18 躍進の兆し
「無理だ」
開口一番、クロはそう言った。
グリモアにかけられた不死の呪いを治すには、魔境アトラリアへ行ってグリモアそのものを消し去らなくてはならない。
しかし、それは不可能だ。
「……どうして、ですか」
エリクシアはすがるような目で見つめてくる。
「まず、俺はグレアロス騎士団の人間だ。勝手な行動は許されない」
騎士団の兵として地位はないし、名誉もない。
雑兵の自分が辞職したとしても、騎士団にとっては何の損失もないだろう。
だが、たとえ予備兵といっても、グレアロスの紋章を背負う身として簡単にそれを捨てることなんてできない。
シャルラッハ班のみんなにも迷惑をかけることになってしまう。
誓ったのだ。
必ず、正規兵となってシャルラッハやアヴリルに追いつくのだと。
口に出して、言ったのだ。
約束を違えるわけにはいかない。
「そしてもうひとつ。これが決定的なんだけど……仮に、事情を話して騎士団から許可をもらったとしても、俺程度の力じゃアトラリア山脈を越えることすらできない。『最奥』なんて、とてもじゃないけど行けるわけがない」
「…………」
エリクシアは黙ったまま話を聞いている。
半ば諦めたような表情だった。
きっと、彼女は盲目的に信じてくれていたのだろう。
クロ・クロイツァーは一緒に来てくれるのだと。
悪魔が引き起こす災いをこの世から消し去る。
その想いを伝えたなら、たとえ困難な道のりでも臆さず自分と共にアトラリアを目指してくれる。共感してくれる。
そう思っていたのだろう。
――そのとおりだ。
「〝今のまま〟じゃ、このふたりでアトラリアに行くなんて無理だ」
「……え?」
「『仲間』がもっと必要だ。それもアトラリアに行けるほどの、英雄……とまでは言わないけど、強い力を持った仲間がいる」
この世の破滅と悲劇を食い止めたいと言ったエリクシア。
彼女は何がなんでもアトラリアに行こうとするだろう。
その揺るぎない決意のほどは、彼女の瞳を見たことで理解できた。
彼女を見捨てられるわけがない。
ここで自分が手を引いてしまったら、彼女はどうなるだろうか。
エリクシアはグリモアを持つ悪魔だ。
断言できる。
彼女の正体を知れば、絶対に誰も手を貸さない。
だからこそ、彼女はずっと独りだったのだ。
そして彼女なら、いよいよとなったらたった独りでもアトラリアに向かおうとするだろう。
間違いなく、志半ばにして死ぬ。
そんなエリクシアを見過ごすことなんて絶対できない。
仲間を増やすには、説得する人間が必要だ。
彼女が危険な悪魔じゃないのだと、証明する人間が必要なのだ。
それが――自分だ。
うまくやれるかどうかは自信がないけれど。
「え……だ、だって君……今、騎士団の人間だから無理だって」
「騎士団からは必ず許可をもらう。多分、すんなりといく。俺、あんまり必要とされてないからね」
自嘲気味に言った。
しかし言葉とは裏腹に、これは相当な決断だった。
予備兵とはいえ、騎士団に入ったからには正当な理由がない限り勝手な行動はできない。
騎士団を抜けるか、それとも長期休暇をとるか。
選択はこの2つだ。
どちらにせよ、慎重に理由を考えなくてはならない。
交渉を間違えれば、最悪、逃亡兵として追われる立場になるかもしれないからだ。
できれば休暇という形にしたい。
一度騎士団を抜けてしまえば二度と戻ることはできない。
そうなると、シャルラッハとの約束を守れなくなる。
それは困る。
「君をアトラリアに連れて行って、グリモアを消し去って、不死を治して、それから俺はまた騎士団に戻る。それが多分、最善だ」
シャルラッハには悪いが、約束は後回しにさせてもらうことになる。
必ず正規兵になって彼女に追いつく。
その約束は絶対に守る。
すぐに追いつくって言ったのは守れそうにないけど、そこはシャルラッハの我慢強さに期待したい。
「……じゃあ、わたしと一緒に、来てくれるん……ですか?」
「行くよ。君ひとりじゃ危なっかしくて見てられない。それに、君とアトラリアに行かなきゃ不死は治らない、そうでしょ?」
苦難の道。
茨の道だ。
