6 外の世界
三人で過ごす時間は穏やかに、しかし思いのほか早く過ぎていく。
食事を済ませた後に白湯を出され、スファルドの検診を受け。気がつけばもう外の日差しは緩やかに傾きはじめているようだった。
「あら、大変。エルゼリ様、少し歩きますか? このままだと次のお食事、入りませんよね。」
「そうね。ちょっと歩いておいた方がいいかも。」
「ではこちらに手を。」
ふかふかの布団から抜け出すにも、今のエルゼリは人の手を借りなければ難しい。(固いマットレスの上ならば自力で体を起こすことも出来そうだが、とにかくこのベッドはどこもかしこもふわふわしている。)
伸びてきたシグレアの手に、エルゼリは己の左手を乗せた。シグレアの手は騎士の手だけあって、非常にがっしりとしている。
シグレアの手は見目の美しさに似合いの、形の良い手だ。無駄のない筋肉に覆われた掌にはかすかな剣だこの痕、長い指にはペンだこの痕もあるが、それも含めてシグレアの手だなという気がした。しなやかな動きに合わせて骨の形が皮膚越しに浮かぶ様は生きた彫刻のよう。
エルゼリの手の動きに合わせて手首に嵌まった鉄の輪が動き、かすかに音を立てた。
「どうぞ。」
さらに伸びてきた手がエルゼリの背中に宛がわれ、正面から抱かれるような姿勢でベッドの淵に導かれる。整ったシグレアの顔が真正面に迫って心臓に悪いことこの上ないが、彼の方もエルゼリの訴えを聞き入れて、こちらをなるべく見ないようにしてくれているので、後はエルゼリが耐えるしかあるまい。
「ありがとう。あとは大丈夫だから。」
「手はこのままで。……立てますか。足元に内履きを用意していますから、そちらに足を……。」
「ええ。……ッあ、」
エルゼリ様ッ、と悲鳴を上げたエマが、エルゼリの右手を引っ掴んだ。立ち上がった瞬間に片膝からかくんと力が抜けてしまったのだ。この部屋の床はとにかくふわふわしているので顔から倒れ込んでも怪我などするはずもないけれど、さすがのエルゼリも好き好んで転びたいわけでもないから助かった。
ほうっ、と息を吐き出したエルゼリに、エマが深々とため息をつく。
「あんまりびっくりさせないでください!」
「大丈夫だと思ったのよ、昨日も大丈夫だったし。」
「体調がお悪いわけではないのですよね?」
「大丈夫、本当だってば。」
それでも心配そうなエマが、エルゼリの手をあらためて取った。こちらはシグレアとは異なる、ふんわりとやわらかい手だ。市井に下りてからの生活が厳しかったのか、うっすらとあかぎれの痕が残った手は、それでもかつての優しさを失っていない。エルゼリにとっての理想の母親のイメージは、エマの暖かな手そのものだった。年若いエマに告げるにはあんまりだろうと思うので、口にしたことはないのだが。
「もう平気。ありがとう、二人とも。」
礼を言ってから、エルゼリは内履きに足を入れた。柔らかな革で作ったもので、足を引っかけるような簡単な靴だ。走ったり飛んだりすることはできないが、歩くだけならばこれで十分である。
エルゼリは掴んでいた両手を放して歩き出した。シグレアとエマの体温が遠ざかり、温もっていた手はすぐに冷えていく。
一歩、また一歩。数日前よりも足取りは確かだ。ふかふかした絨毯の上、よろけることなくエルゼリはまっすぐ歩いていく。
歩く動きに合わせて手が左右に振れた。手首にぶら下がった鉄の輪が少々重いが、これはもう慣れるしかないのだろう。エルゼリ自身外したいとは思っていないのだし。これを付けている間、エルゼリは己の力が漏れ出す心配をしなくていい。安心して二人の手を取ることが出来る。
エマは――彼女は、エルゼリがどういう力の持ち主で、どういう風に利用されていたのかを知っているから、エルゼリが魔封じをしていないとしても怖がらずにいてくれると思う。だがシグレアは。
(たぶんシグレア様は、私の力がどの程度のものなのかを知らない。)
エルゼリの力のことをクルスが知っていたということは、シグレアもある程度エルゼリの力について聞き知っているのだろが――話に聞くのと実際に目の当たりにするのとでは、まったく意味合いが異なる。嫌われたり怖がられたりすることには慣れていたが、こうして会話をすることが出来る相手が減ってしまうのは、少し寂しいような気がした。
ゆっくりと歩いて、窓の方へと近寄る。鉄格子を嵌め込まれた窓を開いても、手を伸ばすことくらいしかできない。それでもエルゼリは満足だった。
格子を掴んで、下の方を覗き込んでみる。足元に近い真下に、庭園が見える。だがずいぶん小さく見えるから、エルゼリがいる部屋は城の上層にある部屋なのだろう。その向こうには城と街を隔てる壁が、さらにその先には精巧なミニチュアを固めたように街が広がっている。エルゼリが行ったことのない世界だ。
触れることのできない手を伸ばして、鉄格子の隙間から撫でるように街の輪郭を追う。大きな家、小さな家。三角屋根の教会。ここからでは人々の営みはまったく分からない。時々空を鳥が横切っていく。空には綿雲が浮かび、沈みかけたオレンジ色の太陽に照らされてほんのりと赤く輝いていた。
「きれいねえ。」
