1 いずれいつかの英雄譚
「ねぇ、シスター・マリアベール。えいゆうの本読んで」
簡素なベッドの上で、5歳になるクロ・クロイツァーはうれしそうに足をパタパタさせていた。
夜は子守歌代わりの本を読んでもらうことになっている。
1日の終わりのこの習慣が本当に楽しみだった。
ベッド横のテーブルに置いた燭台が、部屋をやわらかく照らしている。
今日は特別に静かな夜だった。
ここはグラデア王国の王都から遠く離れた、山奥の村にある小さな教会。
その教会の一室がクロ・クロイツァーの寝室だった。
村には他に農家が数軒と、旅人が体を休める宿屋兼酒場があるだけだ。
山の夜はとにかく早い。
陽が落ちればすぐに昏くなる。
わざわざ闇夜を歩く人間はおらず、すでにみんな寝静まっていて人のざわめきはない。あるのは風に揺られた木々の葉がこすれ合う音ぐらいのもの。
そのはずなのだが、今夜は風が吹いていない。
虫の声すら届かない。
吼える獣の声も、遠くに潜む怪物の唸り声も聞こえない。
今日は本当に、不気味すぎるほど静謐な夜だった。
「また英雄のお話ですか?」
先ほどの声に反応したのは、エルフの少女だった。
少女はマリアベール・クロイツァー。
この小さな教会の主である。
クロ・クロイツァーよりも少し上……10歳にも満たない子供に見えるが、彼女の実年齢は16だ。
人類には『人間』を基本系とした亜種族がいる。
『小人』や『獣人』、そして『妖精』など多種多様にあり、他種族の年齢を一見して看破することは不可能に近い。
エルフの寿命はヒュームの倍はあり、その成長速度もゆっくりしている。
エルフ特有の、年齢と容姿の相違。
それを勘案しても、16という若さで教会の主をしているというのはおどろくべきことで、教会に立ち寄った旅人のほとんどがその事実にとまどってしまうのも仕方がないといえる。
ヒューム族のクロ・クロイツァーと、エルフ族のマリアベールはもちろん血の繋がりはない。
縁があってこの小さな教会で共に暮らしている。
異種族の、仲の良い姉弟関係。
それがこの2人の間柄である。
「では、今日はどの英雄のお話にしましょうか」
マリアベールは部屋に備えられている本棚に移動した。
部屋の壁二面を占領する本棚には古い本がずらりと並んでいる。マリアベールは本の背表紙を小さな指でなぞっていく。
「いつもの人の話がいい」
クロ・クロイツァーが迷いなく即答する。
マリアベールはにこりと笑って、数多くある本のなかでも一際分厚い本を手に取った。
「わかりました。『最古の英雄』ですね」
クロ・クロイツァーが英雄に憧れはじめたのはこの本がキッカケだった。
最初は小さな憧れの感情。
年端もいかない男の子が強いものに憧れる程度のものだった。
「そう、それ!」
――きっと、それがはじまりだった。
「クロは本当に『最古の英雄』が好きですね。まぁ、私も好きなんですけど」
何度もこの本を読んでもらっているが、マリアベールはイヤな顔ひとつせず、本を開きながらベッドに腰掛けた。
上品な仕草だったが、小さな体躯なので足は床に届いていない。それを指摘すると拗ねてしまうので、クロ・クロイツァーは黙ったまま物語のはじまりを待つ。
一息して、鈴の音のようなやさしい声が部屋に響く。
「――むかしむかし、『エルドアールヴ』という少年がいました」
いつか誰かが歩んだ、おとぎ話がはじまった。
◇ ◇ ◇
古代王国アトラリア。
かつて繁栄の極みにあった王国は、ある日たった一夜で滅亡した。
そしてアトラリア滅亡と同時期に、正体不明の怪物が突如として出現する。
それが、超好戦的な敵性生物――魔物。
人類との衝突は必然だった。
周辺各国は当初こそ混乱の極みにあったが、団結して闘うことで対処していった。
そして、
凶悪な魔物との闘いが激化していくなかで、他を強烈に惹きつける〝個〟が現われはじめた。
――英雄。
人が多く集まれば、突出した才を輝かせる者が必ず現われる。
群を抜いた強大な個人戦力。
どれほどの劣勢でも、獅子奮迅の勢いで勝利を飾る。
闘いには事欠かない時代、人々が憧れる英雄が次々と誕生していった。
そんな英雄たちのなかでも、さらに飛び抜けた力を持つ者がいた。
それは、とあるエルフの一族の守護神。
エルドアールヴと呼ばれる大戦士。
曰く、『最古の英雄』。
曰く、『英雄の筆頭』。
曰く、『人類の救世主』。
曰く――『不死の英雄』。
魔境に潜む、朱眼のグリフォンの退治。
遺跡を守る、ガーゴイルの群れの殲滅。
大砂漠の地中に住まう、サンドワームの撃破。
山のような巨大さを誇った邪竜との激戦。
悪辣を極めた魔導の王との決戦。
ひとつひとつの闘いを生き残ることでさえ偉業と呼ばれるのに余りある。
なのに、最古の英雄エルドアールヴはこれら強大な敵たちと闘って勝利してきた。
誰もが口を揃えて言う。
彼こそが、史上最強の英雄なのだと。
エルドアールヴの活躍に、目をキラキラと輝かせたクロ・クロイツァーは興奮しきりだった。
寝付けなくなってしまった彼に、マリアベールは困ったように微笑んだ。
◇ ◇ ◇
村には子供が楽しめるような娯楽はなく、同世代の人間がいなかったこともあってか、クロ・クロイツァーは英雄というものに異常なほど没頭していった。
文字を覚え、教会にあった本という本を読みあさった。
読み聞かせてもらっていた英雄譚は、エルドアールヴが活躍した伝説のごく一部にすぎなかった。一冊の本に収まりきらない武勇伝は、実際にはもっと多くの闘いと勝利があった。
アトラリア滅亡と魔物の出現から2000年。
いまだ魔物との闘いが収まる気配はない。
クロ・クロイツァーが住んでいるグラデア王国領土も例外ではない。
闘いの舞台ははじめから整っている。
いずれ自分もおとぎ話の英雄のようになりたいと、クロ・クロイツァーが夢想するのは当然のことであった。
――憧れはいつしか渇望へ。
普通の人間は英雄にはなれない。
なれる人間は天性の才があるもので、生まれたときからそうなるべくして生まれてくる。
クロ・クロイツァーにはそれがない。
けれど、想いは年月を経ても変わることはなく。
やがて彼は15歳になっていた。
英雄に憧れるには早すぎて、焦がれるほどの夢を諦めるには遅すぎた。