65 人は酒に、獣は血に、人狼は月の光に酔いしれる
「……ゆくのか?」
エーデルはシャルラッハに聞く。
シャルラッハの父であるアレクサンダーは、エルドアールヴとの闘いへの参戦を許可していない。
アレクサンダーはアルグリロット家の主であり、グラデア王国の英雄だ。その彼がつまり、引っ込んでいろと言ったのだ。
同じくシュライヴも、シャルラッハやアヴリルのことを邪魔だと、戦力外通告をしたのだ。
内心はどうあれ、結果的に英雄という立場の者が参戦を禁止したのだ。
しかしそれでも、闘いに参加しようとするシャルラッハ。
「おそらく……怒られるだけではすまぬぞ?」
グラデア王国に属するシャルラッハは厳罰は免れないだろう。
貴族といえど、国のトップが下した決断をないがしろにすることは許されない。いや、むしろ貴族だからこそ、だ。
「ふふ」
しかし、シャルラッハは不敵に笑う。
「わたくし、反抗期ですので」
そんな冗談めかした答えを口にした。
これにはさすがのエーデルもあきれ顔だ。
「まぁ、それは冗談として……わたくしはいま現在、グレアロス騎士団の一員。そしてその遊軍として自由にやれと言われて、わたくしがわたくしの意思で、クロ・クロイツァーと共にいる。団長であるベルドレッド・グレアロス直々の命令を、他の『英雄』がとやかく言ってきたとしても、それを素直に聞く義務なんてないですわ」
シャルラッハは平然とそんなことを言った。
とんでもない少女である。
ある意味で筋は通っているが、それでもいかんせん大雑把がすぎる。めちゃくちゃだ。
自分がやりたいようにやりたいから、たとえ『英雄』だとしても自分のやることに口を出させないと言っているのだ。
まさに傍若無人である。
いつかの未来に、彼女がアレクサンダーの立場を継いで、グラスランド領の領主となった暁にはとんでもない暴政をしてしまいそうだと、エーデルは思った。
「…………」
「なにかしら? 歯切れが悪いですわね」
「…………」
エーデルは少し押し黙って、しかし意を決して言った。
「わらわは、ゆかぬぞ。今回ばかりは、そなたらを手伝うわけにはいかぬ」
「……それは、どうして?」
当然の疑問だ。
相手はエルドアールヴだ。
エルドアールヴはエーデルの国の『英雄』なのだ。
エーデルにとっては仲間以上の関係だ。
その彼が、いまにも道を踏み外そうとしている。
グリモア詩編を使って、この世に災いを撒き散らしてしまう。可能性の話ではあるが、それは必ず来る未来だ。
もうエルドアールヴは『蘇生の詩編』の誘惑に負けてしまっているのだから。
しかし、エーデルはそれを止めないという。
「わらわ達エルフは、エルドアールヴをずっと束縛してきた。あやつの行動を抑制してきたのじゃ。歴史を改変させぬよう……という大義名分はあったものの、それでも、どれほどの苦悩と苦痛をあやつに与え続けてきたか分からぬ」
二千年だ。
二千年間、エルドアールヴはエルフの魔法の技術によって行動を制限されてきたのだ。
歴史が変わってしまう時の揺らぎを感知して、歴史の特異点であったエルドアールヴのエーテルを根こそぎ奪い、エーテル切れを起こさせてムリヤリ動けなくする仕掛けだ。
それはエルドアールヴを元の時代に返すためという理由ではあったが、彼がそれによってどれほど苦しんできたのか、代々のエルフ達から語り継がれてきている。
助けたい人がいただろう。
倒したい相手もいただろう。
しかし、エルドアールヴが行動することによって歴史が変わってしまうというのなら、止めなくてはならない。
「それはエルフの罪。じゃからこそ、元の時代に帰ることができたエルドアールヴは自由でなくてはならぬ。我々エルフが、あやつのやることを止めてはならぬ。もう二度とな」
