11 エリクサーオブライフ
伝令の任務を受けたクロとヴェイルはひとまず別れた。
北東の部隊までは片道30kmの道のり。
馬は使わず、徒歩で往復60kmを踏破しなければならない。火急の用でもないのにこの距離で馬を使うことは滅多にない。
そもそも予備兵に馬を貸し与えられることはなく、これも体力訓練の一環だ。
「……天気、悪くなってきたな」
中継地点の陣から見える空を仰ぎながら、クロはひとりぼやいた。
まだ昼だというのに空はどんよりと暗くなっている。
いまヴェイルは給水場に行っている。水筒の中身を補充するためだ。
クロの分も一緒にやってもらっている。
「ヴェイルには帰ったら何か奢ってあげないとな」
いま向かっているのは防具などの手入れをしてくれるテントだ。
自分の靴を見る。
歩くたびに足の甲のところがパカパカと開くので微妙に違和感。歩くのには問題ないが、走るのはちょっと無理だ。
前線への準備に向かうシャルラッハとアヴリルの2人と別れたあと、いざ自分たちも任務の準備をしようとしたら、ブーツのヒモが切れてしまったのだ。
靴は伝令の命である。
これから雨が降ろうとしている。もし土砂降りにでもなってしまったら道はぬかるむ。そんな道を、この状態で走るなんて転んでしまうのが目に見えている。
今度からは予備のヒモも用意しておいたほうが良さそうだ。
「あった。あれだ」
団員が防具屋と呼んでいるその場所はテントではなく、簡易に作られた木の小屋だった。
木を地面に打ち付けて支柱にし、板を壁代わりにしている本当に簡素なものだ。屋根の代わりになっている皮革は何度もこういうことに使ったのか薄汚れている。
この辺りには人がいないようだ。
遠くから騒がしい声が聞こえてくるが、ここらは閑散としている。
「入り口は向こうか」
こちら側は裏手になるらしい。
壁を伝って小屋の角を曲がる。
すると、
「っと……」
通行人とぶつかってしまった。
まさか人がいるとは思わなかった。
「すみません!」
すぐに頭を下げて謝る。
「いや、こちらこそすまない。前がよく見えなくてな。貴公もケガはないか?」
若い女性の声。
少し大人っぽい声だ。
「はい大丈夫で、す……ッ!?」
顔を上げると、そこにあったのは書類の束だった。
いや、正確にはとんでもない量の書類を手に持った人だった。
積み上げた量が多すぎて、書類が頭の位置を軽く超えているので顔は見えない。
これのバランスをとっているのがまずスゴい。
「む? いくつか落ちたか」
「あ、拾います!」
ぶつかった反動で、無理に持っていたらしい紙の束が地面に落ちていた。
重要なものだったらシャレにならない。
まだ雨が降っていなくて良かった。
ひとつふたつと紙束を拾っていく。
ちらりと中を見る。
地図だった。
多分、アトラリア山脈付近のもの。
「どこまで運びますか? 手伝いますよ」
ヴェイルとの合流までまだ少し時間はある。
それもあるし、こんな重そうな荷物を運んでいる人を見捨てるわけにはいかない。
「ふむ……このままではまた誰かとぶつかりそうだな……。私のテントまで頼めるか? 前が見える程度に取ってくれるだけでいい」
「はい。では、もらいますね」
言われたとおり、積み重なった書類をいくつか取る。
ずしりと重い。
こんなものを持っていたのに、この人は平気な声色をしていたのか。
いったいどんな人なんだろうと思いながら、その顔をうかがい見た。
「――――」
おどろきのあまり声が出なかった。
別に彼女に何かされたわけでもない。
そもそもこれまで会話すらしたこともなかった相手だ。
自分のような人間が、荷物を運ぶ手伝いをするという小さなことでさえ、彼女と接する機会があるとは想像だにしていなかったからだ。
「では。よろしく頼むぞ、同志クロイツァー」
そこにいたのは、グレアロス騎士団の副団長。
マーガレッタ・スコールレインだった。
◇ ◇ ◇
――どうしてこんなことになったのだろう。
太陽が雲に隠れて、テントの中は薄暗くなっていた。
テーブルの上にはさっき運んだ書類の山が積み重なっている。
外では何人もの団員たちがガヤガヤと昼食中で、静まりかえったココとは別世界のようだと感じた。
「そう、いい子だ……」
マーガレッタの甘いささやき声。
テントの中にはクロとマーガレッタしかいない。
ふたりの行為を邪魔する者は誰もいない。
「そうだ、そのまま……」
今、クロは簡易のベッドの上に腰掛けている。
この中継地点に3日ほど駐留すると聞いた。つまり、ここでマーガレッタは眠るのだろう。
