42 月雨の夜に、孤狼は吠ゆる
8年前の、アヴリルと獣王ガウ・ガレオスとの闘い。
それは獣人の国『ネメア・レグルス』王国で語り継がれるほどの熾烈な闘いとなった。
結果的に、闘いが夜明けまで続いたことで、満月が欠けたその瞬間にアヴリルが力尽きたことによるガウ・ガレオスの辛勝だった。
両者共に満身創痍。
互角の戦い。
アヴリルはその前にライカンスロープという『特級の魔物』を倒している。
実力を示し、英雄と呼ばれる可能性のあったアヴリルがそうならなかったのは、ひとえにその性質のせいだ。
満月の夜という短い期間のみの強さというのは、あまりにも限定的すぎた。
そして英雄になれなかった最も大きな理由としては、満月時の彼女はただ強いだけで、人を守ることをしなかったということ。
ライカンスロープを倒したその後アヴリルは、有り余る力を持て余して大暴れをしていた。
微かに理性があったのか獣化したアヴリルによる人的被害は無かったが、人狼達にとって、暴れる彼女はもはや魔物と変わらなかった。
ライカンスロープ出現の知らせを聞いて人狼の里に駆けつけたガウ・ガレオスが彼女を取り押さえるのは必然だった。
そのことから、アヴリルは英雄に推薦されることはなく、ただ危険な性質を持つ大罪人として認識されていた。
闘った国王ガウ・ガレオスだけは彼女の強さを認め、英雄として推薦するべきだと主張したが、ネメア・レグルス王国の全国民および全家臣の大反対を受けてしまい、それは叶わなかった。
国王を傷つけたという大罪を背負ったアヴリルだったが、国王ガウ・ガレオスの王命により、彼自身がアヴリルを保護するという形に落ち着いた。
それから2年が経った頃。
「すまねェな、アヴリル。もうオレの力じゃ抑えられねェようだ」
「いいえ、ガウさま。今まで私を庇ってくださっていたこと、感謝しています」
「……面目ねェな」
国民の感情は収まらず、アヴリルの罪の是非を問う声が大きくなっていた。
国王ガウ・ガレオスは2年間必死になって食い止めていたが、時間が経つにつれて、それも不可能になっていた。
これは国王の求心力が無いのではなく、その逆。
国王ガウ・ガレオスの人気が凄まじ過ぎたためだ。
国王を傷つけたことに対する全国民の怒りは、国王自身も想像できないぐらいに大きかった。
そして英雄に重傷を負わせるほどの力を持つアヴリルへの恐怖。
それらが2年間燻り続けた結果、アヴリルの王国追放に繋がってしまった。
余談ではあるが、アヴリルの家族である父と母と兄は、そのせいでネメア・レグルス王国にいられなくなってしまい、早々に王国を離れていた。
「その娘がアヴリルか」
「悪ィな、アレク」
「いいや、親友の頼みなら断るわけにはいかない。私が責任持って、彼女を匿おう」
グラデア王国の英雄、アレクサンダー・アルグリロット。
彼がアヴリルを引き取ることになった。
アレクサンダーが統治するグラデア王国のグラスランド領は、比較的ネメア・レグルス王国に近い。
そして気が合う英雄同士ということもあって、アヴリルを任せることにしたのだ。
「エルドアールヴと迷ったんだがな。あいつは今は忙しいらしい」
「そういえば、しばらく公の場所に出た話を聞かないな」
これは今から6年前の話である。
その当時のエルドアールヴは『悪魔』エリクシアを見守っていたため、ドワーフの里近くで待機していた。
そして、来たるグレアロス砦防衛戦の準備をするため、定期的にエルフィンロードに帰るという激務の真っ最中だった。
「まぁ、私の娘もアヴリルと同じぐらいの歳だ。仲良くなってくれればいいのだが」
「シャルラッハ嬢か。前に見たが末怖ろしい娘だな。ありゃ間違いなく英雄になる」
「そうだろうそうだろう。シャルは世界一の娘だからな!」
「……お前、娘のことになると性格が変わるな」
「そろそろ行こうか。おいで、アヴリル。新しい家に招待しよう」
「…………」
「おいおい、アヴリル。警戒しまくるんじゃねェよ。心配すんな、アレクはオレの親友だ。悪ィようにはしねェ」
「……はい」
「……王国を離れるのが寂しいのか?」
「……? どう、なんでしょう。分かりません」
「そうか。オレァ寂しいぜ。なんせテメェはオレの娘みてェなもんだからな」
「娘……?」
「オレァ獅子でテメェは狼だが、本当の娘みてェに思ってる」
「…………」
「達者でな、アヴリル。向こうに着いたら手紙でも寄こせ」
そうして、アヴリルはグラデア王国にある、アルグリロット家が治めるグラスランド領に向かうことになった。