「…………」
シャルラッハはふと思い出す。
クロ・クロイツァーがエルドアールヴだったということを公にした時に、エーデルが言った言葉。
――自由に力を使い、思うがままに行動せよ――
それが、どれほどの想いが込められた言葉だったのか。
シャルラッハはようやく理解した。
二千年間――エルドアールヴも地獄を見たが、歴代のエルフ達もまた同じく。
「……もしも、クロ・クロイツァーが世界を滅ぼそうとしても?」
シャルラッハが聞く。分かりきったことを。
しかし、必ず聞いておかなければならないことを。
「いかにも」
エーデルは答える。
ハッキリと。
絶対の意思を込めて。
「わらわはエルドアールヴの邪魔はせぬ。何があっても……たとえ何が起こってもな」
「クロ・クロイツァーが、苦しんでいたとしても?」
「いかにも」
エーデルは言う。
たとえそれが、エルドアールヴ自身が破滅の道を進もうとしても。
「わらわはこれから先、エルドアールヴが行動する何もかもを受け入れると誓ったのじゃ。仮に……あやつがわらわを殺そうとしたとしても、それを受け入れる覚悟はとうにできておる」
「…………」
「今一度言う。わらわはあやつの邪魔はせぬ」
「……そう。そこまでの覚悟があるのね」
シャルラッハは一度目を閉じて、エーデルの言葉を咀嚼して、その意味と意思を理解して、言った。
「分かったわ。あなたの意思も想いも、わたくしが持っていって闘ってあげる」
正確に言いたいことを当てられて、エーデルは少し驚く。
そして、
「すまぬ……」
謝罪ではなく、感謝の意味の言葉でそう言った。
「めんどうな人ね、あなたも」
シャルラッハが言って、エーデルは何とも言えない顔をした。
本音では彼の凶行を止めたいと思っている。
だがしかし。
いま言ったとおり、エーデルは誓っている。エルドアールヴの行動を阻害しないと。
だからこそ、シャルラッハに託したのだ。
エルドアールヴを止めるということを。
思えば、王墓での時もそうだった。
エーデルはシャルラッハとアヴリルに、エルドアールヴを止めてくれと頼んだのだ。エーデルの性格なら我先にとするところを、だ。
もしかしたら、それは欺瞞かもしれない。
他の人間に頼むということは、結局はエルドアールヴの行動を邪魔しているという見方もできる。
しかしそれでも、そうすることでエーデル自身が自分の行動に納得できるなら、そんな矛盾があってもいい。
シャルラッハはそう思った。
「シャ……シャルちゃん」
エーデルとの話が終わって、エリクシアがおずおずと話しかけてきた。
その赤い眼には不安の色が滲んでいるのが聞かずとも見てとれた。
「わ、わたしは……どうしたら」
まるで雨に濡れた子犬のようだ。
親犬とはぐれてしまって心細く鳴いているように、シャルラッハは感じた。
つまりは、いま自分が何をしたらいいのか分からない。
どうしたら最善の行動を取れるのか分からない。
エリクシアは、迷っていた。
「エリー」
シャルラッハはまなじりを決して、強く、言う。
「それは自分で決めなさい」
「…………ッ」
暴走しているクロ・クロイツァー。
彼をこのまま放置してしまえば、グリモア詩編を使い、人類を絶滅させてしまう未来が来ることは絶対的だ。
グリモア詩編はそれほどに凄まじい災いだ。
死者を蘇らせ、あの悲しいリビングデッドがこの世に蔓延る地獄が顕現する。
それは絶対に止めなければならない。
「エリー、あなたはクロ・クロイツァーを止めたい。でも、クロ・クロイツァーを傷つけることはしたくない。苦しませるようなことをしたくない。そう思っているのでしょう?」
