76 狂悪鳴動
薄暗い部屋の中に、ひとりの女性がいた。
小さなフラスコを慎重に揺らし、何らかの実験をしている。
オレンジ色の長い髪は、手入れをしていないのか酷く乱れている。
黒いドレスの上に白衣を羽織っているが、片方の肩がズレてしまっている。服をきちんと着るという意識がないのだろう。
黒縁のメガネをしており、その目の下には大きなクマが刻まれている。いったいどれだけ寝ていなければこうなるのだろうか。
身なりを気にするなんて言葉は、この女性はおよそ興味がない。
あるのは実験、研究のことだけだ。
それ以外はどうでもいい。
研究がうまくいくのなら、人の命ですらどうでもいい。
何千人、何万人、たとえこの世の人間すべてが死んでしまっても構わない。
論理を外れた学者。
命を弄ぶ博士。
あるいは、希代の狂人。
それが彼女――ヨハンナ・ファウストである。
「…………」
そんな彼女が、今行っている実験の手を止めて、よそ見をしていた。
あり得ない出来事である。
ファウスト博士なら、たとえ大地震がきても実験を止めようとはしない。
そんな彼女が、よそ見をしているのである。
「…………」
眉根を寄せて、怒りの表情を隠そうともしていない。
ただ一点、大きなフラスコの中を見ていた。
「私言ったよね?」
ひとりだったはずの部屋で、ファウスト博士が口を開く。
「アンタの身体、予備がもうないから死ぬなって、私ちゃんと言ったよね?」
その大きなフラスコを蹴り割った。
基本的には温厚な性格をしているファウスト博士だが、さすがの彼女も目の前のこの人物の行動には激昂の色を隠せない。
何度言っても聞きやしない。
「ジズ、いい加減にしなさいよ!? ついさっきこのホムンクルスが完成してなかったら、アンタまた赤ん坊からやり直しだったのよ!? 分かってるの!? 普通の『転生』しちゃったら、アンタがアンタとしての自我が覚醒するまでに5年はかかっちゃうのよ!?」
「ゲハハハ」
フラスコの中から、悪意の塊のような笑い。
先ほどまでホムンクルスという名の肉の塊だったそれが、前世からの自我を持ち、意識を保ち、記憶を引き継ぎ、力を持ち越した【転生者】となっていた。
クロ・クロイツァーとは別の、もうひとつの『不死』。
すなわち【虚死者】――――ジズである。
「いやぁ、まさかぼくも殺されるとは思ってなくてね」
前回の最後は、『英雄』アレクサンダー・アルグリロットに首を刎ねられ、その後に『英雄』シュライヴ・ゼルファーによって額を撃ち抜かれて殺されてしまったのだ。
「まったく……すぐにホムンクルスを造らなくちゃ。素材もぜんぜん無いっていうのに!」
ホムンクルスの素材は生物の死体である。
人間か魔物の死体が必要なのだ。
「ああ、ああ。それなら、ここにあるよ」
文字通り生まれたまま……裸のままのジズが、自分の影に手を突っ込んだ。
魔法『影の収納』である。
この魔法でなら、『転生』したとしてもそのまま荷物を持ち運び出来てしまうのだ。
「はい、お土産」
「…………」
ズズズズ……ッと、ジズが影からソレを取り出すにつれて、ファウスト博士の警戒度が跳ね上がっていく。
「アンタ……」
ギリッ、と歯噛みする。
信じられない、と。
「……アンタとうとうやったわね?」
「ん?」
「それ、アルトゥールじゃない……ッ! アンタ、あれだけ仲間だなんだって言いながら、結局殺したのね!? いつかやるとは思ってたけど……ッ!!」
そう、ジズが取り出したのは『英雄』アルトゥール・クラウゼヴィッツの遺体だった。
「え? いやいや違う違う。ぼくじゃないよ。アルが空の上で死んでたからさ、拾ってきたんだよ」
たとえそうだとしても、ファウスト博士のショックは計り知れない。
なぜなら、ジズがアルトゥールの遺体を『影の収納』に入れていたからだ。
この魔法は生物は入れられないという条件がある。
遺体はもうただの肉の塊であって、生物ではない。死んだ身体なら、たしかに『影の収納』に入れられるかもしれない。
理屈ではそうだが、この衝撃は凄まじかった。
人でなし、悪党、狂人と罵られてきたファウスト博士だが、おそらく、同じことをやれと言われても出来ない。
どうしても、それが生物であったという認識が覆せないため、『影の収納』に入れることが出来ないのだ。
ファウスト博士も何度か試したことはある。干し肉などの食材ならいけたが、さすがに死体そのまま原形を保ったままだと不可能だった。動物でそれなのだ。
