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【完結】フェイドアウト  作者: 有喜多亜里


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3 薫の家(前)

 あっというまに一学期は終わり、ついに高校生活最後の夏休みが始まった。

 受験生にとって夏休みは特に大切な時期でもある。祥一の受験勉強の邪魔をしてはいけないと思ったのか、夏休みに入ってからは、薫のほうから連絡を寄こすことはなくなった。

 祥一もまた薫にはメール一本送信することもなかったが、その日、たまたま薫の家の近くを通りかかった彼は、ちょうど学校の飼育小屋にいる兎の様子を見にいくような感覚で、彼女の家のインターホンを押してしまったのだった。


『小川さん?』


 え、と思ったときにはもうインターホンは切れていて、すぐに玄関のドアが開いた。


「あき……」

「小川さん!」


 晄だった。顔を合わせたのはあの映画のとき以来、これが初めてだ。

 今日は黒のタンクトップにハーフパンツ姿で、大きく目を見張っている。


「どうしたんですか? いきなり?」


 考えてみれば姉弟なのだから、家を訪ねれば晄がいるわけだ。いつも晄は留守だから、そんな単純なことにも気づけなかった。


「いや……たまたまこの近くに来たから、ちょっと寄っただけで……」


 改めて言うと恥ずかしい。こんな気まぐれなど起こさなければよかった。


「あー、惜しかったなー。今日、たまたま友達と買い物に出かけちゃったんですよ」


 本当にすまなさそうに晄が言う。祥一は真顔で返した。


「余裕だな」

「だから、たまたまですよ、たまたま。もう夕方だから、そのうち帰ってくると思いますけど」

「いや、いないんならいい」

「そうですか……あ、そうだ!」


 突然、晄は目を輝かせると、ずいと身を乗り出してきた。


「小川さん、確か、数学得意でしたよね?」

「まあ……得意ってほどじゃないけど、ある程度は……」


 どうしてそんなことを晄が知っているのかと少し不思議に思ったが、きっと薫が彼に話したのだろう。本当の母親が死んでから家族らしい会話というものをまったくしていない祥一にはうらやましいことである。


「じゃあ、ちょっと俺に数学教えてくれませんか? 俺、数学だけはどーしても苦手で……」

「そりゃかまわないけど、教えられる自信は……」

「でも、高二のはわかるでしょ? それに、うちの高校、小川さんとこよりレベル低いから」


 晄は陽気に笑って、祥一の腕をぐいぐい引っ張る。


「じゃ、早いとこ上がって。教えてもらってる間に、薫姉帰ってきますよ」

「いや、別にどうしてもっていうわけじゃ……」


 祥一がそう言ってる間に晄は中へ舞い戻り、リビングで待っててくださーいと叫びつつ、また廊下を走ってキッチンに行ってしまった。


「人の話は最後まで聞けよな」


 玄関のドアを閉めながら愚痴ると、こんなときだけ晄が問い返してくる。


「えーっ? 何か言いましたーっ?」

「何も言ってねえよ!」


 怒り半分諦め半分で怒鳴ってから、祥一はすでに勝手知ったる家の廊下を歩いてリビングへと入った。

 リビングの中はクーラーがかかっていて、外とは別世界のように涼しかった。

 木目調のローテーブルの上にはテキストとノートが広げられていたが、リビングの奧にあるテレビもしっかりついている。晄はここでテレビを見ながら数学の勉強をしていたらしい。やる気があるとはとても思えない。