シャルラッハの言葉に、エリクシアがビクッとなって下を向く。
図星だ。
このままクロ・クロイツァーを放置するわけにはいかない。誰がどうみても、彼の進む先は地獄でしかない。
彼は英雄だから、きっと悪の道を進むのは茨の道以上の地獄なのだ。
いまの彼はそれがもう判断できない状態なのだ。
無意識のまま、グリモア詩編の誘惑のまま、地獄の底までの道を歩んでしまう。
エリクシアもそれが分かっているからこそ、クロ・クロイツァーを止めたいと思っている。
けれど、彼を傷つけたくない。
シャルラッハは知っている。
エリクシアは信じられないぐらい、優しい人間なのだ。
傷つく人を見過ごせない。
助けを求める人を見逃せない。
グレアロス砦で闘った時も、自らの命を顧みずに見知らぬ人間を助けようとするほどに。
「わたくしは、自分の意思でクロ・クロイツァーと闘って止める。エーデルは、自分の意思で闘わない覚悟を決めた」
シャルラッハは言いながら、エーデルの方を見る。
エーデルは、真っ直ぐ自分の信念を貫く覚悟を決めている。そういう顔をしている。
「…………」
再びエリクシアを見る。
エリクシアは違う。その瞳は頼りなさげに揺らめいていて、不安で不安でたまらないといった印象だ。
「エリー。……わたくしは、母上を亡くした時に後悔していることがあるの」
「……後悔、ですか?」
突然、シャルラッハの話が他のことになった。それにエリクシアは一瞬だけ動揺したが、すぐに気を持ち直した。シャルラッハが何か大事なことを言わんとしていることを察したのだ。
「……母上が病床にいる時、わたくしはまだ幼かったの。だから母上が、自分が死んでもしっかりね、とわたくしに言った時……、わたくしは、ただイヤイヤと首を振って泣くだけだったの」
「…………」
シャルラッハの母が亡くなっていることはエリクシアも知っている。
エリクシアもまた、義母であるノエラを亡くしている。
いまのシャルラッハの気持ちが、その後悔が、痛いほど分かるのだろう。
「わたくしは何も決められないまま、時間の流れに任せてしまって、母上を安心させることもできないまま……、……やがて母上は亡くなってしまった」
これはシャルラッハの後悔の告白だ。
いまのシャルラッハとは正反対だ。誰よりも真っ先に迷いなく、進むべき道を進む彼女の過去とは思えない、信じられない告白だ。たとえそれが幼い子供時代の話だったとしても、だ。
「エリー、自分の中で大事なことを……自分の意思で何も決めず、何も選択せず、流れに任せていたら、必ず後悔する日がくるわ」
エリクシアにとって、クロ・クロイツァーがどれほど大事な存在なのかはシャルラッハも分かっている。
「わたくしのように闘うのもいい。エーデルのように闘わない選択を取るのもいい。別の選択をしてもいい。でも、自分の意思で何も決めず、時間の流れに身を任せるのだけは、やめておきなさい」
「…………」
これは、エリクシアが何をしたらいいのか迷っているからこそ、言ったのだ。
時間の流れは無情だ。
何をしなくても、勝手に時は進んでいく。
状況は、刻一刻と進んでいく。
時間の流れは止められず、後悔しても取り戻せない。
「何をどうしようが、この闘いは終わる。結果はどうなるか分からない。うまくいってもいかなくても、必ずその時が来る」
「…………」
シャルラッハは真っ直ぐ、エリクシアの瞳を見た。
「……エリー。その時に、どうかあなたが後悔しない選択を、取りなさい」
「……シャルちゃん」
「…………」
もう話は終わったとばかりに、シャルラッハは踵を返す。
少し言い過ぎただろうか?
