38 豪雨の敵襲
雨が激しくなってきた。
クロを追うシャルラッハとアヴリルは、ぬかるむ地面に足をとられながらも走り続けている。
王墓から王都間のこの道は、人通りが少なく馬車の行き来もあまりない。そのため、道が平されておらず凹凸が多く、雨で濡れると滑りやすくなっている。
「……なんて速さ」
走りながらシャルラッハが呟く。
クロ・クロイツァーの足跡が地面に残っている。
激しく強く踏みしめたその足跡は、尋常じゃない脚力によって大きく窪みが出来てしまっている。
元々、クロは凄まじいバランス感覚を持っていた。
それはまだエルドアールヴとなる以前、グレアロス騎士団の予備兵だった時からのものだ。
おそらく、常にそういう環境で育ってきたというのが大きいのだろう。
クロ・クロイツァーは、山奥の名も無い小さな村の出身だったらしい。
山の天気は変わりやすく、何より高低差があり、マトモに歩くには技術が必要だ。
そんなところで育ってきたということならば、必然的に平衡感覚は意識をせずとも鍛えられるだろう。
彼が山奥でどういう生活――特訓をしていたのかは知らないが、デオレッサの滝の滝壺で、水面を歩くエーテル技『水渡』をいきなり使えたというのは、そういう下積みがあったからだろう。
そしてその突出した平衡感覚は、エルドアールヴとなった今、更に研ぎ澄まされている。
エルドアールヴとしてのクロの速さは、『雷光』を使っていない自分の速さとそこまで変わらない。アヴリルも同じくだ。
しかし、追いつける気がしない。
こちらは滑らないよう、転げないよう速度をやや落として、足を踏みしめる地面を選び、気をつけながら走っている。
なのに、彼は滑りそうな場所なんてお構いなしの足運びだというのが、その足跡を見て分かる。
おそらく滑っても関係ないのだ。
足が滑って体勢が崩れてもすぐに持ち直す。
体幹が尋常じゃない。
怖ろしいほどのバランス感覚で、凄まじい速度で、このぬかるみの酷い道を駆け抜けている。
距離の差は広がる一方だ。
「王都が見えましたわ。アヴリル、このまま走り過ぎるけれど、へばってない?」
「体力には自信がありますので! それにしても、ふふふ……」
「どうかした?」
「なんだか狩りみたいで、興奮してきました」
「……アヴリル、殺しちゃダメよ?」
満月が近いからだろうか、アヴリルの本性がちらほら見えてきた。
普段のおちゃらけた雰囲気が少しずつ、影を潜めてきている。
「クロイツァー殿は、不死だから死なないのでは?」
「……たしかに」
不死。
クロ・クロイツァーが背負った災い。
何があっても死なない、呪いのような詩編の能力。
地位と財産を持った権力者が大抵欲しがるという、不老不死。
誰もが羨みそうなそれを、クロ・クロイツァーは嫌悪している。
一体、この二千年の間に何があったのか。
かつての彼と今の彼は、風貌こそ一緒だが、決定的に違うところがある。
強さもそうだが、今のクロ・クロイツァーは笑わない。
口端を緩ませることはあっても、昔のように、グレアロス騎士団にいた時のように、笑わなくなっている。
それが、なぜか無性にイライラする。
「王都を南下したら、道もマトモになるでしょう。クロ・クロイツァーには相当離されているでしょうけれど、ここから巻き返しますわよ」
「はい!」
王都に入らず素通りして、南へと走り続ける。
しばらくして、アヴリルが感心したように言う。
「それにしても、姿の影すら見えませんね」
「ええ、随分と置いていかれたようね」
「シャルラッハさま、嬉しそうですね?」
「え?」
自分とクロ・クロイツァーの差を、『走る』という自分の得意分野でさえハッキリと分からせられて、しかし、シャルラッハは口の緩みを抑えられなかった。
嬉しかったのだ。
彼のそれまでの努力が実を結んでいる。
それが人事ながら、とてつもなく嬉しく感じてしまう。
「そうね、不思議」
本来ならば屈辱だ。
自分の得意分野で負けるなど、あってはならないことだ。