「外、暑かったでしょ」


 麦茶の入ったコップを二つ持って、晄もリビングに入ってきた。


「こんな暑い日に外をうろつくなんて、小川さんも薫姉もどうかしてますね。はい、麦茶」

「サンキュ。狭山はともかく、俺は図書館に勉強しにいってたんだよ」


 渇いた喉に冷えた麦茶はとてもうまかった。一気に飲み干して息を吐く。


「真面目だなー、小川さんは。当然、国公立狙いでしょ?」

「まあな。……ええと」

「晄でいいですよ。一個下だし。俺は国公立なんてとうにあきらめてます。私立私立」

「……狭山は?」

「知らないんですか?」


 晄は姉そっくりの澄んだ黒い瞳を呆れたように見張った。


「薫姉は短大ですよ。まだよく絞れてないみたいですけど。薫姉、小川さんに言ってないんですか?」

「まあ……俺も訊いてないしな」


 はっきり言って、そんなことには興味もなかった。晄が不審そうに目を眇める。


「ほんとにつきあってんですかぁ?」

「俺のことより、数学。どこわからない?」

「ごまかしましたね。……ほんというと全部わかんないんですけど、とりあえず、この問題」


 開きっぱなしになっていたテキストの一部を晄が指さす。


「ああ、これね。これのどこがわからない?」

「これのどこがわからないのかがわからないんです」


 最悪の生徒だった。長期戦を覚悟した祥一は、とりあえずローテーブルの上にあったリモコンでテレビを消すことから始めた。


   *


「どうかしましたか?」


 ふと気がそれて、隣で難しい顔をしてシャープペンを動かしている晄を見ていると、祥一の視線に気がついた彼が目を上げた。


「いや……やっぱ狭山にそっくりだなって思って」

「まるで双子みたいでしょ?」


 気を悪くしたふうもなく晄は笑った。

 晄も薫と同じく色白で、夏の暑い盛りだというのに、あまり日に焼けていなかった。

 決して華奢というわけでもなく、小柄なその体にもそれなりに筋肉はついていたが、それでも薫そっくりであることには変わりなかった。


「俺もね、あんまり似てるから、ほんとは双子じゃないかって薫姉と話したことあります。今はないけど、小さい頃はよく間違えられてましたよ」

「そうだろうなあ……親父とおふくろ、どっち似なんだ?」

「ああ、それは完璧おふくろだって。親父じゃなくてよかったって言われてます。あの顔が二つもあったら不気味だったって」

「へえ……じゃあ、おふくろさん、美人なんだ」

「どうかな」


 晄は少し複雑な笑みを見せた。


「美人だよ、ほんとに。一度会って見てみたいもんだ」


 別に本気で会いたいと思って言ったわけではなかったが、晄は真面目くさった顔をして受け答えた。


「変な気起こしちゃダメですよ。相手は人妻なんだから。それに俺、一個しか違わない親父なんて欲しくないですから」

「そんなバカなことあるわけないだろ。変なことばっか言ってるな、おまえは」


 思わず祥一は苦笑した。これだから晄は面白い。


「わかんないですよー、世の中いつ何が起こるか。なるとしても、せめて俺の義理の兄貴にしといてくださいね」

「……そんなこと、本気で考えてんのか?」


 祥一の顔から笑みが消えた。とたんに晄も表情を変える。


「そういう可能性も……ないとは言えないでしょ?」

「ないね」


 祥一はばっさり切り捨てた。


「この先どんなに間違っても、それだけは絶対ない」

「薫姉のこと、好きじゃないんですか?」


 晄が傷ついたような顔をする。まるで自分がそう言われたかのようだ。


「それとこれとは別問題だ。狭山だってそこまでは考えてないだろ」

「そんな……」

「それとも何? おまえは俺に狭山と結婚してもらいたいわけ?」


 ふと思いついて、祥一は意地悪く笑った。


「別に……そういうわけでもないけど……」


 そう答えつつも、晄は明らかに動揺している。


「でもさ、それって何かおかしくないか? 俺には兄弟いないけど、仲よくしてる姉貴には、いつまでも結婚してもらいたくないって思ったりしないか?」

「それはまあ、そうだけど……相手が小川さんならいいんじゃないかって……」

「ずいぶん信用されたもんだな。つきあいだしてからまだ半年も経ってないのに」

「それだけあれば充分でしょ」


 祥一から顔をそむけると、投げやりに晄は言った。


「三ヶ月でも、一日でもいい」


 窓から入る光はすでに赤みを帯びはじめていた。まもなく夜がやってくる。

 夕刻の赤い光を浴びながら、晄は長いことそうしてうつむいていた。

 ふと、祥一は晄の剥き出しの肩に手を置いた。晄が我に返ったように祥一を見上げる。


「やっぱり冷えてる」

「え?」

「おまえの肌。クーラーの温度上げるか、止めるかしたほうがいいんじゃないのか? 唇もちょっと青いぞ」

「え……あ……そうですね、少し寒いですね、じゃ、今上げ――」


 そう言いながら、晄はクーラーのリモコンに手を伸ばしかけた。が。


「小川さん」


 その手を止めて、晄は祥一を振り返った。


「ほんとは俺……俺が――」


 その先を晄は何と言うつもりだったのだろう。続く言葉を聞くのが怖かった祥一は、晄の青い唇をとっさに自分の唇でふさいでしまった。

 長く、そうしていた。

 息が苦しくなって、やっと離した。


「……薫姉にもこうしたんですか?」


 ゆっくりと目を開けて、妬ましげに晄が言った。


「いいや。してない」

「どうして?」

「さあ……どうしてだろうな……」


 だが、言葉とは裏腹に、今度は互いが求めあうように唇を合わせた。

