80 ただの無力な人間の少女エリクシア VS 不死不屈の怪物【最も古いおとぎ話の英雄】クロ・クロイツァー
火山灰の大雨が、ざぁざぁと大地に降りしきる。
その少し温かい雨は、エリクシアとクロを、傷ついたふたりを濡らしていく。
大雨の白煙は、世界からゆっくりとふたりを隠していく。
クロを抱きしめるエリクシアの腕は傷だらけだった。
始原魔法『神雷』の全力を撃ち放ち、クロの『二重断空』とぶつかり合わせたその衝撃は想像以上に凄まじいものだった。
エリクシアの細い指は、魔法の反動で何本も折れてしまっている。
爪も剥がれてしまい指先は血塗れで、もう残っている爪を数える方が速いぐらいに痛々しい。
体も服もボロボロで、文字通り、満身創痍の様相を呈していた。
クロの方も言わずもがな、ふたりは互いに傷つき疲弊し、限界を超えてここにいる。
——立て。
クロから感じ取れる心の声。
それはいまだに自分自身を奮い立たせようと叱咤の声を上げている。
「いいえ、もう……立たなくていいんです」
エリクシアはクロの体をより強く抱きしめる。
背中に回した腕に力を込めて、自分の体にぎゅっと抱き寄せる。
クロは力無いまま、エリクシアに寄りかかるように、なすがままになっている。
——立って、闘うんだ。
消えない闘志は果てしなく、跪いてなお途切れることはない。
これこそまさに英雄の姿に相応しい。
しかし、エリクシアはそれをこそ、否定する。
「もう、闘わなくていいんです……ッ」
もう傷つかなくていい。
もう苦しまなくていい。
もう、泣かなくてもいい。
英雄になんてならなくてもいいのだと、エリクシアは伝えるのだ。
しかし、そんな彼女の甘い戯言に、彼が同意するはずもない。
それを分かっていながら、エリクシアはそれでもクロに伝えたかった。
「……逃げたって、いいんですよ」
そういう選択肢だってあるのだ。
エルドアールヴは、人間ひとりではとても抱えきれない重荷を背負ってしまった。しかし彼は不死だからこそ、それでもと茨の道を歩み続けてきてしまった。
真面目に愚直にひたむきに、ただひたすらに、自分の痛み苦しみを、嘆きや絶望を無視して我慢して、そうして歩み続けた二千年は、いったいどれほどの栄光だっただろう。
「耐えられないぐらいにつらいなら、もういいじゃないですか。クロは十分がんばりましたよ」
そう、彼は誰よりもがんばった。
がんばれてしまった。
不死の地獄の苦しみを、彼はここまで耐えてしまった。
それこそが悲劇だった。
——やめてくれ。
クロから感じ取れた心の声は、明らかな拒絶だった。
エリクシアはそのことに少しの寂しさを感じながら、それでも彼を抱く腕の力は緩めない。
——邪魔するな。
クロはまだ、自分が誰と対峙しているのかすら分かっていない。いまだに目の前の人間を敵だと思っているのだろう。
エリクシアの抱擁から逃れようと、いまも必死に動こうとしている。
しかし、エーテル切れの身体は僅かしか動けない。エリクシアの、少女の非力な腕すら振りほどけない。
——離してくれ。
「……いやです。もう、離しません……ッ!」
——どいてくれ。
「どきません……ッ」
心の声の反応程度とはいえ、ほんの少しだけ会話が通じたのを、エリクシアは感じた。
もうクロ・クロイツァーの意識が復活するのも時間の問題だ。
——苦しいのなら我慢できる。
クロが言う、心の声で。
——痛みなら堪えられる。
不死だから、決して死ぬことはないから、自分が我慢しさえすれば何とかなる。そうやって、彼はずっとがんばってきたのだ。
——絶望なら乗り越えられる。
いくつもの苦難逆境を乗り越えて、世界に希望を照らし続けた。
不屈の力で立ち上がり続けた。
——でも、優しいのだけは耐えられない。
だからこそ、それこそが彼にとって毒になる。
優しく抱きしめられることは、耳元で柔らかく囁かれることは、不死の身ですら耐えられない猛毒だったのだ。
——溺れてしまう、甘えてしまう、堕ちてしまう。
英雄だからこそ、そんなものに誘惑されてしまうわけにはいかない。
なのに、ただただ、ひたすらの優しさを求めてしまう。
——頼むから、優しくしないでくれ。
自身の心の内をさらけ出してしまっている。
絶対に知られてはいけない、エルドアールヴの弱点を。
「クロ……」
