冷たい海へ
―――優しい兄がいた。
少し身長が低い事を気にしていた兄だった。細い金の髪と空を切り取ったような青い瞳は数々の淑女を靡かせたけど、彼が道を踏み外すことはなかった。子爵家の跡取りとして隣国に留学も果たし、領地経営を学び、父と母の自慢の息子。争い事は嫌いで、付き合いが大切だとわかっていても、どうしても出来ないのだと狩猟には行かない。そんな兄だった。
―――もうすぐ姉と呼べる人がいた。
そんな彼には可愛らしい婚約者がいた。目尻の下がった愛らしい人。赤茶の髪がレンガのようでしょう?と悩んでいた人。金色の髪を持つ兄と並べば暁の空と月のよう、と伝えれば嬉しそうに微笑んでいた。もうすぐ名実ともにお互いを『姉妹』と名乗れるのだと喜んでくれていた人だった。
―――一目で恋に落ちた人がいた。
兄の留学先で知り合ったのだと、一人の男性を紹介された。黒髪ととび色の瞳。笑うと八重歯が覗き、軽快に笑う楽しい人。わたしより5つ年上だった彼にわたしはすっかり夢中になった。
―――兄が信用した彼を、父と母も信用した。
子爵家に滞在しつつ、彼は様々な場所に赴き勉強し、そして貴族たちとの交流を増やしていった。けれどまだ社交界にでていなかったわたしに、そんなことはわからない。ただ見目麗しい彼が何かとわたしを構ってくれることが嬉しかった。
―――彼が祖国に帰るのだと知らされた夜、わたしは人目も憚らず泣き崩れた。
「また会いに来るよ」
―――わたしは彼のその言葉を信じた。
兄と婚約者は彼とともに、もう一度彼の国に渡るのだという。毎日のように一緒にいた三人が傍からいなくなると聞き、わたしはもう一度大泣きをした。
―――兄は言った。
「あいつを送ってくるだけだから。10日もあれば帰ってくるよ」
―――婚約者の彼女は言った。
「珍しいお菓子があるんですって。あなたの為に買ってくるわ。あとお揃いのアクセサリーも見てきましょう」
兄はわたしを抱きしめ、彼女もわたしを抱きしめ、そして彼もわたしを抱きしめてくれた。
「わたしの小さなお姫様。ガラスの靴をもって迎えに来るよ」
おとぎ話のよう。夢のよう。
ああ、わたしはきっと彼のお姫様になれるのね。
幼かったわたしはその言葉を信じた。みんなの言葉を信じた。
けれど誰も戻ってこなかった。
心根優しい自慢の兄も。
義姉となるはずだった彼女も。
ガラスの靴を持つ王子様も。
船の事故があった。
大型客船は、隣国とのちょうど中間にあたる場所で海の底に沈んでいったらしい。
冷たい冷たい海の底に、わたしの愛する兄も義姉も王子様も―――眠ってる。
続きはあるんですが、とりあえず。
なんか暗いストーリー書きたかったんです。