69 ギガス・グリモア【第六悪魔】エリクシア VS グリモア詩編【希望の災い】エルドアールヴ
ボルゼニカ大火山の噴火で溶岩が周囲に流れている。
氷の魔法で火山を丸ごと凍らせて、一気に平地に流れ込んで来る火砕流は何とか封じている。
氷山が溶岩の中に突き立っている異常な光景が広がっていた。
これがグリモアの悪魔、全力の魔法だ。
尋常ならざる魔法の力。
世界を滅ぼし得る力。
自分を律していないと、この強大極まりない力に呑まれてしまう。そんな予感があったから、エリクシアはずっとこの力を抑えていた。
「はっはっ……ふっふっ」
エリクシアは走る。
シャルラッハ達に比べたら取るに足らない速さだが、自分の持てる全力で走った。
そして持久力も無い。
ほんのちょっとの距離を走っただけで、もう汗だくで息を切らしている。
グリモアの魔法は強力だったが、エリクシアの体は普通の人間の少女そのものだ。シャルラッハやアヴリルのように、闘気のエーテルで身体を強化する術なんて持っていない。
魔法使いはあくまで魔法使いであり、戦士ではないのだ。義父のように魔法使いでありながら肉弾戦も出来る器用な人も極稀にはいるが、エリクシアはそんな才能はなかった。
「くっ……ハァハァ」
クロと闘うと決意したものの、その戦場に行くまでに時間がかかる。
なんて情けない、とエリクシアは心の中で自虐する。
走って走って、もう足がよろよろになって息も絶え絶えになった頃。
「大丈夫ですか? エリクシア殿」
巨大な狼のような姿になったアヴリルが目の前にやってきた。
アヴリルはボロボロだった。真っ白になっていた体毛は、周囲の溶岩の熱で焦げたのか、黒く煤けている。
裂けた口元からは真っ赤な血が流れている。
どうやらエルドアールヴの攻撃にやられて、ここまで吹っ飛ばされていたようだ。
相当な激戦が続いているようだ。
爆発のような衝撃が、ずっと向こうで連続で起こっている。シャルラッハ達が今まさに闘っているのだろう。
「ハァハァ……アヴリルさん」
「エリクシア殿、そんなに急いでどうしましたか?
ここから先は、危険ですよ?」
ゼェハァと息を荒げながら、エリクシアが膝に手をついた。
普通の人間の少女なら倒れ込んでしまうだろうに、しかしエリクシアはまったく気を抜かず、その表情はずっと先を見据えている。
すなわち、クロ・クロイツァーの居場所を。
「…………」
言葉も失くして意識も無くしたクロ・クロイツァーからは強烈な感情が怒濤のように溢れ出している。
こんな離れた場所にいても、感じる。
悲しみと後悔、そして怒りと憎しみ。
不死となって二千年。
英雄として生き続けてきた彼に残ったもの。
クロという人間を構成するあらゆるものを剥ぎ取って最後に残ったものは、そんな激烈極まりない負の感情だった。
なんて悲しいことだろう、とエリクシアは思った。
これがエルドアールヴだ。
彼が、人類を救い続けてきた『最古の英雄』なのだ。
あまりにも悲しい英雄だ。
彼をそうしてしまったのは他ならぬ自分なのだと、エリクシアはそう責任を感じている。
彼を助けたい。
何がなんでも、絶対に。
「……そうですか。あなたも、クロイツァー殿を倒す覚悟が出来たようですね」
「はい」
息を切らしながら、それでもエリクシアは即答した。
クロを助けるために、クロを倒す。
酷い矛盾だ。
でも、そうしないと暴走しているクロを助けられないのだ。
「わたしでは力不足ですか?」
エリクシアはその紅蓮のような赤い眼で、真っ直ぐアヴリルを見る。
普段の彼女からは想像も出来ないぐらい、力強い視線だった。
「……ふふ」
しばらく見合って、アヴリルが獣のように裂けた口で笑った。
「いいえ、エリクシア殿。あなたの強さは知っているつもりです」
そう言って、アヴリルはエリクシアに手を差し伸べた。
「私の手に乗ってください。私があなたの足になりましょう」
その巨大な手は、小柄なエリクシアを乗せるには余裕だ。
戦闘において、魔法使いの移動手段ができるということは相当なアドバンテージになる。
アヴリルの提案はエリクシアにとっては渡りに船だ。
「い、いいんですか?」
「ふふっ、特別ですよ」
舌をペロッと出して、おちゃらけた表情をするアヴリル。
大狼の姿でそういうことをするものだから、そのギャップにエリクシアは笑った。
「よいしょ、よいしょ……」
アヴリルの大きな手によじ登っていくエリクシア。
手の平にすっぽり収まった。肉球がプニプニとしていて、意外と居心地が良い。ちょっと弾力がある柔らかいクッションのようだとエリクシアは思った。
「戦況はどんな感じなんですか?」
「とにかくクロイツァー殿が暴れ回って大変なんですよ。あの人ぜんぜん手加減してくれないから何度も死にかけましたよ、まったく……」
アヴリルは指を動かして、エリクシアの場所を確認しながら優しくそっと包み込んだ。壊れやすく大切なものを扱うように、慎重に、丁寧に。
