4 薫の家(後)
祥一が玄関ドアを閉めた直後から、押しつぶされそうなほど重い沈黙が晄にのしかかってきた。
夕方になって本格的に始まった虫の輪唱が、かえってその沈黙を際立たせる。
――もう終わりだ。何もかもおしまいだ。
自嘲しながら晄は両目をこする。
あんなにも必死で薫にも祥一にも隠し通してきたのに、結局すべてを二人に知られてしまった。それも最悪なパターンで。もう二度と祥一には会えないだろうし、薫は――軽蔑しただろう。憎んだだろう。
だが、こうなってしまった以上、真正面から薫と向きあわなくてはならないと晄は思った。たとえどんな結果になろうとも。
晄はリビングの外に出た。二階からは相変わらず何の物音もしない。
玄関と階段の照明をつけてから、沈痛な表情で階段を見上げると、一段一段、踏みしめるようにして上っていった。
薫の部屋には電気もついていなかった。
その前で、晄は数秒ためらったが、意を決してドアを静かにノックした。
「薫姉」
返事はなかった。予想していたこととはいえ、きつく唇を噛む。
「薫姉にはもう全部わかってると思う。今さら俺は謝らない。小川さんは自分が俺を襲ったことにしろって言ってくれたけど、薫姉はそんなの信じないだろ。俺ももう薫姉に嘘はつきたくない。全部ほんとのこと言おうと思う。薫姉、俺は――」
「いつからなの?」
晄をさえぎるように、薫の低い声がドアのすぐ向こうから返ってきた。
「いつからそういうことになってたの?」
「いつから?」
晄はまたあの自嘲を浮かべた。
「今日が最初で最後だよ」
「嘘」
にべもなく薫は否定した。
「あんた、今まであたしの知らないとこで祥くんと会ってたでしょ」
反射的に映画のときのことを思い出してしまった晄は言葉に詰まった。
薫は激することなく淡々と続ける。
「知ってた。祥くんがあたしのこと、あたしが思ってるほど好きじゃないって。でも、それでもいいと思ってたの。たとえ短い間でもつきあえただけよかったって。もし他に好きな子ができて別れてくれって言われても、素直にあきらめようって。でも……それがまさかあんただったなんて、思いもしなかった」
「違う、薫姉! 小川さんは違う!」
「違う? どう違うの?」
薫の口調が冷ややかなものに変わる。
「同じじゃない。結局、祥くんはあたしじゃなくて、あんたを好きになったんじゃない。あんたの望んだとおりに」
「薫姉!」
ドアの前で晄は悲痛な声を上げた。しかし、薫はドアを開けようとはしなかった。
「どうして?」
いっそ優しく囁くように薫は言った。
「どうして祥くんなの? この際、男だとか女だとかそんなのかまわない。他の誰でもいいのに、どうして祥くんなの? 晄、教えて。あんた、そんなにあたしが嫌いだったの?」
「違う……違う……薫姉……」
ドアに手をついたまま、晄は崩れるように座りこんだ。
「薫姉のこと嫌いだったら、今まで隠してきたりなんかしなかった。本当に、かえってそのほうが楽だったよ。嫌ってる人に嫌われたって何も感じない。薫姉……俺だって、好きで好きになったわけじゃない。何度もあきらめようって思ってたのに……薫姉こそ、どうして俺にあんなにチャンスくれてたの?」
「チャンス……?」
怪訝そうに薫が呟く。それにカッとなって晄は叫んだ。
「だってそうだろ! どうして肝心なときに熱出したり出かけてたりするんだよ! そんなに好きなら、どうして俺なんかのつけいるスキもないくらい、小川さん独占しなかったんだよ! 俺が薫姉だったら絶対そんなことしない! 他に好きな人ができたから別れてくれって言われても、絶対別れてなんかやらない! 薫姉は小川さんと結婚だってできるのに、どうしてそんなにあっさりあきらめちまうんだよ! 今だって、どうしてもっと俺を責めない! 薫姉は俺のこと張り飛ばしたっていいのに、どうして何もしないんだよ!」
「だって、祥くんがそうしたかったからそうしたんでしょ」
そっけなくそう薫は切り返した。
「よかったじゃない。思いが叶って。あんたがいつから祥くんのこと好きだったのか知らないけど。でも、たぶんあたしより、あんたのほうが祥くんのこと好きね。今の聞いてて思った。あたしはきっと、あんたほど祥くんのこと好きになれない。だって、もう祥くんのこと嫌いになってるもの。あんたを押しのけてまで、あの人とつきあっていたいと思わないもの。ねえ、晄は? 晄がもしあたしだったらどうするの?」
「どうするのって……」
怖いほど醒めた姉の態度にとまどいながらも晄は答えた。
「俺が薫姉だったら、小川さんと俺、一生許さないと思う」
「それで? 祥くんとは別れるの?」
「……わからない」
だが、そんなことを悩む必要は自分にはないと晄は思った。自分はあくまで男の晄でしかありえず、薫は女の薫でしかありえないのだから。
「薫姉は? これからどうするの?」
「わからない」
薫の声はむしろさばさばしていた。
「わかんない。今は頭ん中ぐちゃぐちゃで。あたしだってあんたのこと憎いと思う。あんただけはずっと味方だって信じてたのに裏切られたって。でも、あんたに向かって怒鳴ったり一生口きかないって思ったりできるほど、あんたのこと憎めない。だけど、今はあんたに会いたくない。……今日はもう寝る。お母さんにはうまく言っといて。これからのことは明日考えるから」
