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【完結】フェイドアウト  作者: 有喜多亜里


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5 ホーム

 その夜も父は夕飯までに帰ってこなかった。

 残業。接待。出張。父が再婚するまでは、頭から信じこんでいた。


「お父さん、今日は仕事で遅くなるって……」


 義母はいまだに訊かれもしないのに理由を言うが、祥一はいつも「ふうん」と答えて聞き流す。あんたはあの男が自分には本当のことを話していると信じているのかと内心嘲笑いながら。

 父が不在のときは、義母は食卓にはつかない。

 先に祥一に食べさせて、祥一がダイニングを出てから、自分の分を食べる。

 完璧に揚げられた天ぷらと適度な固さの素麺を食べながら、まるで食堂の一人客みたいだなといつも思うことをまた思う。最初のうちは義母も作り笑顔で祥一に話しかけてきたが、食事中は食べることに集中したいからと真顔で言ったら、以後はキッチンで黙々と洗い物をするようになった。

 再婚したばかりの頃は、義母の作る料理を拒絶して、コンビニ弁当ばかり食べていたこともある。だが、さすがに父もこれは看過できなかったようで、親の料理が食べられないならこの家を出ていけと稼ぎ頭の強権を発動してきた。

 まだ中学生で自立は無理だ。幸か不幸か、冷静にそう判断できる頭を持っていた祥一は、大学に現役合格してこの家を出るまでの約四年半、ここで我慢しつづける道を選んだ。

 逆らいはしない。しかし、媚びも売らない。

 〝母さん〟などと、死んでも呼ばない。

 彼らも祥一に対しては後ろめたさがあるようで、正当な理由があれば必要以上の金を寄こす。たぶん、仕送りもバイトの必要もないくらいくれるだろう。

 親のふりをして金さえくれればいい。むしろ、それ以外何もいらない。

 代金を払うかわりに不本意ながら「ごちそうさま」と言って〝義母食堂〟を後にした祥一は、来年何としてでもこの家を出るために、クーラー完備の自室で受験勉強を再開した。

 だが、再開してから一時間近くが過ぎたとき、マナーモードに設定してある携帯電話が机の上で震え出し、祥一の集中力を途切れさせた。

 画面に表示されていたのは、電話帳に登録されていない携帯番号だった。いつもなら無視するが、もしかしたらと思って迷わず出た。


『小川さん――』


 案の定、晄だった。祥一が出ないとでも思っていたのか、心底ほっとしたような声だった。


「どうした? 何かあったのか?」

『何かあったのかって……今日あったでしょ……』

「それはそうだが……狭山はどうした? 納得したか?」

『その前に、俺、どうしても小川さんに訊きたいことあるんです。それ訊いてから言います。……時間、大丈夫ですか?』

「ああ、いいよ。で、何だ?」

『小川さん、薫姉と別れますか?』


 単刀直入だった。祥一は一瞬、答えに詰まった。


「そうだな。たぶん、そうなるな」

『そう。……やっぱり』


 意外なほど晄は冷静だった。正直、祥一は拍子抜けした。


「で、それが? まさか俺に別れるなって言うんじゃないだろうな?」

『言ったらそうしてくれるんですか?』

「いや、しないな。今度ばかりは。いくらおまえの頼みでも」

『でしょうね。俺も期待してないです。ただ確認したかっただけ』

「じゃ、何で……」


 しばらく、晄は黙っていた。携帯電話が故障したのかと祥一が不安に思いはじめたとき、ふいに晄は口を開いた。


『俺が薫姉と似てるのは、顔だけじゃないんです』


 まったく想定外の切り出しに、祥一は完全に意表を突かれた。


「は?」

『性格とかはちょっと違うけど、あとは……好きな食べ物とか、色とか、音楽とか……とにかく、好みがほとんど同じなんです。だから気が合うってとこもあったんですけど……で、その……好きになる……人間も、薫姉と俺とじゃ、すぐ一致しちゃうんです』

「ちょっと待て」


 自分のことは棚に上げ、祥一は眉をひそめた。


「それじゃおまえ、男専門なのか?」

『ち、違いますっ。ただ、薫姉が気に入った人間は俺も気に入って、俺が気に入った人間は薫姉も気に入るってだけで……』

「……それってどっか歪んでないか?」

『いいでしょ、別に。それで、小川さんのことは、薫姉が二年になって、たまたま俺が一緒に電車乗ったときに、あれが自分の好きな人だって教えてくれたんです』

「狭山はそんなことまでおまえに言ってたのか……それに二年のときからなんて……執念深いな、おまえの姉貴は」

『どこが執念深いんですか。普通でしょ。それに……俺のほうが薫姉よりずっと執念深い。俺ね……知ってたんです』

「何を?」

『小川さんのこと。薫姉に言われる前から、知ってました』

「…………」

『俺の高校、小川さんの乗る駅のすぐ近くにあるでしょ。俺、朝練あって――まあ、部室でパソコンいじってるだけですけど――早めに学校行くから、いっつも途中で小川さんのこと、見かけてたんです。小川さん、たいていチャリ飛ばしてたから、気づかなかったでしょうけど』