でも、なぜだろうか。
クロ・クロイツァーなら許せる。
他の誰でもない、彼に負けるなら構わない。
そう思ってしまっている自分を知覚して、シャルラッハは不思議に思った。
この気持ちが溢れてくる源泉が分からない。
一体どういうことだろうか。
実力が離れていようが、いずれ追いつこうと考えているからか。
それとも、彼がエルドアールヴだから――人類史上最強の英雄だから、負けても仕方がないと考えているのだろうか。
いいや違う。
そういうことじゃない、とシャルラッハは確信している。
これは、そう。
この気持ちは、もっと自分の深いところに起因している。
もっと根源的なもの。
たとえばそれは。
――わたくしの可愛いシャル――
遠く、ずっと昔。
まだ幼い頃の自分を優しく抱きしめてくれた母のように。
――愛しているわ――
そう、母が自分にそう言ってくれたように。
自分もクロ・クロイツァーに対して――
「…………ッ!?」
何か、とんでもないことに気づきかけたシャルラッハだったが、さっきまでの考えは全て吹き飛んでしまっていた。
走っている先、大きな岩が道端にある。
その上に、いてはいけないものがいた。
「ジズ・クロイツバスターッ!!」
「やぁやぁ! やっぱり、追ってきたね」
ズシャッと音を立てて急停止。
横で走っていたアヴリルも同じタイミングで止まった。
「あれ? 君等ふたりだけなんだね」
「…………ッ」
土砂降りの雨の中でもよく分かる、くすんだ白髪。
片方だけ見えている、不気味なほどに真っ赤なその眼。
「悪いケド、クロを追わせるわけにはいかないよ」
ニタリと嗤ったその顔は、いつもどおり下卑ている。
「…………」
地面を見る。
クロ・クロイツァーの足跡が残っている。
彼はここをそのまま素通りしたようだ。
「あら、わたくし達は通してくださらないの?」
雨で冷えて頭は冷静だ。
ナルトーガでの無様はもう晒さない。
「うん、ダメ」
「……ん? ここをクロ・クロイツァーが通った時は、あなたどうしてたのかしら?」
ちょっとした疑問だった。
今のクロ・クロイツァーがジズを見逃すはずがない。
「かくれんぼしてた」
ジズは岩の下あたりを指差した。
「……呆れた、それで土塗れなわけ。クロ・クロイツァーが怖いから、震えながら土の中にいたと……随分と情け無いのね?」
「うん! 今のクロ怖いもんね~」
「…………」
ダメだ。
煽っても、このジズという男には意味が無い。
プライドのようなものが一切無い。
自分の煽り力、舌戦の練度ではこの男の精神を揺るがすことは不可能だ。
「まぁ……それはそれとして」
細剣を抜く。
実力では圧倒的に向こうが強い。
だが、ここで引く選択肢は無い。
「無理やりにでも、通してもらいますわ」
「ガルルルルルルルルッ」
珍しくアヴリルが威嚇している。
獣のように四肢で地面に立って構えている。
加えて、その右腕からビキビキと軋むような音が聞こえてくる。
人狼の特性、『月酩』だ。
アヴリルのは普通のそれとは一線を画す。
月酩は、満月時にしか使えない代わりに凄まじい身体強化をするウェアウルフ特有のスキルだ。
しかし、アヴリルは新月だろうが昼間だろうが関係なく発動出来る。
そして、その身体強化の効果が大きすぎて、肉体までも変化するという『変身』のおまけ付きだ。
その効果は満月の夜が近づけば近づくほど、強くなる。
グレアロス砦の闘いで使ったらしいが、あの日は新月だった。つまり、アヴリルにとって最弱の夜があの日だった。
仮に、今のアヴリルが『月酩』を使ったなら、ひとりでキュクロプスやハイドラゴンの相手をしながら無数にいた魔物を全滅させることも可能だっただろう。
最高の状態――つまり満月の夜ならば、アヴリルは『英雄』クラスの実力を発揮する。
デメリットとしては、満月の夜に近づけば近づくほどアヴリルの理性は本能に浸食されていく。
彼女の本能は『狩り』。
獲物を獲って食らい殺す、獣の本能。
