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エリクシアオブライフ ~不死の災いと悪魔の写本~  作者: ゆきわ
第1章『英雄胎動』編

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12 英雄への一歩

 英雄とは、総じて強くなくてはならない。

 英雄とは、才ある者でなくてはならない。

 しかし、まず大前提の話がある。


――英雄とはいったい何者か。


 それは尋常の外に至った者のこと。

 誰にも倒せない強大な敵を討ち滅ぼした者。

 人類の遺産となる『魔法』や『戦技』を編み出し、発展させ、極めた者たち。

 多くの人の命を救った者。

 あるいは、未踏の大地に辿り着いた者。


 英雄とは、奇跡を成し遂げた者のことだ。

 それはすなわち、誰もやろうとしないことをやり遂げた者のことである。


 では、英雄とはいったいどういう人柄の人物が成っていったのか。

 マトモな人物のはずがない。

 当然である。

 英雄とは、成功してしまった異端者なのだから。


 己よりも何倍も強い相手に立ち向かう。

 己の人生のすべてを使って、技の研究に没頭する。

 己より他人の命を優先し、救いの手を差し伸べる。

 己の命を危険にさらして、見知らぬ土地に身を投じる。

 失敗すれば愚者となり、成功すれば偉人となる。


 勇気、情熱、決意、約定、信念、使命感、好奇心。

 彼らを突き動かす原動力は何だっていい。

 それらと自分の命を天秤にかけて、それでも死と隣り合わせの困難に立ち向かうなどと、生き物としてあまりにも欠陥が過ぎる。

 普通に考えればあり得ないことだ。

 異常者と言ってもいい。

 生き物として、人として、何かを間違ってしまっている死に急ぐ者。


――それが、英雄というものだ。




 ◇ ◇ ◇




 ザアザアと雨が降り始めた夕暮れ時。

 クロとヴェイルは伝令の任務を決行していた。


「ハァ、ハァ……ハァハァ……」


 空気と共に、雨の雫を吸い込んでしまってむせてしまう。

 走る呼吸もままならない。

 雨のなかで長い距離を走るのは想像以上に疲労がたまる。

 途中で何度も休憩をはさみながらだが、10kmケームほどは走ったか。

 まだ北東の陣までの道のりは半分も来ていないが、体の疲れは半端なものじゃなかった。


「ちょ……ちょっと、休憩しよう……ぜ、クロイツァー」


「そう、しようか……ここまで降ってくるとは、思わなかった……」


 ちょうど目の前に、右手側のアトラリア山脈から伸びた森の入り口が見えた。

 クロとヴェイルの2人が走っている公道は、その森の外枠に沿って大きく迂回するような形で曲がっている。


「そこの……樹で、休憩だ……」


 ヴェイルは息も絶え絶えだ。

 クロも同じだった。

 バシャッと足音を鳴らして立ち止まる。

 森の入り口に到着した。


「キッツ……ヘタな体力訓練よりキツいぞこれ」


 大きな樹の幹に手をついたヴェイル。

 いまにも倒れそうな勢いだ。


「ハァハァ……。あ、ここなら雨は当たらないね」


 森の入り口はいくつもの樹の葉っぱが重なり合って屋根のようになっていた。

 ベンチなんていう気の利いたものはここには無いが、とりあえず雨を防げるというだけで本当に助かる。


 ふぅと息をついて、外套のフードを取った。

 首元から腰までのヒモをほどくと、マントみたいになるタイプの外套だ。

 バサバサとはためかせて外套の水を払う。

 外套には油を塗り込んであるので撥水するはずだが、想定以上の雨だったからか、水が下の服にまで滲んできていた。


 まるで旅人のような服装のクロとヴェイル。

 グレアロス騎士団の紋章――朱眼のグリフォンが大剣を咥えている絵柄――が、外套に刺繍されていなければ騎士団の者だとは誰も思わないだろう。


 これで大剣を背負っていればさぞ見栄えもいいのだろうが、あいにく、クロの得物は片手斧ハンドアクスだ。

 腰のベルトにひっかけていて、しかも小型なので外套で完全に隠れてしまう。

