37 絶望賛歌――コンチェルト――
「フリッツ……」
地面から這い出て来たのはフリッツ・バールだ。
1200年前、彼を看取った。
家族を残して命を散らしたフリッツは、ヴェイルの先祖だった。
その無念の死は自分の無力さを痛感させるのに十分過ぎるほどだった。
フリッツの最期の言葉を聞いて、彼の妻子にその死を伝えたことを、今でも鮮明に覚えている。
「…………」
リビングデッドとして蘇ったその姿は、生前のままとは言い難い。
生気の無い顔。
視線の合わない眼。
どこか苦しそうな口元。
ゆらゆらと揺れる体。
あの時死んだままの格好で、あの時フリッツが持っていた剣の欠片を握っている。
「…………ッ」
グレアロス砦には、その名が出来るずっと以前から、あの場所で戦死した者達の鎮魂碑がある。
フリッツの剣の欠片は、自分がこの手で鎮魂碑に捧げたものだ。
つまり、ジズがそれを掘り起こしたということだ。
あの遺品にどんな使い方があるのか、何となくは理解した。
死して眠っていたフリッツを呼び起こす触媒だ。
死者を蘇らせるアルトゥールの詩編に、剣の欠片が使われたのだろう。
「グルルルルル……ッ」
まるで獣のように唸るフリッツは間違いなく本人だ。
当時の彼のエーテルが、そこにある。
詩編の力で『命の海』から引き上げたのだ、その魂を。
「…………ッッ」
言葉にならない。
一体どういう気持ちで彼に向き合ったらいいのか分からない。
武器を握る手に力が入らない。
「グルアアアアアアアアアッ!!」
だからだろうか。
フリッツが敵意をむき出しにして向かってきても、何も行動が取れなかった。
「……ぐッ」
剣の欠片を首に突き刺された。
負傷の痛みより、フリッツに攻撃された事実の方が、痛かった。
「……ごふッ」
仮面の内側で吐血する。
鉄臭い血の匂いと味が充満していく。
「グルァアアアアアアッ!!」
フリッツの武器はこちらの首に深々と刺さっている。
彼は口を大きく開き、その歯をむき出しにする。
「フ……フリッツ……」
ガジュッと音を立てながら、フリッツが肩に噛みついてきた。
歯で肉を噛み千切ろうとしている。
「ぐッ…………うッ」
尋常じゃない痛み。
僧帽筋がぐしゃりと音を立てながら潰れていく。
動揺からか、エーテルの防御がうまく機能しない。
何の抵抗もなく、フリッツの歯が筋組織を噛み潰していく。
「フリッツ……」
ぽつりぽつりと、雨が降り始めてきていた。
心の奥で、何かがガラガラと壊れていく音が聞こえた。
◇ ◇ ◇
「グリモアの気配です!」
王墓に到着したエリクシアが開口一番にそう言った。
その言葉と同時に、シャルラッハとアヴリルが警戒態勢に入った。
「奥ですわね」
「丘の向こう、了解です」
短い言葉で状況を確認し合う。
入口からでは見えない場所。
そこにグリモアの気配があった。
「これは……どうしたことじゃ」
「エーデルさん?」
エーデルが立ち尽くす。
その視線は王墓のずっとずっと先、グリモアの気配が漂う場所に向けている。
「エルドアールヴの気配が弱々しい……」
エーデルは動揺している。
クロ・クロイツァーのエーテルは常に力強く、温かい。
英雄としての覇気があった。
戦士としての気迫があった。
戦闘時はもちろん、馬車の移動中や街を歩く時、寝る時すらも常に力強かった彼のエーテル。
なのに、ここから感じられる彼のエーテルは弱々しく、あまりにも冷たかった。
「……急ぎましょう。わたくしとアヴリルが前に、ふたりは後ろから来てちょうだい」
シャルラッハが言って、走る。
墓標がいくつも建っている道をすり抜けてひた走る。
アヴリルが並走し、エリクシアとエーデルが遅れて後ろから。
気が急く思いを抑えながら、墓の丘を越えてその先へ。
王墓は山と山の間にある谷に作られており、高低差が激しい土地である。
ところどころに小さな丘があり、坂道になっている場所もある。
丘を利用してひとつの区画として墓標が密集しており、墓参りをする人々が分かりやすいようにしている。
「いました!」
ザッと急停止して立ち止まったのはアヴリル。
同じように止まったシャルラッハも、アヴリルが見ている方向を注視する。
「ハァハァ……!」
少し遅れてエリクシア。
「ハァハァ……そ、そなたら……速すぎ……じゃ」
最後にエーデルだ。
息を荒くしてフラフラになっている。
「ど、どこじゃ……?」