その事実は、年頃の男子には刺激があまりにも強すぎる。
「なに、痛いのは最初だけだ……貴公も、そのうち病みつきになる」
マーガレッタの青みがかった淡い色の髪が一房、はらりと肩から流れた。
その瞳も、同じく青い。
冬の湖畔。
そんなイメージを抱かせる。
「……そのままおとなしくしてるんだぞ」
ぎしっとベッドがきしむ音。
マーガレッタの顔が近づいてくる。
シャルラッハやアヴリルとはじめて出会ったときも思ったが、整った顔立ちの女性というのは本当にそこにいるだけで威圧される。
おとなしくしろと言われたが、こんなに見つめられて動けるわけがない。
「……さあ、いくぞ」
彼女の細くしなやかな指先が、クロの唇に触れる。
「……っ」
優しい感触。
痛いなんて嘘だ。
正直、びっくりするほど気持ちがいい。
「――よし、いいぞ。これで明日には治っている」
ふっ、とマーガレッタが離れる。
「あ、ありがとうございました……」
「うむ。この軟膏は切れた唇によく効く。香りも薬とは思えないほど良いから私のお気に入りだ」
書類をテントに運んだあとのことだった。
マーガレッタはクロの唇のケガにめざとく反応したのだ。
そうして彼女はテントの奥から持ってきた薬箱から軟膏を出してきた、というのがこれまでの経緯だった。
「貴公もその気になったら買ってみるといい。効果のワリには安いからな。冬は重宝する」
どうやら昨日の訓練場で、ヴェイルとふたりでオークの話をしたときに思わず唇を噛みしめて切ってしまっていたようだ。
こんなのはすぐ治るし、気にしないと言っても耳を貸さないマーガレッタがこうして唇の荒れに効く軟膏をつけてくれていたのだ。
「……あの、俺……あっ、ワタシのことをご存じなのですか?」
緊張してガチガチになってしまったクロ。
マーガレッタはくすくすと笑った。
「無理はしなくていい。普通に喋ってくれて構わない。私も固すぎるのは居心地が良くないのでな」
「す、すみません……」
「ほら、これを飲んで落ち着くといい。少し冷めているが、おいしいぞ。ちなみにその軟膏は体に入っても害はない」
いい匂いがした。
どうやら紅茶を入れてくれたようだ。
カップを受け取って、言われたとおり遠慮なく飲んだ。
「本当だ、おいしい」
ホッとする。
マリアベールがよく紅茶を嗜んでいたから飲み慣れている。
今まであった緊張が一気にほころんだ。
「聖国アルア産の葉を使っている。あそこの茶葉は質がいい」
だからか、とひとりクロは納得した。
マリアベールの出身はアルアだ。
多分、知らない間に自分の体に慣れ親しんでいたのだろう。
聖国アルアはこのグラデア王国の西に位置する隣国である。
グラデアとアルアの国交は良い関係を築いており、貿易も盛んに行われている。
シャルラッハがアルアを敵視していたのは、彼女がグラデア王国の西方を警備しているアルグリロット騎士団を率いる団長『雷光の一閃』の娘だからだろう。
国交が良いからといって、気を緩めてはいけないと教え込まれたのかもしれない。
「さて、私が貴公のことを知っているか、だったな?」
そう、この人はさっき言ったのだ。
こちらの顔を見て、「クロイツァー」とハッキリ言った。
名乗ってはいないはずだ。
騎士団の団員は数が多い。
しかも自分は正規兵ではなく予備兵だ。
その膨大な数の中から顔と名前が一致するほどに自分のことを知られている、ということになる。
「知っているさ。当然だ。貴公は気づいていなかったのか?」
「え……?」
「訓練場でよく会っていたんだ。貴公は熱心だったから、私には気づいていなかったみたいだが。まぁ、あそこは広いからな。気づかないのも仕方あるまい」
くすくすと笑うマーガレッタ。
こうして見ると、この人が、あのグレアロス騎士団の副団長だとは思えない。それほどに親しみやすい笑顔だった。
闘う姿や副団長として働いているときの冷たい表情とは大違いだった。
マーガレッタのそんな意外な一面を見て、クロは秘密をひとつ共有したような気分になって、少し嬉しくなった。
「毎日遅くまで残っているのも知っているぞ。というより、砦で貴公を知らない者はいないんじゃないか?」
「ええっ、俺そんなに目立ってました!?」
なんてことだ。
あんな無様な訓練姿がみんなにバレているなんてちょっとショックだ。
「同志クロイツァーは努力家だと良い噂が流れているよ。私は誇るべきだと思うぞ」
「うう……」
「それにそうでなくとも、あのシャルラッハ班の人間だ。知らないはずが無いだろう」
