60 巨大な悪が、鳴り動く
星の中枢、奥深く。
莫大なエーテルが渦巻き荒れる、深淵の大海――『命の海』。
ここは地表で息絶えた魂が集まる、終わりの場所。
そして、新たな命の元となる魂が生まれ旅立っていく、始まりの場所。
この世のあらゆる生物がここで生まれ、ここに還っていく。
「ゲハハハ」
『命の海』の最も深い場所に、彼はいた。
何十億年もかけてエーテルが淀み、不純物だけが最深部に溜まった場所だ。
死んだ者の魂の記憶や想いが沈んでいく深層よりも、もっとずっと更に深い場所。
この場所は、生きとし生けるものすべての生命が本能で知っている。
近寄ってはいけない場所、あるいは。
この世で最も穢れた場所、と。
真に醜悪で、汚らしい魂だけがここに堕ちてくる。
人が想像した死後の世界の呼び名で言うなら、まさしく地獄と言うに相応しい。
そんな場所に、ジズ・クロイツバスターはいた。
アレクサンダーに殺されてしまったジズは、死してこの場所に戻って来た。
『命の海』を泳ぎ、『転生』の準備に入っている。
グリモア詩編、第一災厄『絶望』――『虚死者』の能力だ。
「ゲハハハハ」
ぷかぷかと浮かぶように、ジズの魂は最深部で笑っていた。
地表にいる不死者を見つめながら、笑っている。
不死の詩編により、この『命の海』に来ることが出来ない可哀想な彼を。
精神的にも物理的にも遠く離れたクロ・クロイツァーだけを、ジズは見つめている。
ジズは思う。
最後の仕上げをできないまま中途半端な状態で殺されてしまったが、あの状態のクロならもう手遅れだ。
できればクロの目の前で大切な人達を殺してやりたかったけれど、それでも、もうこの計画のほとんどは成功している。
「ああ……クロ」
ようやくここまで来た。
長い時を重ねて、本当にようやくクロの心を折った。
信じられないほどに強靱な心だった。
二千年だ。
ボロボロに疲弊して、巨大な悲しみや苦しみを背負って、その重さに這いつくばり、しかしそれでもクロは這い上がり、立ち上がってきた。
いつの間にか『英雄』と、そう呼ばれるようになっていた。
クロは人を助け続けた。
その凄まじい信念と実力で、人類の希望となっていた。
生物学的に見てもまだ弱く幼く、未熟な人類。
そんな幼年期の人類という種を保護してきたのがクロ・クロイツァーだ。
天敵に襲われるヒナを守る親鳥のように。
災害や魔物から人類を守ってきたのが、クロ・クロイツァーだ。
「悲しまないで、苦しまないで」
人類の誰もが、クロ・クロイツァーに希望を見る。
エルドアールヴという最強の英雄に、憧れを抱く。
たった独りで歩き続け、決して諦めず、不屈の心を持つ――希望の怪物。
ジズは思う。
きっと、クロがそういう人間だったから、不死の詩編に選ばれたのだと。
人類の希望になるような人間だったからこそ、不死になったのだ。
「ぼくがずっと――君のそばにいる」
そして、自分自身がこういう人間だからこそ、転生の詩編に選ばれたのだ。
人類の誰もが、死に絶望を見る。
死神という最悪の象徴に、怖れを抱く。
たった独りで歩き続け、決して諦めず、不屈の心を持つ――絶望の怪物。
人類の絶望になるような人間だったからこそ、虚死になったのだ。
「――君を絶対に離さない」
グリモアの詩編は災厄である。
人類を滅ぼすための災いである。
それはつまり、不死の詩編ですら例外ではない。
グリモア詩編、第十三災厄『希望』――『不死者』。
希望の災い。
なぜ、災いの中に『希望』という前向きな印象を受けるものが入っているのか。
なぜ、この災いが最も外に出してはいけない最悪の災いなのか。
ジズは思う。
この世界はあらゆるものが、相反する表と裏で構成されている。
例えば自然。
闇の中で光は強く輝き、光を照らせば闇が更に深くなる。
正反対のはずなのに、強く互いが惹かれ合う。
例えば死生。
命は生きるために死ぬのか、死ぬために生きるのか。
循環する命は、もはやどちらが始まりで終わりなのか不明瞭だ。
例えば味方と敵。
正義を掲げて闘う者も、敵対する者にとっては悪である。
誰かを守るために闘う者は、その敵対者が守る者にとっては敵である。
表裏一体の関係が、互いを高め合いながら共存して成り立っているのがこの世の常である。
『希望』と『絶望』も同じく表と裏を孕んでいる。
絶望の中にこそ希望は光り輝き、希望の中にこそ絶望は深みを増す。
そしてそれらは、反転することが往々にしてある。
つまり。
『希望』が折れて力尽きたその瞬間、『絶望』と化すのである。