 本当は大戦斧ギガントアクス斧槍ハルバードみたいな派手で強力な武器が良かったのだが、どれもクロの膂力では使いこなすことはできなかった。


 雨は一向に止む気配を見せない。

 とどまることの無い雨音は、より一層ひどくなってきていた。


「そういやクロイツァー。お前、班長のことどう思ってんだ?」


 樹の根元、地面にどっかりと座り込んで息を整えていたヴェイルが唐突にそんなことを聞いてきた。

 クロは樹の根が地面から突き出した部分に座っていた。椅子みたいでちょうどいい。


「すごい人だと思うよ。本当に英雄の血脈なんだなって」


「違ェよ!? 戦士としてじゃなく女としてだよ!」


 ズルッと滑るリアクションをとったヴェイルに、きょとんとした表情で「?」と首をかしげたクロ。


「あんだけ毎回まとわりついてきてるんだぜ? そりゃお前、もうアレだ、お前に惚れてるんじゃねェの? そこんとこどうなんだ?」


「まさか。単に山育ちの田舎者だから、貴族にしたらめずらしいんじゃない?」


「それ自分で言うか。じゃあお前は班長のことどう思ってんだ? 恋愛対象として。ああ、この際貴族とかそういうの抜きに考えて、だぞ?」


 やけに突っかかってくるヴェイル。

 はっ、と天啓を得たかのようにクロが気づいた。


「もしかしてヴェイル、班長のことが……?」


「アホか。俺は守ってやりたくなる女が好みなんだよ。あんなクソ強いガキなんざ女として認めねェ」


 ぜんぜん違った。ウソは言ってないようだ。

 天啓とはなんだったのか。


「ヴェイルは庇護欲をそそる人が好みなんだ?」


「そうそう! いいよな~、お姫さまみたいなか弱い感じの…………って俺の話じゃねェよ! お前がどうなんだって話だろ!」


 班長――シャルラッハ・アルグリロット。

 輝かしい金髪で、小柄な体躯の少女。

 年下の、けれど自分よりも強い、少しだけ生意気で上品な少女。


「うーん……。正直に言うと可愛いと思うし、班長にくっついてこられたらドキドキするね」


 眉根を寄せて、真剣に考える。

 けれど、それが恋愛感情としての好きということなのかどうか、判断がつかない。


「ねえヴェイル。……好きってなんだろ?」


「ええ……、そこからなのかよ……」


「だって今までそういうこと考えたことも無かったし」


 ずっと、英雄になるんだって脇目も振らずに走り続けてきた。

 村にいた時も、騎士団に入ってからも同じだった。

 そんな余裕なんて無かったのだ。


「自分の子種を受け入れてもらいたい、って思うことが好きってことなのかな?」


「直接的すぎんだろ……野生の獣かお前は。人畜無害な顔してワリとスゲェこと言うのな……」


「あれ……違った?」


 本気で分からない、といった風なクロ。

 そんなクロを見て、くっくっくと笑うヴェイル。


「ああ、いや。俺が悪かった。つまりアレだ、お前はまだまだガキってことだな」


「む? なんでそうなるんだ」


「いや、いい。分かった分かった。あわよくば恋の橋渡しをしてやろうとか考えた俺がアホだった」


「なんかバカにされてるような気がする……」




 そんな何でもないような会話をしていると、

 夕暮れとは思えないほど昏いなか、突然、白い光が周囲を一瞬だけ照らした。

 遠くのほうで、遠雷が鳴りはじめた。


「雷が近づいてるね。これからもっと降りそうだ」


「ウソだろ……落雷とかシャレになってねェぞ」


「そろそろ行こうか、ヴェイル」


 雷の音が聞こえてから、雨足もだいぶ強くなってきた。

 この調子だと豪雨になりそうだ。


「んじゃ、行くか」


 ヴェイルが大げさなため息をついた。

 樹の根元から立ち上がる。

 雨風を凌ぐ外套を羽織る、その瞬間だった。



「――――ッ」



 小さな悲鳴。

 森の中だ。

 誰もいないはずの森の中から、声が聞こえた。


「……なんだ、いまの」


 ヴェイルが呟く。

 クロとヴェイルは同時に森を見た。

 覆い茂る草木。

 雨の雫に濡れたそれらが、ゆらゆらと強い風に揺れていた。