エーデルがようやく追いついて立ち止まり、3人が見上げている場所を見る。
ここは丘と丘の間で、低い位置にある道だった。
自然と見上げる形になっていた。
「な……」
まだ少し遠い丘の上。
無縁墓地の区画に、クロ・クロイツァーは立っていた。
「…………」
最初にその光景を見ていたアヴリルとシャルラッハ。
そして後から見たエリクシアとエーデル。
全員が例外なく、体が固まった。
「――――――――」
丘の上にいるクロ・クロイツァーは、斧槍を突き刺していた。
抱きつき被さるように襲いかかっている何者かを、自分ごと刺し貫いていた。
その姿を見た4人は、まるで時間を止められたかのように動けなかった。
クロ・クロイツァーの漂わせているエーテルが、あまりにも哀しみを帯びていたから。
こんな遠くからでもハッキリと分かるほど、彼はあまりにも無防備だった。
「…………ク、ロ……」
エリクシアがようやく言葉を紡げそうになったその瞬間。
クロ・クロイツァーを襲っていた何者かが、灰となって崩れた。
サラサラと、雨と風に溶けるように、呆気なく消えていった。
後に残ったのは、自分の腹から背までハルバードで刺し貫いているクロの姿。
彼が今、どんな表情をしているのかは分からない。
エルドアールヴの仮面が邪魔をしている。
遠い、この距離が邪魔をしている。
「…………っ」
ひとり、雨の降る丘に立ち尽くすクロ・クロイツァーが一変したのは次の瞬間だった。
漂うエーテルの質が明らかに変わった。
哀しみの色から、憤怒の激情へ。
ズズズズズズ……ッと、
地鳴りのような重圧が周囲に放たれる。
激烈なまでのエーテルの奔流が、クロを中心に渦を巻いている。
墓地の近くにいた鳥達が一斉に空へ羽ばたいていく。
怖ろしいものが近くにいる、と。
危険なものがここにいる、と。
クロがハルバードを体から引き抜いた。
血が大量に流れ出しているのが見えた。
雨と血が混じり合い、丘を流れていく。
クロはハルバードを持ったまま、逆の手でギガントアクスを握りしめて、立ち尽くしている。
黒いグリモア詩編のエーテルが、クロの周囲に纏わり付く。
不死の力、その副次作用『治癒』だ。
「……………………」
エリクシアは思った。
そこにいるのは、自分の知っているクロ・クロイツァーじゃない。
そこにいるのは、『最古の英雄』エルドアールヴ。
自分がまだ知らない、二千年を歩んだ不死の英雄だ。
彼が一体、どういう風にしてその二千年を過ごしてきたのか、詳しいことは分からない。
歴史と伝説と英雄譚でしか知らない、クロ・クロイツァーの過去。
先ほどの相手が誰だったのかは分からない。
しかし、クロの様子からして関わり合いの無い相手ではないことは明白だった。
自分が立ち入っていいものなのかは分からない。
誰でも人に知られたくない過去はある。
二千年分の過去となると、それがどれほどのものになるのかは想像すら出来ない。
「クロッ!!」
それでも、エリクシアは叫んだ。
彼の名を。
いまだ立ち尽くすクロの名を。
「…………」
けれど、彼はそんな声に気づかず。
そのまま、迷いなくどこかへ走り去ってしまった。
「待っ…………」
縋るように手を伸ばすが、当然、彼に届かない。
エリクシアの手は、雨が降りしきる宙を掴むだけだった。
あまりにも遠い、背中だった。
◇ ◇ ◇
シャルラッハは迷っていた。
すぐにクロ・クロイツァーを追うべきかどうか。
あの様子はただ事ではなかった。
今の彼は危うい。
このままひとりにしておくと、どうしようもないほどの後悔をする。
そんな予感。
「…………ッッ」
足に力を入れる。
地面をぐっと踏みしめる。
体の不調は直っている。
が、『雷光』はまだ使えない。
自分の体のことだ。
ハッキリと分かる。
それでも足の速さは他者に追随を許さない自信がある。
今から追いかければ、もしかしたら追いつけるかもしれない。
ただ、懸念があった。
クロ・クロイツァーを追うとなると、全力で走らなければならない。
それほどまでに彼は速い。
全力で走る自分と並走出来るのは今のメンバーではアヴリルしかいない。
つまり、エリクシアとエーデルを置いていくしかない。
彼女等が王墓入口に停めている馬車まで戻り、それから走り出すまでのタイムラグはあまりにも大きすぎる。
それを待っていてはクロ・クロイツァーには絶対に追いつけない。