自分に向けられる優しさというものが弱点になってしまうほど、自分に厳しく生きてきた。
そんなクロに、エリクシアの胸が締め付けられる。流れてきてしまう涙に引っかかって、うまく言葉が出てこない。
「クロは……どうしてそこまでして闘うんですか」
ようやく出てきた言葉は、そんなささやかな、しかし当然の疑問だった。
クロ・クロイツァーがここまでする理由。
彼のなにがここまでさせるのか。
——誓ったんだ。
エリクシアは質問の答えが返ってくるとは思っていなかった。出てきた問いかけは、クロのことを思い悩んだ末、自然と勝手に口に出たものだったのだ。
当然、答えなんて期待はしていなかった。
しかし、クロの心の声はエリクシアの問いに答えた。真面目で素直な彼の性格の、本質ゆえのことだろう。
「……誓った? な、なにをですか」
エリクシアはクロを抱き寄せたまま、その顔を覗き込む。
——あの子を守るって誓った。
泣き顔なのに、強い顔だった。
覚悟が決まっている顔というのは、まさしくこういう表情なのだろう。
「…………」
見とれた。
エリクシアは、頬が触れあう至近距離にあるクロのその顔から、目が離せなかった。まるで時間が止まったかのような不思議な錯覚が、エリクシアを包んだ。
男性にこんな言葉が相応しいのかは分からなかったが、エリクシアはこの瞬間、美しい、と確かに感じた。
——エリクシアを助けるんだ。
突然、自分の名前を呼ばれてエリクシアは驚いた。
しかし、その言葉の意味、強さに衝撃を受けた。
——だから、闘う。負けられない、諦めない、絶対に。
エリクシアが悪魔の運命から解き放たれるために。
彼は意地でもやり遂げようとするのだろう。
「……クロ」
こんなにも思ってくれていた。
出会ってすぐの約束を覚えてくれていた。
それをうれしいと感じてしまったことに、エリクシアは自分自身を強く恥じた。
その約束のせいで、彼はずっと嘆き苦しんでいるのだから。
「もう、いいんですよ。もう諦めて、大丈夫です。だから……」
だからこそ、彼に諦めてもらいたい。
もうこれ以上、苦しんでほしくない。
彼ががんばる理由が自分のせいなら尚更だ。
「もう、やめましょう……クロ」
——やめない、負けない、諦めない。
エリクシアは確信する。
これは対決だ。
これは決戦だ。
武と武を争うものではないけれど、これはクロとの真剣勝負。
雌雄を決する、心と心のぶつけ合いだ。
負けられない、絶対に。
いまここで、絶対に、エルドアールヴを倒すのだ。
「苦しいのなら、痛いのなら、逃げたっていいんです」
——そんなわけにはいかない。そんなことは許されない。
「楽な方に甘えたっていいんです。泣きたいなら、泣いてもいいんですよ」
——他の人ならそれでもいい。でも、俺だけは絶対に許されない。
「いいえ、いいんですよ、クロ」
朝が来て、『悪魔の写本』の力は消えた。
エリクシア自身の魔力も、これまでの闘いでほとんど使い果たしてしまっている。身体もボロボロで、魔力も残り僅かしかない。
だから、言葉を飾る必要なんてなかった。
いまのエリクシアは本当の意味で、ただの少女だった。
エリクシアにできたことは、ただ自分の想いを伝えることだけだった。
なんの力もない、無力で非力なただの人間の少女には、そんなことしかできなかった。
いや、むしろそれだけでよかったのだろう。
それこそが唯一、不屈の英雄の心を挫く、最強の矛たり得るのだから。
——だって俺は、俺には命の価値なんてない、いくらでも無茶をするべき、
「だってクロは、君も他のみんなと同じ、かけがえのない、たったひとりの」
——『不死の怪物』なんだから。
「——『人間』なんですから!!!」
エリクシアが泣きながら言い放ったその言葉は、ようやく、彼の魂の芯にまで響いた。
◇ ◇ ◇
頭が真っ白になった。
衝撃だった。
この二千年、幾度となく強敵と闘ってきた。いまのはその中で、最も強烈な一撃だった。
これまで受けたどんな攻撃よりも、いまの言葉が一番に強く、不死身の魂を貫いた。
砕かれた。
英雄としての、エルドアールヴとしての何かを、打ち砕かれた。
折れた。
心が、身体が。
負けたのだ、英雄エルドアールヴが。
「エリクシア……」
この目の前の、ボロボロの少女に。




