27 水底の怪物
すさまじい風切り音が耳を通り抜けていく。
景色が高速で上に流れていく。
ガケからの落下。
眼下には滝壺だ。
この高さから水に飛び込んで無事に済むわけがない。
「く……ッ」
ぐらぐらと揺さぶられる体。
普段は気にならない空気の抵抗がひどい。
気絶しているエリクシアへの負担を極力無くすため、クロは空中で向きを変える。
エリクシアと半月斧をしっかりと腕で抱え、体勢を整える。
背中を下に向ける。
一瞬のち、水面に叩きつけられた。
「――――ッッ!!」
水との衝突は想像以上のものだった。
全速力の馬車が背中に突っ込んできたようなイメージが、走馬燈のように流れた。
頭で理解できないほどの激痛は、それをどうにか理解するために、自分ができる想像のなかで最も近いシチュエーションが反射的に浮かんでしまうものらしい。
ドボンというよりは、バンッといった鈍い音。
高高度からの落下の衝撃で、背骨が粉々に砕けただろうことは容易に把握できた。
砕けた背骨が臓腑に突き刺さり、体全体が引き裂かれたかのような痛みだった。
不死に気絶は許されない。
それがいまは本当にありがたかった。
着水の勢いで、滝壺を潜水していく。
気絶しているエリクシアを手放さないよう、ギュッと抱きしめたままだ。
自分がうまく盾になれたことで、彼女に損傷はないようだ。
黒い霧が自動的にクロの体を纏っていく。
神経に多大な負荷をかけながら、高速で治癒していく。
その間、体を水に任せていたクロは見た。
「――――」
滝壺の水底にそれはいた。
巨大で長大。
真っ白な長い壁。
そうとしか表現できない怪物。
竜にはさまざまな種類がいると聞く。
トカゲに似たようなものもいるが、この水竜はどちらかというと蛇だ。
長大なその体は生き物として規格外だ。
デオレッサの滝壺に住まう水竜。
龍を川に例えるのはよく聞くが、なるほど実際に見るとその例えは的確だった。
あまりにも巨大すぎてもはや理解の外。
全長でいうなら100mは超えるかもしれない。
とぐろを巻くようにして、滝壺の主は水底に佇んでいた。
想像していた強大な竜とは少し違っていた。
見たままの感想は、骨と皮だけの大蛇。
鱗のほとんどがはがれ落ちていて、その皮膚はボロボロだった。
一見して、弱々しくみすぼらしい。
それが水竜だった。
「…………」
こちらに気づいたのか、水竜がゆっくりと頭を持ち上げた。
真っ赤な瞳は水底のなかでも不気味に輝いている。
弱々しいなんてとんでもない誤解だった。
その眼の輝きは戦意の高揚に満ちている。
先端がふたつに分れた舌をチロリと出した。
「――――――――ッッ」
喰われる。
そんな根源的な怖気を感じたクロは、水上を目指して足を動かす。
不死の力は背中に受けた損傷をすでに完治させていた。
エリクシアをしっかりと抱えてひたすらに水中を上に泳ぐ。
水底からは、水のなかでも響くほどの轟音が鳴っていた。
見ると、巻いていた体をほどいて動こうとしている水竜の姿があった。
あまりにも巨体すぎて、動くだけで水の流れを変えている。
シャレになっていない。
あんなもの、近づいただけでアウトだ。
「ガハッ、ハァ……ハァ……ッ」
水面から顔を出す。
滝壺は湖のように広かった。
めいっぱいに空気を取り込んで、近くに浮かんでいた木株に手をついた。
自分らと同じく、ガケ上から落ちたのだろう。
周囲にも無数の木片が浮かんでいる。
「よっ……とッ」
エリクシアを片手で持ち上げて、無理やり木株の上に乗せる。
水に落ちないよう、しっかりと体を支えてやる。
「ケホッ、ケホッ……」
エリクシアは気絶したままだったが、条件反射で気管に入った水を吐き出した。
ホッと胸をなで下ろす。
「見たか、小僧。
人に情を抱いた愚かな竜、その成れの果てを」
安堵したのもつかの間、獣の唸り声のようなヴォゼの言葉が耳に届いた。
こちらに背を向けて、木片の上に仁王立ちしている。
クロは水中の半月斧をあらためて握り直す。
「……人に、情? 何だ、水竜と知り合いか?」
「数百年前に、禁域で見かけたことがある程度だ。やつがこの滝壺に住まうようになったのは、ひとりの人間と親交を深めたせいだと聞いておる」
初耳だった。
「…………」
ヴォゼは水底を見つめ続けていた。
