59 最後の敵、最強の敵
「あー、長かったぁ。クロってばなかなか諦めないからさ。ここまでくるのに苦労したよ」
溶岩に囲まれた氷山の上で、ジズが嗤う。
その眼下では、エルドアールヴが静かにうずくまっている。
「……『死神』よ、エルドアールヴに何をしたのじゃ」
エーデルがジズに聞く。
明らかに普通ではない様子のエルドアールヴ。
生まれてからずっとエルドアールヴと共にいたエーデルでさえ、彼のこんな姿は見たことがない。
エルドアールヴが絶望したとジズは言った。
たしかに、何の希望もなくなって心が折れた人間なら、こんな感じになるのだろう。
しかし、あのエルドアールヴだ。
歴戦の英雄で、史上最強の戦士である。
戦力は当然のことながら、その心力も計り知れないものがあった。
彼を絶望させるなど不可能だと思ってしまうほどに、エルドアールヴの心は強かったのだ。
その彼が、こんな風にうずくまっているなんて信じられないと、エーデルは思った。
「クロの昔の仲間をアルの詩編で蘇らせてさ、クロと闘わせてあげたんだ。いやぁ、本当に苦労したよ。これを思いついてから千年ぐらいかな? やっとぼくの苦労が報われたんだよ~」
あけすけに言うジズに、凄まじいおぞましさを感じるエーデル達。
これは間違いない。
邪悪の権化だと断ずるに些かの迷いもなかった。
「……キサマ」
エーデルが怒りの感情を抑え込みながら唇を噛みしめた。
シャルラッハやエリクシア、そしてアヴリルも同じような思いでジズを見た。
「クロはね、自分が辛かったり悲しかったり痛かったりしても我慢しちゃうんだよね。どれだけヒドい目に遭わせてみても、必ず立ち上がって這い上がってきたんだ。でも、クロにもたったひとつだけ弱点があったんだ」
ジズは枯れ木のような細い腕を天に向けた。
その丸い魚眼が、溶岩の光に照らされて不気味に鈍く光る。
「クロが落ち込んだり、泣いたりするのは決まって誰かが死んだ時だったんだ。置いていかれるのがイヤなんだよ、クロは。可哀想だよねぇ。この二千年で、みんなみんな死んじゃった。クロが仲良くしてた人達は、みんなお墓の中に入っちゃった。だからさ、ぼく思ったんだ。その死んだみんなを蘇らせてあげたらクロが喜ぶんじゃないかって!」
「それで……闘わせたっていうんですか!?」
エリクシアが声を荒らげる。
あまりの仕打ちじゃないか、と。
いくらなんでもヒドすぎる、と。
醜悪の化身のような男を見据えて、強く糾弾する。
「…………」
そのエリクシアをじっと眺めているジズ。
丸い真っ赤な魚眼が、まるで品定めするかのように、じぃ……と見ていた。
「…………ッ」
異常なほどの悪寒がエリクシアに走る。
悲鳴を上げたくなるほどのおぞましい視線。
直感した。
その視線の意味は――果てしない怒りと憎しみだ。
「……ゲハッ」
ジズが嗤う。
怯えるエリクシアを見定めて、ニタリと口を歪めた。
「君、本当にエストちゃんによく似てるね。悪魔は何人か見てきたけどさ、君ほど不思議な存在は知らないや。ねぇ、君はいったい何者なんだい?」
「…………」
ジズの言うエスト、とは『最古の六体』であるエストヴァイエッタのことだ。
『悪魔の写本』を消し去るための旅の最後の難関である、強大極まる難敵のことだ。
グレアロス砦に攻めてきた、あの特級の魔物ウートベルガも同じようなことを言っていた。
「ああ、そうだ。これ返しておくよ」
ジズはそう言うと、どこからか出してきた紙をぞんざいに投げ捨てた。
ひらひらと舞うそれは、不気味な空気を纏っている。
ゆっくりとエリクシアの手元に落ちて来る。
「……これは」
それを両手で掴むエリクシア。
「予知の……グリモア詩編?」
アルトゥールが持っていた詩編だった。
ジズがそれを持っている理由は簡単だ。
エルドアールヴが倒したアルトゥールから奪ったのだ。
「それはもういらない。未来なんて知ってもつまんないからね」
「…………ッ!!」