これまでアトラリアの最奥に到達できた者はひとりもいない。
あのエルドアールヴさえも。
超えなくてはならない。
憧れの人を。
最古の英雄を。
歴代の英雄たちを。
誰よりも、これまであったどんな英雄譚よりも険しい道。
最難関のこの道を往く。
無理だと誰もが言うだろう。
不可能だと誰もが笑うだろう。
それでも、やらなきゃいけない。
理由ができてしまった。
なんとしてもやり遂げなくてはならない。
かつて誰もできなかった偉業を成し遂げる。
この、エリクシアという悪魔の少女と共に。
「これから、よろしく」
「ありがとう……。えっと……」
エリクシアはお礼を言うと共に、何かを思い返したように、上目遣いで見てくる。
その仕草を見て察した。
そういえばそうだった。
衝撃的なことの連続で、大切なことを忘れていた。
「ごめん、自己紹介が遅れた。俺の名前は、クロ・クロイツァーっていうんだ」
彼女はすでに名乗っていたのに、こちらはまだだった。
あらためて、手を出した。
「よろしく、エリクシア」
「はい。こちらこそよろしくお願いします……クロ」
エリクシアも手を出して、がっしりと握り合う。
それは先ほどまでとは違い、何かにすがるようなものじゃない。
協力関係を結ぶための握手。
信頼の証だった。
◇ ◇ ◇
しばらくして、クロは所持品の整理をしていた。
完全回復薬を鉄の小箱にしまい込み、それをポシェットの中に入れていく。
外套は見当たらない。
ハイオークとの闘いで失くしてしまったようだ。
新しく手に入れたのはハイオークの武器だった半月斧。
今ある武器はこれだけだ。
相当に重い。
これをよくエリクシアのか細い腕で運べたものだ。
豪奢な装飾が施された半月斧。
クロの身長よりも長い柄は鉄製だ。布も巻いていないので、ギュッと握ると手が痛い。
先端から伸びる刃は分厚く、鎌の刃よりも深く長くこうべを垂れている。
これはどちらかと言えば、先端で刺すよりも剣のように斬ることを目的としたものだ。
「…………」
クロは確かめるように刃の部分を指でなぞっていく。
この半月斧に串刺しにされたことを思い出す。
あのハイオークの性格の悪さがよくわかった。
突き刺すことに特化していないこの斧で突き刺されたのはつまり、じわじわとなぶり殺しにするためだ。
自分を痛めつけるためだけに腹を突き刺して持ち上げたのだ、あのハイオークは。
その慢心のおかげで反撃のチャンスができたのだが……。
ハイオークの最期を思い返すと戦士としては尊敬に値するが、友達にはなれそうもなかったなと、そんな益体もないことを考えた。
そこでピタリと手を止めて、クロはエリクシアの方を見ながら言った。
「ひとつだけ、どうしても気になってるんだけどさ」
「はい、なんでしょう」
エリクシアは、水筒の水で空になったナベを簡単に濯いでいた。
「エルドアールヴって知ってる?」
「その名を知らない人はレリティアにいないと思いますよ。最古の英雄がどうかしましたか?」
エリクシアの手が止まることはない。
慣れた手つきで濡れたナベをタオルで拭き取り、リュックの中に入れていく。
「……エルドアールヴも、不死なの?」
最古の英雄。
文字通り、古くからいる英雄の名だ。
その伝説のはじまりは2000年前にまで遡る。
それからずっと、現代まで活躍し続けている生ける伝説。
エルドアールヴは不死のエルフだと、そんな噂がある。
「いいえ」
エリクシアは即答した。
確信している言い方だった。
「この世界で不死なのは君だけです。これは間違いないです」
「……どうしてわかる?」
エリクシアが手を止めて、こちらに向き直った。
「……」
「……」
ほんの少しだけの沈黙。
ふたりは互いの目と目を見つめ合う。
まず、目を閉じてその沈黙から逃れたのはエリクシアだった。
「――グリモア、来て」
エリクシアがそう言うと、彼女の背後で浮かんでいたグリモアが、音もなく彼女の前に移動した。
「……それ、言うこと聞くんだ」
「そうですね。一応わたし、所有者ですし」
「グリモアに意思があるの?」