「あ……なるほど」
そりゃそうだ。
シャルラッハ・アルグリロット。
次代の英雄になるべくしてなれる人間、かの有名な『雷光の一閃』のひとり娘。
西の騎士団からこちらに移った、シャルラッハの護衛であるアヴリル・グロードハット。
まずこの2人がいるということだけでも目立つのだ。
そして――
「多分、貴公がいなかったらジズ・クロイツバスターがあれほどおとなしく牢にいることはないだろうしな」
それだ。
ジズの存在。
砦のなかではタブー視されるほどの異端児。
彼が同期としている以上、絶対に目立つ。
「それについては本当に感謝している。ガラハドさんも言ってたよ、貴公がいてくれないとジズ・クロイツバスターを抑えきれないとな」
「ガラハドさん……?」
「地下牢の看守長だ。ドワーフの」
彼はそういう名前だったのか、といまさら知った。
もう看守長で通っていたから名前を聞く機会すらなかった。
覚えておこう。
それでなくとも同じ片手斧を持つ者同士。
どういう攻撃の仕方が効率的かとか、どういう動きなら武器を活かせるかと色々教えてもらったのだ。
ある意味、恩人だ。
「あの……。ジズは、これからどうなるんでしょうか?」
話のついでになってしまったが、ずっと気になっていたことを訊いた。
上官と先輩を殺しかけたのだ。
おそらくは騎士団にはいられないだろうが、ジズの今後を訊いておきたかった。
「ああ、それに関しては団長が決める。彼は私の手には負えないからな」
その言葉を聞いて、クロに戦慄が走った。
グレアロス騎士団の団長。
それはつまり、このグラデア王国が誇る四大英雄のひとりのこと。
『轟天の鬼神』ベルドレッド・グレアロス。
その名が出てきたことにおどろいた。
「まぁ、悪いようにはならないと思うから安心するといい。やられた方から先にちょっかいを出していたからな。情状酌量の余地はある」
そしてもうひとつ。
この副団長が、先の闘いで無双の活躍を見せたこのマーガレッタ・スコールレインが〝手に負えない〟とまで言ったのだ。
そこまでのものなのか、と。
そこまでの高みにジズはいるのか、と。
あらためて、ジズの異端さを噛みしめたクロだった。
◇ ◇ ◇
「よし、これでいい」
キュッとブーツのヒモを結んでくれたマーガレッタ。
「あ、ありがとうございます……」
正直かなり気恥ずかしい。
当初の目的だった靴ヒモの新調は、めざとくクロの靴を見たマーガレッタが「それなら自分の予備を使えばいい」と言ってくれた。
そして、有無を言わさない勢いで、その仕立てのすべてをマーガレッタがやってくれたのだ。
どうやら相当に世話焼きな気質らしい。
「そういえば先ほど同志シャルラッハが前線部隊への参加を受諾したが、貴公はこれから伝令に向かうのか?」
「はい。もうちょっとしたら向かいます」
まだもう少しぐらいは余裕があった。
「たしか北東の部隊のところだったか」
さすが副団長だった。
すべての作戦の詳細を覚えている。
「ならこれを持っていくといい。公道も一本道ではないのでな」
「地図ですか。いいんですか? 騎士団の貴重な地図を」
「ああ、それは私物だからな。というか、これらはすべて私物だ」
トン、とマーガレッタが手を置いたのはテーブルの上にある書類の山。
「全部!?」
「そう、すべて地図だ。眺めてみると楽しいぞ。これなんかはすごいぞ――」
一瞬、花が咲いた笑顔になったマーガレッタだが、こほん、と誤魔化すように言葉を切った。
気持ちは分かる。
楽しいこと、自分の好きなことを人に話すときには夢中になってしまう。クロも同じように、最古の英雄エルドアールヴの話をするときはそういう状態になってしまう。
「あとは、そうだな。これも持っていけ」
マーガレッタは小さな透明の小瓶を取り出した。
その中には淡く発光する青色の液体が入っている。
「これは……」
「傷薬だ。エルフが作った秘薬中の秘薬だから相当に効き目がいい」
「こ、こんな高価なもの、受け取れませんよ!?」
多分これ、自分の1年分の給料でも買えない代物だ。
完全回復薬というやつだ。
「値段など気にするな」
「気にしますよ!?」
「実はこれは格安品なんだ。ポーションを取り扱うとあるエルフの商会が、どうやら失敗作を大量に余らせてしまったらしく、消費期限を過ぎて捨てるぐらいならということで、『お得意さま限りの感謝御礼』という体裁で泣きついてきたから、騎士団経由でいくつか安く買った」
「こ、これが失敗作……?」
「そう、失敗作だ」
冗談だろう?