 その不気味な動きはまるで、生者を招く亡者たちの手のようだ。


「お、おい待てクロイツァーッ!」


 ヴェイルの叫び声が後ろから聞こえた。

 気がついたら、クロはもう森の中に足を踏み入れていた。


「今の、女の子の声だった。様子を見に行かなくちゃ! 魔物に襲われてたりしたら大変だ!」


 森の中を窺いながら言う。

 そんなクロに、後ろからヴェイルが叫ぶ。


「バカ野郎! 言われただろうが、公道から逸れるなって! 伝令の任務とどっちが大切かよく考えろ!」


 ヴェイルの言うとおりだ。

 今は伝令の任務中だ。

 何度も何度も念を押されている。

 森の中に入るな、公道を外れるな。


 伝令とは、〝確実に〟言葉を相手に伝えるための仕事だ。

 シャルラッハやアヴリルなら途中で魔物と闘うのは問題無い。強いからだ。

 でも、自分は弱い。

 そういう人間が伝令の任務を受けた時はどうするか。

 魔物からは絶対に逃げ切らなくてはいけない。

 生き残らなければならない。

 そもそも、魔物と出遭うことがダメだ。

 伝令の内容次第で、ひとつの隊が危機に瀕することだってあるのだ。

 なにがなんでも、絶対に伝えなければならないのが伝令の仕事なのだ。

 魔物を倒す実力が無いのなら、たとえ道中で旅人が魔物に襲われていようが見捨てるのが常識。

 でも、


――誰かを見捨てるなんて、そんなこと、クロにはできない。


「ヴェイル、俺が様子を見に行く! 15分経って戻ってこなかったら先に行ってて!」


 言って、ヴェイルの反応を聞かずに森の中へ入っていく。

 任務を途中で放棄するなんて騎士団失格だな、なんてことを思いながら。




 ◇ ◇ ◇




 ヴェイルはひとり、森の入り口で立ち尽くす。


「バカ野郎が……」


 雨がヴェイルの体を濡らしていく。

 その体が震えているのは雨で冷えたせいではない。


「……ぐっ、クソ……ッ!」


 ひとりで森に入るだなんて危険すぎる。

 森の中に入っていったクロを追いかけようと、足を踏み出す。

 が、体は一向に進まない。


「なんでだよ……。なんで足が動かねェんだ……ッ!」


 頭の中では分かっている。

 怖いのだ。

 単純な話、魔物が怖いのだ。

 オークと闘わされたあの訓練が頭をよぎる。

 どうしてもあの時の恐怖が忘れられない。


「お前は、怖くねェのかよ……」


 オークの訓練で一緒にいたクロ・クロイツァー。

 いつかの訓練が終わった夜、英雄になりたいのだと、星空の下で恥ずかしげもなくそう言った、同い年の少年。

 最初に王都で出会ったときは変なやつだと思った。

 山育ちで、街のこともよく分からず、キョロキョロと物めずらしそうにしていた田舎者。それが第一印象だった。

 得意顔で色々なことを教えてやった。街での買い物の仕方、身振り、街のルール。はたまた対人関係での注意点などなど。

 クロ・クロイツァーとはすぐに仲良くなった。

 そしていつの間にか、かけがえのない仲間となっていった。


「ちくしょう……ッ」


 そんな仲間が、魔物の潜む森の中に入っていった。

 ヴェイルにはなんとなく分かる。恐れるからこそ、分かってしまった。

 さっきの悲鳴の主は、間違いなく魔物に襲われている。

 クロ・クロイツァーを行かせてはいけない。

 そう思いながらも、


「どうして足が動かないんだよ……ッ! クソ! クソッ!!」


 体がまったく言うことをきかない。

 自分はそんなヤツだったのか。

 仲間に危険が迫っている中、自分の命を惜しむようなヤツだったのか。

 悔しさと、自分への苛立ちがヴェイルを責め苛む。


「くそぉ……ッ」


 自分だって、かつては英雄に憧れたひとりだった。

『最古の英雄』エルドアールヴ。

 彼の英雄譚を知って、憧れない少年少女はまずいないと断言できる。

 けれど、いつの日からか身の程を知って、憧れはいつしか諦めとなっていった。

 それが普通。

 それが当たり前だ。

 自分だってそうだった。

 魔物を恐れない一般人はいない。

 自分よりも強い相手に立ち向かうなんて、普通はできない。