「…………」

『でも、俺はそれだけでよかったんです。毎朝、姿見かけるだけで。そのうち熱も冷めると思ってたから、名前も知ろうと思いませんでした。だけどまさか、薫姉も小川さんのこと好きだったなんて……』

「…………」

『だから……忘れようとしました。無理に。行く時間も変えて、小川さん、絶対見ないようにして。そのくせ、小川さんの名前がわかってからは、小川さんと中学同じだった先輩に訊いたりして、小川さんのこと、いろいろ調べてたりしてました。姉貴がその人のこと好きで、詳しいこと知りたがってるからって。……バカですよね。詳しいこと知りたがってたのは、俺のほうだったのに。しかも、そうして調べたこと、薫姉には全然教えませんでした』

「…………」

『なのに……薫姉が告白したりするから……それでもって、小川さんが薫姉とつきあったりするから……俺のできないこと、みんなするから……せめて、小川さんが薫姉とずっとつきあってくれてたら、俺も少しは会えるかなって。……ずるいですか、やっぱり』


 冗談めいた口調で晄は言った。だが、祥一はこのとき、晄に対して最低だと言ったことを少し後悔した。晄には他にとるべき道はなかったのだ。


『でも、そのほうがかえって辛かった。それをしみじみ感じたのが、小川さんと映画見に行ったとき。……最初は俺、単純に嬉しかったんです。何かほんとにデートしてるみたいで。でも、目的はあくまで映画見ることだったから、一生懸命、映画ばっかり見てました。確かに映画は面白かったけど、薫姉のこと気にしながらつきあうのは、すごくむなしいだけでした。それならいっそ、全然会えないほうがよかった。だから俺、それからは以前みたいに小川さんには会わないようにしてました。でも、結局ああなっちゃったけど』

「…………」

『薫姉には全部ほんとのこと言いました。小川さんには悪いけど、もう俺、嘘つきたくなかったから。今はもう寝てます。――小川さん。あれは、本気じゃなかったんですよね? 終わらすための演技だったんですよね? それならいいんです。俺、もう二度と小川さんにこんな電話もしません。とにかく、いろいろすいませんでした。本当にすいませんでした。じゃ、さよなら』

「さよならって……こら、勝手にしゃべって勝手に切るな! おまえの悪い癖だぞ! たまには人の話も聞け!」


 あわてて怒鳴ると、本気で驚いたような晄の声が返ってきた。


『人の話って……え、小川さん、俺と話すことなんてあるんですか?』

「ある! いくらでも! ――晄。おまえ、本当に俺のこと好きか?」


 初めて名前を呼ばれて、さらに予想外のことを訊かれて、晄は言葉を失ったようだ。が、すぐに思いきり叫び返してくる。


『嘘でこんな電話なんかしない!』

「じゃあ、好きか?」

『好き! 大好き!』

「狭山よりも?」


 これには晄はためらったが、呟くように答えた。


『――好き』


 祥一はにっこり微笑んで言った。


「変態」

『小川さんッ!』

「じゃあ、おまえ、俺のどこがそんなに好きなんだ? 俺が男だから好きになったわけじゃないんだろ? なら、どうして?」

『どうしてって……急にそんなこと訊かれても……』


 晄はすっかりしどろもどろだ。祥一はしばらく笑っていたが、ふとあることを思いついて、うっかりそれを口に出してしまった。


「俺さ。明日、模試があるんだ。もし、俺とつきあいたかったら、明日、八時に香島駅に来い。一秒でも遅れたら、俺はもう二度とおまえには会わない。俺だって男は嫌だからな。いくら女顔だって」

『小川さん……』

「いいか、八時だぞ。朝だぞ。間違えるなよ」

『うん……うん』


 そううなずく晄の声は半分泣いていた。


「じゃあな」


 それだけ言って、祥一は晄より先に電話を切った。


 ――まずいな。


 切った瞬間、祥一はもう後悔していた。どうせ駄目だと最初からあきらめきっている晄が妙にいじらしく思えてきて、ついついあんなことを言ってしまったが、明日本当に八時前に駅に晄が現れたら、いったい自分はどうしたらいいのだろう。


 ――狭山みたいに、突然熱でも出してくれないもんかな。


 そんなことを考えながら寝たせいか、翌朝、起きるとすでに八時五分前だった。

 祥一の家から駅までは自転車で二十分ほどかかる。全速力で自転車を走らせても、結局駅に着いたのは八時十分過ぎだった。

 見たところ、駅の待合室に晄の姿はなかった。一秒でも遅れるなと言った手前、もし来たとしても晄はあきらめて、あるいはからかわれたと思って帰ってしまっただろう。それならそれでかまわない。幸いなことに縁がなかっただけのことだ。