「いえ、そういう生物的な意思はありません。外側から働きかけてくるものに対して反応する程度のものです」
「なるほど……」
「ちょっと見てもらえますか?」
言われて、エリクシアの横に移動した。
はじめてグリモアを間近で見た。
開かれたページからは黒いモヤのようなものが出ている。
ぞくりとする感覚だった。
「……何の文字だ、これ」
モヤの間から見える文字は、まったく知らない言語のものだったので読むことはできなかった。
「古代アトラリア語らしいですよ」
「読めるの?」
「悪魔ですから」
エリクシアが冗談めいて言ったが、所有者というぐらいだ、本当に読めるのだろう。
グリモアから何らかの力が働いて、解読できるようになったと言われてもおかしくない。
何しろ、グリモア自体が未知のものなのだ。
「――不死の項に」
エリクシアがグリモアに告げると、ページがパラパラと勝手にめくられはじめた。
どれぐらいのページ数だろうか。
悪魔の写本と呼ばれるほど巨大な本だ。
辞書よりも分厚い。
おそらく数千ページはあるだろう。
「ここです。これが、不死の項です」
ピタリと止まった見開きのページには、違和感があった。
あるはずのものが、ない。
「ここだけ黒いモヤが、ない?」
くっきりとページの文字が見える。
どんな内容が書かれてあるのかはわからないが、巨大なページにびっしりと隙間なく文字が書かれてあった。
「そうです。わたしはそれを『災い』と呼んでいますが、それが君の中に入ったから、この見開きにはモヤがないんです。
グリモアは、人の何らかの感情に反応して力を与える。そのためにはグリモアがその人物を気に入る必要があるらしく、なぜ君に不死の力を与えたのかは、わたしにはわかりません。ですが……」
エリクシアが、とん、と指でクロの胸を押した。
「グリモアに『災いの力』を与えられたのは、この2000年間で、君だけです。君だけが、グリモアに認められた唯一の人間なんです」
そう言って、エリクシアはグリモアのページをめくっていく。
次のページ、その次のページ。
どのページにも、黒いモヤがあった。
「ま、待ってくれ……。まさか、その黒いモヤがぜんぶ、不死の力なのか?」
「いいえ。不死の力があったのはさっきの見開きのページ……つまり、黒いモヤがなかったところだけです。『災いの力』はすべて種類が違うんです。そのどれもが、不死という常識外の力と同じレベルの災いなんです」
「ぜんぶ……? そのひとつひとつのページのどれもが、災い……?」
卒倒しそうになった。
数千ページもあるグリモア。
それらすべてが、別種の『災い』なのだとエリクシアは言ったのだ。
「わたしはグリモアに書かれてあるほとんどの『災い』の内容を読んでいます。ただのひとつも被っている力はありませんでした。
ですので、エルドアールヴが不死というのはまずあり得ないのです。それは君だけの力ですから」
「……たとえば、不老不死の霊薬を飲んだ、とかは?」
「アトラリアに辿り着いていないのに、ですか?」
「そうだった……」
エルドアールヴがはじめて史実に出てきたのは、このレリティアでのことだ。
2000年前にアトラリアが滅び、魔物が出現しはじめてからのこと。
エルドアールヴは冒険者じゃない。
彼はレリティアにある、とあるエルフの里の守護神だ。
彼がアトラリアに向かったという記述は読んだことがない。
「エルドアールヴは不死じゃなく、何人ものエルフの戦士が世代交代しながら伝説を作り続けている……つまり、『英雄』たちの総称なのか」
「だと、思います」
「……そっか」
それはそれで構わない。
目指したものはエルドアールヴだ。
その正体がどうであれ、憧れ焦がれたものには変わりない。
「うん、スッキリしたよ。変なこと聞いてごめん。……ん? これは?」
開かれていたグリモアのページを見たクロが、妙なところに気づいた。
まるごと破られているページがある。
人が破ったかのような跡だ。
「これは、ですね……」
「――――待った」
訊いた方のクロが会話を中断した。
悪寒が走った。
この感覚は、覚えがある。
「クロ……?」