「アヴリル、『待て』」
「…………っ!」
「『お座り』」
「はい!」
「いいコね」
シャルラッハの命令に、興奮しすぎていたアヴリルが冷静になる。
「アレは何をするか分からない。気をつけないとダメじゃない。わたくしがどうなったか覚えているでしょう?」
「そ、そうですね。すみません……」
しゅん、としたアヴリルだったが、その漲る闘気はそのままだ。
シャルラッハも同じく、ジズを前にした緊迫感で、その闘気を極限まで研ぎ澄ませている。
「あれあれ? 殺る気まんまんだね。怖い怖い」
「アヴリル、アレとの会話もダメよ。満月が近くなって気性が荒くなってる今のあなたは、特に相性が最悪だから」
「はい!」
ジズはちょっとした会話だけで人をイラつかせる才能を持っている。
満月が近くなったアヴリルは強いが、その分精神状態が不安定になっているため、簡単に罠にかかってしまう可能性がある。
普段のような敵なら力で押し込めばいいが、相手はジズだ。
慎重に慎重を期すぐらいがちょうどいい。
「ゲハハハ、そんなに警戒しないでよ。ぼくは何もしないよ。こう見えてぼくは忙しいからね。やらなきゃいけないことが多くてね」
「…………」
「君等なんかに構ってる時間はホントはないんだよ」
さすがである。
こんな一言二言だけで、これだ。
普段の自分ならもう頭に血が上っている。
「あ、そうだ。君、『呪い子』で合ってるよね?」
ジズがアヴリルを指差して、言った。
「……ッ!?」
「アヴリル、『待て』」
『呪い子』。
その言葉を聞いて、反射的に突撃しそうになったアヴリルを制する。
「ああ、ああ! やっぱりそうなんだね。良かった」
ジズは「ゲハハハッ」と嗤いながら、更に続けた。
「あそこに街が見えるでしょ?」
ジズが遠くに見える街を指差す。
しかし、シャルラッハとアヴリルは、ジズから眼を離さない。
この男の言葉通りに動かされてはいけない。
たとえ視線のひとつとっても、決してジズのペースに呑まれてはいけない。
ジズが指差した方向にある街のことは、シャルラッハは知っている。
王都からしばらく南に行ったところにあるウルスの街。
農作を主としている街で、王都の食を彩る街のひとつだ。
「あの街に『リビングデッド』を放ったんだ。『呪い子』の君用のね。早く助けてあげないと、みんな死んじゃうよ」
「……お前ッ!!」
鋭い犬歯をむき出しにして、アヴリルが激情を吠える。
「あ、待って待って。あともうひとつ、他にも君にプレゼントがあるんだ」
今度はシャルラッハを指差すジズ。
ニタリと嗤って、自分の影に手をやった。
「…………ッ!」
シャルラッハの警戒は最大に。
この魔法は知っている。
闇属性魔法『影の収納』。
物を出し入れする魔法で、旅の魔法使いがよく使うものだ。
「ずっと会いたがってたんだよね、君に」
「……な……」
これには心の準備をしていたシャルラッハですら、仰天した。
「……ハァ、ハァ…………」
ズズズズ、とジズが影から引きずり出したのは、黒と赤の何か。
黒いものは見知ったものだ。
クロ・クロイツァーと同じ、グリモア詩編の黒い霧。
そして、赤いものは、血だ。あるいは……肉か。
「ハァ……ハー…………」
鎖で繋がれた――『ヒト』だ。
あり得ない。
『影の収納』は、物を出し入れするものだ。
『命あるもの』を入れることは不可能で、そういう条件で扱う魔法のはずだ。
『魔法』や『戦技』は、自らの心や精神に大きく影響される。
それは自らに嘘がつけないということであり、自分を騙すことも不可能だ。
エーテルの技を発動させる際の条件を無視できないのはそういう理由がある。
ジズもまた、『影の収納』の条件を無視できない。
しかし、彼が人を収納しておいたということは、それはつまり、ジズは人も物も同じように見ているということだ。
精神の奥深くから、心の底から、人を物扱いしている外道だということを示している。
おぞましい。
シャルラッハは単純にそう思った。