 こんなことならこれほど汗だくになって急ぐこともなかったと思ったが、もしかしたらという期待とも不安ともつかない感情を覚え、ホームへの階段を駆け上る。

 ホームでは次の電車に乗る人間がすでに列を作っていた。一気に駆け上がったところでさすがに息が切れた祥一は中腰になって休んだ。


「十五分も遅刻ーっ」


 耳許でそんな声がした。


「自分で一秒でも遅れるなって言ったくせに、そっちが遅れる場合はいいんですか?」


 祥一は黙って横を見た。

 黒いTシャツと青いジーンズ。

 晄がいたずらっぽく笑って祥一をのぞきこんでいた。


「だから俺、絶対遅れちゃいけないと思って、今朝六時に起きて七時半にここに来たんですよ。なのに、八時過ぎても小川さん来ないから、思わず入場券買っちゃいました」

「……おまえ……何持ってる……」


 ようよう、祥一はそう言った。


「え……あ、これ? コーヒー。さっき、そこの自販機で買ったんだけど……」

「まだ……残ってるか……くれ……」

「残ってるけど……でも……」


 ためらっている晄にかまわず、祥一は缶コーヒーを引ったくって一息に飲んだ。それを晄が複雑そうな表情で見守っていたが、祥一はまったく気づかなかった。


「はーっ、生き返った。……わりー。全部飲んじまった」


 口を拭いつつ缶を振る。自販機の隣にあった缶入れに捨てて戻ってくると、晄は「それはかまわないですけど」と言って寂しげに笑った。


「やっぱり、いくら八時前に来てても、会ったのは八時過ぎだから、俺、もう小川さんに会っちゃいけないんですよね。……バカですよね。あれだけあきらめるって言っといて。でも、もしかしたら寝坊でもしたのかもしれないからと思って今まで待って、やっぱりあきらめて帰ろうとしたら、小川さんが走ってきたから……ああ、すっぽかされたわけじゃなかったんだって安心したんです。それ、わかっただけでもいいです。模試、がんばってきてください。あ、本番はもっとがんばってください。じゃ、俺帰ります。……さよなら」


 晄はぴょこんと頭を下げると、そのまま階段を駆け下りようとした。


「ちょっ、こらっ、待てっ!」


 とっさに晄の肩をつかむ。晄は不思議そうな顔をして祥一を振り返った。


「今度は何ですか? 電車来ましたよ。あれに乗るんでしょ?」

「おまえのその弱気はわざとなのか?」


 半分怒って祥一は言った。


「どういう意味?」


 晄はきょとんとしている。祥一は舌打ちすると、汗に濡れた前髪を掻き上げながら視線をそらせた。


「そんなふうに言われたら、こっちだって冷たくできないだろ。いいよ、今日は無効だ。俺、ほんっとに寝坊してきたんだ。わざとじゃない。だから――」


 祥一が言いかけたとき、耳慣れた発車のメロディが流れ出した。


「小川さん小川さん! 電車出ちゃうよ!」


 あせって晄がせかす。そんな晄を見下ろして祥一は静かに訊ねた。


「おまえも来るか?」


 一瞬、晄は目を見開いた。が、すぐにうつむいて呟く。


「切符、持ってない」

「切符代くらい出してやるよ。来るか?」


 ためらうような間をおいて、晄はぱっと顔を上げた。


「行く」


 同時に祥一は晄の手をつかみ、今にも閉まりそうになっていた電車のドアをこじあけるようにして中に駆けこんだ。

 座席は埋まっていて座れなかった。ドアのそばの手すりに寄りかかって溜め息をつく。


「今日は朝から急いでばっかだ」


 以前にもこれと同じような状況があったなと思い、すぐにあの映画のときだと思った。

 でも、あのときは祥一ではなくて、晄が走ってきたのだった――


「何か、駆け落ちでもするみたいですね」


 祥一を見上げて、ひどく嬉しそうに晄が言った。


「バーカ」


 苦笑して晄の額を指の関節で軽く叩く。晄は叩かれたところを押さえて照れくさそうに笑っていたが、ふいに潮が引いていくようにその笑みが消えた。


「小川さん」

「ん?」

「どうして、ずっと薫姉だけを見ててくれなかったんですか」


 薫と同じ目が、恨めしそうに祥一を見る。


「さあな……」


 その目から逃れるように、祥一は車窓の外に視線を移した。

 いつもどおりの風景が、いつもどおりに流れていく。


「どうして、男のおまえのほうに目がいっちまったんだかな……」


 もしかしたら、今は顔さえまともに合わさなくなった父も、同じようなことを思っていたのかもしれない。では、今の自分と同じことを願ったこともあったのだろうか。


 ――このまま、この世界から消えてしまいたい。


 いつのまにか、自分の存在を主張するかのように晄が祥一の左腕をつかんでいた。その熱い体温を感じながら、祥一はゆっくり目を閉じた。


  ―了―

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