4 映画館(後)
電車に乗って目的の街に着いたとき、時刻はすでに昼近かった。が、上映時間の都合上、先に映画を見てから昼食をとることにした。
映画館は思ったより空いていて、見やすい席に二人並んで座ることができた。
始まる前は、俺映画なんて見るの久しぶりとはしゃいでいた晄だったが、いざ映画が始まると、あっというまに映画に没入してしまった。
映画は以前大ヒットした洋画のパート2で、莫大な予算をかけた最新映像技術が話題となっていた。垢抜けない邦画に比べればはるかに面白かったが、祥一は自分の隣で映画に見入っている晄のほうにすっかり気をとられていた。
晄は感情移入の激しいタイプらしい。じっとスクリーンに目を凝らしながら、微笑ましいシーンでは薄暗闇の中で白い歯を光らせて笑い、スリリングな場面ではしごく真剣な表情になって身動ぎひとつしなかった。
祥一の存在は映画が始まったと同時に忘れてしまったらしい。上映中は一度も話しかけてこなかった。それを祥一は少々物足りなく感じたが、こんなにも熱心に映画を見ている晄の邪魔をするのも悪いと思い、あえて黙っていた。
しかし、映画がついにラストシーンを迎えたとき、ふと晄に目をやると、彼はスクリーンを見つめたまま両頬に涙を流していた。これにはさすがに祥一も驚いた。
ちょっと気のきいた人間なら、そっとハンカチかティッシュを差し出してやるのだろうが、あいにくそういったものはいっさい持っていなかったし、第一、薫相手だったとしてもそんな芸当がやれるかどうかわからないのに、それが男の晄となったらまずできそうもない。結局、祥一はそんな晄に気づいていないふりをした。
やがて館内は明るくなり、六割ほど埋まっていた座席はすべて空になった。それでも晄はまだぼうっとした様子で座りこんでいた。
「もう出るぞ」
先に立ってそう声をかけると、晄ははっと我に返ったように祥一を見上げた。
「あ……うん」
晄はまだ涙の残っていた両目をあわてて手で拭ってから、ようやく席から立ち上がった。
映画館の外に出ると、一瞬、別世界に来てしまったような違和感を覚えた。
だが、それはあくまで一瞬で、すぐにその感覚は消え去ったが、今度は初夏の景色のリアルさに何だか頭がくらくらした。
「映画、面白かったか?」
まだ夢から覚めきっていないような晄に歩きながら訊ねると、彼は「うん、とっても面白かった!」と見ているこちらまで楽しくなるような笑顔で答えた。
「ふーん。ならよかった。腹減っただろ。どこで食う?」
腕時計を見て時間を確認してから、とりあえず駅方面に向かって歩く。
「小川さんは? 小川さんは今の映画、面白くなかったんですか?」
祥一の隣を小走りしながら、少し不満そうに晄が言った。
「いや、俺も思ってたよりは面白かったと思うよ」
実を言うと、晄の反応を観察するのにかまけすぎていて、ストーリーはところどころあやふやだったのだが、無難にそうコメントしておく。
「でしょー? 特にラストは絶対泣けると思う!」
――実際泣いてただろうが。
よっぽどそう言ってやりたかったが、上映終了後の様子を見ると、晄もその点には触れられたくないようだったので何とか我慢した。
「おまえ、映画は好きか?」
「うん。でも、見るのはテレビかレンタル」
「俺もそうだな。映画館なんてうん年ぶりだ」
「俺も。でも、テレビで見るよりずっと迫力があって面白かった!」
感情表現がストレートな晄は見ていてとても気持ちがいい。まるで人懐こい子犬のようだ。楽しませてくれた礼がわりに何でも好きなものを食べさせてやりたいと祥一は思った。
「何食いたい? 今日は何でもおまえの食いたいもんおごってやるよ。あ、でも、あんまり高いのはダメだからな。回転寿司くらいならいいけど、フランス料理なんて絶対ムリだ」
いっぱしの兄貴気分だった。それに応えるように晄もまた本当の弟のように打ち解けた笑みをこぼすと、「じゃ、今日はマックで手をうっとこうかな」と言って前方を指さした。
* * *
「あの……」
ふとハンバーガーを口に運ぶ手を休めると、晄は思いつめたような表情でこう切り出した。
「俺、小川さんにお願いしたいことあるんですけど……」
「何?」
アイスコーヒーを飲みながら気軽に促す。晄はハンバーガーを持つ自分の手をじっと見つめたまま、ぼそぼそと独り言のように言った。
「あの……今日のことなんですけど……俺が小川さんと一緒に映画見に行ったこと……薫姉には言わないでもらえますか?」
「何で?」
いきなり薫の名前が出てきたので祥一は動揺した。同時に、何か後ろめたいことをしているような気分にこのとき初めてなった。しかし、すぐに自分がそんな気分にならなければならない理由はどこにもないと思い直し、勢い、きつい口調で晄に訊ね返してしまった。
「何でって……ほんとは今日、薫姉が小川さんと一緒に映画見に行くことになってたんだし……」
晄はそう言葉を濁すと、ストローでコーラを啜った。