うっとりと外の景色に見入る。見慣れない風景は、いつまでたってもエルゼリを魅了した。時間ごとに訪れる色の変化。時々見える人の姿。風に乗って運ばれてくる外の匂い。どれもこれもが目新しい。景色の変化などそう多くはないでしょう、とエマは首を傾げるが、絵よりも余程変化に富んでいるとエルゼリは思うし、一時も同じ景色はないから飽きることもない。
エルゼリにとって、生活の場はこの部屋だけ。顔を合わせる相手もエマとシグレア、スファルド程度のもの。王城には相当数の人々が出入りしているに違いないのだが、この部屋からでることのないエルゼリには彼らの気配さえ遠い。まるで世界がこの部屋だけで、他はただ見えているだけの幻なのではないかと思えてくる。
でも、こうして外を見ていればかすかに少しずつ変化があるのが分かるから、それを見てエルゼリは安心するのだ。ああ今私は生きていて、外の人も生きているんだな、と。
「外に出てみたいのですか。」
いつの間にか背後に立っていたシグレアが静かに問いかけてくる。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
「そういうつもりではなかったの。ただ、この部屋の外にも世界があるんだなって思っただけ。」
エルゼリの言葉をどうとらえていいのか分からないのだろう、シグレアがかすかに首を傾ける。
「私、この城の外に出たことがないから。こうして風景を見ることもなかったし。城の外に街があるなんて当たり前のことなのかもしれないけど、言葉で知っているのと実際に見るのとではまったく印象が違うわ。それが面白いなって。」
「いずれ姫様をご案内できたらいいですね。私、こう見えて城下には詳しいんですよ?」
追いついてきたエマが笑う。そのいずれは来ないだろうなと思いつつ、エルゼリは曖昧に頷いた。
「さ、景色ばかり見ていても仕方ないから、少し歩こうかしら。」
「そうなさいませ。私も一緒に歩きますから。」
散歩をするほどでもない広さの、しかし広い居室をぐるりと何週か歩く。繰り返しばかりの日常も、しかしこんなに穏やかな日々を過ごした記憶のないエルゼリにはかけがえのない大切なもののように思えた。
※ ※ ※ ※ ※
「外に、出てみましょうか。」
翌日。エルゼリが朝食を食べ終えた時間に現れたシグレアが、唐突にそんなことを言いだした。
「外……って、」
「城下は難しいのですが。……庭くらいならば、とクルスに許可を取りました。」
エルゼリはぽかんとシグレアを見つめた。いつも通りのシグレア――しかし確かによく見れば、恰好がここ数日とは違っている。詰襟の制服の上に、はじめて会った時と同じように上半身に鎧をまとっていた。腰には大小二振りの剣を帯び、背中には青いマントを流している。この国の騎士の略式礼装とでもいうべき格好だ。
柔らかい曲線で構成された鎧は、魔法鎧のためもあってか僅かに表面が青く輝きを帯びている。軽装に見えるがこれで十分戦乱を戦い抜けるのだから、防御力に心配はないということなのだろう。そんな装備をどうして彼が、と考えたところでシグレアがさらに重ねた。
「御身をお守りするのに必要かもしれませんから。」
「城内なのに?」
「ええ。だからこそです。我々は反乱軍――クルスの命令には皆従うよう厳命はされていますが、何があるかはわかりません。」
「……同じ仲間なのに?」
シグレアの言葉は、そのまま組織が一枚岩ではないことを暗に示しているように思えた。エルゼリの当然の疑問に、シグレアは涼しげな目をかすかに細める。
「命に代えてもお守りすると申し上げました。誓いは守ります。」
「そこまでして外に出る必要なんてないのに?」
「ないわけでもありませんよ。少なくとも北に向かうよりも前に、あなたは「外に出る」こと自体に慣れておかなければなりません。」
「……それは、まあ、そうかも……。」
確かにそういう話はされていた。エルゼリは日の光に当たる機会が極端に少ないままこの年まで生きてきた。この先外に出なければならなくなった時、突然日光に当たるのはよくない、今からでも少しずつ慣らしなさいとスファルドにも言われた。当然決定権がエルゼリにあるわけではないので、この一週間ほどは窓越しに日差しを浴びるようにしていたが、それだけでは足りないということなのだろう。
「それに、あなたが心配するようなことにならないよう、私たちが外に出る際には最低限の者しかあなたにお会いすることが無いよう、配慮いたします。もちろん警護担当は別途用意します。何があっても、あなたには指一本触れさせません。ご安心を。」
どうあってもこちらの意見を聞くつもりはない様子だ。ベッドの傍に控えていたエマを見ても、こちらも既に承知しているのか「お外に出れますよエルゼリ様!」と無邪気に喜んでいる。
「……分かった。確かにスファルド様も外には出たほうがいいっておっしゃっていたし。行ってみましょうか。」
もちろんエルゼリは外に出てみたい。だがそれに他人の命を天秤にかけるのがどうだろうと思うだけで。
何も起こらなければそれでいい。
(何か起きたら起きたで、仕方がないわね。)
何もないことを祈ろう。そもそもエルゼリに選択権はない。