目利きの玄人じゃないクロでさえ理解る。
これは正真正銘フルポーションだ。
刺し傷や斬り傷、それに毒にも効果ありな高級品である。
傷口にかければたちどころに止血・殺菌・消毒し、自己治癒力を劇的に向上させ、ものの数日でケガが治る魔法の薬だ。
致命傷をくらって死にかけていた人が、これのおかげで九死に一生を得た話なんて世の中に腐るほどある。
それだけじゃなく、飲めば疲れを完全に回復させ、重い病気の症状でさえ適切に使えば抑えきれる。
遠い昔に流行った疫病すら根絶させた歴史もある、由緒正しい薬。
副作用は使用後、効果が切れたころに猛烈なダルさに襲われるぐらいで、精神に作用するだとか幻覚を見るだとか、そういう危ないことは一切無い。
それほどの良薬である。
1瓶で家が建つほどの高級品のはずだ。
いったいどれだけ造ったら、格安で買えることになってしまうのか。
「連中、どうやら『不老不死の霊薬』を造ろうとしたらしい」
「なっ……」
不老不死の霊薬――エリクサーオブライフ。
その名のとおり、飲めば決して老いず、そして死ななくなるという伝説の霊薬だ。
伝説の歴史は古く、古代アトラリア王国にまで遡る。
曰く、この世の東の果て――魔境アトラリアにある、古代アトラリア王国の王都にいまも封印されているという話だ。
「フルポーションからどうにか霊薬を造れないかと試行錯誤したらしい。貴族や富豪からの後押しもあったらしく、その商会もあとに引けなくなって、その結果が、大量の在庫だ」
「……なるほど、だから失敗作と」
「そういうことだ」
――不老不死。
それは多分、人の手に余る行為だ。
人は時間と共に老い、そして死んで土に還っていく。
そしてまた、土から命の芽吹きとなってこの世界をめぐり巡っていく。
それが自然。
それがきっと、生き物としての根源的な幸せだ。
山奥の村で、自然のなかで育ったクロは、そういう人生観を持っている。
仮に自分が不老不死になったとして。
時が流れ行き、周りの人たちが寿命を全うしていくなか、それらをすべて見送って、その人たちの子供――あるいは自分の子供も看取っていき、そのまた子供も、さらにその子孫たちとも死別していくなんて、そしてそのあともずっと、二度と会えない人たちを想いながら生きていかなくてはならないなんて、それはもはや地獄だろうと、クロは思った。
だからクロは不老不死を追い求める気持ちがよく分からない。
多分、あってはいけないものなのだ。
不老不死の霊薬なんてものは。
「…………」
小瓶のなかで淡く光るフルポーションを眺めた。
そう、まだこれならいい。
いや、むしろこれは人類には必要なものだと、そう思ってしまうのは、自分勝手なエゴなのだろうか。
「…………」
いくら考えても、答えはでなかった。
エリクサーは否定し、フルポーションは肯定する。
少しだけ、自分が矛盾しているような感じがした。
「これを使うような機会が無いほうが良いのだろうが。どうだろう、私のためと思って受け取ってくれないか」
マーガレッタの声で、自分がいつの間にか熟考していたことに気づいた。
顔を上げて彼女を見る。
「ここで、そう、今ここで貴公にコレを渡せなかったことを……後悔したくないのでな」
一瞬だけ、マーガレッタの目に影がかかった。
深い哀しみ。
そして後悔。
そんな昏く沈んだ感情の闇。
「…………」
立ち入ってはいけない。
無闇に人の心を探るものじゃない。
そう思いながらも、クロは訊いてしまっていた。
「どうして……俺にそこまでしてくれるんですか?」
「うん? うん……。……そうだな」
マーガレッタは少し悩んだ素振りを見せた。
話すか話すまいか、そんな感じの悩み方。
やがて彼女はうんと小さく頷いた。
「貴公は、私の妹に似ているんだ。だから、多分放っておけないんだろうな」
妹というのなら当然女の子だろう。
その女の子に似ている、と。
なんというか、率直に言うと、微妙だった。
「そんな顔をするな。いや、私の言い方も悪かったのだが。そうだな、容姿とかそういうのではなく、雰囲気……かな」
「雰囲気ですか」
「そう。生き様と言ってもいいか。貴公と同じで妹は努力家だった。妹はとても不器用でね。何をやっても苦労していたな」
