24 不死殺し
クロがいま闘っているこの森は、グレアロス砦から北東に進んだ場所にある。
グレアロス砦を含むこの地方一帯は、グラデア王国の東の果てに位置しており、『デルトリア辺境』と呼ばれていた。
デルトリア辺境の東に隣接するアトラリア山脈は、北は帝国ガレアロスタから南の海まで、大陸の南北を縦断している。
アトラリア山脈はあまりにも広大なため、地域ごとに区画分けされている。
デルトリア辺境付近の山脈は、そのままデルトリア連峰と呼ばれていた。
デルトリア連峰の山間高原には、巨大な湖があった。
山々に降った雨が湖に集い、それら膨大な量の水が、山の絶壁から勢いよく麓の森に落下していく。
その滝の名が、『デオレッサの滝』である。
見る者すべてを圧倒する、荘厳極まる大瀑布だ。
滝の絶壁から地上まで500mの高さがある。
とてつもない轟音とともに高高度から落下する水の勢いは、深く広い滝壺をつくり、数万年かあるいは数十万年の長き時間をかけて大地をけずり浸食して、麓の森に大渓谷を形成していた。
クロとハイオークのガルガが闘っていたあの広い川は、渓谷の本流から分かれた支流のひとつだった。
森のなか、そして平原などに張り巡らされた川は自然の恩恵として、デルトリア辺境に住む人々の生活の基盤となっていた。
かつてデオレッサの滝は冒険者たちの名所として大いに賑わっていた過去がある。
しかし、いまは誰1人としてデオレッサの滝には近づこうとしない。
なぜなら、滝壺には数百年前から特級の魔物『水竜』が住み着いてしまったからだ。
縄張り意識の強い水竜は、滝壺に近づかんとするすべての生命を滅殺する。
対象に区別は一切ない。
人類であろうが魔物であろうが関係ない。
水竜にとって自分の聖域に近づく者はすべて敵だった。
――その滝壺に、ヴォゼを落とす。
クロ・クロイツァーは、ヴォゼの猛攻を受けながら作戦を遂行していた。
じりじりと後退しながら、そしてヴォゼの攻撃に吹っ飛ばされながら。
少しずつ、少しずつ。
確実に、デオレッサの滝に近づいていた。
洞窟で荷物の整理をしていたときに、副団長からもらった地図を見ていた。
地形の把握は大事だと、騎士団で相当に仕込まれたからだ。
いまいる場所は、デオレッサの滝壺を囲むガケの上だった。
作戦の概要はこうだ。
まず、クロがヴォゼと闘いながらデオレッサの滝へと誘導する。
それまでは手加減を重ねたエリクシアの魔法でヴォゼを油断させ続ける。エリクシアの力がその程度だと印象づけさせる。
そして滝壺があるガケまで到着したら本気の魔法を使い、ヴォゼを滝壺に落とす。
そうなれば確実に、水竜はヴォゼを狙う。
特級の魔物同士で闘わせ、自分たちはその隙を見て逃走する、というのがクロの作戦だった。
正直言って、決して褒められたものではない作戦だった。
作戦の成功率なんて考えたくもない。
が、しかし。
もはやこれしかない。
クロとエリクシアが生きてこの森を脱出するには、これしかなかった。
「くはははははッ!!」
ヴォゼが頭につけた羽根飾りを揺らしながら、豪快に剣槍を振るう。
半月斧でその猛烈な攻撃を凌ぐ。
「く……ッ」
ちょっと武器がかすっただけなのに、腕が痺れるほどの衝撃。
血が滲むほどに斧の柄を握っていても、気を抜けば弾き飛ばされそうだ。
一合、二合と武器を合わせるごとに、どんどん力強くなっていくヴォゼの攻撃。
底が知れない。
まだまだ本当の力を出していないのが分かってしまう。
――ジズなら。
ふと、そんな考えがクロの頭によぎった。
ジズならヴォゼと対等に闘えるのだろうか、と。
副団長は、団長でなければジズは手に負えないと言っていた。
それはつまり、英雄クラスの力でなければジズには敵わないという意味だ。
ジズの強さは正直よく分からない。
ヴォゼと同じく底が知れない……というよりも、底なし沼を見ているような感覚といった方が正しいか。
淀みすぎて、底が深いのか浅いのかも分からない。