「でも、薫姉。俺、薫姉にどうしても言っておかなきゃいけないことがある」
トーンを落として晄が言うと、薫は少し声を荒立てた。
「明日にして。もうこれ以上、何も聞きたくない」
「でも、これだけは聞いて。薫姉……俺は……薫姉を利用しようとしてた」
「…………」
「俺は薫姉みたいには小川さんとつきあえないけど、薫姉が小川さんとつきあってれば、俺も弟みたいにならつきあえるだろうって……だから、必死で二人の仲とりもとうとしてたし、小川さんとは弟みたいにつきあおうとしてた。でも……駄目だった。そんなの、むなしすぎて。はっきりそうわかったのは、小川さんと映画見に行ったとき。――そう。薫姉が疑ってたとおり、ほんとは俺、行ってたんだよ。今思えば、正直に言っといたほうがよかった。でも、あのときは黙っといたほうがいいと思ったんだ」
「…………」
「だけど、それからは俺、ほんとに今日まで小川さんには会ってない。それは嘘じゃない。どうせつきあえないんなら、すっぱりあきらめようって思って……二度と会わないことにした。でも、結局みんな無駄になっちゃったね。薫姉……ごめん。小川さんはそんな俺のずるい考え、全部見抜いてた。それで俺のこと、最低だって言った。おまえはこれからもずっと薫姉をだましつづけるつもりだったのかって。俺のことはいくら憎んでもいい。でも、小川さんがそう言ったことだけは、薫姉、覚えていて」
熱に浮かされたように一気に言って、晄は深い溜め息をついた。と、薫の部屋のドアが勢いよく開き、晄は顔面をしたたか打った。
「か……薫姉?」
顔を押さえながら見上げると、薫はこれ以上はないくらい怒った顔をして晄を見下ろしていた。怒りのあまり体が小刻みに震えている。階段の照明だけでもそんな薫の様子は充分見てとれた。
「あんたは……!」
喉から絞り出すようにして薫が叫ぶ。
「あんたはあたしにどうしてそう簡単にあきらめるのかって言うけど、そういうあんたこそどうして最初からあきらめてんのよ! 祥くんはあたしじゃなくて、あんたにキスしたんでしょ! だったら何にも問題ないじゃない、堂々とつきあえばいいでしょ! あたしのことなんか気にする必要ないわよ、好きな者同士がつきあえばいいじゃない!」
これほど興奮している姉を久しぶりに見た。晄は顔を押さえたまま呆然としていたが、ふっと笑うと横を向いた。
「本気じゃないよ」
「え?」
「きっと、小川さんは本気じゃない」
「何で? キス……したんでしょ?」
つかのま、怒りを忘れたように薫は訝しげな表情を作った。
「そんなの、別に本気じゃなくったってできるよ。だから……忘れる。なかったことにする。小川さんも、きっとそれを望んでる」
「……祥くんがそう言ったの?」
「そうは言ってないけど……わかるよ」
「なら、まだわかんないじゃない。本人に直接訊いてみなくちゃ……」
そのとき、急に晄が立ち上がって、自分よりやや低い高さにある姉の目を睨んだ。
「訊いて? 訊いてどうするの?」
「本当に好きなら、つきあえばいいじゃない」
薫はまったくたじろぐことなく、自分とほとんど同じ顔を睨み返す。
「つきあって? それから先は?」
「それから先って……」
「そう。……何もない」
ふいに晄は笑い、薫から視線をはずした。
「何もないんだ。不毛だよ。もしかしたらこれは一時の気の迷いかもしれないのに、そんなので人生ふいにするのは嫌だった。男と女がつきあうのと、男と男がつきあうのとじゃ全然違うんだよ、薫姉。それとも、薫姉は俺がホモでも平気? これが自分の弟ですって人に言える?」
「それは……」
「ほら、薫姉も嫌だ。俺だって嫌だ。それほど自分の気持ちに自信が持てない。小川さんだって、そこまで俺のこと好きじゃない。それなのに……好きだなんて言える? どっちに転んだって傷つくだけなのに、それでも俺にあきらめるなって言うの?」
晄の目からはいつのまにか涙がこぼれ落ちていた。薫はもはや何も言えずに、そんな弟を眺めていた。
晄がこれほど苦しんでいたなんて知らなかった。そして、この苦しみは薫にはどうしてやることもできない。
「……バカね」
そっと晄の頭を抱えこんで耳許で囁く。
「どうして祥くんなんか好きになったの? 好きじゃないのにあたしとつきあうような、取り柄は顔と頭くらいの男なのに」
「さあ……」
薫の髪の匂いをかぎながら晄は苦笑した。
「俺も自分でよくわかんないけど……でも、きっと薫姉と一緒だよ」
「じゃあ、あんた、ほんとバカね」
「……そうかな」
「バカよ。でも、あたしは祥くんよりあんたのほうがずっと好きよ。あんたはきっと祥くんのほうが好きだろうけど」
「薫姉……」
困惑して晄が薫の顔を見ようとすると、薫は腕を解いて晄の胸に顔を埋めた。
「本当に……どうしてあたしは祥くんなんか好きになっちゃったんだろ……?」
やがて嗚咽の声を漏らしはじめた姉を、晄は苦い思いを噛みしめながら、ずっと抱きしめつづけていた。




