16 不死の少年と悪魔の少女
「時間ぴったりでしたね」
焚き火の明かりが洞窟内をゆらゆらと照らしている。
クロの目の前には、悪魔の写本を背後に従えた白銀の髪をした少女。
信じられない光景だった。
まるで、おとぎ話の世界に迷いこんだかのような気分だった。
「……時間?」
「このグリモア、陽が沈むと勝手に出てきてしまうんです。自分の意思じゃどうにもならないので普段は邪魔なんですが、今回だけはこれに感謝です。タイミングはバッチリでした。そのおかげで、わたしの話を信じてくれたようですし」
いつの間にか太陽はなくなり、夕から夜へと変わっていた。
「……そうだね。そこにソレがあるなら、君は悪魔なんだろう」
疑いようがない。
異常極まる雰囲気に溢れた巨大な本、グリモア。
本のページの間から、黒い光が漏れていた。
圧倒される。
少女の背後に浮いているこの本から、すさまじい力の波動を感じる。
本物だ。
間違いない。
これを見ていると、その圧力に押しつぶされてしまいそうだ。
人類が決して手にしてはいけない類いの力なのだと、グリモアを見ただけで察することができた。
そしてそれを持つ少女は――悪魔だ。
「君が、悪魔……」
それは人類を滅ぼすもの。
人の絶望と慟哭を好むもの。
悪魔の写本という災厄の種を持ち、審判者のごとく人類に牙を向ける存在。
魔物よりもおそろしい、災厄の権化。
魔物は人を殺す。
魔境アトラリアからやってくる明確な敵。
魔物に殺されてしまった人は数多い。
しかしそれと比べても、悪魔がもたらした災いのほうが被害は甚大だった。
悪魔によって、過去にいくつもの『国』が滅んでいる。
人類が歴史を記録するようになったこの2000年間で、億人単位の被害が出ている。
突然に現われて、聖人も悪人も関係なく人を破滅に追いやり、そして忽然と消える。
あとに残るのは惨劇や悲劇のみ。
人類の歴史をみても、たった1体の生物が関係した生物災害としては他に例がない。
――というのが、悪魔に関する通説だ。
人類の悪魔への認識は、イメージとしては幽霊という概念が最も近い。
夜の墓地は怖いものだ。
暗闇から亡霊が突然出てくるかもしれない。
怨霊に取り憑かれるかもしれない。
その存在を信じているいないに関係なく、自分が見たわけでも、実際に損害を被ったわけでもないのに、なぜか大多数の人間が多かれ少なかれ怖れてしまう。
集団妄想というやつだ。
それも、世界レベルの。
理性ではわかっているのに止められない感情の波。
人から人へ恐怖が伝染する集団心理。
未知への恐怖。
その存在があやふやだからこそ、怖いのだ。
疫病、事故、天災。
都合の悪いことは、すべて悪魔のせいだとされていた。
だからこそ、億単位なんていう被害者数だと言われている。
しかし大昔とは違い、近世ではそれらの出来事にはちゃんとした事象原因があると知られるようになったが、それでも、レリティアに住む人々の意識は簡単には覆らない。
悪魔という存在は幽霊とは違い、明確にその存在があって、実際に被害があるからこそタチが悪い。
かつてレリティアにあった大国が、悪魔からの大打撃で滅亡したこともある。
最上級の魔物と比べても遜色ない危険度だ。
人類にとって、絶対的な敵。
それが悪魔なのだ。
悪魔とは決して関わってはいけない。
街の子供だって知っている。
クロも同じように、悪魔に対して良い感情なんて抱いていない。
「継嗣……って言ったな。
悪魔は一体だけじゃないってことなのか?」
エリクシアと名乗った少女に問う。
いまだに右手は彼女に握られたままだ。
「……過去に『何人』もいた、と言えばそうです。
悪魔とはグリモアの所有者のことを言います。それが受け継がれていって、今、わたしの手元にある。つまり、悪魔と呼ばれる存在は、現時点でわたしだけです」
少女は淡々と答えていく。
「――君も、わたしを攻撃しますか?」
「……え」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「グリモアを見てわかるとおり、わたしは君たち人類が敵視している悪魔です。君はそれを知ってしまった。
君も……わたしを敵として、殺そうとしますか?」
彼女の真紅の瞳は揺れていた。
繋がった手は震えている。
「…………」
彼女のその手は、とても、小さく感じた。
か細く、頼りなく、小さな手。
「そこにある君の武器で、わたしを斬り殺しますか?