グラスランドでの生活が始まった。
アヴリル12歳のことである。
まずアヴリルが通されたのは、アルグリロット城だ。
城内には騎士団の施設があって、そこで寝食を過ごすことになった。
「随分と大人しい娘だな」
「人狼って初めて見たわ!」
「どうだ、腹減ってないか? 俺の干し肉わけてやろうか?」
アルグリロット騎士団の面々は、驚くほど優しい人達ばっかりだった。
どうやらネメア・レグルスでの話は聞いているらしく、少しでも早く自分がここに慣れるよう気を遣ってくれているようだった。
「…………」
少し、音がうるさかった。
ホッとするより先に、警戒心の方が強く出た。
知らない人。
知らない場所。
知らない匂い。
ちょっとだけ、ガウ・ガレオスが言った寂しいという意味が分かった気がした。
「ふひひ……こ、こんにちは。わ、私……副団長のアストリット・グロードハットっていうの。よ、よよよよよろしくね」
スゴく怖い人もいた。
身長が高い女性なのだろうが、猫背が酷いため、12歳のアヴリルと目線の高さが同じだった。
「ね、ねねね? アレクさま……と、一緒の旅だったんだよね? ど、どどどどどどうだった?」
「…………」
顔がくっつきそうなぐらいに近くまで寄せられて、アヴリルは心底から怖ろしかった。
「か、かかかかカッコいい……よねよね? ふひひ……あれで一児のパパなんだよね。ふひひ……最高ォ……」
何年も切っていないであろう黒いボサボサの長髪。
何日も寝てない感じの、目の下のクマ。
光の無い、真っ黒なその瞳は吸い込まれそうな奈落を連想させる。
初めて見る部類の怖さを持つ人だった。
ただ、強いということは理解出来た。
ふらふらした感じだが、どこか芯があって隙がまったく無い。
「あっ、でもでも勘違いしないでね……? アレクさまのことは好きだけど、奥さまとの仲を引き裂こうなんて思ってないから。わ、私はあのおふたりのことをむしろ応援してるぐらいなんだから。ふひひ……美男美女の恋愛、たまんない……あのおふたりを見てるだけでゾクゾクしちゃうの。だってだってまるで物語を読んでるみたいでふわふわしてきちゃうの。なんていうのかな、私なんて入る隙なんて微塵もなくてその絶望感がたまんないっていうか、おふたりの仲むつまじい様子をじぃ……と観察するのが本当に幸せで……あっ、幸せといえば、おふたりの娘さんを見てるだけで、ああ……美男美女の遺伝子が組み合わさってこのコが生まれたんだなって考えるとホントもう最高すぎて、シャルさまに命令されるとゾクゾクしちゃって見下されなんてしたらもう気を失いそうになるぐらい気持ち良くて出来れば容赦なく私の背中でも頭でも踏んでもらいたいって――」
「そこまでだ、変態女」
「ああ何よ何よ、何するのよシュライヴ。せっかく新しいコが来たから私が色々と教えてあげようと……」
顔に傷がいくつもついている青年が、副団長のアストリットと名乗った女性の頭を掴んで後ろへやった。
「わっ、わわ、私、あなたの上司なのよ? ふ、副団長なのよ? ひ、酷いことしないで……」
「うるせェ黙ってろ変態。このコにお前の変態が移ったらどう責任取るんだ」
「ふ、ふひひ……その時は私の仲間だから、責任は取る……よ? 私の家の養子になってもらうの。衣食住でお世話してあげるから、ね? 話をね、させてくれない? ねね、ね?」
「アヴリルだったっけ? 気ィつけた方がいい。この女はどうしようもねェんで。何か不便があったらコイツ以外のやつに話を聞くのがいい。コイツの話は聞くな、仲良くなるな、覚えたか?」
「……は、はい……」
この青年も強い。
グラスランド領に来て、アルグリロット城に入り、アルグリロット騎士団の面々に会ってきたが、特に強いのがアレクサンダーだった。
それと同じぐらいの強さを感じるのが、今目の前にいる不気味な女性と、顔に傷があるこの青年だ。
この3人は別格だった。
尋常じゃない。
本能で察した。
今闘ったら十中八九負ける。
三日月、いや半月の獣化でも確実に負けるだろう、とアヴリルは理解した。
おそらく満月状態の獣化で五分だ。
この3人だけは、獣王ガウ・ガレオスと同格レベルで強い。
意味が分からなかった。
英雄ガウ・ガレオスが最強だと思っていたら、次から次へと同じぐらいの強者が出てきた。
「…………」
無理だと思った。
この騎士団で生活するなんて絶対無理だ。
同じ人狼ですら自分を受け入れてくれなかったのに、ヒュームとなんて無理だ。
アヴリルはそう思った。