かと言って、彼女等の身の安全をクロ・クロイツァーから任された身としては、ふたりを置いていくなんてあり得ない。
そんな想い、迷いが、シャルラッハの足を止めていた。
クロ・クロイツァーは王都方面の南に向かって駆けていった。
おそらく目的は王都ではなく、その更に南。
『英雄』アルトゥールが住まう居城だろう。
クロ・クロイツァーが闘っていた相手は、リビングデッドというやつだ。
聞いていたとおり、灰になって消えていったから、まず間違いない。
死んだ者を蘇らせる、この世ならざる異常な力。
蘇生者の力だ。
あのジズがプレゼントと称して贈ってきた敵。
マトモな敵ではなかったのだろう。
おそらくは、クロ・クロイツァーが動揺するような相手。
「…………」
彼があれほどまでに取り乱すような相手。
大切だった人か、それに類する人間だったのは間違いない。
遠目だったがハッキリと見えた。
自分で刺し貫いた傷以外に、クロ・クロイツァーは傷を負っていた。
その大切だった人が、自分に向かって襲い掛かって来るという惨い仕打ち。
そしてそれを倒したクロ・クロイツァー。
一体どれほどの想いで刺し貫いたのだろう。
例えば、自分に置き換えて考えてみる。
自分の亡き母であるフロレンツィア・アルグリロット。
大好きだった母上が、敵に蘇らせられて襲い掛ってくる。
「…………」
ああ、ダメだ――とシャルラッハは思った。
そんなことをされたら、多分マトモではいられなくなる。
憤激と悲哀で頭がどうにかなってしまう。
「…………ッッ」
クロ・クロイツァーの気持ちを考えただけで胸が苦しくなる。
やはり、ダメだ。
彼を今、ひとりにしては絶対にダメだ。
「シャルちゃんッ!!」
「――――ッ!?」
エリクシアの声で、ハッとした。
彼女を見ると、何かを耐えているかのような複雑な表情をしていた。
すぐに分かった。
自分と同じようなことを考えていたのだろうと。
「行ってください! わたし達のことは気にしないで!」
「エリー……」
「今のクロは、怒りで我を……いいえ、哀しみで我を忘れています」
あれほどまでに取り乱したクロ・クロイツァーは見たことが無い。
いや、あれほどまでに感情をむき出しにした人間を、これまで見たことが無い。
人はどれだけ感情に流されても、表面に出てくるものは、ほんの僅かでも理性が効いている。
それは自分の中身を他者に知られることを本能的に危険と知っているからこそ来る心理的防衛本能の一種だ。
しかし、先ほどのクロ・クロイツァーにはそれがまったく見られなかった。
あれを何かに例えるなら――――泣いている幼子だ。
あまりにも無防備だった。
危険極まりない状態だ。
そんなところを敵に付け入られたら、大変なことになる。
「クロを……」
エリクシアは必死だった。
クロ・クロイツァーに対して、ここまでの仕打ちをしてきた『敵』に憤激の思いをこめて。
地獄のような苦しみを味わっているクロ・クロイツァーのことを心の底から心配して。
「クロを助けてあげてください……ッ!!」
エリクシアは泣いていた。
迷っていた自分がバカだった。
エリクシアの言うとおりだ。
今自分が真っ先にすべきことは。
「アヴリルッ!! ついてきなさいッ!」
クロ・クロイツァーの首根っこを掴んででも引き戻すこと。
頭が茹だっているなら横っ面を引っ叩いてでも、無理やりに。
「了解ですッ」
言われて、アヴリルは両手を地面につけた。
四足獣のような体勢。
これはアヴリルがなり振り構わず本気で走る時の体勢だ。
「エリー、また後で」
「……はい! クロをお願いします!」
「エーデル! エリーを頼みましたわ」
「まったく……どいつもこいつも好き勝手に動きおって」
エーデルはやれやれと肩をすくめた。
シャルラッハは「ふん」と鼻を鳴らす。
「あなたがそれを言うの?」
「わらわは王じゃからな」
「はいはい」
「シャルラッハ、アヴリル、頼んだぞ。あの阿呆を張り倒してでも止めてくるのじゃ!」
「ええ」
ニヤリと口端を歪めたシャルラッハは、地面を爆発させるような勢いで、クロ・クロイツァーへと全力で駆けて行く。
アヴリルも暴風のような勢いで、その後ろにピッタリついて行った。
「クロ・クロイツァー。わたくしを置いていこうだなんて、あと二千年早いですわッ!」
雨が強く降り始めた。
それはクロの感情を体現するかのように、更に強く、激しさを増していった。