その言葉は、誰よりもシャルラッハに突き刺さった。
『英雄』アルトゥール・クラウゼヴィッツが視た絶望の未来。
彼は己の人生の全てを懸けて、抗おうとしていた。
アルトゥールは悪人だったが、しかし、人類のために闘い続けていたことはたしかで、彼は間違いなく『英雄』だった。
ジズは、アルトゥールという英雄の人生のすべてを嘲り嗤ったのだ。
「……ッ……ッ」
ギュッ、と自分の腕を押さえるシャルラッハ。
怒りのままに迂闊に飛びかかっては以前の二の舞だ。
「グリモア」
エリクシアが後ろに浮いている悪魔の写本を呼ぶ。
パラパラパラ、とグリモアのページが自動的にめくられていく。
渦巻く黒い霧が、予知の詩編を取り込んでいく。
「へぇ……そうやって戻っていくんだ」
歪んだ笑みでジズがその様子を眺めている。
何を考えているのか分からないその魚眼は、今だけはたしかに、興味という感情を表していた。
ただそれもすぐに飽きたようで、ジズが口を開く。
「さて、そろそろいいかな。君達にはまだやってもらわないといけないことがあるからね」
ジズが氷山の上に立ち上がる。
ぴょんとジャンプして、下にいるエルドアールヴを飛び越えて、エリクシア達の近くまで来た。
「エリー、わたくしの後ろにいなさい」
シャルラッハが前に出て、臨戦態勢に入った。
同じく、アヴリルがその隣に来て、獣のように四肢を地面につけて戦闘の準備に入る。
「今のクロはね、絶望して、苦しんで――迷っているんだ」
ジズが言った。
色素が薄れた白い髪が不気味に揺れる。
「……迷っている?」
シャルラッハがその言葉の裏を読み、真意を探る。
それに答えたのはエーデルだった。
「……『グリモア詩編』には持ち主を誘惑する効果があるのじゃ。それを欲する者に対して、抗いがたい欲を引き出してしまう」
エーデルは、ジズに説明させまいと率先して言葉を繋ぐ。
ジズの言葉を聞いているだけで体と心に毒なのだ。
「エルドアールヴはおそらく、過去の仲間を倒してしまったことで、彼らを蘇らせたいという想いに支配されておるのじゃろう。いや……もしかしたら、ずっと以前から、そう想っていたのかもしれぬ」
「そんな!? でも……」
エリクシアが言いかけて、エーデルがその先を読んで「うむ」と頷いた。
「蘇生の詩編で出来上がるのはリビングデッド。間違いなくエルドアールヴが望むような復活にはならぬ。アレは災いの詩編じゃ。人が幸せになるために使うものではない。じゃが……」
「それでも、欲望には抗えない……」
シャルラッハが言った。
彼女自身も分かる。
亡くしてしまった母を蘇らせる方法がそこにある。あの詩編を手に取ったら、おそらく自分もその誘惑に抗えないということを理解してしまった。
「…………」
エリクシアだってそうだ。
殺されてしまったノエラを生き返らせる方法があるのなら、やってみたいという想いはたしかにある。
この世は残酷で、とてつもなく厳しくて、誰だって大切な人を亡くしてしまっている。
そう、誰だって、出来るものなら大切な人と再会したい……そう想っている。
恐ろしいのは。
エルドアールヴの場合は、その数が膨大なものになっているということだ。
エルドアールヴは二千年という長き時を生き抜いてきた。そんな彼の大切な人は、いったいどれほどの数になるのか。
死者に会いたいという想いは消え去ることなく、心の中に積み重なっていく。
たとえ英雄だとしても、たとえ心強く折れない芯があったとしても、重雪のように降り積もった想いはもはや、自我すら越えて無意識の領域で欲している。
大切な人達に会いたい、と。
魂が軋むほどの渇望だ。
しかし、詩編を使用すれば必ず災いが起こる。
これは間違いようの無い事実。
必ず災いの連鎖が起きてしまう。
だからエルドアールヴは無意識の中で、迷っているのだ。
己の心に必死で抗いながら。
うずくまり、無我の状態で『蘇生の詩編』を握りしめているのがその証拠だ。
「その迷いを晴らすためにさ、君達にお願いがあるんだ」