その後ろ姿はどこか物悲しい。
「滝壺に近づく者を鏖殺し尽くし、やがてエサもとれなくなり、それでもここを動こうとせなんだがゆえ、飢餓の果てに己が意識も誇りも忘れた憐れな竜」
そして滝壺に変化が訪れる。
滝の反対側、下流の方だ。
巨大な生物に下から押し上げられ、水が盛り上がっていく。
「く……ッ」
大きく波打つ水面。
滝の水流と盛り上がる水の勢いがぶつかり合い、大きな渦ができていく。
これでは木株を浮きに使って泳いだとしても逃げられない。
「良い位置に現れる。くくく、獲物を逃さぬ本能か。まだ闘いの本分は忘れていないらしい。だが……しかし」
ズズズズズ……ッ、と巨大極まる水竜の頭が姿を現した。
いや、もはや頭とは呼べないかもしれない。
これは頭蓋だ。
まるでミイラ。
白い皮が骨にへばりついて、筋肉などはない。
不死の自分が言えることではないが、これで生きているほうがおかしいというものだ。
魔物のおそるべき生命力に圧倒される。
「かつてのキサマを思い起こせばこそ、見るに堪えぬぞ水竜よ」
ヴォゼと水竜が対峙する。
特級と特級。
おそるべき魔物同士が相対する。
「事のついでに様子でも見るかと考えてはいたが、もはや我慢ならぬ。
キサマはここで死ね、水竜ヴォルトガノフ」
ヴォゼの言葉に応じるかのように、水竜が鎌首をもたげ、その巨大な口を大きく開く。
頬まで裂けた口端が、さらにさらに裂けていく。
「――――――――――――――――――――――――!!」
そして、天まで轟く叫声。
「ぐッ……おおおおッ!?」
クロが苦悶の声を上げる。
頭にガンガン響く音、音、音。
鼓膜が破れそうなほどの音の洪水だ。
もう水竜がどんな音を出しているのか理解もできない。
ただただ大きな音。
幾千幾億の動物が一斉に悲鳴を上げればこんな音になるだろうか。
これに似た音を出す大災害をクロは知っている。
大規模の竜巻だ。
天災と呼ばれるほどの怪物。
声だけで、これほどの衝撃。
自分とは遙かに隔絶した生物。
特級の魔物――水竜。
これは、ダメだ。
こいつもダメだ。
ヴォゼと同じ、尋常ならざる怪物だ。
「――――ッッ!!」
逃げるしかない。
とにかくここから離れないといけない。
下流には水竜。
上流は滝で行き止まり。
水のなかはダメだ、逃げ場がない。
幸い、滝壺にはアトラリア山脈側に岸がある。
絶壁じゃない、なだらかな斜面だ。
木々が生い茂り、姿を隠して逃げるにはちょうどいい。
エリクシアを乗せた木株を押して岸へ泳ごうとした、……が。
「逃がさぬぞ、小僧」
すぐさまそれに気づいたヴォゼ。
目の前に戦闘態勢に入った水竜がいるにもかかわらず、クロにも意識を絶やさないその戦況眼は戦慄ものだ。
そして、後ろを振り向いたクロはさらに驚愕する。
「ちょ……ッ」
ヴォゼが駆け寄ってくる。
眼を疑った。
立っていた木片から飛び降りたヴォゼは、そのまま水の上を走っているのだ。
冗談じゃない。
何だそれは。
「何でもアリかよ……ッ!!」
そしてそれと同時。
水竜も同じく、こちらに狙いを定めてきた。
巨大な叫声を上げながら、長い首をこちらに向けて伸ばしてくる。
「く……ッ」
絶体絶命。
身動きの取りづらい水のなか。
特級の魔物という怪物2体の追撃。
こんな状況で逃げるなんて天地が逆さまになったって不可能だ。
「動けぬよう首をはねておくか」
背後からヴォゼの声。
速すぎる。
こっちは泳いでるのに、向こうは水上を走ってきているのだ。
追いつかれて当たり前だ。
「――――ッ!!」
「水竜を仕留めるまで、そこで待っておれ」
ヴォゼが剣槍を振るう。
狙われたのは首。
水中で身動きが取れない。
避けることはできない。
グレイヴの刃が首に届く、その瞬間、
――光が見えた。
それはまるで雷だった。
輝かしいまでの軌跡は、人外の域。
グレイヴの剣閃よりもさらに速く。
尋常を逸脱した速度の突進は、破格の衝撃を伴っていた。
「……ぬッ、おおおッ!?」
抵抗する間もなく、ヴォゼは乱入者に吹っ飛ばされていた。
助けてくれた乱入者は、ふわりとその場で一回転。
眼を奪われる。
華やかな舞のようだった。
「――あら、ごめんあそばせ」
少女の声。
きらびやかな黄金の髪は、朝日を受けて光り輝いていた。