クロの雰囲気が一変したのを見て、エリクシアが首をかしげた。
「……エリクシア。どうしてこの洞窟に入った? なんとなく想像はつくけど」
小さな声で、エリクシアに問いかけた。
問われた彼女は少々とまどいながら答える。
「魔物がここまでは追ってこないから、ですけど……。どうかしました?」
「さっきから聞こえてたのはやっぱり、デオレッサの滝の音だな?」
この森で、滝といえばそこしかない。
先ほど荷物の整理をしていたときに、副団長から受け取っていた地図を眺めて思ったことだ。
「はい。騒がなければ、水竜の怒りは買いませんので」
「……つまりアレか、それでも――ここまで追ってくる魔物がいたとしたら、それは水竜のことを怖くも何とも思っていないヤツってことか」
「……え? いえ、あの水竜は特別に強い個体ですから、この周辺に魔物が近づいてくるなんて、そんなことあり得ないと思いますが……」
「そうか……じゃあ、あり得ないことが起こったみたいだな」
バッと立ち上がる。
手に持っていた半月斧を構えた。
「え?」
エリクシアが目に見えて動揺した。
が、クロは意に介さない。
洞窟の入り口を睨み、座ったままのエリクシアを背後にして守るように立った。
そして次の瞬間――空気を切り裂く鋭い音が鳴った。
「な……ッ」
おどろきの声はエリクシア。
洞窟の入り口から、矢が飛んできたのだ。
「……ッ、何かしらの攻撃が来るとは思ってたけど、そう来るか……」
飛来してきた矢は、クロの左肩に突き刺さっていた。
「クロ……ッ!?」
「痛ェ……ッ、不死でも痛みは感じるんだな……」
ゆっくり、しかし力強く矢を引き抜く。
刺さった瞬間以上の痛みが稲妻のように走った。
鋭く研がれた鏃には、赤黒くきらめく自分の血がついていた。
肩から出た血がじわっと服を汚した。
痛みをこらえて、ポイッと焚き火の中に矢を投げ捨てた。
「……エリクシアは下がって。外に魔物がいる」
言った途端、外の薄暗い闇の中から魔物が姿を現した。
綠肌の凶悪な相貌の魔物が、3体。
オークだ。
一番奥にいるのは、さっきの矢を放ったオークだろう、弓矢を持っていた。
前方に出てきた2体は、剣と槍をそれぞれ構えていた。
「そんな、どうして魔物が……」
「コソコソと出方をうかがってたわりには、やる気満々みたいだな……」
洞窟の入り口を見事に塞がれた。
こちら側、洞窟の奥はどうなっているのかわからないが、背を向けて逃げたら矢を撃ってくるに違いない。
闘るしかない。
「クロ、大丈夫ですか?」
「痛いけど問題ない。それより、来る……ッ」
近接武器を持った2体のオークが吼えながらこちらへ向かってくる。
弓矢を持ったオークは新しい矢をつがえていた。
「ガアアアアアアアアアアッ!」
まず特攻してきたのは剣のオークだった。
分厚い筋肉から繰り出される、力任せの縦斬りだ。
こんなものを食らったらただじゃ済まない。
たしか、前に訓練でオークと闘わされたときも同じように剣を持ったオークだった。あのときは敵の攻撃をガードしたら吹っ飛ばされて、そのまま蹴り飛ばされて悶絶して戦闘不能になってしまった。
力比べでは明らかに不利。
だが、このオークの攻撃は少しも怖くない。
ハイオークのジャンプ攻撃の方が力強く、怖かった。
「ふッ!」
振り下ろされる剣の軌道をズラすように、半月斧の柄で受け流す。
剣のオークは体勢が崩れてよろめいた。
――あれ?
続いて、槍を持ったオークが突進の勢いのまま突き刺しの攻撃。
ハイオークの突進を思い出して、背筋が凍る。
そのせいか、異常なまでの反応ができた。
「――ッ!!」
半月斧を振り上げて、心臓を狙ってきたオークの槍をかち上げる。
『薪割り』で培った特訓の成果。
『闘気』による動きの補正。
さまざまな要因が重なったのか、オークの槍は無残にも折れて、穂先がくるくると勢いよく宙を舞った。
――どういうことだ?
振り上げた半月斧を、そのまま槍のオークめがけて袈裟斬りに振り下ろす。決定的な致命傷を与えた手応えが、半月斧越しに感じられた。
――なぜ、オークと真っ向から闘えている?