ジズの様子が変わった。
表情は嘲り嗤うようなもののままなのに、凄まじい殺気が放たれる。
「クロの目の前で、最後の仲間の君達が死んだら、きっと完璧に折れると思うんだよね、心がさ」
ゆっくりと歩みを進めて近づいて来るジズ。
「だから、君ら全員、ここで死んでくれるかな?」
そして――
「言ったはずだぞ、道化」
――唐突にジズの首が飛んだ。
「娘に何かするなら、殺すと」
まるで閃光のようだった。
雷が明滅する瞬間のような早業。
本当に一瞬で、ジズの首が斬り飛ばされたのだ。
「ええっ? またコレ?」
オリヴァーに背後から首を斬られた時とは違い、今度はジズに油断はなかった。
ちゃんと警戒していたし、いつでも動けるように準備はしていた。
それでも気配を感じず、気づいたら首が飛んでいたのだ。
「父上!?」
「無事で何よりだ、シャル」
現れたのはアレクサンダー・アルグリロット。
グラデア王国が誇る英雄のひとりであり、シャルラッハの実の父である。
生まれながらに人の目を惹きつけるその黄金の髪。信じられないほどに眉目秀麗の容貌は、壮年に近くなった今でも若き少年時代の面影をずっと残している。
その立ち居振る舞いはまさしく気品ある貴族である。
「まいったな、ぜんぜん気配が感じられなかったよ」
頭だけが地面に転がっているジズが言った。
「呆れた生命力だな。首を飛ばしてもまだ生きているのか」
冷たい眼光で、そのジズを見下しているアレクサンダー。
「君ってさ……英雄っていうより、まるで暗殺者だね?」
首だけのジズが「ゲハハハ」と嗤う。
ジズのその言葉に対して怒りを覚えたのは、他でもないシャルラッハだった。
「お前……ッ」
英雄の父に対して、信じられないほどの侮辱だった。
怒りのあまり、頭の血管がブチ切れそうだった。
「シャル、落ち着け」
しかし、当の本人のアレクサンダーは、素知らぬ顔で冷たい表情を崩さない。
警戒を怠らない。
ジズに対して、一切の油断がない。
まさしく歴戦の猛者である。
「ねぇ、なんでぼくの邪魔をするの? ヒドいじゃないか……ぼくがどれだけ苦労してここまでやったか分からないのかい? もう少しなんだ、もう少しで……」
ジズが恨み言を言おうとした次の瞬間。
カンッという音が、ジズの額から響く。
「…………――――」
光の矢だった。
輝くエーテルの矢が、ジズの額を貫いたのだ。
ジズの丸い魚眼がぐるんと白目になって生気を完全に無くし、絶命した。
「この矢はまさか……シュライヴ!?」
シャルラッハが矢が飛んできた方向を振り返る。
あまりにも遠すぎて、シャルラッハの目でさえ矢を放った者の姿は見えない。
だが、こんな正確無比の超長距離射撃が出来るのはこの世界にたったひとりしかいない。
『狩猟の覇者』シュライヴ・ゼルファー。
グラデア王国、方位騎士団・北の団長――つまり『英雄』だ。
世界一の弓の名手であり、そのシュライヴの使う矢が、この光の矢なのだ。
「シュ……シュライヴさんまで来てるんですか?」
アヴリルがアレクサンダーに聞く。
シュライヴは元々、英雄になる以前はアルグリロット騎士団の一員だった。
その関係で、シャルラッハとアヴリルとは顔見知りだ。
アヴリルの問いに、アレクサンダーは「ああ」と頷いて、
「さすがにこの闘いは私だけでは荷が重いからな」
そんなことを言った。
その言葉のニュアンスは、エーデル達にとって不思議なものだった。
「残念じゃが、アルトゥール公はエルドアールヴがすでに倒しておるぞ。今、そなたらが死神を倒したことで、一応の決着はついたのじゃ」
もしかしたらアルトゥールが倒されたことは知らないのか、とエーデルが気を利かして言った。
だが、
「いいえ、エーデルヴァイン王。まだ闘いは終わっておりません」
アレクサンダーは否定する。
真っ直ぐに、断固たる決意を以て。
「ここからが――本当の闘いです」
俯き跪いたままのエルドアールヴを見据えた。