人ならもう、たとえどんな姿であっても『影の収納』に入れることは出来なかった。遺骨ですら不可能だったのだから。
理屈では可能なはずのそれが不可能だった。これから導き出された答えは、この魔法の条件が使用者の心の持ちようなのだということを示していた。
ファウスト博士では出来なくて、ジズなら出来た。
つまりジズは、仲間と呼んで仲良くしていたアルトゥールの遺体を、ただの物として扱っているのだ。
心の奥底から。
弁明するが――これを弁明と言っていいのかどうか分からないが――ファウスト博士は正真正銘の外道である。
殺人ぐらいなら平気で犯す。
殺した人間の数なんていちいち覚えていられないぐらいには殺してきた。
人が悪だと言うようなことは平然とやってきた。
死体をいじるなんてことは息をするように出来てしまう。
生きた人間を実験動物として使うことだってあった。
犯罪者としてなら超がつくほど優秀だ。
そんな狂人のファウスト博士ですら、出来ないことをやってのけてしまう。
ジズは怪物だ。
「アンタ本当に信じらんないわね……」
「え、じゃあアルの身体は使わないの?」
ジズがアルトゥールの遺体を指差す。
使わないと答えれば間違いなく捨てるのだろう。彼にとっては遺体なんてどうでもいいものだから。
「使うに決まってるじゃない何言ってんのバカじゃないの? こんな機会は二度とないわ。『英雄』の死体をホムンクルスの素材に使えるんだもの」
まぁ、それはそれ。
これはこれ。
せっかくの強力な死体である。ありがたく使わせてもらう、とファウスト博士が凶悪な笑みを浮かべる。
「うふふふ、スゴいわ。これだけの素体……とんでもない身体が出来るわよ」
アルトゥールの遺体を調べるファウスト博士は、控えめに言っても狂っていた。
「そんなに喜んでくれるのなら、あとのふたりの『英雄』も殺して持ってくればよかったね。いや、殺すのはムリかな? 返り討ちにされちゃうね」
「ふたり……誰?」
「金髪の速い人と、弓使う人」
「アレクサンダー・アルグリロットとシュライヴ・ゼルファーか。なるほどね、そりゃアンタでも殺されちゃうわ」
ファウスト博士はそう言いながら、アルトゥールの遺体の状態を熱心に見ていた。
やがて、ひととおり遺体の品質を確かめた彼女は、ふと、何とはなしにジズに目をやった。
彼は一点を見つめてボーッとしていた。
「…………?」
ファウスト博士からしたら、このジズの行動は意外だった。
普段のジズはお喋りだ。話したくない時でも、いやむしろ話したくない時にこそ喋りかけてくる。
実験体を前にしたファウスト博士は集中を途切れさせられるのを酷く嫌う。つまり、普段のジズならまず間違いなくずっと喋りかけてきていたはずだった。
それに慣れてしまっていたからこそ、今、ジズがボーッとしていることに違和感を覚えたのだ。
「…………」
ジズはあらぬところを眺めている。
何を考えているのか一切読み取れない丸い魚眼は、時間が経つにつれて赤みを増していく。
「…………ッッ」
瞬間、ファウスト博士は背筋が凍るかのような悪寒を感じた。
身震いがする、ぞわっとした感覚。
喉元に刃を当て擦られているかのような錯覚。
重苦しい、とてつもなく強大な何かに押し潰されているかのような恐怖。
「…………」
怖気の走るこの原因は、尋常ならざる殺気。
ジズの殺気だ。
決して自分に向けて放たれているわけではないということは、ファウスト博士も分かっている。
それに、ジズのこれはただの感情の発露だ。攻撃ではない。その証拠に、ジズの身体から滲むように溢れている邪悪なエーテルは、ただ彼の周囲をゆらゆらと蠢いているだけだ。
それなのに、この重圧。
ジズという怪物が、どれほど常識外のものなのかがよく分かる。
ジズがそこにいるだけで、何かを考えて思うだけで、その近くにいる人間は精神が汚染されて発狂してしまう。
ファウスト博士は常人ではない。ジズの汚染に対して耐性は強い。だが、ここまでの汚染は初めての経験だった。これ以上は危うい。ファウスト博士がそう思うほどに、今のジズは危険だった。
つまりそれほど、ジズの感情が強く顕われてしまっているということなのだろう。
「……ねぇ、ジズ」
「…………」
さすがのファウスト博士も耐えきれなくなったのか、ジズを諫めようとした。
しかし、ジズはただ一点を見つめて黙っている。ファウスト博士の声は聞こえていない。
「……ジズッ!!」