「そりゃそうだけど、熱出して来れなかったのは狭山のほうだろ。おまえは全然悪くないだろうが」
それは晄だけでなく、自分自身に対する言い訳でもあった。
「でも、もし小川さんが薫姉の立場だったら、自分だけ仲間はずれにされたみたいで気分悪いでしょ?」
晄はぱんと両手を合わせると、神仏のように祥一を拝むマネをした。
「すいません! 俺とは駅で別れたことにして、それから一人で映画見に行ったことにしといてください! このとおりです! お願いします!」
「何もおまえがそこまで気ィ遣うことないだろ」
さすがにこれには祥一も若干引いた。
「狭山に何か弱みでも握られてんのか?」
「いや、そんなことはないですけど……」
晄は笑ってごまかすと、中断していた食事を再開した。
そんな晄を祥一はしばらく黙って眺めていたが、やがてあきらめて苦笑した。
「おまえがそんなに言うんなら、いいよ。そういうことにしといてやるよ」
「ほんとですか!」
晄の表情がぱっと明るくなる。
「ああ。でも、ほんとにおまえがそこまで気にする必要ないと思うぞ。狭山だって、一緒に行ったのが自分の弟なら怒りゃしないだろ。おまえが変に気ィ回しすぎるんだよ」
「……そうかな」
生真面目な顔で軽く首をかしげる。
そういう表情でそういう仕草をすると、晄はことさら薫に似て見えた。
「そうだよ」
「でも、薫姉だって好きで熱出したわけじゃないし。それに」
晄はコーラを一口飲むと、何気なく言った。
「小川さんの彼女は薫姉だし」
思わず祥一は晄を凝視した。
晄は素知らぬ顔でコーラを飲みつづけていた。
それからは会話らしい会話もなく、電車の発車時刻に合わせて店を出た。
日曜の午後ということもあってか、電車はかなり込んでいたが、それでも何とか隙間を見つけ出し、半ば割りこむようにして二人並んで座った。
祥一は何か話そうと思ったが、あれから何となく気まずくなっていて、結局寝たふりをしていた。が、ふと隣の晄を盗み見ると、彼は本当に眠りこんでいて、そのさらに隣の中年男の肩に頭をもたせかけていた。
「……すいません」
わけもなくカッとなって晄の頭を自分の肩のほうへ引き寄せた。あわててやったのでかなり乱暴になってしまったが晄は起きなかった。
軽く口を開けて眠っている晄の顔はあどけなく、伏せられた睫は意外なほど長い。
じっと見下ろしていると何だか妙にこそばゆい気分がして、祥一は肩に晄の重みを感じながら腕を組んで目を閉じた。
* * *
「ごめんなさい!」
電車内で祥一と顔を合わせるなり薫は頭を下げた。
「この前の日曜日、あたし、いきなり風邪引いちゃって……ほんと、バカみたい。おまけに、電話するの遅くなっちゃったから、よけい祥くんに迷惑かけちゃって……結局、一人で映画見に行ったんだってね。あたしから言い出したことなのに、ほんとにごめんなさい。あたしって肝心なときにいつもこうなの。自分で自分がやんなっちゃう」
目を潤ませて謝罪する薫を見ながら、祥一はやはり晄によく似ていると思った。そして、初めて薫をいじらしいと思った。
結局、薫は学校を二日休んだ。しかし、まだ回復しきっていないのか、顔色はあまりよくなかった。
「病気ならしょうがないだろ」
なだめるように祥一は言った。
「それより、もう学校出てきて大丈夫なのか? まだ調子悪そうだぞ」
祥一としては思ったことを言ったまでだったのだが、薫はなぜかぽかんとしていた。
「何だよ?」
「え……何か祥くん、優しいなって思って……」
「何だよ、それ。俺、いつもそんなに薄情かよ」
怒ったように祥一は言い返したが、心当たりはないでもなかった。
「ううん、そんなことないけど。でも……」
視線をそらせて、少し考えこむような仕草をしてから、薫は再び祥一を見た。
「ねえ、ちょっと訊いてもいい?」
「何?」
「本当に、祥くん一人で映画見に行ったの?」
「行ったよ」
間髪を入れず、祥一は答えた。
「そう弟は言わなかった?」
「言ったよ」
それでも、晄そっくりのぱっちりとした目は、隠された真意を探ろうとしているかのように祥一を見つめつづけている。
「晄は祥くんと別れた後、そのまま友達の家に遊びに行ってたんだって。でも、あたしが風邪引いたりすると、あの子、いつも看病してくれるんだけどね。夕方帰ってきてからは、いつも以上に優しくしてくれたけど」
「そんなの俺は知らないよ。おまえの弟の話だろ」
二人の間に奇妙な緊張感が流れた。
祥一には嘘をつきとおせる自信はあったが、その一方で薫の意外な一面に驚いてもいた。
鈍感な女だとばかり思っていたのに、なかなかどうして鋭い勘だ。これからは下手に油断できない。祥一は薫に対して初めて警戒心というものを抱いた。
「そうだよね」
ふいに薫はぎごちなく笑った。
「そんなの、祥くんには関係ないよね」
祥一は何も答えなかった。
そして、それから薫と一緒に映画を見に行くことはとうとうなかった。