強いのは知っている。
騎士団の先輩たちを素手で殴り殺しかけたぐらいだ。
だが、それがどれほどのものなのか、クロには分からなかった。
自分があまりにも弱いせいで、理解が追いつかなかったのだ。
エーテルを知って、それを扱えるようになったいまの自分なら、ジズをこの目で見たら分かるだろうか。
彼の強さを。
「…………」
どうしても、生きて帰らなければならない。
知りたい。
ジズがどれほどの人間なのか。
理解したい。
――友と、心の底からそう呼べるかもしれないジズのことを。
「隙あり――だ。小僧」
クロがジズのことを考えていたのは一瞬だった。
それを、その一瞬の隙すらヴォゼは許さない。
「――あ……っ、えっ……?」
ヴォゼの剣槍が、クロの心臓を突き破る。
胸の表面から背中まで、完全に貫かれた。
不快な激痛が稲妻のように体中を駆け巡った。
「――――ッ、ハ……」
血液が頭に回らなくなってしまったせいか、目の前が真っ白になってしまった。
しかし、どういうわけか意識はしっかりと繋がっている。
気絶することは許されない。
痛みから逃げることはできない。
不死という名の拷問だった。
「あ……ッ、ガ……」
腕が力なく垂れ下がる。
立ってもいられない。
ヴォゼのグレイヴが支えになっている状態だった。
また串刺しか、と思った。
ただ痛みに悶える。
体が動かない。
心臓が止まったら体がまったく言うことを利かなくことを、身をもってはじめて知った。
胸の奥で炎が燃えているかのように、熱い。
「やはり心の臓を貫かれても死なぬか。さすが不死、といったところか」
2度。
この闘いでクロが致命傷を負わされた数だ。
最初は首の骨を折られ、そしていま、心臓を刺し貫かれた。
闘いがはじまってから実に5分弱。
その間に、クロ・クロイツァーは本来なら2度死んでいるということだ。
「打ち合うごとに強くなる。だが、まだまだ」
言って、ヴォゼはクロに刺さったグレイヴを強引に抜く。
赤い鮮血が刃からしたたり落ちる。
同時に、クロが地面へと倒れ込む。
その瞬間、風を切り裂くような音が聞こえた。
エリクシアの魔法が飛ぶ音だ。
「小癪、である」
向かってくる氷の矢を難なく弾くヴォゼ。
ガラスの割れる音みたいな破砕音がクロの耳に届いた。
まったくダメージを与えられない魔法の攻撃。
けれどそれは、クロが復活するのに十分な時間を稼いでくれていた。
「――――ッ」
視界が戻ってくる。
エリクシアの氷の魔法が砕け散って、その結晶がキラキラと輝いていた。
「ガハッ……ッ、ハァ……ハァ……」
息ができた。
黒い霧が自分の心臓を覆っている。
不死の力の副次効果。
エーテルを使い、傷ついた箇所が自動的に治されていく。
神経が繋がっていくそのたびに、ケガを負ったときよりも遙かに耐えがたい苦痛が襲いかかってくる。
「……ゴフッ、ハァ……ハァ……ッ」
血と共に荒い息をはきながら立ち上がる。
それでも半月斧は手放さない。
次の攻撃に備えようとクロは即座に構えた。
「…………」
しかし、ヴォゼの攻撃の手は止まっていた。
じっとこちらを眺めていた。
「キサマ、いま、何を食った」
「――――」
バレた。
まずい、まずい。これはまずい。
「……パンの切れ端か?」
ヴォゼの黄金の目がこちらを覗く。
なんという観察眼か。
事前に食料をエリクシアからもらっていたのだ。
エーテル切れが起こらないよう、いつでも補給できるように。
エリクシアの魔法でヴォゼの目をそらし、その隙に補給をしていたのだ。
それが、気づかれた。
「なぜ、いま、食った?」
「…………」
おそるべき重圧の言葉。
冷や汗が出る。
質問されるだけで、これほどまでに恐怖したのは生まれてはじめてだ。
「わざわざ闘いの最中に食う必要が、あったのか?」
「……」
「……腹が減ったからか? 否、キサマはそこまで阿呆な人間ではない。ならば、その行動に、何か意味があるな?」
「…………」
まずい。