宙を舞った乱入者はそのまま、
「つい轢いちゃいましたわ」
すとん、と。
自分のあるべき場所に帰るかのように、クロの肩に座った。
「え、あ……」
信じられない。
ここに彼女が現れるなんて。
「捜しましたわよ、クロ・クロイツァー」
「は、班長ッ!」
どこまでも優雅で、どこまでも強い。
英雄の娘、シャルラッハ・アルグリロット。
それが乱入者の正体だった。
「ッ! 班長、危ないッ!」
クロが叫ぶ。
目線の先には、いまにも襲い来る水竜の姿があった。
「危ない? 何がですの?」
しかし、シャルラッハは動じていない。
むしろ勝ち誇った笑みさえしている。
なぜならそれは、彼女が自分の護衛に対して絶大な信頼をよせているからだ。
シャルラッハがここにいるなら、当然そこにいる。
「せいやッ!!」
凜々しい女性の声が、上空から聞こえた。
灰色の髪の人狼が、水竜の横っ面を殴りつけた。
「アヴリルさんッ!」
獣人のなかでも戦闘に特化した一族である人狼の一撃。
それを受けた水竜は倒れるようにして水中に沈んでいった。
「クロイツァー殿、ご無事でなによりです」
浮いている木片のひとつに四足獣のように着地したアヴリル・グロードハット。
「援軍に来ましたわんっ」
妙なテンションだった。
「……アヴリルさん?」
「あなたを見つけて喜んでるの。見て、しっぽをブンブン振ってますわ」
「……たまに思うんだけど、あの人って人狼じゃなく犬なんじゃない?」
しかもどちらかというと飼い犬だ。
「かわいいでしょ? アヴリルのああいうところが好きなの」
「で、班長。そろそろ俺の肩から降りてくれないかな」
肩の上に乗る猫のように、クロの肩の上に座っている器用なシャルラッハ。
おしりのやわらかい感触が伝わってきて正直なんだか恥ずかしい。
「そんなこと言っていいのかしら? まったく反省していないのね。そんなことじゃ庇ってあげないですわよ?」
シャルラッハは悪そうな笑みを浮かべていた。
「……え、何のこと?」
疑問を浮かべるクロに、この場に来た最後のひとりが答えた。
「職務放棄、独断専行、支給品紛失、エトセトラ。さて、いったい何から罰すればいいのか。まったく、困った問題児だな同志クロイツァー」
青みがかった髪と、青い瞳。
死力で強くなったいまのクロだからこそ、理解る。
その佇まいには隙という隙が一切ない。
並々ならぬエーテルを体に纏う、尋常ならざる天性の傑物。
最後に現れたのは、副団長マーガレッタ・スコールレインだった。
「ふ……副団長まで」
マーガレッタは水の上を普通に歩いてくる。
もしかしたらアレもエーテルを使った何かの技なのだろうか。
あとで教えてもらいたい。
「だがまぁ、見ず知らずの少女を助けるために、命をかけて闘っていた貴公の行動は称賛に値する」
チラリと木株の上に寝かせたエリクシアを見たマーガレッタ。
そして再びこちらへと視線を移し、
「よく生き延びてくれていたな、同志クロイツァー」
とてつもなく優しい声で、マーガレッタはそう言った。
「だから言ったでしょう? クロ・クロイツァーが死ぬはずないって」
肩に乗ったままのシャルラッハが頭を撫でてくる。
「生き残っていること自体が奇跡ですよ、本当に……」
言いながら、アヴリルが水に浮いた木片を使ってぴょんぴょんと跳んでくる。
何度も死んだなんてとてもじゃないけど言えない雰囲気だ。
「まったく、どんな星の下に生まれたら、こんな状況に巻き込まれるのやら」
マーガレッタが見る先には、水中から再び姿を現した水竜。
そして、怒りの形相でゆっくりと歩いてくるヴォゼだ。
「さて、水竜は分かるが、あのハイオークは何だ?」
「ヴォゼと名乗る禁域のオーク、あれも特級です」
簡潔に答える。
特級が2体いるというすさまじい状況だ。
「なるほど、これはまいったな……」
マーガレッタが苦い顔をした。
「愚問だが、何か作戦はあるか?」
「逃げるが勝ち、ですわ」
「シャルラッハさまに賛成です。我々の戦力ではアレらを相手取るには心許ないと思われます」
シャルラッハが即答し、アヴリルが同意する。
クロも同じく、無言で頷く。
「全員一致だな」
マーガレッタは騎士団のマントをはためかせ、副団長としての決定を下す。
「それでは諸君、逃げるとしようか」