 自分は普通だから。そう言い聞かせて、心を折った。


「なんで、お前は進めるんだ……」


 少しでも英雄に近づきたくて、騎士団に入った。

 ただ英雄のそばで働きたかった。こんな自分でも団長――四大英雄のひとりの部下となって、彼の手伝いをしていたかった。

 心が折れて、諦めて、それでも憧れを完全に捨て切れなかった者の顛末が自分だ。


 けれど、クロ・クロイツァーは違う。

 彼は凡人ながら英雄になろうとしている。

 英雄になるべくしてなれる副団長やシャルラッハとは違う、才能の無い凡人なのだ。

〝こちら側〟の人間なのだ。

 でも、じゃあどうしてクロ・クロイツァーは歩み続けられるのか。

 分からない。

 心が折れて、諦めてしまった自分にはもう分からない。


「俺は……」


 どしゃ、と両ヒザを地面についた。

 雨は容赦なくヴェイルを濡らしていく。


「ちくしょう……」


 頬を流れる何かは、豪雨の雫でも隠せない。

 雨にうたれ続けながら、フランク・ヴェイルはただ森を眺め続けることしかできなかった。




 ◇ ◇ ◇




 クロはひたすらに前を向いて走っていた。


「……どこだッ、今の声は、どこから……」


 たしかに聞こえた。

 間違いなく女の子の悲鳴。

 森の中から聞こえた。

 アトラリア山脈の森。

 ここは魔物が住み着いている危険な森だ。


 アトラリア山脈から吹き付ける強風は、森の中でもその猛威を振るっている。

 風に飛ばされてきた木の葉や枝、虫や石がクロの行く手を遮ってくる。

 手を前に出して、顔面をガードする。


「ク……ッ」


 地面には木の根がそこら中から出ている。

 石や落ち葉が雨に濡れて滑りやすくなっている。

 気を抜いたら一瞬で足をとられてしまいそうだ。

 最悪に近い足場。

 そんな森の中を疾走していく。


 クロはこんな道とも言えない道を走るのは慣れている。

 山奥の村でよくこういう訓練をムダにやっていた。

 まさか役に立つとは思わなかった。


「……もしかして、声が風に乗ってきたのか?」


 ということは、風が吹いてくる方向に走ればいい。

 迷わず山脈側へと足を進めた。


「ただ転げただけの悲鳴だったならいいんだけど……」


 魔物に襲われている、なんてことだったらヤバい。

 自分が倒せる魔物なんてたかが知れている。

 下級の魔物ならまだなんとかなる。

 けれど、もし中級の魔物だったなら。

 仮に、もし仮に、オークだったなら最悪だ。

 助太刀しようにも、自分の力ではどうにもできない。


「…………ッ」


 途中、巨大な岩があったので飛び乗った。

 岩の上で立ち止まり、周囲を見る。

 耳をすませる。

 バシャバシャッ、と誰かが走る音が森のさらに奥から聞こえた。


「こっちかッ!」


 藪になっているところに突っ込む。

 自分の背丈ほどの草木をかき分けて進む。

 そして、すんでのところで急停止。

 近くにあった細い木を掴む。


「危なッ……ガケになってたのか」


 藪の先は3エームほどのガケ。

 眼下は緩やかな流れの川になっている。

 川をはさんで、反対側もガケになっていた。ただ向こう側は山壁になっていて、その高さは10mはあるだろうか。あのガケ壁を登ると、もうアトラリア山脈はすぐそこだ。

 下流の方に目を移す。


「――――ッ!」


 そして、発見した。

 どうやらこの川は水深が浅いらしい。


 川の中を必死に走る、フードを被った小柄な少女がいた。


 上流――こちら側へ向かってきている。

 多分、少女は下流の方でこの川に落ちたのだろう。

 そのときの悲鳴を森の入り口で聞いたのだ。

 そして――そして、


「クソ……ッ」


 最悪の事態。

 少女の後ろには、魔物がいた。


 足が震えた。

 木を掴んだ手が、石のように固まってしまった。

 歯がガチガチと鳴った。


――アレに比べればオークなんてまだ生易しい。


 自分の想像できる最悪なんて、しょせん大したことは無いのだと。