そう言って、マーガレッタはくすりと笑った。
決してそれは嘲笑ではない。
むしろ逆。
羨ましく眩いものを見るような、二度と手に入らない懐かしいものを想うような、そんな、哀愁を帯びた笑い方だった。
「……副団長は、逆だったんですね?」
マーガレッタの言い方と表情で察した。
この人はシャルラッハと同じ種類の人間だ。
「……そうだな。私は昔から努力というものをあまりしてこなかった。ある程度やってしまえば、大抵のことは何でもできた」
きっと、この人は昔から本物の天才だったのだろう。
凡人とは違う、神に愛された人間。
生まれたときからしてすでに違う、非凡の存在。
本物の才能を前にしては、人は妬む気にすらなれない。
たった4年で副団長の地位にまで駆け上がったマーガレッタは、団員たちに恨まれることなど無かったらしい。
彼女が持っていたのが半端な才能だったなら、きっと団員たちの嫉妬の嵐によってさまざまな嫌がらせを受けただろう。けれど、そんなことにはならなかった。
嫉妬を通り越して、崇拝に近い感情を持たされるほどの天才。
それが、きっとこのマーガレッタ・スコールレインという人間なのだろう。
理不尽なほどの才能の差。
その垣根はたとえ血の繋がった姉妹であっても越えられない。
マーガレッタの妹は、いったいどういう気持ちで姉と接していたのだろうか。
「妹はおどろくほど頑固でな、性根が真っ直ぐな子だった。前を行く私を、転びながら泣きながら、それでも真っ直ぐ追ってきてくれていた。
例えば子供のころにやった内職の裁縫。小遣い稼ぎに2人でやっていたんだ。妹は、針で指を血だらけにしながら頑張っていたな。でも、私が手を貸そうとしたら本気で怒ってきたことがあった。なぜか分かるか?」
それは単なる劣等感からの怒りなんかじゃない。
自分が不器用だから八つ当たりをしたわけじゃないはずだ。
それは多分――
「――自分のせいで、あなたが手を止めたから」
才能豊かな人間が、凡才の自分を心配して、その歩みを止めてしまう。
それは罵倒されるよりも遙かに辛いこと。
才能の有る人間は立ち止まってはいけない。
自分のせいで立ち止まられたりでもしたら、無限にある天才の未来を閉ざしてしまうかもしれない。
そんなことになったら、多分死にたくなるほど辛い。
天才は後ろを振り返ってはならない。
天高く在る星が、地上の人間に手を伸ばすなんてあってはならない。
「……きっと彼女は、真剣に、本気で副団長に追いつきたかったんだと思います。その背中に追いつきたくて必死に走っているのだったとしたら、その相手が立ち止まって手を差し伸ばしてきたら、それは多分……それが善意であればあるほど、苦痛だったんじゃないかと……思います」
そう答えたクロに、マーガレッタは心底からおどろいた顔をして、
「やはり、貴公と妹はよく似ている。まったく同じことを言われたよ」
優しい、慈愛に満ちた目をして微笑んだ。
――妹さんはいまどこに?
訊きたかったが、訊けなかった。
マーガレッタが妹のことを話すときは、すべて過去形だったから。
きっと訊いてはいけないことだ。
人には誰しも、簡単に触れてはいけないことがある。
マーガレッタは平民出の出世頭だ。
平民の少女だったマーガレッタは、どうして騎士団に入ったのか。
はじめて剣を握ったその日に、彼女はオークを倒したという。
きっとそれはクロにトラウマを植え付けた例のあの特訓の結果だ。
今から4年前、剣を握ったことの無かった当時18歳の少女がどうして騎士団に入って魔物を倒すようになったのか。18という歳ならもうすでに何らかの職についていただろう。それを辞めてまで、どうして突然そうなったのか。
副団長になるほどに。
騎士号を与えられるほどに、どうして剣を振るったのか。
ちらりと見えたマーガレッタの手は、剣の特訓に明け暮れた者の手だった。
それはきっと、天才がはじめて本気で努力をした証明だ。
才能があり、あまり努力をしてこなかったと言った彼女がどうしてそこまで熱心に、しかも突然に剣術をはじめたのか。
――どうして彼女は闘いをはじめたのか。
それは多分、訊いてはいけないことだ。
今は、まだ。