「相手してあげてよ、デルトリア伯の」
「ゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
ジズがその鎖から手を離す。
すると、まさしく怪物と化したデルトリア伯がシャルラッハへと突撃した。
皮の無い、むき出しの筋肉の腕を振るう。
それを細剣で受け止めるシャルラッハ。
「く……ッ、なんて力……ッ」
「シャルラッハさまッ!」
「ゲハハハハハハッ!!」
ジズが嗤う。
「……これが、デルトリア伯ですって……?」
「そうだよ、強いでしょ? それ、生きてた時より強いよ多分」
「…………くッ」
「どうなるか見てみたいけど、残念……ぼくはもう行かなきゃ。ああ、忙しい忙しい」
「……一体、何をする気?」
「ん~、内緒。それじゃ、バイバイ」
言うと、ジズはふわりと宙に浮いて、そのまま空高く舞い上がり、南の方へ飛んでいった。
待てと言うヒマも無い。
好き勝手にやって、言いたい放題言って、自分勝手に満足したまま逃げられた。
何も出来なかった。
もうその姿も見えなくなった。
「……あいつ、絶対許さない……」
逃がしてしまったのはもう仕方がない。
今はやるべきことをやらなければいけない。
シャルラッハはすぐにアヴリルに指示を出す。
「…………アヴリル、あなたは街へ向かいなさい」
「し、しかし……」
「速くッ! 街の人を助けなさいッ!」
「…………ッ、はいッ!」
最後までこちらのことを心配しながら、アヴリルは街へ駆けて行った。
ひとり残ったシャルラッハは、デルトリア伯の腕をはね飛ばす。
「……信じられない。アルトゥール大公は、自分の子供まで利用したの……」
「ハー……ハァ……ゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
血飛沫を撒き散らしながら、デルトリア伯が大きく咆吼した。
それは貴族然としていたかつての彼とは思えない、無様な姿だった。
「……そう、もう自我すら忘れたのね。いいわ、感謝なさい。
もう二度と迷わないように、徹底的に――殺してあげる」
◇ ◇ ◇
「シャルラッハさま……どうかご無事で」
ウルスの街へ向かったアヴリルは、しかし、その途中で敵の気配を察した。
「…………ッ!」
その瞬間、衝撃が走る。
「がッ……ハッ」
何者かに蹴り飛ばされたような感覚だった。
警戒していたはずなのに、ギリギリまで気配を感じられなかった。
「…………く、さっさと倒してシャルラッハさまに加勢しなきゃいけないのに……ッ!」
周囲を見渡す。
ウルスの街の周辺には作物が多く実っており、この辺りはトウモロコシ畑になっている。
背の高いトウモロコシ畑はまるで迷路のようになっており、視界が狭い。
「…………」
8……いや、10体はいる。
集中を極限まで高めたアヴリルは、匂いと音を頼りに敵の数を把握する。
呼吸音や移動音は聞こえないが、匂いは凄まじい。
血の匂いだ。
あのデルトリア伯のように、皮が無い状態のリビングデッドだろうか。
「…………」
このまま姿を隠したまま少しずつこちらの体力を奪う気か。
アヴリルがそう思った瞬間、ガサガサとトウモロコシの茎をかき分けて、敵が姿を見せた。
「…………ああ」
ジズは自分へのプレゼントと言った。
そういうことか、とアヴリルは納得した。
出てきたのは、ウェアウルフ。
「父さん、母さん、兄さん……」
間違いようがない。
現れた敵は、自分の、血の繋がった肉親の姿だった。
「グルルルルルル……」
獣のような、うなり声。
生気の無い瞳。
口からは涎が絶え間なく流れている。
「ふ……ふふふふ」
かつて亡くした肉親達を見ながら、アヴリルはしかし、笑った。
「叶わない願いだと、思っていました。ずっと、ずっと後悔していました。そうですか、やっと……」
凶悪な笑みで、自分の敵を見据える。
「あなた達を――――この手で殺せるんですね」
アヴリルの金色の瞳が、怪しく輝いた。