 現実はあまりにも残酷で、とてつもなく厳しいものだったことをクロは知る。


「なん……で、こんなところに……ッ」


 それは190cmシームほどの身長の、人のシルエットに似た魔物。

 綠色のオークと違って、真紅の肌をしていた。

 体中から血管を浮き上がらせていて、何かの模様かと見紛ってしまいそうだ。

 丸太のような腕と足は鍛えに鍛え上げられていて、超然とした筋肉で引き締まっている。まるで芸術品のような美しさすら感じてしまう。

 手に持っているのは、どこかの冒険者から奪い取った武器だろうか。

 豪奢な装飾が施された半月斧バルディッシュ

 兜のように頭に被っているのは、仲違いで倒したトロールの頭蓋骨か。

 鋼のような首元には、人の頭蓋骨がいくつもつなげられたネックレス。

 イノシシのように尖った2つの下牙は、激しい戦闘のあとなのだろうか、片方だけが折れている。

 この魔物が、この一帯に出現したなんて記録はただの一度も無い。


――ハイオーク。


 中級の魔物オークのなかでも幾たびの戦闘を生き残り、勝利し続けてきた精鋭中の精鋭。

 同じオークと名がつく魔物だが、その中身はもはや別物だ。

 人間でさえ子供と大人、あるいは街人と騎士団の精鋭とでは戦力の差が激しいのだ。

 オークの大戦士。

 その強さはもはや上級の部類にまで危険度が跳ね上がる。

 それがハイオークである。


 前を走る女の子を追っている。

 殺す気だ。

 川を遡るように女の子は走っている。

 浅いとはいえ、水に足をとられてその速度は見る見るうちに遅くなっていっている。

 逆に、ハイオークの強靱な足腰には、水の障害は意味を為していない。

 少女とハイオークの距離は縮まっていく。


 奇しくも、昼間の光景と同じ。

 昼間は騎士団の精鋭たちが魔物と闘っていた。あのときは丘の上から安心して見られた。

 けれど今は違う。

 ガケの上から見るその光景は、どうしようもない絶望的な状況だ。


「…………ッッ」


 歯をギリギリと噛みしめる。

 これは、ダメだ。

 これはどうしようもない。

 自分が間に入ってもどうにもならない。

 行けば死ぬ。

 少女も死ぬ。

 何をしても、しなくても、どちらにせよ少女は死ぬ。

 少女もハイオークも、いまはまだこちらに気づいていない。

 なら、



――生き残りたかったら逃げてしまえばいい――



 ジズの言ったとおり、そうするしか、ない。

 どうしようもないのだ。

 オークにすら勝てない自分に、ハイオークなんて倒せるわけがない。


「…………ぐッ」


 見知らぬ少女は必死に逃げている。

 少女は、まだ、そこに生きている。

 もう少しで、少女は自分の真下までやってくる。

 どういう経緯で少女がそこにいるのかは知らない。知るはずもない。


「…………ッ!」


 川の中を走っていた少女が転げた。

 フードが外れて、白銀色の髪が現われる。

 シャルラッハぐらいの年頃の少女だ。

 顔はここからじゃ見えない。

 必死にもがいて、立ち上がっている。

 もう彼女は雨と川の水でびしょびしょだ。


 後ろから追ってきていたハイオークの速度が緩む。

 つかず離れずの距離をずっと保っている。


「あの、ヤロウ……ッ」


 獲物を追い詰めて、追い詰めて、力尽きたところでトドメを刺す。

 絶対的上位者が行う、遊びのような狩り。


「あの子が逃げるのを……愉しんでる、のかッ!」


 白銀の少女はおぼつかない足で必死に逃げる。

 こちらにどんどん近づいてくる。

 また、転げた。

 けれどすぐに立ち上がる。

 懸命に、懸命に。

 生きようと、必死にあがく。

 彼女のその必死さは――


「――――」


――幼いころのクロと重なった。

 あの日もたしか、こんな雨の中だった。

 マリアベールの教会に置き去りにされたあの時。

 ごめんなさいと謝りながら自分のもとから去って行く女。

 転びながら、「まって、まって」と追いすがる幼い自分。

 その時の記憶と、今、目の前で懸命に走っている少女とが重なった。


「――――」


 見捨てるのか? 自分が?