夜になって、ふと外に出てみた。
アルグリロット城の外は草原になっていて、穏やかな風が流れていた。
いい匂いだった。
草花の懐かしい匂い。
野生の匂い。
三日月の光が、静かに自然を照らしている。
このまま、どこかへ消え去ってしまいたいと思った。
だって知らない人ばっかりだ。
知らない匂いばっかりだ。
自分が思っていた以上に、ガウ・ガレオスの存在が大きかったことを知った。
乱暴で粗暴な人だけど、優しくて頼りになる人だった。
ガウ・ガレオスと離れてようやく分かった。
寂しい。
彼は自分のことを娘のようだと言った。
それは自分も同じだった。
彼は、まるで父のようだったと思った。
本当の父親は自分の存在を否定するような人だったけれど、多分ガウ・ガレオスのような人が、父という存在なのだと、今、ようやく分かった。
寂しい。
ただ、寂しい。
血の繋がった家族と暮らしていた時には無かった感情。
辛い。
ただ、辛い。
嫌な感情が溢れてくる。
全部、全部忘れたい。
「――――ァ……」
もういいんじゃないか。
自分はきっと人としては生きられない。
満月の夜になる度、血が異常に騒ぐ。
闘わないと落ち着かない。
ネメア・レグルス王国ではガウ・ガレオスしか認めてくれなかった。
それ以外の人は、自分をまるで魔物のように見てきていた。
『呪い子』アヴリル。
自分は、異物だ。
この世界に、必要のない存在だ。
「ァォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオッ」
遠く、三日月に吠える。
もう、全部忘れたい。
人と一緒に生きるのは、疲れる。
新しい場所は、知らないことが多すぎて、しんどい。
目まぐるしく変わる生活は、辛い。
月酩を使う。
右腕が大狼のような腕に変わる。
バケモノと呼ばれた。
魔物と呼ばれた。
怪物と呼ばれた。
怖ろしいと、言われた。
何もかも、面倒くさくなった。
もういっそ、獣として生きていけばいいのではないか。
何も考えないで、そのまま自然と共に生きて、獲物を狩って、食って寝る。
そうしてひとり静かに死んで土に還っていく。
それでいいのではないか。
広大な野生の大地に向けて、
人として最後の、獣として最初の一歩を、
踏み出そうとした――その時だった。
「まぁ、かわいい」
そんな声が聞こえた。
明らかに小さな子供の声だった。
少しだけ舌足らずな、でもどこか気品がある声。
振り向くと、そこにはその通り、幼い少女がいた。
◇ ◇ ◇
現在。
アヴリルは危機に瀕していた。
実力は間違いなく自分が上だ。
今夜は満月も近い。
あれから、ずっとずっと強くなった。
獣化しても意識を保てるようになった。
でも、手が出せなかった。
あれほど憎んでいた家族だったのに、いざ殺そうとしたら、体が固まってしまう。
なぜ?
どうして?
分からない。
「……あッ……ぐ……ッ」
こちらが手を出せないことが分かったのか、それともリビングデッドになったらそんなことすら関係ないのか、向こうの攻撃が激しくなった。
「……うッ……ぐぅぅ……ッ」
見知った顔。
でも、理性の失った顔。
父、母、兄。
彼らの名前は知らない。
一緒に住んでいたのに、そんなことすら知らない。
血の繋がった他人。
優しかった思い出なんて無い。
楽しかった思い出なんて無い。
ガウ・ガレオスの元で生活して、小さな幸せというものを知った。
だからこそ、彼らを殺したいほど憎んでいた。
自分がアルグリロット城に引っ越した一年後、彼らがグラデア王国の南方で死亡したという知らせを聞いた。
ホッと安心したのと、この手で殺せなかったという後悔が、自分の中で渦を巻いていたのを覚えている。
「どうして……」
なのに、体が動かない。
どうしてなのか、自分でも分からない。
防御しか出来ない。
攻撃が出来ない。
あり得ない。
攻撃に移ろうとした瞬間、過去の自分の姿が目の前に見えてしまう。
それを見たら、体が凍ったように固まってしまうのだ。
「ガルルルルルルルルルルッ」
父が、母が、兄が唸る。
よだれを垂らし、まるで獣のようだ。
一瞬だけ止んでいた雨がまた強く降り始めた。
もう月は見えない。
目の前が真っ暗だ。
「くそぅ……くそうッ……ッ!!」
動かない。
動けない。
向こうの攻撃が更に激しくなっていく。
「あ…………」
油断した。
兄の攻撃が喉元に迫った。
自分の知っている姿より、少しだけ成長した兄の姿。
享年は、自分と同じぐらいの歳だ。