あのハイオークのように」
促されて、近くの地面を見る。
そこにはたしかに斧が置いてあった。
彼女が悪魔であるならば、言い伝えのとおり凶悪な生物であるならば、たしかに敵として倒さなければならない。
騎士団の人間として。
いや、人類の一員として、闘わなくてはならない。
悪魔は――敵だ。
「……ひとつ、いいかな?」
クロのその言葉に「はい」と頷く少女。
実はずっと気になっていた。
そこにある斧について、彼女は勘違いをしている。
「それ、俺の武器じゃない」
「……?」
言ったことの意味がわからなかったのか、少女は小首をかしげる仕草をした。
白銀の髪がはらりと肩に落ちた。
「俺と一緒に運んでくれたんだと思うから、すごく言いにくいんだけどさ……その武器、ハイオークのなんだ……」
「…………」
少女が「君の武器」と言ってきたのは、見間違いようもない、ハイオークが使っていた『半月斧』だったのだ。
自分の得物である『片手斧』はどこにも見当たらない。
「えっ……だって君、あの斧を使ってませんでした?」
「使ってただけだね。たまたま偶然、最後にトドメを刺したのがアレってだけだよ。俺の武器じゃない」
「…………」
「わざとなのかなって思ってたけど、素で間違えたんだ……?」
少女は下を向いていた。
わなわなと震えている。さっきまでとは違う震え方だ。
「わ……」
「わ?」
少女が顔をあげて、バッとこちらを向く。
「……わたしを攻撃しますか? そのハイオークの斧で」
「しれっと言い直した!?」
少女は赤面していた。
どうやら間違えたのが相当に恥ずかしかったらしい。
それも当然か。あれだけ真剣に会話していたのに、実は間違えて武器を運んでしまっていたのだと突然指摘されたらそうなる。
話の切り出し方もちょっと心配りが足りなかったかもしれない。
「ちょっと待って、俺の武器はどこに?」
「……今頃、川に流されてるんじゃないですか?」
「……うそ、だろ? けっこう愛着あったんだけど……」
ショックだった。
あの片手斧は、騎士団の初給料でグレアロス砦内にある武器屋で買ったものだ。
自分が独り立ちしてはじめて購入したものだったのだ。
「し、知りませんよ。わたしのせいみたいに言わないでください。だいたい、自分の武器なら腕が斬り飛ばされてもちゃんと持っててください。そうしたら間違えることもなかったんですから」
けっこう無茶なことを言う。
「……まぁ、しょうがないか……あれだけの闘いだったもんな。命があるだけマシってことか」
「君は不死だから、死にませんけどね」
そういえばそんなことを言っていた。
自分は、不死になってしまったのだと。
「……それはまだちょっと実感がないね。でも本当にそうなんだろうね……。お腹の傷もなくなってるし、右手も再生? してるし……」
「かなり気色悪かったですよ? 腕が生えてきたんですから。思わず吐きそうになりました」
「もうちょっと言い方ってもんがあるだろ!?」
そんなことを言いながら、白銀の少女はしっかりとその気色悪かったという手を握りしめている。
もう彼女の手の震えは一切ない。
「それにしても」
くすくすと笑ってしまう。
なんというか、すごく安心してしまった。
「また笑いました。なにがそんなにおかしいのですか? わたし、そんなに変ですか……?」
眉根を下げて、ちょっと困ったような表情をする少女。
これが、悪魔だと?
これがあの、悪名高いグリモアの悪魔か?