叫ぶような大声を出す。
それにようやく気づいたのか、ジズがファウスト博士の方を向く。何を考えているのか分からない丸い魚眼が、いつもより不気味に感じた。
「ん? どうしたんだい?」
いつもの飄々とした喋り方だ。
ただひとつだけ、その強大極まりない殺気だけが、いつもと違う。
「アンタいい加減にしなさいよ! そんな殺気出されたら怖くて作業が出来ないじゃない! 私の手を見なさいよ、怖くて震えちゃってるじゃない!」
ガタガタガタと、震える手を見せつけるようにジズの前に出す。
「ああ、ああ。ごめんよぉ」
ようやく自分が殺気を出していることに気づいたのか、ジズが強大な殺気を引っ込めた。
「……死ぬ前に、向こうで何かあったの?」
「いやぁ」
ボリボリと頭を掻いて、ジズが言う。
「三十年……ぐらいかな? アルと計画をして、長い間がんばって色々準備をしてさ。ようやくクロを絶望に落とし込めるってところになって、最後の最後で邪魔されてさ。なんだろうなぁ……」
ジズの赤い魚眼が、ひたすらに凶悪に光る。
あのまま、クロの仲間を殺しておけば確実にクロは絶望に堕ちていったはずだった。
だが、結局は邪魔されて今に至る。
ジズはもう気づいている。
あのエルドアールヴが、あの強かったクロが、クロの仲間に倒されていることを。
ジズは本能的に、クロの敗北を感じ取っているのだ。
直感した。
ジズの計画は大失敗に終わったということを。
「ぼく、イライラしてるんだと思う。ここまで本気だったこと無かったからさぁ。あーあ……もうちょっとだったのになぁ」
「……そういえば、エルドアールヴを絶望させて、アンタ一体何がやりたかったの?」
ファウスト博士が何となく、聞いた。
そこまでは計画として聞いてはいたが、その先は聞かされていない。
「内緒」
刃物のように口端を歪めてジズが笑った。
「あっそ」
たいして気にしていない風のファウスト博士。
聞いたとしても、どうせろくでもないことだ。この目の前の男は、悪徳の化身なのだから。
「あれ? どこかに行くの?」
「…………」
ファウスト博士が『影の収納』に荷物を入れているところを見て、ジズが言った。
大きく長いため息をわざとらしくついて、ファウスト博士が怒鳴った。
「アンタがとんでもない殺気出したから、引っ越しの準備してるんじゃない! 今のは絶対気づかれたわ! アンタの殺気はヘタしたら国中に届いちゃうんだから!」
今の殺気は、ボルゼニカ大火山にいた英雄たちにも気取られたはずだ。何しろ、彼らに向かって放たれた殺気なのだから。
ジズは以前、グラデア王国の王都に居ながらにして、アトラリア山脈にいた特級の魔物……怪鳥を呼び寄せたことがある。
王都、つまりグラデア王国の中心からアトラリア山脈という王国の端まで気配を届かせることが出来るのだ。
「早く逃げなきゃ殺されちゃうわ」
「そんなに急がなくても大丈夫なんじゃない?」
「言っておくけれど、『英雄』アレクサンダー・アルグリロットの機動力はとんでもないわよ? 次の瞬間には部屋の外にいるかもしれないわ」
「……あー」
ジズは少し考えて、それが大げさな話じゃないことを思い出した。
「まったく……最初は王都に居たのに、ボルゼニカ地方のアルトゥールの城まで行って、そこから逃げてこのアジトまで来たのに、また逃げないといけないなんて。『英雄』に追われちゃうなら、いっそのことグラデア王国を出た方が安全かも……」
ちなみに、このアジトはボルゼニカ地方、アルトゥールの管轄のとある廃村にある。
ここの村人は全員リビングデッドにしてあったため、ファウスト博士が緊急避難場所のアジトとして研究室を勝手に作っていたのだ。
「ああ、どうせ逃げるならいい場所があるよ」
「どこ?」
ファウスト博士が怪訝な表情で聞いた。
「――『聖国』アルア」
ジズが笑う。
「これから、楽しいことが起こるからね」
ファウスト博士がその意味に気づく。
ジズが楽しいなんて言うなら、普通じゃないはずだ。
「それってもしかして、アルトゥールが言ってた例の【鬼】関連?」
アルトゥールが『予知』の詩編で見た、人類を滅ぼす【鬼】。
ジズが楽しいと思うなんて、今はそれぐらいしかないだろう。
「うん」
「そう。それなら、大量に死体が手に入りそうね」
邪悪な気配がより強くなる。
ここには外道しかいない。
類は友を呼ぶ。
ジズと共に歩みを進めるファウスト博士もまた、狂気の怪物だった。
 