エーデル他、シャルラッハ達全員がそれには驚いた。
何しろ、明らかにアレクサンダーは、エルドアールヴに敵意を持っていたからだ。
「ま、待ってください父上!」
「シャル、お前達は前に出るな」
シャルラッハの制止を振り切り、アレクサンダーが前へ進む。
エルドアールヴの元へと、一歩一歩。
「お前達では闘いの邪魔になる」
冷たい一言だった。
凄まじい闘気がアレクサンダーから巻き上がる。
『英雄』――『雷光の一閃』が本気を出して臨戦態勢に入っている。
「…………ッ」
父であるアレクサンダーの本気の闘気を見て、彼は本気でエルドアールヴを倒す気なのだとシャルラッハは確信した。
「どういうことじゃ、グラデア王国の英雄よ。我らがエルドアールヴに手を出すということは……事と次第によってはタダでは済まんぞ?」
エーデルが言った。
エルドアールヴは国王エーデルが治めるエルフィンロードの『英雄』だ。
それに危害を加えるということは、まさしく戦争をすると同義である。
エーデルにとっては不愉快極まりない発言だった。
「これは失礼しました。理由も話さず申し訳ない。しかし、もはや一刻の猶予もありません」
アレクサンダーは戦意を隠さず、エルドアールヴを見据えている。
「どうやらあの道化は、最後の最後に、一手を仕掛けていたようです」
「……ジズの邪念」
シャルラッハが自分達の周囲を見やる。
いつの間にか邪悪な気配が渦巻いている。
ジズが死の間際に残した、おぞましいエーテルだ。
「…………ッ、ぐぅぅ……ッ」
エルドアールヴがゆっくりと立ち上がる。
その体からは凄まじい漆黒のエーテルが立ち上っている。
ジズの邪悪なエーテルと対を成すかのように、あるいは惹かれているかのように。
とてつもない殺意が膨れあがっていく。
「……ジ、ズ……ッ」
あまりにも強大すぎるエルドアールヴのエーテルは、体や顔すらも包み、その姿を覆い隠してしまう。
まるで黒い炎に焼かれているかのような姿。
一見して怪物と断ずるに相応しい、異形の姿だった。
「こ、この殺意は……わらわ達に向いている? まさか、わらわ達を敵視している……のか?」
エーデルが掠れた声で言った。
「……今のクロ・クロイツァーは自我をなくしている。ジズ・クロイツバスターの邪念のせいで、わたくし達を無意識に敵だと判断してしまったみたいね」
シャルラッハが言って、アレクサンダーが頷く。
「逆に考えれば好都合かもしれんな。向こうが敵意を持っているのなら、これで私の方も、全力で闘える」
「……父上、どうしてですか? 王都ではあんなに……」
親しそうにしていたのに、と。
シャルラッハは、そこまでは言葉に出せなかった。
「友の頼みだからだ。エルドアールヴが『蘇生の詩編』を手に入れたら、敵として討伐してほしいとな。だから私とシュライヴがここに来た」
アレクサンダーが答えた。
真っ直ぐな声色で、その言葉には一切の嘘がない。
「友……? 頼み……ですか? いったい、誰に……」
シャルラッハが当然の疑問を投げかける。
それがいったい誰なのか、シャルラッハには皆目見当もつかなかった。
王都で対アルトゥール軍との戦いの準備をしていたアレクサンダー。
仮に戦の準備が出来たとしても、アレクサンダーは英雄であり、王都の守護を任せられている。
英雄シュライヴも同じくだ。
アレクサンダーとシュライヴが王都を離れて、この敵地まで出張ってくるのは普通なら絶対にあり得ないことなのだ。
英雄ベルドレッド・グレアロスは、グレアロス砦にいる。
今ここにアレクサンダーとシュライヴがいるということは、王都には英雄の護りがないということになる。
そんな危険を冒してでも、その友とやらの頼みが重要だったのだ。
英雄2人を、頼みという人情的な理由で動かすほどの人物。
それは、そんな人物は――
「エルドアールヴ本人だ」
――『最古の英雄』しかいない。
アレクサンダーは努めて冷静な表情で、友であるエルドアールヴを見つめていた。