「とにかく落ちないように気をつけてください。私けっこう激しく動いちゃうと思うので」
「わ、分かりました!」
アヴリルが立ち上がる。
普段よりもずっと高い視点で見る景色に、エリクシアは少しだけ戸惑った。
「さて、行きますか」
言いながら、足を屈めて片手を地面について、獣のように低く身を伏せる体勢になったアヴリル。
その姿も相まってか、もはや巨大な白狼だ。
「あっ、そうだ。ちょっとやってみたいことがあるんですけど」
そんな中、アヴリルがふと思いついたとばかりにそんなことを言った。
「なんですか?」
「ふふっ、えっとですねぇ」
楽しそうに、アヴリルがその思いつきを喋った。
別に周囲には誰もいないのに、乙女の秘密を囁くかのように小さな声で。
「えええええ!? そ、それ大丈夫ですか?」
エリクシアは激しく動揺した。
それがあまりにも突飛なことだったから。
「この連携、面白いと思いません?」
「そ、それにしたって、いきなり過ぎなのでは……」
「やっぱり無茶ですかね?」
アヴリルが少し残念そうに言った。
「…………」
エリクシアは少し考えて、答えた。
「いえ、やってみましょう。相手はクロなんです。無茶をしないと、きっと倒せません」
「ふふふ! それでこそ、シャルラッハさまが認められた方です!」
言葉の軽やかさとは違って、ニィ、と凶悪な笑みを浮かべたアヴリル。
歯を噛み鳴らすように、体を更に低くした。
「クロ……待っていてください」
エリクシアはアヴリルの手の中で、真っ直ぐ遠くのクロを見た。
そして、
「――『其は神聖にして侵すべからざる麗人なり』――」
おぞましいまでに禍々しいグリモアの魔力を詠唱に込めた。
アヴリルの手の外に浮かぶ、『悪魔の写本』から漆黒のエーテルが巻き上がり、三つの魔法陣が形成される。
青白く光輝く魔法陣が歯車のように回転する。その速度が上がるにつれて、加速度的にエーテルの量と質が上がっていく。
「――『月光にて我が爪牙は光輝く。狩りこそが我が本能』――」
そして今度は、アヴリルが獣の姿で戦技の詠唱を紡ぐ。
その凶悪なまでの戦意が、エーテルとして具現していく。
彼女の暴力的な本能は、より力強く大狼の身体を強靱たらしめてゆく。
「戦技『月食』――」
地面についた方の手が、地面を強く掴みかかる。その爪が途轍もない力で地面を引っ掻き、アヴリル本人を矢のように射出する。
もう片方の手に乗っているエリクシアをしっかりと保護しながら、豪速と言っていい速度で大狼が駆け抜けていく。
エルドアールヴとの彼我の距離が詰まっていく。
「……ッッ!!」
アヴリルの手の中で、凄まじい風圧を耐えているエリクシア。
一瞬で景色が流れていく光景を目の当たりにする。
これが、シャルラッハ達のような頂点の戦士が見ている高速の世界なのだと知り、エリクシアは感動していた。
だがそれも一瞬のもので、エリクシアはすぐに気を引き締めた。
目の前は、もう戦場だ。
「――『氷の城には何人たりとも近づくこと能わず、かの姫君は独り嘆きの矢を打ち放つ』――」
溶岩が弾け氷山が砕ける中で闘うクロ・クロイツァー、そしてそれを相手取るシャルラッハの姿を見て、エリクシアは自分の覚悟を示すかのように、先の詠唱を継いだ。
そのシャルラッハが、チラリとアヴリルを見る。
アヴリルの接近に誰よりも早く気づいた様子だ。
そして、その手の中にいるエリクシアに気づく。
「――――」
ふっ、と笑ったように見えた。
まるで、エリクシアの参戦を歓迎しているかのようにも、見えた。
その彼女を通り過ぎるアヴリルが、巨大な爪を振りかざしてクロ・クロイツァーに向けて叩きつける。
「――『月下狂狼』ッ!!」
轟くような剛腕の攻撃。
それを大戦斧で受けるクロ。
アヴリルの戦技のあまりの威力に、地面が吹っ飛んだ。
だが、それでもエルドアールヴには届かない。
「……くッ」
戦技を完璧に受けられたアヴリルが苦悶に近い声を上げた。
これが人類最強『最古の英雄』の底力か、とアヴリルは戦技を受けられた屈辱と共に、喜悦の笑みを牙端に見せる。
エルドアールヴの追撃が来る前に、アヴリルはバッと体を退いた。
そして、エリクシアをクロに見せつけるように、その巨大な手を開いた。
「クロ……ッ」
エリクシアがクロを間近で直視する。
仮面を被ったエルドアールヴの姿がそこにある。
だが、いつものような優しげな雰囲気はどこにもない。
あるのは凶悪にも思える、負の想いが漲ったエーテルの波動。
「……っ」
キュ……ッ、と胸が締め付けられる。
クロ・クロイツァーの変わり果てた姿に、一瞬、絶句する。
「…………ッ!!」
だが、眦を決して、エリクシアはその手をクロに向けてかざした。
そう、エリクシアは今ここに――闘いに来たのだ。
「――――『氷姫の慟哭』ッ!」
火山噴火の麓にて、極寒の世界が顕現する。
グリモアから吹き荒れる異常極まりない冷気が渦を巻く。
『第六悪魔』エリクシア・ローゼンハートの、本気の魔法がこの世に顕現する。




