春に降る雪
庭の梅の蕾が、長い冬を越え、一日一日ふくよかになっていく様子を見上げる。
隣には旦那さまがいる。
それがいつのまにか、すっかり毎年の習慣になってしまった。
私が小間使いとして旦那様に拾われたのは、まだほんのこどもの頃。
その頃はまだ、首が痛くなるほど、うんと見上げなければならなかった。
今、私の目線は旦那さまより少しだけ高い。
それだけの時間が経った。
思えば、旦那さまはもう随分歳をおとりになった。
突然、隠居すると言い出したことは、まだ記憶に新しい。
今は、店のことはみな若旦那さまが仕切っていらっしゃる。
この時がいつまで続くのかと、不安がなかったわけじゃない。
その年は、旦那さまは病に伏せっておられた。
本来ならば、私はお側にお仕えしなければならないはずだ。
でも、旦那さまはしきりにこの木のことを気にしておられた。
だから私は、できるだけ旦那さまの分までこの木を見上げて、お話しするようにしていた。
今年の一番咲きの枝を折ろうか、と訊ねたのだけれど、旦那さまは微笑って静かに首を振られただけ。
私はその日もこの木を見上げていた。
その日は満月だった。
吐く息はもう白く曇らないけれど、まだ少し肌寒かった。
昨日はまだ開きかけていた花が、その夜、見事に咲きそろった。
今年は随分沢山花をつけたな、と私はぼんやりと思った。
朝一番に、報告に上がろう。旦那さまもきっと喜ばれるに違いない。
そんなことを考えていると、唐突に乾いた音が、辺りに鋭く響いた。
誰かが枝を折ったのだと、少し遅れて気がついた。
一体、誰が。
その姿を認めた瞬間、私は思わず声を上げた。
「若旦那、さま。それは、旦那さまが大切にしておられる……」
若旦那さまは、折った枝を手の中で弄んでいた。
視線はその枝に注がれたままで、こちらを見ようともしない。
らしくないその様子に、心が騒ぐ。
ややあって、若旦那さまは重々しく口を開かれた。
「お前の考えていることをあててやろうか」
噛み合わない会話。かち合わない目線。
なにか、怖い。いやだ、聞きたくない。
耳をふさぎたくなったけれど、私の体は少しも動こうとしない。
「『雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも』」
若旦那さまの囁くような声が、するりと耳元に落ちる。
私がそれを、頭の中で反芻し、咀嚼するまで数秒。
「……あ」
何かを言おうとした。
でも、引きつったように掠れた声しか出なかった。
投げ捨てられた枝が、かさりと音をたて、地面に転がった。
雪が散ったように、辺りが染まった。闇に映える、ましろの喪の色。
わかってしまった。もう、この花を心待ちにしていた主はいないのだと。
風が揺れた。むせかえるような、強い梅の香。
誘われるように、見上げた。
じんわりと濃紺に滲む空が、花弁の間からちらちらと覗く。
望月に、淡く透き通る光が、はらはらとこぼれ落ちた。
花弁が、頬を伝う。
「お前に知られたくはなかったよ」
いまだかって聞いたことのない低い声が、いくらか自嘲を含んで、哀しく響いた。
「僕が悲しんでいないみたいじゃないか」
そんなことはない。だって、私は泣いてもいない。
世界の輪郭がふらふらと定まらないのは、この景色があまりにも美しいから。
頬が冷たいのは、風が強いから。
雪と紛うほどに、辺りが白く滲んで揺れた。
夢を見ているような、心を奪われてしまいそうな、うつくしい花の夜。
でも、明日になれば、きっと風がどこかへ運び去ってしまう。
初めから、何もなかったかのように。心の中だけに、そのあとさきを残して。
言いようのない不安に、思わず叫びそうになって、耐えた。
手を握りしめて俯くと、必死に上を向いてこらえていたものが零れ落ちそうになる。
慌てて目元をこすると、少しだけ視界がはっきりして、うち捨てられた枝が目に飛び込んできた。
ゆっくりかがみ込んで、抱え込むようにして拾い上げた。
いくらか花は落ちてしまっていたけれど、それでもまだ、春告草はその存在を主張していた。
春風を待つ花。春告げる花。
ああ、ここにいた。
旦那さまは、まだ、ここにいるのだ。
「『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』」
一歩、足を進めて顔を上げた。
そこで、初めて若旦那さまと目があった。
少しだけあきらめにも似た、哀しい目だった。
私は笑った。
上手く笑えたかどうかはわからない。
また目の前が滲んで、若旦那さまの表情が読めなかったから。
「旦那さまが教えてくださった歌です」
花が、散ってしまう。春が、来てしまう。
あれだけ春を待っていた人一人を、雪の中に残して。
いつかは、その記憶さえも、どこかへ消え去ってしまうのだろうか。
だとしたら、とても、哀しいと思う。
「私は、旦那さまのことを覚えています。多分、ずっと、覚えています」
だから、せめてもの慰めになるように。
梅の枝を差し出すと、少し迷ったようなそぶりのあと、若旦那さまは、それを受け取ってくださった。
きっと、明日になれば、花は萎れてしまうだろう。
でも、この梅は花を咲かせ続ける。来年も、またその次の年も。
そして、花が咲くたび、私は思い出すだろう。
私に、たくさんたくさん、かなしみも、しあわせもみんな、与えてくれたひとのことを。
季節は、巡る。
巡り巡って、ただ思い出だけが、柔らかく、暖かく、私の心に降り積もる。
それは、春に降る雪に、似ていた。
「雪の色を~」:作者は大伴旅人。『雪の色を奪ったかのように、白く咲く梅の花。見る人がいればいいのに』
「東風吹かば~」:作者は菅原道真。『春を告げる風が吹いたなら、梅の花よ。主の私がいなくても、春を忘れずに咲いておくれ』
(初出 2006.12.19)