そんな後ろ髪を引かれながら、シャルラッハはしかし、足を前に進める。
「アヴリル、あなたはどうするの……って聞くのは、愚問ね」
ずっと前の方にいるアヴリルに向かって言う。
常に傍にいる、シャルラッハ専属の家臣。
彼女は迷いなんてものとは無縁の存在だ。
いつだって本能のままに行動し、自分の覚悟の元で行動する。
それが、『月下の凶獣』アヴリル・グロードハットという女だ。
◇ ◇ ◇
今宵は月が、よく見える。
地上には溶岩が煮えたぎっていて、それを氷河の壁が取り囲んでいる地獄のような光景だ。
空は真っ赤に彩られていて、しかし、それでも月が夜空に輝いている。
「…………」
アヴリルはじっと、月を見る。
今宵は満月だ。
ああ、血が騒ぐ。
体中から力が溢れてくる。
次から次へと、次から次へと、どくんどくん、と体中を駆け巡る。
「…………ッッ、ぐ……ッ」
暴走する血の巡りが体を圧迫する。
凄まじい加速度で、アヴリルの体を内側から殴りつけている。
「……ギッ……ィ……ッッ!!!」
苦しい。
痛い。
視界が真っ赤に明滅する。
ずっと抑えていたが、もう限界だ。
体の奥底から爆裂するような咆吼が、アヴリルの体を支配する。
――――闘いたい。
もはやこの想いは止まらない。
エルドアールヴをこの眼で見た、新月のあの時から、ずっと興奮しっぱなしだ。
クロ・クロイツァーがそうだと知って、何度襲いかかるのを我慢したか。
ああ、ああ――たまらない。
もう辛抱ができない。
我慢できない。
「ァ……ぐ……ッ、ギッ……ッッ!!!」
月がアヴリルを狂わせる。
満月が人狼を狂わせる。
人狼の特性『月酩』。
普通なら、それはただの身体能力の強化という特性である。
だがしかし、アヴリルは人狼の突然変異。
彼女の『月酩』は、己の身体を変貌させるほどの、極限の強化特性なのである。
つまり――
「ァアアア……ッ」
――変身である。
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
ドンッ、という筋肉が膨張して爆発する音がした。
アヴリルの体が大きく、巨大になっていく。同時に、彼女のエーテルまでもが爆発的に膨れあがっていく。
新月の時は右腕だけだったが、今宵は満月。
アヴリルの全身が巨大になっていく。
その力の上昇率は新月と比べるまでもなく、絶大だ。
アヴリルの灰色の髪が白く、どこまでも白く、輝く純白に染まっていく。
髪だけじゃない。
獣人特有の獣耳やしっぽも、白く白く染まっていく。
その白の体毛が、ざわざわざわっ……と全身に広がっていく。
アヴリルの牙が大きく、そして鋭くなっていく。
爪が長く、鋭利になっていく。
アヴリルの体格が大きくなっていくにつれて、着ていた服はビリビリに破れていき、ヒモで首にゆるく結んでいた長い外套だけが揺らめいている。
元々が長身のアヴリルだったが、いまは輪をかけて大きい。2m以上の背丈になっている。
顔の変化も凄まじい。人のそれではなく、狼のような顔つきになっている。
もはやこれは獣人の領域にない。
獣そのものだ。
「ハァハァ……ハーッ、ハーッ……ッ」
獣のように裂けた口で、アヴリルが荒く呼吸をする。
体内の熱を排出するかのように、白い息を何度も、何度も吐き出していく。
しかし、その荒い息は止まることはない。
むしろ時が経つにつれて、さらに強くなっていく。
「ハァハァ……ガッ、ぐッ……ッッ!!」
巨大になった手で、頭をガリガリと掻きむしる。
どこか苦しそうなその所作は、しかし本質は違う。
それは喜びの動き。
こうして力を発揮できる機会ができたことに対する喜悦である。
巨大な、二足歩行する大狼。
それこそが、満月の光を浴びて本性を現したアヴリルの姿だった。
闇夜を映す黄金色の眼は、左眼だけになっていた。もうひとつの右目は、内部の血液が漏れ出たかのように、朱眼になっている。
「ハァーッ……ハァーッ…………ッ」
カッとそのオッドアイの両眼が見開かれたその瞬間、
「ゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
とてつもない轟声を響かせて、完全獣化したアヴリルが咆吼した。
彼女こそは異端の人狼。
人狼の歴史が始まって以来、前代未聞の異常性。
その比類なき特異性はまさしく暴力の具現。
月夜の闇に激しく咆ゆる、怖ろしき異形の大狼。
その真性の獣が見やる視線は、当然、『最古の英雄』エルドアールヴだけに注がれていた。