そのまま半月斧を浮かせて、体ごと一回転。
剣を持ったオークへと、重量と遠心力を最大限に利用した回転斬り。
すさまじい勢いを乗せたその攻撃は、オークの体を横に両断した。
まさに瞬殺だった。
2体のオークは崩れ落ちるように倒れる。
――ちょっと前まではまったく敵わなかったのに。
視界の端で、最後の1体が弓を放ったのが見えた。
空気を切り裂きながら、矢がこちらめがけて飛んでくる。
「――――」
体は即座に反応した。
思考はおどろくほど研ぎ澄まされている。
――この矢より、あの炎を纏ったハイオークの突進の方が、速かった。
パシッと。
自分の顔面を狙ってきたオークの矢を、手掴みした。
手のひらが切れたが、そんなことよりも曲芸染みたことができた自分におどろいた。
明らかに、強くなっている。
闘気を使えるようになったからか?
それとも不死になったからなのか?
理由はわからない。
わからないが、いまはそんなことを考えている場合じゃない。
「…………」
弓を持ったオークを睨む。
オークは矢を放ったままの格好で固まっていた。
まさか矢を掴まれるとは夢にも思っていなかったのだろう。
弓矢のオークは入り口の近くにいて、ここからじゃ少し遠い。
接近するため、足を踏み込もうとしたそのとき、
「クロ、交代です。魔法を撃ちます」
エリクシアの声が耳に入る。
すぐにその意味を理解し、言われるままに後方に移動する。
「――『かの姫君は嘆き悲しみ泣き叫ぶ。海よりも深い愛情は、その重さがゆえにあらゆる者を傷つける。其が力は絶大なりて、独り氷の墓標に立ち尽くす』――」
闘気に似た何かを言葉で練りながら入り口側へ向かって走るエリクシア。
言葉で練っているのは魔力だ。
魔法使いが魔法を撃つために必要な儀式。
エリクシアは悪魔の写本をその手に持っていた。
彼女の周囲には、幾何学模様で描かれた魔法陣が3つ宙に浮いている。
青白く光輝く半透明の魔法陣は、歯車のように回転していた。
「『氷姫の――」
クロとエリクシアの位置が入れ替わる。
彼女とすれ違う。
一瞬だけ目と目が合った。
勇ましい、と思った。
同時に、儚いとも感じた。
そんな、相反する感情を刺激するような瞳だった。
「――抱擁』ッ!!」
エリクシアが手をオークに向けたその瞬間。
パキン、と。
氷を水に落としたような音が、洞窟内に響き渡った。
周囲の景色が一変する。
ここはもはや極寒の世界だ。
滝の音はもう聞こえない。
洞窟は静寂に包まれてしまっていた。
「な……」
眼前に突然出現したのは巨大な氷。
かなり広さがあった洞窟の入り口部分全域に広がった氷塊。
天井にまで氷が張っている。
「なんて威力だ……」
洞窟の入り口ごと、オークを凍りづけにしたのだ。
氷の中にいるオークは、ぴくりともしない。
当然、即死だ。
「この森一帯を凍らせることもできますが、さすがに手加減しました」
誇ることはしない。
エリクシアは淡々と事実だけを語る。
魔法に疎いクロでもわかる。
これは尋常じゃない。
ヘタすると、『黄昏の大魔導』と呼ばれる英雄の魔法に匹敵する。
「……エリクシア、君はいったい……」
か弱い少女だとばかり思っていた。
どこがだ。
あんな短時間で練った魔法がこの威力だ。
勘違いしていた。
このエリクシアという少女は、強い。
想像を絶するほどに。
「言いませんでしたか? わたし、グリモアの悪魔なんですよ」
クロ・クロイツァーはいまごろになって思い知った。
グリモアの悪魔。
その意味を。
それがどういうことなのかを。
これが、悪魔の写本の力。
かつて在った大国をたったひとりで滅ぼした悪魔と同じ存在が、エリクシアだ。
禁忌の書。
これは人が持っていてはいけないものだ。
理解する。
これは本当に、この世に在ってはならないものだ。
自分はもしかしたら、とんでもない娘と手を組んでしまったのかもしれない。