「ああ、やっぱりそうだ」
「……なにがですか?」
「やっぱり俺には、君が危険なものには見えない。普通の女の子にしか、見えない」
クロは正直に、本音を口にした。
だって、どう見ても人類を滅ぼそうとしているなんて思えない。
実際にグリモアがそこにある。
悪魔ということは間違いない真実なのだろう。
けれど、ここにいるのはただの女の子なのだと、そう思ってしまう。
「エリクシア、だっけ?」
「……はい」
白銀の少女エリクシア。
自分を悪魔だと名乗った少女。
「君は、悪魔は……人類を滅ぼそうとしているのか?」
真っ直ぐにエリクシアを見る。
握られたままの手を、優しく握り返した。
きっと、自分の望む答えが返ってくる。
そう、確信して。
「……いいえ」
「だと思ったよ」
優しく笑いかける。
自分の正体を告げることを怖がっていた少女が邪悪な存在だなんて思えない。
ここにいるのは臆病で繊細な、か弱い女の子だ。
「なら俺は、君を敵だなんて思えない」
「……」
「君の正体が悪魔だろうがなんだろうが、俺をここまで運んでくれて介抱してくれてたのは事実だ。そんな恩人に、攻撃なんてできるわけがない」
クロのそんな言葉に、エリクシアは、
「…………」
ぽろり、と。
大粒の涙を零した。
泣き声をあげず、ただ静かに、涙を流す。
だからこそ、より痛ましい泣き顔だった。
「――――」
その表情を見た途端。
クロに激情が走った。
こんな泣き方があってたまるか、と。
それは憤激に近い、悔しさだった。
「……」
顔を歪めることもなく、くちびるを噛みしめることもない。
こんな顔をして泣くなんて、これまでこの娘はどんな人生を送ってきたのだ。
グリモアの悪魔、エリクシア。
普通の人間と変わりない姿で、年端もいかない女の子だ。
いったい、彼女は今までどうやって生きてきたのか。
――君もわたしを攻撃しますか?
街の人々がグリモアを持つ彼女を見たらどういう行動に出るか。
決まってる。
魔物を見たときと同じだ。
誰も彼女に味方しない。
転んで地べたに倒れても、誰も彼女に手を差し伸べない。
きっと、その手を踏みつけて喜んでトドメを刺そうとするだろう。
ハイオークから追われていたとき、彼女はたった独りで逃げていた。
魔物からも、人からも逃げ続ける。
それがきっと彼女の人生だったのだ。
目に映るすべてのものが自分を忌み嫌い、攻撃してくる。
これほどおそろしいことが他にあるだろうか。
エリクシアという少女は、たった一人、孤独に生きてきたのだ。
誰にも頼れない。
誰かの胸を借りて泣くことだって、できない。
必死に一人で生きて、弱音を我慢し続けて、我慢し過ぎて、泣き方すらも忘れてしまったのが、このエリクシアという少女だ。
エリクシアの顔をはじめて見たとき、人形のようだと思った。
けれどそれは、人形のように心を殺していないと耐えられない、そんな過酷な人生を歩んできたということだ。
「…………」
クロには、泣いている女の子を慰める器用さなんて持ち合わせていない。
けれど、自然と手が彼女の目元にいった。
「……ごめん」
そっと、エリクシアの目元を拭った。
けれど、次から次へと涙は流れてくる。
いったい、どうしたらこの涙を止められるのか。
「……どうして君が、謝るんです?」
「……わからない」
「……」
涙を拭うクロの手に、エリクシアが頬を寄せた。
感触を確かめるように彼女が目を閉じた。
「君はやっぱり……変な人ですね」
閉じたまぶたから、またひとつ、涙が零れた。
その涙を止められないのが悔しかった。
――どうしたら、この少女の心の底からの笑顔が見られるだろう。
クロ・クロイツァーは自然とそう思った。
エリクシア・ローゼンハートの力になってあげたいのだと。
英雄エルドアールヴなら、こんなときどうするだろうか。
いくら考えても、答えは出なかった。
焚き火の明かりだけが照らしている薄暗い洞窟で、不死の少年と悪魔の少女は、世界から隠れるかのように寄り添い合う。
そんな2人を見守っているかのように、悪魔の写本は静かに浮かんでいた。