コイツ、ヤバい。
何がオークは愚かでいい、だ。
死力のことをわざわざ教えてくれていたのも、そういうことか。
――観察していたのだ。
不自然な動きはないか、視線、一挙手一投足、ありとあらゆる情報を探していたのだ、ヴォゼは。
闘いのなかで、あるいは会話のなかで。
不死を、殺すために。
「キサマ、慌てて食ったな? まるで、『何か』を怖れておるかのように」
考えてみれば当たり前だ。
不死と闘うとはどういうことか。
そもそも、闘うとはどういうことか。
それは、相手を殺すことだ。
ヴォゼは探していたのだ。
不死の殺し方を。
「――エーテルの補給か」
「……ッ」
ニタリ、とヴォゼが笑った。
疑問が自分のなかで解け、確信に至ったかのような表情だ。
「キサマは人類に珍しく、負傷を怖れておらぬ。不死だからか、それとも生来のものなのかは知らぬが、欠片ほども怖れておらぬ。我らオークと通ずるものがあるほどだ。だがキサマ――エーテル切れを何よりも怖れておるな?」
「…………ッ」
「不死が死を怖れるはずもない。ならば、エーテル切れのその先に、不死が怖れる『何か』があるな?」
ぞくり、とした。
不死の弱点。
永劫無限の生き地獄。
自分の心の奥底にあった『怖れ』。
そんな心のなかの小さな機微に、気づかれた。
「成るぞ――『不死殺し』」
ヴォゼが低い声で笑う。
その極悪な笑みを見て、冷や汗がさらに滲む。
「最奥を守る『最古の六体』ですら不可能であった『不死殺し』を――我が成す、か」
「…………え?」
その言葉にクロはどこかイビツなものを感じた。
いま何か、ヴォゼはおかしなことを言わなかったか。
「くっくっく……なんだそれは」
しかしそれを問いただす間もなく、ヴォゼが凶悪な笑みを浮かべる。
「なんだ、それは。考えただけで、滾るではないか」
ヴォゼが剣槍を構えた。
深く、深く腰をかがめる。
「この高揚を抑えられぬ。悪いな小僧。少し、本気で征くぞ。少々体が消し飛んでしまっても、構うまい?」
「…………ッ」
激烈なプレッシャーを感じて、クロが身構える。
何かとてつもない攻撃が、来る。
「戦技――」
ヴォゼの体を覆う闘気が爆裂する。
その灼熱色の肌が、さらに朱く朱く染まっていく。
まるで、噴火する寸前の火山を見ているかのようだ。
フラッシュバックしたのは、炎を纏ったガルガが突進してきたあの光景だ。
ガルガのそれとまったく同じ仕草。
しかし、段違いの威圧。
「――『裂空』ッ!!」
ヴォゼのそれは予想と違い、突進ではなかった。
あのおそるべき速さの突進をする踏み込みで、剣槍を横に薙ぎ払ったのだ。
技の極地。
戦乱から編み出された超絶技巧。
魔法とは対極の位置にある夢想の境地。
鍛錬の行き着いた果て。
極限の至り。
それらこそが、『戦技』と称される。
ヴォゼが放ったそれは、
たとえるならシャルラッハの『雷光』による踏み込みから、副団長の『斬空』を放つような、そんな技だった。
戦技と戦技の重ね技。
技の極地をさらに磨き上げ、遙か高みへと至り、
極天に昇華した神業だ。
空を斬る、どころではない。
まるで、空を裂くかのような剣閃。
文字通りの、薙ぎ払い。
目に見える闘気の怒濤が、斬の衝撃となって押し寄せてくる。
「――――」
それを見てクロが感じたのは、恐怖でも脅威でもなかった。
感じたのは。
心の奥底から湧き上がるほどの――『憧憬』。
魂の芯を揺さぶられるかのような、憧れの感情だった。
――魅せられた。
ヴォゼの戦技が、あまりにも尋常を逸脱した武の極みだったから。
尊いと、美しいと、
そう思ってしまった。
これほどの、これだけの力を見せつけられて、心が沸き立たないはずがない。
ほしい。
渇望する。
どうしても、ほしい。
焦がれるほどに。
このとてつもない力が、ほしい。
――求めていた『力』はこれだ――
そう悟った次の瞬間、
背後の木々と共に、クロ・クロイツァーの上半身が、この世から消し飛んだ。




