせた。
その怒りはそれだけではおさまらない。
「小僧ッ、キサマも許さぬッ!! この世から塵も残さず滅殺してくれるわッ!!」
その相手、クロにまで激烈な感情をあらわにした。
「――いいや、死ぬのはお前だよ、ヴォゼ」
クロはヴォゼの腹を足で踏んで、体勢を整える。
ヴォゼは完全に無防備な状態だった。自分をかみ砕かんとする水竜の顎を押しとどめることで精一杯だった。
水竜のほうは、ここが勝負どころと知ったのか、ヴォゼを押さえ込むためだけに最大限の力を発揮していた。
「思い出したんだ。『薪割り』っていうのはさ、一撃じゃないんだ」
基本、数度打ち付けるのが薪割りのやり方だ。
ハイオークのガルガにトドメをさした最後の攻撃は、まさにそうだった。
だからこそ、倒し切れたのだ。
「やっと分かったよ。俺の技がどういうものか」
たとえば、魔法なら手順がある。
言霊で魔力を練って、魔法の名を詠んで発動させる工程のことだ。
そうしないと魔法は発動しない。
魔力も闘気も、同じエーテルと呼ばれるもの。
なら、エーテルを使う闘気の技も同じようなものだ。
たとえばマーガレッタの『斬空』。
アレは居合いの斬撃を闘気に乗せて飛ばす技。
であれば、一度鞘に収めて抜剣しないと出せない技になる。
それこそが、彼女のエーテル技の手順なのだ。
では、『薪割り』の手順とは――本質とは何か。
それは、一度斧を振るって切り込みを入れ、そこからさらに思い切り叩きつけて薪を割ることである。
クロ・クロイツァー唯一の武技である『薪割り』のそれは、もしかしなくとも、そういうことになる。
「こ……小僧ォォォッ!!」
イヤな予感がしたのか、ヴォゼが焦り気味の声を出した。
構わず、クロは半月斧を振り上げる。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
気合いを入れて、初撃を、
入れるッ!
「ぐ……ッ!!」
胸部を狙ったその一撃は致命傷には至らない。
当然だ。
まだ、これは真の威力ではないのだから。
『薪割り』の真価はここから発揮される。
「――もう、一発ッ!!」
振り下ろした半月斧をもう一度振り上げて、
二度目の強撃を――入れるッ!!
「ガ、ハッ……ッ!?」
ヴォゼが吐血する。
はじめて、大打撃を入れた。
「なんッ……だ、この威力は……ッ!?」
そして、さらにもう一度、
半月斧を叩き落とすッ!!
「――――ガッ!?」
渾身の一撃。
想像以上の威力。
ヴォゼの防御力を完全に打ち砕く。
炎の障壁と筋肉の壁を突き破り、半月斧の刃が心の臓まで達した。
「……お、おの……れッ」
これこそが、クロ・クロイツァーのオリジナル技に他ならない。
誰かのマネゴトではなく、自分自身の経験から編み出したもの。
――涓滴岩を穿つ――
叩けば叩くほど、攻撃をすればするほどに威力を増していく必殺の技。
連撃の極み。
意地の集大成。
諦めることを知らない愚か者だからこそ発現できた、大威力の剛技。
それが、クロ・クロイツァーの、
――戦技『薪割』である。
「……ガ、ハッ……ッ」
ヴォゼの炎が消える。
力が完全に抜けて踏ん張ることができなくなったヴォゼは、上を向いている水竜の口のなかへ落ちていく。
「――――――――」
「――――――――」
眼が合った。
ヴォゼの眼は血走り、その表情は屈辱と憤怒の色に染まっていた。
そして、
「クロ・クロイツァァァァァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ!!!」
はじめて、ヴォゼが名を呼んだ。
歯をむき出しにし、ありとあらゆる激情をまき散らす。
その怒髪天を衝くかのような強烈な雄叫びは、
水竜の口が閉じられるとともに、完全に聞こえなくなった。
◇ ◇ ◇
マーガレッタは間違いなくグレアロス砦のなかで最強の戦士である。
何人たりとも彼女に追随することはできず、武術に覚えがあろうがなかろうが、あらゆる大衆に憧憬される側の人間だ。
その彼女が、ただ戦況を見守るという愚を犯してしまったのは他でもない、クロ・クロイツァーが理由だった。
「……同志クロイツァー」
マーガレッタは、水竜の体を登っていったクロを眺めていた。
あの闘いに割って入ることもできた。
だが、しなかった。
彼の邪魔をしてはいけないと思ってしまったのだ。
特級の魔物を倒す――そんな茨の道を征く彼に、かつて憧れた英雄の姿を垣間見てしまったからだ。
「――まるで、エルドアールヴだ」
幻視してしまった。
死を怖れず、真っ直ぐに敵へと突っ込むその姿は、まさに伝説の英雄のそれだった。
「……どうしてあんなことができる」
特級の魔物と出遭い、自分がまず思ったのは逃げることだった。
仲間への危機が迫ってしまい闘ってはみたものの、あの怪物を倒そうなどと考えすらもしなかった。
だが、彼はそれを考え実行した。
あんなこと、やれと言われても自分では到底できやしない。
あの水竜の口に近づく?
あのオークに何度も立ち向かう?
あり得ない。
どうかしている。
「……グラデア王国で最も英雄に近いのは、私ではない」
幾度もの危機的状況をかいくぐり、特級の魔物を撃退した。
それはもはや、英雄と讃えられて然るべき偉業である。
「――クロ・クロイツァーだ」