 あんなに必死で逃げて、走っている少女を?

 見捨てられるのか?

 見殺しにするのか?


「冗談じゃない……ッ」


 じゃあどうすればいい?

 どうすれば少女を助けられる?



――死にもの狂いで、闘うんだ――



 そんなことをしても、どうにもならないんじゃないか?

 自分は弱くて、才能もなくて。

 どうしようもない凡人なのだ。




「…………え?」


 極限の緊張の中。

 ふと誰かに助けを求めるかのように、クロは顔を上げた。

 反対側のガケの上。

 こちらのガケよりも数段高い位置にあるそこに、人影が立っていた。


――これはきっと、幻覚だ。


 時間が止まったと感じるほどの思考の錯綜。

 そんな、ある種のトランス状態から見えた幻影。

 そうだろう。そうじゃなきゃ、あの人があんなところにいるはずが無い。



――この人に憧れた。



 つばの大きな帽子と一体となった仮面。

 漆黒の外套は、豪雨の闇の中でもなお黒い。

 手に持つのは大戦斧ギガントアクス斧槍ハルバード

 その2つの武器は柄の部分を鎖でつないでいて、一対の武器になっている特殊なものだ。

 両手でも振り回すのが難しいそれら巨大な武器を、それぞれ片手で軽々と持っている。



――この人のようになりたいと、こいねがった。



「あ……あ……っ」


 直接その姿を見たことは無い。

 でも、知っている。

 それが誰だか知っている。

 誰もその素顔を見たことが無い。

 過去の文献ですら、彼のその正体にたどり着けたものは存在しない。

 しかし、誰でもその姿を見たら、分かる。


 それは代替わりするエルフの英雄だ。

 いいや、不老不死の霊薬エリクサーオブライフを飲んだ不死の英雄だと言う者もいる。


 遙か昔、〝2000年前から現代まで〟ずっとこのレリティアで活躍している英雄の名を知らない者はひとりもいない。

 誰もが彼に憧れる。

 誰もが彼のことを知っている。



『最古の英雄』エルドアールヴ。



 この10年、忽然と姿を消していた彼が。

 今、そこにいるはずがない。


「――――あ」


 そうだ、いるはずがない。

 瞬きをしたら幻のように消えた。

 いや、事実として幻だったのだろう。

 そこにはもう、誰もいない。

 ただ雨が降っているだけだ。

 極度にまで追い詰められたクロの精神が生み出した、ただの幻覚だ。


「――――――――」


 ああ、でも。

 それでも。

 幻とはいえ、エルドアールヴがそこにいた。

 自分もそうなろうと背中を追っていた人の幻影がそこにあった。


「……ありがとう」


 勇気が溢れた。

 才能が無い?

 弱い?

 それがなんだというのだ。

 そもそもが――クロ・クロイツァーという人間は誰かを見捨てるなんてことはできないはずだ。

 心はいつだって燃えている。

 魂はいつだって渇いている。


 さあ――往こう。


 ハイオークに追われているあの少女を助けられるのは、自分しかいない。

 掴んでいた木を離し、片手斧ハンドアクスを握りしめた。


――やってみせよう。


 ここが分水嶺だ。

 ここからがはじまりだ。



「――――――――ッ!!」



 声なき声で、闘いの号砲を叫ぶ。

 これが、最初の一歩。


 クロ・クロイツァーは、一歩足を前に進める。

 重く、力強い一歩。

 小さな、しかし偉大な一歩。

 それはたしかに、間違いなく――英雄への一歩だった。




 いつか夢見た英雄まで、いずれ辿り着こうと進み続けた少年の、

――クロ・クロイツァーの英雄譚は、今この瞬間、ここからはじまっていく。



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― 新着の感想 ―
[一言] 良いシーンの筈だとは思うのだけれども… モノローグがあまりにも長い、長すぎる。 おかげで緊迫感が消失してダレた気分になってしまいました。
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