 晄をカーペットの上に押し倒し、タンクトップをたくし上げて胸元をまさぐる。晄はくすぐったそうに笑って祥一の髪をかきむしった。

 なぜ、そんなことをする気になったのか、自分でもわからない。

 ただ、晄の肌は冷たくて、触れるととても気持ちがよかった。

 それでいて、舌だけは火傷しそうなくらい熱くて……まるで夢のようで……悪夢のようで……

 それを覚ましたのは、あのリアルな声。


「ただいまーっ」


 玄関のドアが開かれ、荷物を置く気配がした。


「薫姉……?」


 呆然と晄が呟き、あわてて祥一を押しのけようとする。

 しかし、逆に祥一はのしかかり、身動きをとれなくした。


「小川さん?」


 信じられないように晄は祥一を見た。


「小川さん、離れて! 早くどいて! このままじゃ……」

「いいじゃないか、別に」


 醒めた声で祥一は言った。


「一目でわかっていいだろ」

「小川さん!」

(あき)ーっ、祥くん、来てるのー?」


 その間に軽い足音がぱたぱたと廊下に響き、リビングの扉の前で止まった。


「ねーっ、あきってば……」


 最後の最後で、晄は祥一の手から逃れようと必死で抗った。

 だが、祥一に力ずくで押さえこまれ、さらに強引に口づけされて、全身の力が抜けてしまった。


「……(あき)?」


 リビングの扉を開けても、すぐには中の様子はわからなかったようだ。もう外が暗くなりはじめていることもある。

 晄は何も答えられなかった。――祥一に唇をふさがれていたから。

 ただ目をつぶり、できうるかぎり窓のほうを向いているしかなかった。


「……何……してるの? その人……誰? まさか……」

「俺だよ」


 祥一は晄の口を右手でふさいでから答えた。


「小川祥一」


 片手に提げていた紙袋を放り投げて、薫は階段を駆け上った。乱暴にドアを閉める音がして、そして――静かになった。


「ひどい……こんなのって……」


 祥一の体の下で晄がすすり泣いていた。


「何がひどい。どうせいつかはバレることだろ」


 祥一はやっと晄から離れると、彼の横に腰を下ろした。


「俺はもともと、狭山のことは好きでも嫌いでもなかった。ただ好きだって言われたからつきあってただけだ。別にこれが元で別れても痛くも何ともない。でも、おまえは困るよな。姉弟だもんな」

「だったら……!」

「これからも、ずっとおまえは狭山をだましつづけるつもりだったのか」


 晄がはっと息を呑んで顔をそむける。しかし、祥一は冷徹に言葉を重ねた。


「いかにもいい弟づらをして……狭山を応援してるようなふりをして……そのくせ、狭山のいないところでは俺とこんなことをするのか? そのために狭山に俺と結婚してもらいたかったのか? ひどいな。サイテーだよ、おまえは」


 だが、それは自分も同じだと心の中では祥一も思っていた。

 確かに薫は妻ではない。しかし、ほんの少し前まで自分がしていたことは、ある意味あの女以上に嫌悪している自分の父親がしたことと大差ない。薫の声を聞いたとき、祥一は一瞬でそのことに思い至り、ここですべてを終わらせることを決めたのだった。


「小川さん……小川さん……やめて――」


 耳を押さえ、目に涙をためて哀願する。祥一は黙って立ち上がり、リビングの照明をつけた。

 白い光の下で改めて眺め下ろすと、晄は実に悲惨な格好をしていた。そうしたのは自分だが、晄の腕を引っ張って強引に起き上がらせる。


「ほら、しゃんとしろ。おまえらしくもない。これからが大変だぞ」

「小川さんが大変にしたくせに……」


 晄はしゃくりあげて泣いた。まるで幼い子供のようだ。とてもさっきまで笑いながらキスしていた人間だとは思えない。

 祥一は溜め息をつくと、しゃがみこんで晄の乱れきった服装を手早く直してやり、親指の腹で晄の目元を拭ってやった。


「人のせいばっかりにするんじゃない。でも、狭山には俺がおまえを無理やり襲ったように見えたはずだ。もう少しして落ち着いたら狭山にそう言え。狭山だって他人の俺より弟のおまえのほうを信用するだろ。いいか、おまえは今、姉貴の男に襲われて、狭山以上に傷ついてるんだ。そのつもりでふるまえ」

「でも、それじゃ小川さんが……」


 泣くのをやめて、驚いたように祥一を見つめる。


「俺はいいよ。おまえ、男に襲われましたって人に言うか? 言わないだろ? 問題は狭山だが……せいぜい俺を嫌って憎むだけだろ。人に漏らしたらおまえに傷がつくからな。俺たちゃもう三年だ、卒業まで何とかやりすごせるだろ」


 祥一は晄の頭を軽く叩いて再び立ち上がると、薫の紙袋を拾い上げてリビングの中に置いてから廊下に出た。

 あわてて逃げたほうがいいのかと少し悩んだが、今さらそれを繕うのも白々しいし面倒くさい。せいぜいふてぶてしくふるまうことにして、わざとゆっくり靴を履いた。


「おが……」


 振り返ると、リビングから晄が顔をのぞかせていた。祥一は自分の唇の前に人差指を立てて二階を指さした。晄は口はつぐんだが、悲しそうに彼を見送っていた。

 ドアを開けると、外はもう夜空が広がっていた。涼しい夜風も吹いていて、あちこちから虫の音が聞こえる。


「結局、何しにきたんだかな」


 祥一はぼやくと、薫の家の外に止めてあった自転車に乗った。もう二度とこの家を訪れることはないだろう。

 薫には未練はない。晄も今ならあれは気の迷いだったと言える。

 だが、まさかこんな形で終わるとは、告白されたときと同様に、夢にも思っていなかった。

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