記憶の中の兄は、もっと子供らしかったのに、死んでいるとはいえ、立派な人狼になっていた。
その兄の鋭い爪が、自分の喉を貫く――――その瞬間、
「――――『閃光疾駆』」
雷が走った。
「……えっ」
それはまるで本物の雷光のようだった。
真っ暗な闇の中を疾走する、雷の光。
目映い閃光が、暗黒を切り裂いた。
兄と両親は、その一撃の元に両断されて、激烈な炎に包まれた。
「待たせたわね、アヴリル」
黄金の髪を靡かせる、その少女。
真っ直ぐな碧眼は、これまでよりも更に強い眼差しになっている。
一体何があったのか、彼女が纏う闘気は、まるで何年も特訓したように成長を遂げている。
「シャルラッハさま……ッ」
「まったく、血塗れになっちゃって……可愛い顔が台無しよ」
「シャルラッハさま……どうして……」
「あら、わたくしを呼んだでしょう?」
「え……?」
呼んだ覚えはまったく無い。
来て欲しいとは思っていた。
でも、声に出して彼女を呼んではいない。
「遠吠え、したでしょう」
「遠吠え……ですか? あ、はい……」
そういえば、両親と兄の3人と闘う前に、遠吠えを上げた気がする。
それを聞きつけて来たというのだろうか。
一体、なぜ。
そう考えたアヴリルに、シャルラッハが言った。
「アヴリル、気づいてなかったの? あなたは寂しい時、辛い時、助けて欲しい時、そういう時はいつも吠えているのよ?」
「…………え」
知らなかった。
そんな自分のクセなんて。
「狼が遠吠えをする時は、大抵の場合、仲間を呼ぶ時よ。敵がいた時に仲間に知らせたり、はぐれた仲間を捜す時。あなたは群れない『孤狼』だけれど、それでも、狼の本能からは抜け出せないようね」
シャルラッハが言って、少し考えて、訂正する。
「いいえ、あなたはわたくしと群れているのかもしれないわね」
そうかもしれない、とアヴリルは思った。
「ァァァ…………」
ふと、近くで声がした。
炎に包まれながら、それでもまだ消えていない母だった。
一番遠くにいたからか、彼女だけは雷光の直撃を避けていたようだ。
父と兄は一撃の元に、灰となっていた。
「お……お前を……」
その母が、声を絞り出す。
「お前なんて……産むんじゃ……なかった……」
消える間際に、自我が戻ったのか、そう言った。
最後の最後まで、アヴリルを憎みながら。
「…………」
アヴリルは何も言えなかった。
言葉が詰まった。
父も兄も同じ気持ちだったのだろう。
それが、どうしようもなく、悲しかった。
「それじゃ、わたくしもあなたに言いたいことがありますわ」
「…………ッ……」
シャルラッハが、母に向かって言う。
誇らしげに、清々しいほどの笑みで。
「アヴリルを産んでくれてありがとう」
聡い彼女のことだ。
この3人がアヴリルの家族だということは、教えずとも分かったのだろう。
「このコはわたくしの宝なの。このコと出会えて、わたくしは本当に幸せです。だから、心から、お礼を言いますわ」
僅かほどの嫌味も、嘘偽りもまったく無く、
そう言い放った。
「ぁ…………」
つ……っ、とアヴリルの頬を、雨ではないものが伝った。
嬉しいのか、誇らしいのか。
もう自分がどんな感情を持っているのか、分からない。
こんなに感情が激しく渦巻くのは生まれて始めてのことだ。
ごちゃごちゃの頭の中で、ただただ、眼から何らかの感情が溢れていた。
「さようなら、あなた達の眠りが、どうか安らかなものでありますように」
シャルラッハのその言葉と共に、アヴリルの母もまた、他の2人と同じように、炎に包まれて灰となって消えていった。
「シャルラッハさま……シャルラッハさまぁ……」
アヴリルは子供のように、シャルラッハに抱きついた。
頭をよしよしと撫でられて、ぎゅっと抱き返された。
激しく降る雨は、その泣き声すらも、優しくかき消してくれていた。
◇ ◇ ◇
「あなたのお名前は?」
「アヴリル……」
「アヴリル。わたくしはシャルラッハよ、よろしくね」
「ち、近づかないで……」
「なぜ? わたくしはあなたと仲良くしたいわ」
「あ……え?」
「ほら、つかまえた」
「え? い、いつの間に!?」
「うふふ――もふもふですわ、アヴリル」
「や、やめ……」
「あらあら、逃げてもダメよ。うーん……そうね、こうしましょう。わたくしがあなたと追いかけっこして勝ったら、あなたをわたくしの付き人にします。ふふふ、一緒に遊びましょう、きっと楽しいわ」
「な……なんで私なんかと……」
「だってあなた――――とっても、かわいいんですもの」
 