その影響力が強ければ強いほど、『希望』の光が輝かしければ輝かしいほどに、『絶望』した時の闇は想像を絶するものとなる。
エルドアールヴが絶望し、闇に堕ちたとしたら。
人類はいったいどれほどの絶望に堕ちるだろう。
エルドアールヴが絶望して立ち上がれなくなったと知った時の、人類の精神的被害は他の災いの比ではない。
これこそが希望の災いの本当の姿。
エルドアールヴが希望であればあるほどに、その災いは最悪のものとなる。
「ゲハハッ!」
楽しみで楽しみで堪らない。
クロ・クロイツァーはエルドアールヴだ。
人類を護り続けてきた『最古の英雄』だ。
彼が絶望したその時こそ。
ああ、それこそ絶滅してしまうほどに、人類は絶望してくれることだろう。
「ゲハハハハハハハハハハハハッ!!!」
見るがいい、人類よ。
君達が縋り続けてきたひとりの少年が絶望するその瞬間を。
彼がどれだけ悲しんで、どれほど涙を飲み込んで、どれほど苦痛を我慢してきたか、その地獄をこそ知るがいい。
その瞬間こそ、『希望』と『絶望』の災いは完成する。
エルドアールヴこそが、人類を滅ぼす『絶望の化身』となる。
反転した彼を止められることなど出来やしまい。
なぜならその彼こそを頼っていたのだから、人類に止めることなど出来やしない。
クロは止まらない。
もう誰にも止められない。
死に置いていかれるのがイヤで堪らない彼は、人類の全てを死なないようにするために動き続けることだろう。
蘇生の詩編はそのために全力で災いを撒き散らすことだろう。
過去に死んでこの『命の海』にいる死者達も、まだ生きている生者達も、あらゆる命をリビングデッドにして、クロは【不死の王】として世界に君臨し続けることだろう。
未来永劫、永遠に。
「ぼくが君の願いを叶えてあげるよ、クロ」
みんなとずっと一緒にいられますように。
そういう子供のような儚い願い。
「クロ……君は大事な大事な、ぼくの【ともだち】だ。たとえ人類が滅んだとしても、ぼくが絶対に叶えてあげる」
死ですら別てない、永久不変の楽園を――――君に。
◆ ◆ ◆
◇ ◇ ◇
「……ジ、ズ……」
漆黒のエーテルを体中から吹き上げながら、エルドアールヴは自分の身体が折れるぐらいに抱きしめる。
蘇生の詩編が誘惑する。
これがあれば、お前の願いは叶うのだと。
誰も彼もをリビングデッドにして、あるいは死者を蘇らせて、決して死なない人類の世界を創るという欲望に、エルドアールヴは無意識にも必死で抗っている。
あまりにも歪んだ欲望だ。
あまりにも理不尽な願いだ。
誰も死なないでほしいなんて、ずっと一緒にいてほしいだなんて、グリモアの力を使ってそれを実現させるだなんてこの世界全ての命に対しての冒涜だ。
「……ぐッ、うぅ……」
カランと、エルドアールヴの近くに、何かが落ちてきた。
エルドアールヴはそれを見ることもなく、手を伸ばす。
手に馴染むその感覚は、仮面だ。
火口の溶岩に落とされる前に、アルトゥールの兵によって弾き飛ばされたエルドアールヴの仮面だった。
火山の噴火によって吹き飛ばされて、奇跡的に壊れずここに落ちてきたのだ。
反射的に、その仮面を顔に装着する。
仮面で顔を隠す、これこそがエルドアールヴだ。
あるいはそれがスイッチとなってしまったのか。
煩悶とする心が全て、この状況を作り出したであろうジズへの殺意に変わっていく。
「…………」
ああ、そこにいる。
あの邪念はジズにしか出せないものだ。
ジズがそこにいる。
邪魔をするな。
俺から奪うな。
やらせるものか。
誰も殺させない。
その前に、お前を殺す。
「……ぅ、ぉッ……オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
エルドアールヴはここに反転する。
今相対している者達が、ジズではなく守るべき味方だと知らず。
敵を倒そうと大きく咆えた。
この世界は表と裏で構成されている。
エルドアールヴは間違いなく人類にとって正義だった。
しかし、それが反転した今こそは、強大で純粋な悪と化す。
それこそがジズの思惑通りなのだと知らず。
人類を救うために絶対に必要な『悪魔』に敵対する。
エルドアールヴが最大の正義だったとしたなら、反転した彼は最大の悪となる。
「ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
もはやそこには殺意以外に何もない。
最強の英雄は、エリクシア達に牙を向く。
巨大な悪となったエルドアールヴは、人類最大の脅威となって鳴り動く。




